ウルドゥー語専攻サイトマップ東京外国語大学のホームページへ
urduu hai jiskaa naam hamiiN jaantee haiN 'daaG' saaree jahaaN meeN dhuum hamaarii zabaaN kii hai
 
参考資料
 
エッセイ
「言葉の世界旅行--ウルドゥー語」 麻田 豊
言葉の世界旅行

●ウルドゥー語

アーダーブ アルズ(こんにちは、Greetings to you.)

双子のいる言葉

パキスタンはイスラーム教で、公用語はウルドゥー語、インドはヒンドゥー教でヒンディー語。対比するように記憶していたけれど、実はウルドゥー語はヒンディー語と同じ言葉だと聞いて、びっくり。同じといっても共通の語彙が多いぐらいに考えたら大間違いだ。話し言葉に関してはこの言語をパキスタン人はウルドゥーと呼び、インド人はヒンディーと呼んでいるといった方がいいかもしれない。日常会話の言葉はほぼ同じ。インド映画をインド人だけでなく、パキスタン人も見て、泣いたり笑ったりするわけだ。

北インドに成立したムガル朝の宮廷言葉がペルシア語であったのに対し、デリー周辺の土着の言葉とペルシア語やトルコ語が混じって11世紀頃に生まれたのがウルドゥー語だ。インドの側から言えば、ヒンディー語ということになる。ムガル朝の宮廷軍や周辺の住民の間で使われ始めたのが起源。ウルドゥーは「軍営」という意味で、当時「高貴なる軍営の言葉」と呼ばれていた。イギリスの植民地支配から独立を闘うまでは別の言語として区別されることも無かったのに、パキスタンとインドに分かれる中で、ウルドゥー語、ヒンディー語と意識的に区別するようになったといえる。

日常の話し言葉としては双子のようだが、文章語になると宗教の違いを背景に明らかに異なる。ウルドゥー語はアラビア文字で右から左に書く。ヒンディー語はデーヴァナーガリー文字で左から右。ウルドゥー語でもヒンディー語でも格調の高い文章になるほど、前者はアラビア語、ペルシア語、後者はサンスクリット語の語彙が豊かになる。

書き言葉としてのウルドゥー語はペルシア語の影響を強く受け、特に詩では優れた作品を生みだしている。日常はヒンディー語の文章を書くインド人も、詩はウルドゥー語で書き、雅号もペルシア風にする傾向が強い。違う言語を主張する両国だが、詩に関してはウルドゥー語は独自の地位を占める。イギリス統治下でウルドゥー語は役所の公文書に使われ、現在60歳以上のインド人にはウルドゥー語を読み書きできる人が多い。

ところでウルドゥー語をもともと母語とする人はパキスタン総人口のわずか8%弱の1011万人。インドでは15ある公用語の一つであり、ジャンムー・カシミール州の州語。母語とする人は5000万人を超え、インドの方が多いということになる。ウルドゥー語は政治や宗教、歴史を考えさせてくれる言語だ。

●ワンモアポイント
苦しい恋心をうたう

高く評価されるウルドゥー語の詩。中でもガザル(恋愛叙情詩)は人気が高い。女性に対する男性の叶わぬ想いをうたうが、女性は美しく、残忍、気まぐれ、傲慢、冷淡。そのつれない女性に寄せる熱い想い、苦しい胸のうちが吐露される。島崎藤村の「まだあげ初めし前髪の」といった日本の詩を読み慣れた人には、ガザルは濃厚で、「血管の中をただ巡るものなど私は信じない/目から滴り落ちなければ血とはいえない」(ミルザ・ガーリブのガザルから)などという表現に出会うと、カルチャーショックを起こすかもしれない。

インド映画には歌のシーンが多いが、歌は詩にメロディーをつけたもの。昔からの有名な詩に加え、挿入歌のために新たに書き下ろされる詩もある。それはヒンディー語ではなく、ウルドゥー語で書かれる。映画を通してウルドゥー語がヒンディー語世界で息づいているのだ。

取材協力=麻田 豊 (東京外国語大学助教授)

c月刊『国際協力』2004年11月号(国際開発ジャーナル社)所収
「書道とコンピュータの合体」 麻田 豊
パキスタンの国語でありインドでも使用されているウルドゥー語は、アラビア文字で表記される。アラビア文字はアラビア語、ペルシア語のほか、インド亜大陸のカシミーリー語、パンジャービー語、スィンディー語、さらにはアフガニスタンの公用語のひとつであるパシュトー語にも使用される。この文字の書体には、活字・タイプ用のナスフ体と手書き用のナスターリーク体の2種類があるが、ウルドゥー語使用者はこれまでナスターリーク体に格別の愛着を覚えてきた。ほんの20年前まで、新聞・雑誌や書籍、さらにはパンフレットや招待状の類まで含めたウルドゥー語による全出版物のほとんどの原板は、カーティブと称される筆耕者によってナスターリーク体で手書きされていたのである。

16世紀から19世紀にかけて、ナスターリーク体書道はムガル宮廷の庇護のもとで華々しく発達し、幾多の高名な書家が輩出した。印刷術が浸透するや、この書体の活字も考案されたが、この書体の本来もつ独特な曲線と繊細さの美を表現するにはいたらなかった。活版にはしぶしぶナスフ体が採用されたが、一般読者には歓迎されず、目と心に強く訴えるナスターリーク体への思いは募るばかりであった。

そしてコンピュータ時代の到来。1980年代はじめ、パキスタンでも有数の印刷会社の社長、アフマド・ミルザー・ジャミール氏が、ナスターリーク書道とコンピュータを合体することに成功した。名づけて「ヌーリー(光り輝く)・ナスターリーク」。当初は新聞社の大型コンピュータでしか処理できなかったが、改良に改良を重ね、現在ではパソコンでも扱えるデスクトップ・パブリッシングが可能となった。新聞のオンライン版にも採用され、読者はここに日常の手書き書体として慣れ親しんできた美麗で繊細なナスターリーク体のデジタル・フォントを獲得したのである。

(『季刊・本とコンピュータ』2002年春号(2002年3月11日発行)掲載。)
「アフガニスタンで音楽はなぜ禁止されたか」 麻田 豊
11月13日、北部同盟がターリバーンを駆逐した日、ラジオ・アフガニスタンが再開され、最初に音楽が流された。アフガニスタンに5年ぶりに音楽が戻った。ファルハード・ダルヤーの歌と報じられたから、「愛しのカーブル」と推測する(会報委注:12月3日発行のTIME誌の記事でこの推測が正しかったと確認された)。彼はソ連侵攻後の1992年に渡米した人気歌手で、現在40歳。彼の歌を聴いて、アフガニスタンで音楽が解禁になったことをみなさんと喜び合いたい。

1940年にラジオ放送が開始されて以来、パシュトゥーン人の音楽にペルシア語を使うなど各民族が共通の音楽を聞くことで、民族間の融和がはかられてきた。ラジオでは姿を見せる必要がないので、女性歌手も誕生し活躍していた。
96年、ターリバーン政権下で、宗教省は厳格なるイスラム法に則るとしてさまざまな禁止令をだした。女性の就労や車の運転、映画、人間や動物の写真、ぬいぐるみ、インターネット、非宗教的な音楽、楽器、踊り、凧揚げ、口紅……。

なぜ音楽が聞かれなくなったのか。かつて割礼や結婚式など通過儀礼で音楽が盛んにもちいられていたが、葬式には使わなかった。79年のソ連侵攻後、パキスタン内の300万人の難民キャンプでは大多数が喪中だったため、必然的に音楽は姿を消していった。92年、ムジャヒディン(聖戦士)は音楽家にライセンスを発行、許可制を採用した。96年以降、ターリバーン政権下では、全面的に禁止となった。ただし、無伴奏のターリバーン歌謡だけが許された。音楽家は禁固刑や罰金刑をのがれるため、地下にもぐるか、難民として外国へ渡った。こうして、人生に不可欠な音楽が5年間も禁止されていたのである。

最後に伝統楽器ルバーブの演奏のビデオ、典型的なアフガン歌謡のテー プをサンプルとして提示する。これらの音楽がアフガニスタンで楽しま れることを祈ってやまない。

(東京外語会会報第94号 [2002年3月1日発行]
<http://www.path.ne.jp/~t-gaigo/94afgan.htm>より転載)
Copyright (C) 2002-2004 Urdu,TUFS. All rights reserved.