●「印パ国境越え鉄道開通されるか?」
bmunaabao, khokhraapaar rel calegii?
../story/2004/11/041126_munabao_station.shtml
インド・パキスタン両国間で、シンド(パ側)とラージャスターン(印側)間の鉄道路線復旧に関する話し合いがもたれている。しかし、国境沿いに住む人々は、この鉄道はおそらく再開することはないだろうと話している。
ナトワル・スィング外相は、ムナーバーオとコークラーパール間の鉄道業務は来年10月上旬には開始されるだろう、と期待を表明した。
かつてこの路線を利用する乗客は、ワーガー=アターリー路線以上に多かった。しかし過去40年間、この路線の線路は錆び切ってしまっている。この線路を最後に列車が走ったのは、1965年の印パ戦争の時だった。
テージダーン・ディッターはスィンド出身であるが、現在はラージャスターンに住んでいる。彼はこう話す。「パキスタン政治を牛耳っているのはパンジャーブであり、パンジャーブはこの鉄道業務開始を決して望んでいない。なぜなら、パンジャーブはこの路線が復旧することで財政的利益を受けられなくなると同時に、州としての重要性も低くなるからだ。」
ムナーバーオ・コークラーパール路線に対するインド側の準備は十分になされている。1986年にも一度このような状況が生み出され、当時、インドは200万ルピーを注ぎこんで国境線上の最後のムナーバーオ駅を国際基準に適った駅にした。鉄道運行部が新設され、路線再開の日にちが決定されたが、突然パキスタンが手を引いた。それ以来、この路線業務が開始されるとの発表は幾度となくなされている。
この路線が閉鎖されて以来、ラージャスターンの国境地域に住む人々は国境の向こう側に住む親族に会うために、2500キロメートルの旅をしなければならない。運賃が余計にかかるばかりか、困難でもある。代わりにこの路線が開通すれば、わずかな時間とわずかな運賃で旅をすることができるのだ。
英領インド分離の際、スィンドとラージャスターンの人口は完全な形で宗教別に分けられたわけではなかった。それゆえ、国境の両側には異なった宗教を信奉する人々が混住し、ヒンドゥーとムサルマーンの関係は良好である。1947年のヒンドゥー・ムスリム暴動の最中でも、この路線の列車は死体を運ぶことはなかった。この土地の国境のこちら側とあちら側では言葉も衣服も同じ、共通の文化がはぐくまれてきた。しかし、政治が両者の間に有刺鉄線を張り巡らしている。
15年ほど前、国境地帯にまだ有刺鉄線が張られていなかった頃、人々は親族に会いに密かに故郷を超えていたし、旱魃などに見舞われたときにはインダス川流域地帯に家畜とともに避難していた。
(ここまでの訳:井手迫瑞恵 2004/12/30)
ジョードプル藩王国は1900年12月に410万ルピーを費やしてバールメールとスィンドのサーディーパリーの間に134マイルの鉄道を敷設した。スィンドのハイダラーバードとサーディーパリーの間には、すでに1890年に鉄道が開通していた。このため、スィンドとラージャスターンのマールワ−ル地方を直通列車が結んでいたのである。
英領インド分離後、両国はそれぞれ6ケ月間列車を運行していた。インドはバールメール=ムナーバーオ間のレールは広軌であるが、パキスタン側は現在でもメートル・ゲージ(狭軌)のままで使用できる状態にない。バールメール=ムナーバーオ間には快適な道路も完成しているがパキスタン側40キロは道路すらない。こうした現状を見ると、この路線が再開されるようには思えない。
バールメールのスィンディー・ムスリム協会の元会長イーサー・ハーン・ラージバル氏は「私たちは何年もの間、親戚や友人と会えない状況にある」と話し、また元国会議員のクルディープ・ナイヤル氏は「パキスタンを訪問した時、大勢の人々がスィンド=ラージャスターン間の鉄道再開を求めた」と語る。
ムナーバーオとコークラーパールの間の距離は11キロしかない。現在、両駅は寂れている。ムナーバーオ駅では国境警備兵を乗せた列車の音が静寂を破ることだろう。しかし、政治が求めているのは人間的な絆という甘い調べではなく、おそらくこうした静寂であろう。おそらくそれゆえに、列車の車輪は回っていないのである。
(この4段落分の訳:ghalib 2005/01/02)