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南アジアのこぼれ話
 
2004年度
第12回 BBCUrdu.com 2004/11/26
●「印パ国境越え鉄道開通されるか?」
bmunaabao, khokhraapaar rel calegii?
../story/2004/11/041126_munabao_station.shtml

インド・パキスタン両国間で、シンド(パ側)とラージャスターン(印側)間の鉄道路線復旧に関する話し合いがもたれている。しかし、国境沿いに住む人々は、この鉄道はおそらく再開することはないだろうと話している。

ナトワル・スィング外相は、ムナーバーオとコークラーパール間の鉄道業務は来年10月上旬には開始されるだろう、と期待を表明した。

かつてこの路線を利用する乗客は、ワーガー=アターリー路線以上に多かった。しかし過去40年間、この路線の線路は錆び切ってしまっている。この線路を最後に列車が走ったのは、1965年の印パ戦争の時だった。

テージダーン・ディッターはスィンド出身であるが、現在はラージャスターンに住んでいる。彼はこう話す。「パキスタン政治を牛耳っているのはパンジャーブであり、パンジャーブはこの鉄道業務開始を決して望んでいない。なぜなら、パンジャーブはこの路線が復旧することで財政的利益を受けられなくなると同時に、州としての重要性も低くなるからだ。」

ムナーバーオ・コークラーパール路線に対するインド側の準備は十分になされている。1986年にも一度このような状況が生み出され、当時、インドは200万ルピーを注ぎこんで国境線上の最後のムナーバーオ駅を国際基準に適った駅にした。鉄道運行部が新設され、路線再開の日にちが決定されたが、突然パキスタンが手を引いた。それ以来、この路線業務が開始されるとの発表は幾度となくなされている。

この路線が閉鎖されて以来、ラージャスターンの国境地域に住む人々は国境の向こう側に住む親族に会うために、2500キロメートルの旅をしなければならない。運賃が余計にかかるばかりか、困難でもある。代わりにこの路線が開通すれば、わずかな時間とわずかな運賃で旅をすることができるのだ。

英領インド分離の際、スィンドとラージャスターンの人口は完全な形で宗教別に分けられたわけではなかった。それゆえ、国境の両側には異なった宗教を信奉する人々が混住し、ヒンドゥーとムサルマーンの関係は良好である。1947年のヒンドゥー・ムスリム暴動の最中でも、この路線の列車は死体を運ぶことはなかった。この土地の国境のこちら側とあちら側では言葉も衣服も同じ、共通の文化がはぐくまれてきた。しかし、政治が両者の間に有刺鉄線を張り巡らしている。

15年ほど前、国境地帯にまだ有刺鉄線が張られていなかった頃、人々は親族に会いに密かに故郷を超えていたし、旱魃などに見舞われたときにはインダス川流域地帯に家畜とともに避難していた。

(ここまでの訳:井手迫瑞恵 2004/12/30)

ジョードプル藩王国は1900年12月に410万ルピーを費やしてバールメールとスィンドのサーディーパリーの間に134マイルの鉄道を敷設した。スィンドのハイダラーバードとサーディーパリーの間には、すでに1890年に鉄道が開通していた。このため、スィンドとラージャスターンのマールワ−ル地方を直通列車が結んでいたのである。

英領インド分離後、両国はそれぞれ6ケ月間列車を運行していた。インドはバールメール=ムナーバーオ間のレールは広軌であるが、パキスタン側は現在でもメートル・ゲージ(狭軌)のままで使用できる状態にない。バールメール=ムナーバーオ間には快適な道路も完成しているがパキスタン側40キロは道路すらない。こうした現状を見ると、この路線が再開されるようには思えない。

バールメールのスィンディー・ムスリム協会の元会長イーサー・ハーン・ラージバル氏は「私たちは何年もの間、親戚や友人と会えない状況にある」と話し、また元国会議員のクルディープ・ナイヤル氏は「パキスタンを訪問した時、大勢の人々がスィンド=ラージャスターン間の鉄道再開を求めた」と語る。

ムナーバーオとコークラーパールの間の距離は11キロしかない。現在、両駅は寂れている。ムナーバーオ駅では国境警備兵を乗せた列車の音が静寂を破ることだろう。しかし、政治が求めているのは人間的な絆という甘い調べではなく、おそらくこうした静寂であろう。おそらくそれゆえに、列車の車輪は回っていないのである。

(この4段落分の訳:ghalib 2005/01/02)
第11回 BBCUrdu.com 2004/11/30
●「母さん、どこへ仕事に行くの?」子どもたちの質問
bacce puuchte haiN ke maiN kahaaN kaam par jaatii huuN?
../story/2004/11/041130_zeba_urooj_ms.shtml

私の名前はゼーバー、ラホール出身です。カラーチーのこの建物の階段を何歳のときに上ったのか、いまとなっては覚えていないわ。でも、あれからもう20数年経ったでしょうね。

当時、身体や精神はいまほど疲れ切ってはいなかった。わが家は3人姉妹で、家計は日ごとに悪化していった。稼ぎ手が少ないのに、食べる人間は多いんだから。親戚の女性が両親に、娘たちを売春宿に売るよう助言したの。そうすれば支出は少なくなり、両親の重荷はなくなると。

長女だった私は、2人の妹にこの階段を上らせてはいけないと、わが家の重荷を一手に背負うことを決心したの。ある夕暮れ時、親戚の女性の手を握ってこわごわとこの階段を上った時、これからの人生がどんなものになるか、まったく予想できなかったわ。ここから家へ帰る道を忘れたわけではないけれど、見失ってしまったみたい。

まず、踊りと歌の練習をしたわ。歌うことは好きだった。マダム・ヌールジャハーン(malika-e tarannum, Madame Noor Jehan)の歌は全部暗記していた。でも、足首にグングルーを巻きつけることは嫌だった。

昔のお客さんは歌を所望したものだった。そう、ムジュラーをやってたわけ。でも、8年前に警察がこのバーザールを閉鎖すると、歌を聞きに来るお客の数は減ってしまってね。代わりに、売春が横行し出したってわけ。

ここの入場料は500ルピーだけど、客に電話で呼びつけられるときはあっちでもらうの。4000〜5000ルピーの見返りとして、お客には何から何までさせられるわ。言葉で言い表すことなんてできない。事が済んでから私をここまで見送ってもくれない。真夜中過ぎに海岸で車から下ろされるの。警察に尋問を受けたらうまく交わせってね。薄情なものよ。

稼いだお金は私一人の手に入るわけではなく、女将や楽士の手数料が引かれてしまう。汚いことをして得たお金なんて、ありがたくもないし残りもしない。知らないうちに消えていってしまうわ。

そのうち、子供が2人生まれた。娘と息子。2人の父親は別々。1人の父親はいまだにこの界隈をうろついているわ。でも私のところには来ないで、別の女たちのところに行くの。「おまえは婆あになった」だって。よく言うわよ。

この2人の子どもには医者やエンジニアになってほしい。カーラーダル地区のメーモン系小学校通っている。持ち家なんてないもの。私と一緒にここに住んでいるわ。ときどきこう質問するの。「母さん、どこへ仕事に行くの?」って。子どもたちには、医者だと言っているの。物心がついたら、「母さんの仕事が何であろうと、おまえたちの将来をこんな路地裏で迷わせたりしないよ」ってきちんと言うつもりさ。

この狭く暗い建物に嫌悪感を覚えるわ。ここでは、人生ではなく汚物が呼吸をしているのよ。

いまでも両親には送金してるわ。妹2人の結婚も済ませたし。両親は年老いてしまった。家に戻ったことは一度もないけど、聞くところでは、両親は売り払った私のことを思い出してはしょっちゅう泣いているという。

(注)カラーチーのネイピア・ロードの一角で性産業にたずさわるある女性がウルージュ・ジャーフリー記者にこの話を語ってくれた。この女性の身分を明かさないために、女性の要望もあり彼女の写真は掲載しないことにした。

(訳:千葉あゆみ 2004/12/16)
第10回 BBCUrdu.com 2004/11/21
●「スィク教巡礼者、パキスタンに到着」
sikh yaatrii paakistaan pahoNc rahe haiN
../story/2004/11/041121_pilgrims_gurunanak.shtml

スィク教の創始者であり、また精神的指導者であるバーバー・グル・ナーナクの535回目の生誕祭関連式典に参列するため、世界中からスィク教徒の集団がパキスタンに到着し始めた。

昨日、150人近くのスィク教徒がさまざまな飛行機を利用してラホールに到着した。今日以降、続々と到着する予定である。インドから今日パキスタンへ入国するスィク教徒の数が最多であろう。当局者によれば、今日だけでインドからのスィク教徒の総数は、およそ4千人に達する。

パキスタン鉄道は、スィク教徒用に特別列車を走らせている。当局者によれば、今夕までに特別列車4本がスィク教徒をインドからパキスタンに運んでくることになっている。

第1便の列車は今日の午後1時頃、ワーガー経由でパキスタンに入る。ワーガー駅で彼らを歓迎したのは、「パキスタン故人寄進財・不動産管理委員会」と「グルドワーラー(スィ教寺院)管理委員会」の執行部の面々であった。スィク教徒たちの頭上にはバラの花びらがまかれ、食事が提供された。

歓迎式典後、「グルドワーラー管理委員会」のサルダール・マスターン・スィング委員長は新聞記者と懇談し、スィク巡礼者に対してなされたパキスタン側の便宜に対して満足の意を表明した。

インドのほか、イギリス、カナダ、シンガポール、マレーシア、タイ、アメリカ、そしてヨーロッパの国々からもスィク教徒がパキスタンに到着している。当局者によると、これらのスィク教徒はパキスタンに1週間半ほど滞在する予定だ。

スィク教徒は今日から、ラホールよりハサン・アブダールへ移動させられ始めた。ハサン・アブダールに彼らは2日滞在し、パンジャ・サーヒブに参詣する。

11月24日からナヌカーナー・サーヒブにあるグル・ナーナク生誕地で、生誕を祝う一連の諸行事が始まる。この宗教儀礼は4日間続く。当局者の発表によれば、これらの行事には6千人近くのスィク教徒が参加すると見込まれている。

その後、すべてのスィク教徒はラホールに移り、グルドゥワーラー・デーラー・サーヒブを詣でる。

スィク教徒の聖地の多くはパキスタンにある。その中でも、シェーフープラー県ナヌカーナー・サーヒブのグル・ナーナクの生誕地は、スィク教徒にとって特別な重要性を持っている。

スィク教の宗教指導者たちは語る。「熱烈なスィク教徒なら誰でも起床後にまずすることは、グル・ナーナクの生誕地に詣でることができますように、と祈る。」

スィク教徒にとって、グル・ナーナクの生誕日を祝う諸行事は最も重要である。インド・パキスタン両国関係に緊張が増して以来、パキスタンに入国するスィク教巡礼者の数はかなり減少した。

しかし、昨今の両国間の関係改善により、スィク教巡礼者の数も再び増加しつつある。これほどの数のスィク教徒がパキスタンを訪問したのは1997年以来初めてのことである。

(訳:中野真希 2004/12/09)
第9回 BBCUrdu.com 2004/11/25
●「扉のない家――安全は聖者のおかげ」
darwaazoN ke baGair ghar, hifaazat baabaa ke zimme
../story/2004/11/041125_a_doorless_vill_rza.shtml

インド北部のスィーマーヒー・カーリーラート村の村人の生命と財産は、盗賊に襲われる危険性がない。というのも、村人たちは昔の聖者シェーオー・バーバーの魂によって守られていると信じているからだ。

村人にいったい誰が危害を加えよう。言い伝えによれば、バーバーは村人に「家に扉をつけるな。扉をつければその家の住人に災難がふりかかる」と命じた。ウッタルプラデーシュ州のアヨーディヤーの町に近いこの村には75の家屋がある。しかし、どの家にも扉がないのだ。

80歳近い村人ラール・マニ・ティーワーリーは語った。「もし誰かが家に扉をつけようものなら、何らかの災難に見舞われるのだ。何度もこうした出来事が起こったものだから、わしらひょっとしたらシェーオー・バーバー様は扉がお好きではない、と考えるようになったわけだ。」

寺院の住職ティルローキーナート・ゴースワーミーは村の集会所で、バーバーについて語った。「バーバーは数百年も前にここに住んでおり、それはそれは大変な苦行をなさっていた。バーバーは幾日にもわたる苦行の厳しさに耐えておられた。苦行の最中にお亡くなりになったわけだが、まさにバーバーが息を引き取った場所にこのベンガルボダイジュの木が生えてきたのだ。わしらは、バーバーの魂がいまでもこの木の中に宿っていると信じておるのじゃ。」

これも有名な話だが、バーバーは次のような命令を下した。「村で家を建てる場合は、建てる前にレンガを数個バーバーの寺院に寄進すること。そして家にかんぬきをかけないこと。」

村人クリシャン・アーチャーリヤ・トリパーティーはこう語る。「私が家を建てようとすると必ず壁が崩れ落ちたものだ。何度も同じことが起こると、他の村人が「家のレンガを数個ベンガルボダイジュに寄進せよ」と助言してくれた。言われたとおりにしてみると、家は建った。しかし、聖者様の命令なので、家に扉はつけなかった。」

ラール・マニ・ティーワーリーはさらに語った。「偉大なる聖者様は心優しきお方である。村の誰かに聞いてみるがいい。ここでは一度として何かが盗まれたことがないのだ。わしらはバーバー様に守られているのだ」

犯罪多発地域であるウッタルプラデーシュのような州内で、いったいなぜこの村が安全でいられるのか?「バーバー様に守られている。」これ以外の答えがありえようか。

アクバルプル警察署のゴーラクナート・スィング警部は、1906年までさかのぼる犯罪記録簿を調べて、こう語った。「この記録簿をご覧なさい。今日まで、スィーマーヒー・カーリーナート村では窃盗事件は一件たりとも記録されていません。」

(訳:相澤満弘 2004/12/06)
第8回 BBCUrdu.com 2004/11/18
●「カシミール、パキスタン、インド――もう1本の映画」
kashmiir, paakistaan, bhaarat: ek aur film
../story/2004/11/041118_hoodbaifilm_sen.shtml

現在の印パ関係、過去55年におよぶ両国の苦い歴史、平和を模索する中で起きた3回の印パ戦争、そしてその後遺症をもとに製作されたドキュメンタリー映画「Crossing the Lines: Kashmir, Pakistan, India」がインドの首都デリーで上映されている。パキスタンでもこの映画は多くの場所で上映されたが、上映許可が下りなかった場所も多い。

映画はカラチでのある抗議デモから始まる。多くの新世代の若者が「カシミールの自由」とのスローガンを声高に叫んでいるのが映し出される。すると次の場面では突然、インドでの抗議の場面に移行する。そこでは数人も若者が「カシミール問題に触れると流血騒動になる」とこれまた大声でシュプレヒコールを放っている。

この映画は、亜大陸のこうした相反したイデオロギーで始まる。しかし、これには印パ両国間の55年にわたる緊張と平和を模索する討論などさまざまな出来事が盛り込まれている。監督はパルヴェーズ・フードバーイーとズィヤー・ミヤーンである。

ニューデリーでは、この映画を見ようと多くの著名人が集まった。パルウェーズ・フードバーイー監督は語った。「この映画によってカシミールの現実を人々に示したい。この映画が印パ両国で上映されることで、一般市民にカシミール問題に関してこれまで何がなされてきたか、なぜなされてきたかを知ってもらいたい。」

監督によれば、映画の中ではカシミール関しては偏ることのない独立した立場からの意見が提示されている。監督はさらに語る。「この問題に関して、まさに両国は過激主義を利用してきた。」映画では、戦争や両国間の緊張に加えて、平和を希求する努力としてシムラー協定、ラホール宣言、そして最近の一連の対話についても述べられている。

著名な女優ナンディター・ダースは映画を見た後、BBCのインタビューに次のように答えた。「人間の心理とは何と複雑なのでしょう。小さな土地のために、私たちがおそらく行くことがないような山の頂のために、カシミール問題は何と大きな問題にされてしまったのでしょう。この小さな土地のために、いったい何人の命が犠牲になったことでしょう。私の個人的な考えでは、現実主義でこの問題を解決しようとすれば、いとも容易に解決できるであろう。」

映画では単にカシミール紛争や両国間の緊張や両サイドのカシミールの住民に対する影響が見事に概観されているのみならず、解決のための方策もいくつか提示されている。

パルウェーズ監督は語る。「インド側カシミールの抑圧とパキスタン側カシミールのジハードのシュプレヒコールが止まねばならない。両サイドのカシミールの支配線が開かれねばならない。両側の住民レベルの関係が修復されれば、このこの問題は自然に解決される。」

印パ両国の友好関係を取り扱ったもう1本の映画「ヴィールとザーラー(Viir Zaaraa)」がインドで公開されている。パルウェーズ・フードバーイー監督の映画はドキュメンタリーであり、限られた場所でしか上映されていない。このような状況下で、どちらの映画がより強い影響力を持つのであろうか。興味深いテーマである。

(訳:増田 清 2004/12/09)
第7回 BBCUrdu.com 2004/11/01
●「インドの新幹線計画」
bhaarat meN “Bullet Train” kaa mansuuba
../story/2004/11/041101_india_bullet_train_nj.shtml

インド鉄道近代化計画にもとづき、日本式「新幹線」の導入が検討されている。PTI通信社(Press Trust of India)によると、ラールー・プラサード・ヤーダヴ鉄道大臣が近くこの計画を発表する予定である。同計画によると、「新幹線」は少なくとも時速250キロで走行することになる。

鉄道当局によると、この新幹線は最初にムンバイー=ハイダラーバード間で運行を開始し、500キロを2時間以内で走行する。現時点での最速列車であるシャターブディー特急の場合は、同距離を5〜6時間かけて走行する。

試算によると、上記区間の新幹線計画には約800億ルピーのコストが掛かる。鉄道当局は、新幹線用に高速専用線路を新たに敷設し、また、踏切などスピードをそぐような障害を取り除く努力もする、と述べている。また、鉄道局によると、後にはダンバード=ハーオラー(コルカタ)間、ターター=ハーオラー間、バンガロール=チェンナイ間、チェンナイ=ハイダラーバード間、さらにはムンバイー=プネー間も新幹線で結ばれることになる。

この計画の予備調査はすでに日本の2社に委託されている。鉄道大臣は以前からこの新幹線計画は最優先事項のひとつである、と述べていた。新幹線製造では日本は世界の最先端を行っており、世界各地で高速列車の導入に参画してきた。

ホームおよび列車内でのチャーエ用の素焼きカップ(kullhaR)の使用を命じたラールー・プラサード・ヤーダヴ大臣の在任期間中に、この新幹線計画が実行に移されるか否かは不透明である。というのも、この計画を実行するにあたり、どれほどの時間を要するかいまだ皆目分からないからである。

(訳:山中正義 2004/11/24)
第6回 BBCUrdu.com 2004/11/02
●「コ−ラとペプシは殺虫剤」

../story/2004/11/041102_cocke_pesticide_nj.shtml

インドでは清涼飲料水は当然のこととして「飲用」として飲まれているが、チャッティ−スガル州の農民はコ−ラとペプシを殺虫剤として使っている。

農民は「コ−ラやペプシには殺虫剤と同様の効能があり、また安価である」と語った。農業専門家によると、清涼飲料水はこのように使用され得るし、また効果もありえる。

しかし、コカコ−ラ社は自社の清涼飲料水のこのような使用法の報道を否定しつつ、コカコ−ラに殺虫剤として使用されうるような成分は含まれていない、と語った。

今年、チャッティ−スガル州ドゥルグ県、ラ−ジナンドガ−オン県、ダムタリー県の農民は、収穫間際の稲穂についた害虫駆除のためにペプシやコ−ラを殺虫剤の代わりに使用した。彼らによると、いかなる殺虫剤を使用しても殺すことができなかった害虫もこれらの清涼飲料水によって駆除できた。

殺虫剤の十分の一の値段で購入できるコーラやペプシは農民の間にかなり広く流布しており、村々の茶店やパ−ン売店で売られている。

農民は、清涼飲料水製造会社がこれらの飲料を値上げしたり生産中止するのではないかと懸念するあまり、この話題が知れ渡ることを望んでいない。

農業専門家のヴィレーンダル・シャルマ−氏は「ペプシやコ−ラは甘く、これらを散布することで赤蟻が稲穂を登り害虫を食べつくす」と語った。同氏によると、農民はこれまでも伝統的な方法として害虫駆除のために粗糖(グル)を使っていた。

(訳:橋本麻里衣、2004/11/15)
第5回 BBCUrdu.com 2004/10/18
●「ヴィーラッパン、警察との銃撃戦で殺害される」
../story/2004/10/041018_veerappan_dead.shtml

数多くの犯罪に関与したとされる最大級の指名手配犯で大盗賊のヴィーラッパンを殺害した、とインド警察は発表した。警察によると、南部のタミル・ナードゥ州とカルナータカ州の州境で、ヴィーラッパンは3人の仲間とともに警察との銃撃戦の末に殺害された。

タミル・ナードゥ州警察のヴィジャエ・クマール特殊部隊長は「ダルムプリー県パプラーパティー村で月曜日午後11時、警察との銃撃戦で銃撃された」と述べた。

カルナータカ州警察、タミル・ナードゥ州警察、それにインド連邦警察は過去約15年にわたって彼を追跡していた。警察発表によると、この銃撃戦で彼の仲間の3人と思われるスィートー・カリー、チャンダル・ゴーラー、ゴーヴィンダンも殺された。

彼らの遺体は検死のため病院へ運ばれることになっているが、カルナータカ州政府はこの件についてまだ談話を発表していない。

ヴィーラッパンが100人以上の殺人事件に関与したとされる。大多数の被害者は警察関係者や森林局の職員である。2002年12月、彼はカルナータカ州のH.ナーガッパー大臣を誘拐し殺害するにいたった。大追跡の末、警察は彼の逮捕を半ばあきらめていた。

彼はタミル・ナードゥ州とカルナータカ州で、象の不法狩猟と貴重なビャクダン材の密輸にも関与したとして指名手配されていた。

(訳:萩原由記子、2004/11/11)
第4回 BBCUrdu.com 2004/10/19
●「トーバ・テーク・スィング:名誉殺人」
../story/2004/10/041019_honour_killing_rza.shtml

パンジャーブの町トーバ・テーク・スィングの郊外において、恋愛結婚をした男性1人がその親戚の男性1人とともに、線路に縛りつけられた状態で列車の下敷きになり轢き殺された。

警察によると、殺害された男性の妻タラートは現在行方不明であり、命の危険にさらされている。警察は、この男性2人に対する殺人事件は「名誉殺人」であると発表した。

轢死した2人の遺体は火曜日、トーバ・テーク・スィング郊外のゴージュラー近くの線路上で発見された。

被害者ワヒードの父グラーム・フサインは警察に次のように語った。「息子のワヒードは2か月前にタラートと恋愛結婚した後、2人は家を捨てて逃亡した。」

その後、この青年と相手の娘家族との間に和解が成立したらしいが、娘の兄イリヤースの心は晴れなかった。月曜日、彼はある口実を設けて、その夫婦と親戚のモハンマド・フサインを呼び出し、従兄弟のアッバースの助けを借りて3人を誘拐した。

火曜日の朝、容疑者たちはワヒードと妹の夫イリヤースを生きたまま列車の線路にくくりつけた。そして、ショールコート発ファイサラーバード行きの列車が2人の身体を粉々にした。

ゴージュラー中央署の担当官ハーフィズ・イムラーンはBBCに次のように語った。「ワヒードの父親の話では、イリヤースとアッバースに加え、彼らの両親と他の親戚も犯人として指名されたが、初動捜査によると、この2人に対する殺人事件の犯人は2人と断定された。」

最新の情報では、タラートは行方不明である。警察の発表でも、彼女の遺体はいまだ発見されておらず行方も不明のままである。容疑者とその家族も行方不明である。

パキスタンでは毎年、何百人もの人々が名誉殺人という名において殺害されている。犠牲者の大多数は女性である。

(補足:妻タラートの遺体も3日後に発見された。)

(訳:平川奈々絵 2004.11.07)
第3回 BBCUrdu.com 2004/10/06
●「イスラームを冒涜――結婚招待状の文面」
../2004/10/041006_ahmadis_blasphemy.shtm

結婚式の招待状に「アッサラーム・アライクム」「インシャーッラー」あるいは「マフーム」と書いたことで、アフマディーヤ派の男女15人がイスラーム冒涜の罪で告訴された。被告15人の中には3組の新郎新婦が含まれており、このうち花婿ひとりとその父親が収監されている。

スィンド州ミールプールハース県カナリー駐在の特別任務官(S.D.O.)ヌール・ファーティマの兄弟であるアズィーズ・ラフマーンと教師アブドゥル・ハックの息子と娘の結婚式が9月25日に挙行された。結婚式の招待状には伝統的な作法にのっとり「アッサラーム・アアライクム・ワ・ラフマトゥッラー」「インシャーッラー」、さらにアズィーズ・ラフマーンの名前には「マルフーム」(神のご加護があるように、の意味で、ムスリムの故人につけられる)と記されていた。

世界預言者封印保護委員会カナリー支部代表のアブドゥル・ワーヒド氏はカナリー警察署にパキスタン刑法第298条Cにもとづき告訴した。招待側と歓迎側は結婚招待状に名前を連ねており、全員が血縁関係にあることは明確である。

第一報調書を受けて、カナリー警察はアーミル・マフムードと父親である教師アブドゥル・ハックを逮捕した。

告訴人は、被告人たちはアフマディーヤ派の信者であることからイスラーム関連の語句や用語使用する法的権利を有していないにもかかわらず、結婚招待状に「アッサラーム・アライクム・ワ・ラフマトゥッラー」「インシャーッラー」「マフルーム」などの語句を用いた、と主張している。

アフマディーヤ派カナリー支部の役員チョードリー・ナースィル・フサイン氏はこの告訴に関して、BBCウルドゥー・オンラインに次のように語った。「アッサラーム・アライクムはアラビア語で<汝に平安あれ>という意味で、この言葉を口にすることは罪でもなんでもない。社会では皆アッサラーム・アライクムと言っている。マルフームは<アッラーの慈悲があるように>という意味だ。招待状に書かれていることは使徒やクルアーンの章節と何ら関係がない。この告訴自体が間違っており、人権に反する。カナリー地区には4〜5千人のアフマディーヤ派信徒が居住しているが、これまで脅迫など受けたことはない。今回の告訴は扇動主義者のしわざである。」

カナリー警察署首席記録官アクバル・アリー氏は次のように語った。「アブドゥル・ハックとアーミル・アフマド両容疑者は逮捕された。両者は父子の関係にある。今回の告訴を受けて、法にもとづき訴訟作業に入ることになる。」

著名な法律家で民事法廷判事であったザファル・ラージプート氏は次のように語った。「アフマディー派信者がムサルマーンであると主張したりムサルマーンであるかのような印象を与えたりすれば、パキスタン刑法298条Cにもとづき3年の懲役刑を受けることになる。」

憲法上、アフマディーヤないしはカーディヤーニーは非ムスリムである。彼らはズルフィカール・アリー・ブットー時代に、非ムスリムの少数派であると規定された。

ザファル・ラージプート氏はさらに次のように語った。「憲法にもとづきアフマディー派信者はムサルマーンが口にする信仰告白の文言を口にすることはできないし、礼拝所であるマスジドを建設することもできない。同様に、ムサルマーン行う宗教儀礼を行うことはできない。」ミールプールハース県にはかなりの数のアフマディー派信者が居住しており、彼らは大地主とみなされている。」

(訳:須永恵美子 2004.11.04)
第2回 BBCUrdu.com 2004/08/06
●「ボリウッド:名画のカラー化」
../story/2004/08/040806_bollywood_classics_an.shtml

ボリウッドの名画ファンへの朗報。かつての名画が再び映画館で上映されるが、今回はカラー版での上映となる。

インド西部のムンバイーでは映画製作者たちが、白黒映画のカラー化作業にたずさわっている。この作業の対象となっている映画には、1957年作の「新しい時代(Naya Daur)」と1960年作の「偉大なるムガル(Mughal-e-Azam)」の2本も含まれている。往年の人気俳優ディリープ・クマールが両作品で主役を演じている。

カラー化作業は「B.R. Films」が行っている。プロデューサーのラヴィ・チョープラー氏は「白黒映画に対する若い世代の関心が薄いため、カラー化によって昔の映画に新しい生命を吹き込みたい」と語った。また、カラー化によるネガフィルムへの影響はないとのことである。

「偉大なるムガル」は、ボリウッド映画の中でも興行的にもっとも成功を収めた映画のひとつに数えられている。この映画のカラー化に加え、ムンバイーのスターリング社は映画挿入歌も新技術で新たにレコーディングを進行させている。このレコーディングには、85歳になる作曲家ノーシャードも参加している。

チョープラー氏はもう6本のカラー化も計画中であるという。作業にはアメリカの会社も協力する予定だ。「新しき時代」は来年1月に公開予定であり、そのあと、「偉大なるムガル」が公開されることになっている。

ボリウッド界の業界紙の編集長ヴィカース・モーハン氏は、白黒映画をカラー化する動きによってボリウッドに新種の商売が生まれるだろう、と語る。昔の映画挿入歌が今でももてはやされていることから、映画製作者たちは名画に注目している。ボリウッドは世界最大の映画産業であり、年間1000本もの映画が製作されている。
(訳:石井由実子 2004/10/24)
第1回 BBCUrdu.com 2004/09/26
●「愛の記念碑、建造350周年」
http://www.bbc.co.uk/urdu/pakistan/story/2004/09/040926_taj_bithday_sen.shtml

愛の記念碑から愛の象徴へと変化したタージ・マハルが建造350周年を迎えるにあたって、アーグラ−では多くの行事が開催される。ウッタル・プラデーシュ州のムラーヤム・スィング・ヤーダヴ首席大臣と州知事は9月27日、アーグラー・フォートで今後数ヶ月にわたって続く一連の記念行事の開会を宣言する。

歴史家たちの間では再度、世界の七不思議のひとつであるタージ・マハルの年齢について論争が巻き起こっている。歴史家の多くは「タージ・マハルはムガル皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの死から2年後に建設され始め、17年で完成した」との説を支持している。この計算によると、タージ・マハルは建造からすでに350年以上経過していることになる。

著名な歴史家イルファーン・ハビーブ教授(アリーガル大学)はBBCのインタビューの中で「『バードシャー・ナーマ』にはタージ・マハルの全計画が記されている。そして、これまでの研究によって、計画どおりに実行されたことが判明している」と語った。『バードシャー・ナーマ』には「タージ・マハルは1651年に完成」と書かれている。イルファーン・ハビーブ教授は「このような壮大な計画の完成には大変な時間がかかったが、すべては明白であり、異論をはさむ余地はない」と述べた。

ムガル朝第5代皇帝シャー・ジャハーンは、妻であったムムターズ・マハルの死を悼んで墓廟を建造しようとした。17年にわたる建設作業を経て、大理石の華麗な建造物が建てられた。延べ約2万人の労働者がこの建設にたずさわった。イーサー・シラーズィーという名の技術者が設計図を書いたといわれているが、『バードシャー・ナーマ』には「シャー・ジャハーン自ら概略図を用意した」と記されている。

タージ・マハルはムガル時代の傑作であり、建設直後から全世界からの旅行者の注目を浴びつづけている、まさに比類なき建造物である。この不朽の愛の記念碑は詩人、文人、画家、芸術家にとってのインスピレーションの源となっているが、実際は墓廟である。

イルファーン・ハビーブ教授は「すべての国家と国民は自国の文化に誇りを抱いている。タージ・マハルはインドのガンガー・ヤムナー両河川文化(融合文化)の顕現であり、現代における複合文化の鏡としての芸術作品である」と語る。

ニューデリー在住の文学者でもあるシャムスル・ハック・ウスマーニー教授は「タージを見ることで人間の心に美意識が目覚め、容易に味わうことのできない歓喜の酔いに浸ることができる」と話す。

多くの若者は「タージ・マハルは愛の象徴である」と言うが、歴史学を専攻するハンスラージは「建築技術の傑作」と言う。世界からインドを訪れるV.I.Pは、インドに到着するやタージ・マハル見物のため誇らしげにアーグラ−へ向かう。

1874年、イギリス人旅行家エドワード・リアは「世界の人びとをふたつに分類できる。ひとつはタージ・マハルをこの目で見た人、もうひとつはタージ・マハルをまだ見れないでいる人」と言う。

タージ・マハルは350年前に完成したが、これまで保存に関してはそれほど関心が払われてこなかった。歴史を刻んできたタージ・マハルにはさまざまな影響が見てとれる。大気汚染が原因で輝く大理石は色あせ、映画撮影や音楽コンサートの際の照明による傷みも進んでいる。

タージ・マハルはユネスコの世界遺産に登録されている。政府はタージ・マハル保存のため、汚染を広める工場の建設を禁止し、修繕のための専門家チームも編成した。
(訳:岩下奈々 2004/10/09)
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