『写真講義』との出会いと「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」での再会
※2026.5.20 本学Webサイト「TUFS Today」に、大西さんのインターンシップに関する対談記事が掲載されています。併せてご覧ください!(MIRAI推進室より)

端緒
その本を手に取ったのは全くの偶然であった。まだ高校生であったか、大学に入学していたかははっきりと覚えていないが、行きつけの古書店でいつものように何か面白そうな本がないかと漁っていたところ、背に「写真講義」と書かれた本が目に入った。書棚から引き出してみると、ルイジ・ギッリという著者による本で、テーブルの上に置かれた水差しと花瓶の写真が表紙を飾っていた。その時私はルイジ・ギッリという写真家を知らなかったが、帯に書かれていた言葉はヴィム・ヴェンダースによるものであり、ちょうどそのころ彼の映画作品『ベルリン、天使の歌』(1987)を観たばかりであった。難解でありながらかくも美しい作品を作ったヴィム・ヴェンダースが「真のイメージの開拓者」[1]と評する写真家の、「写真講義」と題された書籍に、両親の使っていたフィルムカメラを当時使い始めていた私が興味を惹かれるのは自然の成り行きであった。
早速購入し、帰りの電車でページを捲ると、この本はいわゆるわかりやすさを掲げた「教科書」ではなく、イメージを手掛かりに世界と向き合う方法の記録であり、1989-90年にかけてイタリアはレッジョ・エミリアで行われたギッリと学生の対話を追体験することを可能とするものであることを知った。
もちろん、ネガフィルムとポジフィルム、ASA(ISO)感度、ポラロイド、フレーミングや光の使い方など具体的な機材や技術に関する内容の話もあるが、本書全体を通じては「なぜ写真を撮るのか」「現代の中の写真」などのテーマに向き合う構成となっていた。こうした内容からは単に写真をいかにして撮るのかではなく、むしろ何故(私を含めた)人々は写真を撮ることに惹かれるのかという問いが私の中に呼び起された。今思えば、その何年か後に東京都写真美術館で開催された『TOPコレクション 琉球弧の写真』(2020)で比嘉康雄氏など沖縄の写真家たちの作品に触れ、私がそれまで沖縄写真に対して持っていた「報道・運動」、「南の島」という枠に単純に当てはめることのできない、そこに住む人々の生きざまと向き合った写真を彼・彼女らはなぜ撮ることができたのかという問いに出会い、今まで研究を続けているのも、この『写真講義』がきっかけの一つであったといえる。
本書の中で豊富に、さらにはカラーで挿入されている写真の数々も強く私の印象に残るものであった。ギッリの写真は、いわゆる劇的な場面、荘厳な被写体を映したスペクタクルなイメージではなく、生活のモノや場所が通り過ぎるように写されていた。それらは私が一度も訪れたことがないイタリアの風景でありながら、いつかどこかで見たことがあるような、既視感を与えるものでもあった。それゆえか、この本を読み始めて以降、私がフィルムカメラで撮っていったのは観光地の写真や記念写真ではなく、ふと目に留まった町の風景やオブジェクトであった。
[1] ギッリ、ルイジ(2014)『写真講義』[萱野有美 訳]みすず書房、帯。

再会
それから何年かの時を経て、東京都写真美術館の総合開館30周年記念として開催される展覧会「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」(2025)にインターンとして関わる機会を得た。思いがけないギッリとの「再会」であった。インターンに応募した動機の一つである本展においては、リサーチや作品のセレクションなど、準備自体はその数年前から進行していたため、私が主に関わったのは開催直前の準備であった。
『写真講義』の表紙にも掲載されていた作品を含むシリーズ「モランディのアトリエ」は何点かが東京都写真美術館に所蔵されているが、本展で展示する作品の大部分はイタリアより借用するため、日本に届いた作品の状態を丁寧にチェックし、展覧会図録を印刷するための「色校正」という作業や、展示のために厚紙のカバーをかける「マット装」のためのサイズ計測にも立ち会った。ここでは印刷会社の方や額装を手掛けるギャラリーの方とのコミュニケーションを通じ、印刷や紙の世界への理解を深めることができた。
また作品保護のために重要であるコンディションチェックのための「コンディションレポート」のファイル作成補助にも関わった。これは作品の取り扱いにおいて重要な指標となると同時に、万が一作品に何かあった際に、そのインシデントがどのタイミングで起きたのかを明確にするという役割を持っている。
校正は色だけでなく文章も対象であり、図録のテキスト部分に加えて、広報媒体に掲載する展覧会や関連イベント[2]情報の作成と校正の補助にも関わり、その重要性を実感した。その中では大学のジャーナルの編集スタッフとしての経験を想起していた。
加えて、インターンに応募する前にも日ごろから閲覧していた東京都写真美術館公式SNS(Instagram)での展覧会紹介にも関わることができた。SNSで発信されるテキストは、草稿の作成後、広報や上長にも共有され、確認と修正を経た後、公開されている。SNSでの紹介テキストの草稿を考えるにあたっては、ギッリや東京都写真美術館を知らない人々にも「来たい」と思ってもらえるような内容を考えると同時に、作品に対する先入観を与えないように「説明しすぎない」ことに留意し、写真から問いを引き出し、その答えを探しに行きたくなるような内容を目指した。その中では、私とギッリの出会いの契機でもあった『写真講義』を特に参照した。『写真講義』は東京外国語大学図書館にも所蔵がある[3]ので、本学の学生は是非東京都写真美術館公式SNS(Instagram)のルイジ・ギッリ展紹介投稿と見比べながら参照個所を探してみてほしい。ここでは教職課程で学んだ内容が役立っており、写真は観て楽しむメディアであると同時に、学びの端緒でもあってほしいという願いを込めた。
特に印象に残っている作業は、図録・展示レイアウトを作成するにあたっての作品リストなどの編集補助であった。作品リストでは作品ごとにメタデータが記入され、章分けや並び替えなどを経て、展示レイアウトのために展示室と縮尺を一致させた画像ファイルがマップ上に並べられていく。私はリストの確認や整理という補助業務を通じてそれまで「鑑賞者」として訪れ、観ていた展示がいかにして作られていくのかというプロセスに関する学びを深めることができた。それは同時に、それまで書籍という二次元で捉えていたギッリの作品世界が、展示室という三次元に展開されていくプロセスへの関与であり、写真のイメージにとどまらない物質性、マテリアリティを実感する経験でもあった。
展覧会にかかわる業務の中では、それが多くの人々と出会う機会であることも学んだ。まずギッリとその作品の関係者、国内の関連機関、印刷会社、額装を担うギャラリー、デザイン事務所、イベント時の通訳の方々、etc.と幅広い出会いがあり、その中では生前のギッリの様子から紙・色の種類まで、初めて知ることも多くあった。
新たに世界を開いていくと同時に、私にとって本展は過去との対話の機会でもあった。上で述べたように『写真講義』以来のギッリとの「再会」であることに加え、本書を日本語に翻訳した萱野有美氏は私と同じく東京外国語大学の出身であり、本展の準備にも関わっていただいたとのことだが[4]、私がインターンに応募しようと書類の構想を練っていた2025年の2月に逝去されたと知った。インターンとして本展に関わることは、萱野氏との黙せる対話でもあり、会期終了まで歩み続けていきたいと思うとともに、萱野氏と同じイタリア語を専攻している友人などを招待し、対話することを通じて『写真講義』からの展開を広げていきたいと願う。
今回は私個人とギッリの繋がりから、インターンとしての業務の中で受けた印象についてやや散文的に述べてきたが、インターン全体の振り返りについても、追ってこの場で記すことができればと思う。
[2] 展覧会の初日である2025年7月3日に、イタリア文化会館で行われたシンポジウム「ルイジ・ギッリ〈ジョルジョ・モランディのアトリエ〉シリーズをめぐって」(東京都写真美術館との共催)。URL:https://iictokyo.esteri.it/ja/gli_eventi/calendario/シンポジウム「ルイジ・ギッリ〈ジョルジョ・モ/
[3] 東京外国語大学附属図書館OPACより https://www-lib.tufs.ac.jp/opac/recordID/catalog.bib/BB15936706?hit=2&caller=xc-search
[4] 展覧会謝辞より。

ちなみに、私が『写真講義』を初めて読んだ際、特に気に入ったのはポラロイドカメラに関する説であった[5]。撮影からプリントまでを自動で行うポラロイドカメラはそれまでのカメラとは全く別のメカニズムを持ったものとして紹介されており、実際にポラロイドカメラ(Polaroid Spectraシリーズか?)を構えているギッリの写真が印象的であった。日本ではポラロイド写真を撮ることも可能ではあるが、フジフィルムの「チェキ」またはinstaxがインスタント写真として普及しており、フィルムは品薄となるなど根強い人気がある。私自身もプリントされた写真の「一点モノ」としての性質に強く惹かれ、ポラロイドとチェキの両方を撮り続けている。
[5] ギッリ、前掲書、84-85頁。
※本展覧会「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」の図録(カタログ)のについては、MIRAI図書としてMIRAI推進室に寄贈した。付属図書館所蔵の『写真講義』と合わせてお読みいただければと思う。