フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪

2012年台湾総統選挙の見通し (1)

東京外国語大学 小笠原 欣幸
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪
 2012年1月14日,台湾で総統選挙の投開票が行なわれる。国民党は現職の馬英九総統,民進党は蔡英文主席が,それぞれの党内手続きを経て公認候補に決まった。同日,立法委員選挙の投開票も行なわれる。総統直接選挙は今回で5回目になるが,立法委員選挙との同日選挙は初めてである。大統領と国会のダブル選挙となったことで,今後4年間の台湾政治の方向が1月14日に一挙に示されることになる。
 馬英九が再選された場合,あるいは,蔡英文が当選した場合,中台関係の現在の枠組みが維持されるのか,変化が生じるのか,非常に注目される。台湾の選挙民がどのような判断を下すのか,当の台湾のみならず,対岸の中国,周辺国,国際社会の関心を集めている。
 しかし,総統選挙の争点は中台関係だけではない。経済格差問題,社会福祉政策,地方自治体の財政問題,農業振興政策,環境政策,原発政策など選挙民に身近な生活の問題がかかっている。また,両陣営の勢力図は各地方で異なり,台北だけを注視しても全体像は見えない。選挙戦は,前回圧勝した馬英九が苦戦し蔡英文と接戦になると予想される。当ホームページでは,2012年総統選挙の争点,選挙情勢を何回かに分けて解説していく。第1回目は,筆者の感想を交えて概況を描いてみたい。立法委員選挙情勢については,別ページを立ち上げ解説していく。(2011.8.10記)

2012年台湾総統選挙の見通し(2) (2011年12月追加)
2012年台湾総統選挙の見通し(3) (2012年1月追加)

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪  フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪  1. 台湾化路線の変化?

 2012年台湾総統選挙はいくつもの争点・注目点があるが,台湾の内外を問わず最大の関心は,馬英九総統が進めてきた対中政策について台湾の選挙民がどのような判断を下すのか,この1点に集中している。2008年総統選挙で馬英九は「統一せず・独立せず・武力行使せず」を掲げて当選した。馬政権発足後,中台の協議は急速に進展し,直行便就航,中国人観光客訪台などに関する15の協定,および,自由貿易協定に相当するECFAが締結された。馬英九・国民党は中台関係の改善を成果として語り,蔡英文・民進党は台湾の主体性が脅かされていると語る。台湾人民の多数派はどちらの主張を支持するのか,2012年総統選挙の最大の争点である。
 前回選挙で馬英九が勝ったのは,陳水扁政権の腐敗のイメージがひどかったから,陳水扁政権の経済運営に不満が高まったから,とよく言われる。総統選挙の勝敗を決めるのは経済という言い方もよく聞く。しかし,2008年総統選挙で,もし馬英九が一国二制度を公約に掲げていたら馬英九は当選したであろうか。これは仮定の問題であるが,民進党政権への批判がどれほどあっても統一を掲げたのでは当選できなかったであろう。つまり,経済問題,腐敗問題は重要ではあるが,最重要の選挙議題は台湾のあり方なのである。台湾人民の最大公約数は,統一と独立を脇に置いた現状維持であり,その立場を離れて選挙の主導権を握ることは難しい。ただ,実際には現状維持といっても幅があるし,統一/独立の立場を重視する人もいるので議論の展開は複雑になる。
 台湾の「現状」とは,法的枠組みと同時に台湾人民の意識によって構成されている。中華民国憲法増修条文では台湾の管轄地域を「中華民国自由地区」と規定している。つまり,台湾は「地区」である。民主化に伴い1991年以降7回にわたり憲法修正が実施されたが,それは「一つの中国」を前提とする中華民国憲法の元の条文に「増修条文」を追加する形をとっている。中台関係を規定する法律「臺灣地區與大陸地區人民關係條例」(以後「両岸人民関係条例」と略記)は李登輝時代の1992年に制定され,その後何度か改正されたが,「国家統一前,・・・・・・台湾地区と大陸地区の人民の往来を規定し派生する法律事件を処理するためこの法律を制定する」と総則で規定している。これが法的枠組みである。
 李登輝の「二国論」と陳水扁の「一辺一国論」は,時の総統の発言であって法的根拠はない。しかし,台湾の多くの人々の中台関係の認識は「二国論」または「一辺一国論」に近い。一般の人は理論的・法律的に思考するわけではないので,表現方法はそれぞれ異なるが,中華民国とは台湾であり,中台は別々の国,少なくとも特殊な国と国の関係(つながりは深いが別々,別々ではあるが特殊なつながりがある)という認識・感覚を抱いている。民主化後ゆるやかな台湾アイデンティティが形成され,中華民国の価値観と台湾の価値観とが綱引きをしながらもバランスを保ってきた。
 2008年総統選挙で,馬英九はこのバランスをよく見極め,中華民国の価値観を代表する国民党の候補でありながら,台湾化路線を掲げて中間派選挙民にアピールした。しかし,総統就任後の馬英九は法的枠組みの話が多くなり,台湾の主体性の話は減った。馬英九は,中華民国憲法と両岸人民関係条例に依拠して,中台関係を「台湾地区と大陸地区との関係」と述べ,公文書では対岸を中国とは呼ばず大陸と呼ぶようにという指示を出した。このため,前回馬英九を支持した選挙民の中には,台湾の価値観の強調は選挙のためだったのかという疑念を抱く人もいる。だが,馬英九が台湾の価値観を切り捨てたというわけではない。馬英九はこの点では慎重であり,重要演説では必ず台湾の価値観に言及している。
 馬英九の主観では自分は何も変わっていないと思っているかもしれない。しかし,法的枠組みは1990年代初頭のものであり,その後に成長した台湾アイデンティティが十分反映されていない。その法的枠組みと台湾とをただ並列しただけでは中華民国の価値観が強く出るので,常に台湾の価値観を強調していないとバランスは保たれない。ここがポイントである。馬英九としては,@総統は法的枠組みしか語るべきでないとする信念,A中台関係への配慮,B中華民国の価値観と台湾の価値観との綱引きの中で中華民国の価値観を強めたいとする意図があって,「不統・不独」の枠の中で微妙にバランスを変化させたのかもしれない。いずれにせよ,台湾の一部の選挙民はこの姿勢の変化を敏感に感じ取ったのである。台湾の価値観の信奉者はもともと馬英九を信頼していなかったので不信感を一層強めることになったし,中華民国の価値観の信奉者は煮え切らない馬英九に不満を高めている。

2. 中国ペースという印象?

 馬英九政権発足後,中台関係は急速に改善し,台湾経済は中国の恩恵を受けている。中台間の協議はいずれも主権にかかわるものではないので,馬英九は台湾の現状を維持したまま中国から最大限の利益を引き出したという見方も可能である。しかし,そのように見て馬英九を評価する見解が台湾で多数派になっているようには見えない。対中政策の実績がなぜ支持率に反映されないのであろうか。その要因は,中台関係の改善が中国側のペースで進んでいるという不安があるからではないだろうか。中国の大国化が進み,相対的に台湾の政治経済力,軍事力が低下しているので,中台の力関係は,将来的な統一を狙う中国側に有利に転じているという認識が広がっている。中国側は,台湾に経済利益を提供したり,国際舞台への参加を一部容認したりしているが,台湾の生存については,当面は脅かさないようだという感触を与えているだけで,将来的な保障は一切与えていない。
 中国側の論理をよく知る馬英九は「相互に否定しない」ことの確認を当面の目標にしている。これは台湾の生存を確保する現実的なステップになる。中国政府の担当官が台湾政府の担当官と交渉を行なうようになったことは,中国側も中華民国完全否定の態度を徐々に変化させている証と言える。しかし,これは中国共産党の論理をよく知る専門家の評価であって,一般の人にはわかりよいものではない。中国が各省市の代表を次々と台湾に派遣し,中国の善意を強調し台湾製品を買い付けているというのに,その台湾の公権力を認めないというのはわかりにくいのである。
 象徴的な出来事は,中国の窓口機関の陳雲林会長の訪台である。2008年11月,初めて台湾の地に降り立った陳雲林会長は,中台関係の新しい時代,両岸関係の平和的発展が始まったことをアピールした。陳雲林会長は,あいさつのため馬英九総統と面会した。台湾側では陳雲林が「馬総統」と呼ぶのではないかと期待が高まった。だが,陳雲林は「総統好(大統領こんにちは)」とも「馬英九先生」とも言わず,はっきりしない発音で「你(あなた)」と呼んだ。台湾の民意の微妙な流れを解くカギはこうした身近な出来事にあると筆者は考えている。
 陳雲林会長は民間人の身分での訪台であり,中国共産党中央委員であるが党内の序列は高くはない。その民間人が「馬総統」と呼んだところで大きな意味はない。それでも何らかの善意のジェスチャーがあってもよいのではないかと台湾の人々が考えたのは自然なことである。この状況でも「馬総統」と呼ばないことは中国の態度はいささかも変わらないという宣言に等しく,逆に馬政権が中国に過度の譲歩をしているような印象ができた。中国は何億元も使って台湾の製品を購入するより,陳雲林会長がひとこと「馬総統」と呼んだ方がよほど台湾の民意にアピールしたであろう。それ以降,台湾では中国に対してひねくれた感情が広がったように感じられる。大雑把な表現をすると,中国が利益を台湾にくれるというのならもらっておこう,愛想は良くしておこう,しかしたいして感動はしない,というような気分である。
 馬英九が中台関係改善の成果をいくら強調しても,中国側の善意が台湾の民意に反映されない状況では,なかなか馬英九の支持率上昇につながらない。しかし,選挙はあくまでも比較考量の上での選択になる。馬英九の対中政策に全面的な信頼が置けないとしても蔡英文の対中政策に不安を感じる人が多ければ,最後は馬英九が当選する。

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪  3. 宣伝が足りないという診断?

 馬英九陣営は,支持率がなかなか上昇しないのは実績の宣伝が足りないからだという分析をしている。それで馬英九は経済関係の細かい数字をあげて政権の成果を語っているのだが,数字を語れば語るほど生活感覚とずれていく袋小路に陥っている。馬英九は経済のプラスの数字の宣伝ではなく,台湾経済の諸々の困難を辛抱強く語るべきであった。というのは,所得格差やいびつな競争は台湾だけの現象ではなく,多くの国で発生していることだからである。グローバル化で国際競争に勝った企業は巨額の利益を手にする一方で,競争力の弱い産業に従事する者は賃金の停滞,失業の不安に直面している。世界的な超低金利で異常な資金が一次産品市場や不動産市場に供給され,所得は上がらないのに特定品目の価格が上昇し生活が苦しくなったという実感を抱く人が台湾でも増えていることは,遺憾なことであっても不思議なことではない。
 このような状況において,台湾の成長戦略をどう定めていくのか,農漁業・中小企業をどう支えていくのか,雇用をどう守っていくのか,すべてが大変な課題である。実は,この現象は陳水扁時代にすでに発生していた。馬英九と国民党はそれをすべて陳政権の責任にしてきたので,自分も袋小路に陥ったのである。政権1期目で何ができて何ができなかったのかを率直に振り返り,2期目でやるべきことを厳しい現実も含めて語った方が馬英九への評価が上がっていたであろう。同じことは蔡英文についても言える。現在の経済社会問題を馬政権の責任だとして選挙に勝ったとしても,問題解決の即効薬はない。
 細かい数字にこだわった宣伝は馬陣営のあせりを示している。馬英九は前回選挙で「六三三」(経済成長率6%,失業率3%以下,国民所得3万ドル)を公約したものの,就任直後に金融危機が発生し,2009年は成長率マイナス1.93%,失業率5.85%,1人あたりの国民所得14,271ドル(2008年15,194ドル)という状況に陥った。2010年は景気が回復し経済成長率は10.88%に達したが,失業率は5.21%,1人あたり国民所得は16,413ドルであった。輸出増加率何%,台湾の国際競争力ランキング何位など,数字が出るたびにそれに飛びつくかのように宣伝するのは「六三三」公約違反の衝撃を少しでも弱めたいからである。だが,細かい数字を過度に宣伝すると,今後経済指標が予想を下回った場合には逆噴射するリスクが出てくる。
 景気回復の恩恵は特定の産業や中国ビジネスを展開する企業に偏り,台湾国内の平均賃金や雇用環境の改善には結びついていない。リーマンショック後,ハイテク優良企業で働いていた人たちが突如無給休暇に追い込まれた。その衝撃は本人だけではなく家族・友だちを通じて台湾社会に広がり,表面的な成長率よりも社会福祉に対する関心を高めた。馬政権が中国経済との関係を深める政策を取っていなかったら,台湾経済のダメージはもっと大きかったかもしれない。だが,先に述べたように,多くの台湾人にとっては中台の力関係は簡単に喜べない状況にあるので,馬英九が成果を語っても人々の胸になかなか届かないのである。
 馬英九の現在の苦境は,宣伝が足りないから,宣伝がへただからではなく,前回の宣伝があまりにも効果的であったのでその反動に悩まされていると見るべきである。「我々は準備ができている」のテレビコマーシャルは見事に成功した。「完全執政・完全負責」,「死んで灰になっても台湾人」というフレーズも深い印象を残した。前宣伝と「成果」との落差があまりにも大きいので,馬陣営は宣伝を強めれば強めるほど上滑りするリスクがあり難しい局面にある。
 馬英九は最近,料理に使う米酒の価格が大幅に下がったことを成果として宣伝しているが,これで感動した人は少ないであろう。馬英九に期待した人は,そうした小さなことではなく「完全執政・完全負責」のようなドンと構える大きなことに期待したのである。このズレはすぐには埋まりそうにない。馬陣営は,創意ある宣伝,若者向けの宣伝を繰り返すことでプラスのイメージを定着させ,二匹目のドジョウを確保しようと考えている。この先5ヶ月の宣伝戦でどのような逆転打が出てくるのか注目される。
 台湾では選挙に熱心な人が多いので,党や組織に属していなくともまったく自主的に近所の人や知り合いに支持を呼びかける人が大勢いる。こうした人たちの活躍によって馬英九は圧勝したのだが,その人たちの心境は複雑である。近所の人や知り合いに顔向けができなくなった人もいる。陳水扁の支持者の場合も同じ状況が発生した。2000年と2004年に陳水扁を自発的に応援した人たちの動きは2008年選挙では低下した。前回自発的に馬英九を応援した人たちの動きは鈍っている。逆に,前回意気消沈していた民進党の支持者は勢いづいている。しかし,選挙戦が一直線に進むわけではない。馬英九には現職の利があるし,国民党の組織票もある。馬英九の人気は,前回ほど高くはないが,崩れているわけでもない。

4. カードを握る中国?

 中国は台湾の選挙に介入しないことを公式の立場としているが,非常に強い関心をもって選挙の行方を注視している。馬英九にはカードがあまりないのに対し,中国は自分で決定できるカードを何枚か持っている。中国が選挙前に台湾人民が望む政策を発表すれば馬英九のプラスになると考えられている。実現の可能性は度外視して例をあげると,@国民党の歴史的貢献を評価する見解,A中華民国の存在を事実上認める見解,B台湾に向けたミサイルの撤去,C台湾への武力不行使宣言などが発表されれば,歓迎の声があがるであろう。胡錦濤が馬英九と選挙前に会談して和平宣言を発表するというアイディアを出している専門家もいる。中国共産党中央党校国際戦略研究所教授の趙黎青は,馬英九の選挙情勢の助けになるからとして,この10月に胡錦濤が台湾当局管轄地域を訪問する形での胡錦濤・馬英九会談を提案している(趙黎青「再論先軍後政實現胡馬會」『中国評論』2011年7月)。
 実際には,いずれもハードルが非常に高い。中国共産党の原則からすると,内部で簡単には合意は得られない問題ばかりである。仮に胡錦濤政権がそれをやれたとしても,台湾内部では,歓迎の声と共に台湾の選挙に対する干渉だという反発の声があがることは確実で,選挙にどう影響するのか読みにくい。この点,胡錦濤政権は非常に慎重である。中国は,今年の前半,大型の買い付けミッションを毎月のように派遣し,工業製品だけでなく農産物や養殖魚の買い付けを増やした。しかし,今年の後半は目立った動きを避け,各省市の買い付けミッションも訪台を自粛すると見られる。
 中国共産党としては馬英九と一蓮托生というのはリスクが大きいが,来年退任が予定される胡錦濤の対台湾政策の評価にかかわってくるので事態は複雑になっている。中国共産党としては,馬英九の再選を後押ししたいが,馬英九が再選に失敗した場合にも備える必要があり,舵取りは非常に難しい。中国共産党内部には,国家の利益を守るために何かやって失敗した場合は許されるが,やらずに失敗したのでは許されない,という空気がある。筆者は,胡錦濤政権はじっと状況を見守るであろうが,馬英九の選挙情勢が厳しくなった場合は何らかのサプライズを出してくる可能性もあると見ている。蔡英文が「任期中は台湾の法理独立を追求しない」というような選挙公約を発表すれば,胡錦濤の平和的発展路線は成果をあげたという評価が可能になり圧力は多少とも緩和されるであろう。

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪  5. 未知数の蔡英文?

 昨年の五都市長選挙で民進党は馬政権への不満をうまく吸収し,全体の得票数で国民党を上回った。蔡英文は,従来型の民進党政治家と異なるイメージを振り撒き,生活にかかわる論点で優位に立っているが,対中政策は現在のところ「和而不同・和而求同」というあいまいなものである。この点を国民党から繰り返し突かれることが蔡英文の支持率の伸び悩みの一因と考えられる。蔡英文は民進党主席就任以来,中間路線を標榜している。蔡英文は,李登輝時代に「二国論」を立案した人物である。中国の立場からすると「二国論」は独立派の理論であるが,「二国論」自体は中台関係の現状を定義する理論であって,将来の台湾国家を提案したものではない。実のところ,蔡英文がどのような「独立派」なのか,恐らく誰も知らないであろう。
 蔡英文の選挙戦略を推測してみたい。予備選挙で辛くも蘇貞昌に勝利した蔡英文は,まずは党内で足場を固めることが先決である。党内で蔡英文を公然と批判するのは独立派・基本教義派の人たちである。民進党の精神的支柱を自認し国民党の圧制と闘ってきたという意識の独立派系の人々からすると,蔡英文はそもそも何者なのかよくわからないという感覚がある。蔡英文が民進党の窮地を救った功績は認めるが,蔡英文の好きにさせることには警戒感がある。他方,総統選挙で勝てるのは四天王ではなく蔡英文という現実的判断もあって,一時は離党すると息巻いた独立派長老も予備選挙では蔡英文を支持した。
 蔡英文は台北の金持ちの家で育ち高学歴で台湾語が流暢ではないので,台北のエリートという印象がどうしてもある。そのため,序盤戦では「台湾人」を強調した。蔡英文は,馬英九の対中政策の批判を続けている。これは,独立派・基本教義派への配慮という意味もあると思われる。立法委員選挙の比例区候補者名簿の内容とその後の党内の反応を見ると,蔡英文は党内を十分に把握しているわけではない。対中政策でうかつに中間路線を出すことは命取りになる。しかし,蔡英文の意志が感じられる動きもある。比例区名簿では当選圏内から独立派の蔡同榮と涂醒哲を外した。台南の選挙区では独立派で行動派の王定宇を外した(反発を抑えるため独立派長老の陳唐山を擁立しカムフラージュした)。これらは対中政策で柔軟路線を打ち出す布石と考えられる。
 蔡英文と民進党は「92年コンセンサス」を否定している。中国共産党は「92年コンセンサス」を認めなければ中台の話し合いは難しくなると言っている。両者の間で折り合いがつく概念・フレーズを見出すのは針の穴に糸を通すように難しい。ただし,選挙の前と後で外交政策を変えた政党は世界中に多々ある。民進党は8月28日に党代表大会を開催し,そこで蔡英文の選挙公約となる「10年政綱」と副総統候補が発表される。対中政策についてどの程度踏み込んだ表現をするのか,あるいは,どの程度の柔軟路線を示すのか注目される。
 だが,「10年政綱」においてもあいまい戦略を保ち,カードを温存する可能性もある。カードを全部出してしまえば,国民党と中国共産党に十分な対策の時間を与えるからである。しかし,あいまい戦略の場合は,対中政策が見えない,中台関係が悪化する,と馬陣営から批判され続ける。筆者は,蔡英文はじっと我慢し国内政策を中心に訴えていく選挙戦略を取り,選挙情勢を見極めながら切り札として対中柔軟路線を出すのではないかと想像している。それは,民進党の「台湾前途決議文」と陳水扁の「四不一沒有」とを合わせたものが基本となるであろう。中華民族を強調したり,両岸の共同の繁栄を強調したりして中国側への歩み寄りを示すかもしれない。「一つの中国」について拒否するのではなく話し合うことを提案するかもしれない。陳水扁が総統在任中に発した対中柔軟発言をつなぎ合わせていくと結構なものになる。
 対中政策で両候補の差が縮まれば,争点は社会福祉政策や格差問題に移る。しかし,蔡英文は,馬英九批判を続けながら対中政策で柔軟路線を出すという矛盾を抱える。柔軟すぎて民進党の原則を損ねたと見なされれば,支持者の熱意をかきたてることができなくなる。選挙情勢が有利であればわざわざ冒険する必要はないのだが,党内基盤が弱ければ柔軟路線は出せないという状況は留意しておく必要がある。逆に,対中強硬路線に転じた場合には,陣営の引き締めをはかることはできるが,選挙戦の主導権を握るのは難しくなり馬英九のペースにはまるであろう。
 昨年の五都市長選挙のうち国民党が勝利した台北市,新北市,台中市の三市の選挙戦は奇妙な対比を見せた。台北市では,昨年の今頃ぼろぼろであった郝龍斌が最後は圧勝した。台中市では,高支持率で安定していた胡志強が最後はぼろぼろになった。この対比は,台湾の選挙戦がいかに難しいかを物語る。新北市では,馬英九と似た特徴を持つ朱立倫が蔡英文に追い上げられながらも基礎票の優位を守り抜いた。馬英九も,朱立倫と同じように,追い上げられながらも再選する可能性がある。しかし,蔡英文が新北市で昨年の市長選挙と同じ得票をあげた場合には総統に当選するのは蔡英文である。蔡英文がブームを起こす力があるのかどうかは,昨年の今頃は未知数であったし,今回も未知数である。2012年総統選挙はぎりぎりまでもつれるであろう。(2011.8.10記)

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪ 以下の拙稿もご覧ください。
「2004年台湾総統選挙分析 ― 陳水扁再選と台湾アイデンティティ」
「2008年台湾総統選挙分析 ― 政党の路線と中間派選挙民の投票行動」
「馬英九政権論」(その1) (その2) (その3)
「2010年台北・新北市長選挙の考察」 (蔡英文の選挙戦を詳しく論じています)


OGASAWARA HOMEPAGE
フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪