馬英九政権論   
(その1)


東京外国語大学
小笠原 欣幸
 
台湾で馬英九政権が登場して1年になります。 台湾政治を現在進行形で観察しながら馬政権を検討する連載を始めます。論点が多岐に渡るので,順番に論じていきます。最初は点からスタートし,まだら模様に広げ,徐々に政権の全体像に迫りたいと思います。     
               





馬英九政権論(その2)


1.政権人事の特徴

 馬英九は総統選挙圧勝の楽観ムードが漂う中で政権人事に着手したが,馬英九の思惑と国民党の思惑,それに藍系支持者の期待が交錯し,一部の人事は再考を余儀なくされるなど波乱の幕開けとなった。最重要の人事は行政院長である。下馬評では,本省人で国民党の長老格であり,国共連携および台商の支持獲得で貢献があった江丙坤と見られていたが,馬英九は外省人の劉兆玄を指名した。台湾のメディアは総統選挙の直後も江丙坤が行政院長に就任する可能性が高いと報じていたが,馬は選挙前に劉の起用を決めごく少数の人間にのみ知らせていた。江丙坤は,古い国民党のイメージがあったこと,連戰と近いこと,中国ビジネスへの関与があることから行政院長には適任ではないと判断したようだ。江は,中台の窓口機関である海基会董事長に指名された。
 劉は化学専攻の学者出身である。政権入りの前は名門の清華大学学長(1987年〜1993年)を務めていた。李登輝時代に交通部長(1993年2月〜1996年6月),国家科学委員会主任(1996年6月〜1998年2月),行政院副院長(1997年12月〜2000年5月)を歴任した。閣僚としての印象は手堅いテクノクラートというものである。政権退任後は東呉大学学長(2004年〜2008年)を務めた。劉は本籍が馬英九と同じく中国湖南省であり,長きにわたる馬の相談相手である。総統と行政院長が共に外省人となる外外コンビを懸念する声が国民党内にあったが,馬英九は省籍の組み合わせよりも政権運営のしやすさを優先した。
 台湾の行政院は36の省庁があり,無任所大臣に相当する政務委員を入れると閣僚ポストが40を超える。閣僚の多くは李登輝政権期(蕭萬長行政院長−劉兆玄副院長)の官僚と馬市長時代の台北市政府の幹部であった。馬政権の発足時の閣僚の中で,外省人の占める割合はおよそ4分の1であった(主要閣僚は表1を参照)。選挙中に馬の台湾化路線を批判した人物は1人も入閣しなかった。立法委員および地方政治家も排除された(注)。これは,利益誘導・腐敗を警戒したためと見られる。論功行賞は,国民党中央に内政部長および客家委員会主任,原住民委員会主任のポストを提供しただけである。これらは確かに選挙向けの利権を抱えるポストであるが,もっと多くの報奨を期待していた国民党には不満や敗北感が漂った。緑系のョ幸媛の起用はこうした国民党の側の感情を強く刺激し,次に述べる監察院,考試院の人事同意投票で波乱が生じる要因となった。 (注)ただし内政部長に内定した廖風コ(党官僚出身)が急逝したので,急遽台中県の地方政治家廖了以が起用された。
 馬総統は閣僚人事とは別に,監察院,考試院の人事にも着手した。馬は,監察院は藍系の王建煊(外省人)を院長,緑系の沈富雄(本省人)を副院長,考試院は緑系の張俊彦(本省人)を院長,藍系の伍錦霖(本省人)を副院長という人事案を発表した。このように緑系の人材を入れようとする馬総統の構想に国民党の立法委員が強く反発し,沈富雄は同意投票で否決,張俊彦は投票前に指名を辞退する事態となった。馬は人事案を再提出し,監察院副院長に陳進利(原住民),考試院院長に關中(外省人)を指名し,立法院の同意を得た。この結果,馬政権登場後に就任した院長は3人とも外省人となった(表2)。5院の院長のうち監察院長と考試院長の政治権力は決して大きくないが,社会的には一定の影響力がある。深藍の色彩の強い人物(馬の現状維持路線を今は支持しているが)が基幹ポストに就くことによって,4年,8年と時間が経つにつれ,馬政権の路線にも影響を与えるかもしれない。
 総統府のスタッフは,馬に近い人物が起用された(表3)。秘書長の・春柏はどちらかと言うと調整役・連絡役であり,副秘書長の高朗が最重要の官邸スタッフである。国家安全会議のスタッフは,蘇起が中心となって人選を進めた。閣僚級ポストの諮詢委員は,実務志向,学者,外省人という特徴が見られる(表4)。馬のブレーンとして知られている人物についても表に整理した(表5)。うち,蘇永欽と金溥聰については現時点での関与は薄いようである。総統府,国家安全会議,ブレーンの構成を見ると,馬の人脈が比較的狭いこと,馬にとって信頼できる人物は外省人(第2世代を含む)に集中していることが見えてくる。

《表1》 主要閣僚
行政院副院長内政部長外交部長国防部長法務部長教育部長新聞局長
邱正雄 廖了以 歐鴻錬 陳肇敏 王清峰 鄭瑞城 史亞平*
交通部長財政部長経済部長経済建設委主任大陸委主任文化建設委主任 行政院秘書長
毛治國 李述コ 尹啓銘 陳添枝 ョ幸媛 黄碧端 薛香川
※新聞局長は2008年12月に蘇俊賓に交代した。

《表2》 五院院長
立法院長司法院長行政院長監察院長考試院長
  王金平   ョ英照   劉兆玄   王建煊   關 中

《表3》 総統府スタッフ
秘書長・春柏台北市党主委,党秘書長,党副主席党官僚出身。馬の側近だが,政権の核心メンバーではない。
副秘書長
(2名)
高 朗  台湾大学政治学系教授外交・安全保障の専門家。
葉金川 台北市副市長公共衛生の医師出身。2008年9月,衛生署長に異動。*
※2008年9月,党官僚出身で前澎湖県長のョ峰偉が葉に代わり副秘書長に着任。

《表4》 国家安全会議スタッフ
秘書長蘇 起 大陸委員会主任,立法委員,淡江大学教授中台関係,米台関係,安全保障
副秘書長
(3名)
何思因 政治大学国際関係中心研究員,国民党海外部主任,政治大学政治学系教授外交
李海東 海軍中将,国防部次長,海軍参謀長国防,軍事
高 長  中華経済研究院所長,東華大学公共行政研究所教授両岸経済
諮詢委員
(5名)
鍾 堅  国防大学軍事学院,清華大学原子科学院教授国防,軍事,核
陳コ昇 政治大学国際関係中心研究員中台関係,台商権益
蔡宏明 中華民國工業總會副秘書長両岸経済
楊永明 台湾大学政治学系教授日台関係,安全保障
・滿容 淡江大学美國研究所助理教授国際経済,貿易政策

《表5》 馬英九のブレーン
氏 名現 職備 考
蘇 起 国家安全会議秘書長高校時代からの馬の遊び仲間。アメリカ留学時代にはともに反共愛國聯盟に参加。92年コンセンサスの発案者。馬政権の核心メンバー。
高 朗  総統府副秘書長馬の長年の学者仲間。馬の政治資金団体である新台湾人基金会の執行長も務めた。就任演説・組閣工作を担当。馬政権の核心メンバー。
馮寄台 駐日経済文化代表処代表外交官生活が長く駐ドミニカ大使など中南米やアメリカ関係のポストを歴任。馬の外交ブレーン。
張良任 国防部軍政副部長長らく大陸委員会の官僚ポストを歩んだ。馬英九が90年代に大陸委員会副主任を務めた時からのつながり。
蘇永欽 政治大学法律学系教授蘇起の弟。建國高等中学で馬英九と同級生。國家通訊傳播委員会(NCC)前主任。政権発足後の関与は薄いようだ。
金溥聰 前台北市副市長馬の長年の盟友。2008年総統選挙で馬の選挙参謀。馬政権発足後は関与を避け,現在は香港のメディア壹傳媒の台湾でのテレビ局開設準備に当たっている。
(注) は外省人または外省人第2世代を指す。台湾で生まれた
外省人第2世代の中には「外省人」という分類に異議を唱える人もいる。

2.馬英九仮説

 多くの人が関心を持っているのが,馬政権登場後の中台関係であろう。これについては,馬英九本人の意図と馬政権の政策とを分けて考える必要がある。馬英九が主観的意図・希望をもっていても,客観的条件が整わない限り政権としてそれを実行することはできない。逆に,強い客観的条件が存在する場合は,馬英九の本心・希望に反して政権の政策が進んでいく場合もある。馬英九の意図・真意は本人しかわからないので,推測に拠らざるをえない。客観的条件として押えておかなければならないのは,台湾は事実上の国家として存在していること,台湾の選挙民の多数は現状維持を支持していること,および,中国は台湾の主権を部分的に制限する実力を有していること,中台の経済関係は深まる趨勢にあること,である。中台関係については後日改めて論じることとし,今回は2つの仮説を立てて馬英九の意図・真意を考えてみたい。

2つの馬英九仮説
仮説A 馬英九の本心は統一。それを表に出せば当選できないので台湾化路線を掲げた。中台関係改善の動きは将来の統一に向けた布石。任期中に統一に向けて動き出すに違いない。
仮説B 馬英九の本心は中華民国の存続,すなわち,事実上の二つの中国。それを表に出せば中国が反発するので隠している。中台関係の改善は経済的利益を引き出し台湾の生き残りが目的。中華民国在台湾の枠組みを変えるつもりはない。

 馬政権は,過去1年間,中国と9つの協議文にサインし1つの合意を発表した。これらはいずれも経済的・実務的協定であり,台湾の地位に関する協議は一切行なっていない。現時点では,事実上の国家としての台湾の地位に変化は生じていない。では,馬英九が選挙中に唱えていた台湾化路線はどうなったのであろうか?これについても変化はないと言える。馬英九の発言は,筆者の言う台湾アイデンティティの枠内にある。台湾アイデンティティは,台湾ナショナリズム(独立)と中国ナショナリズム(統一)の中間(現状維持)にある。《図》があるので参照していただきたい。(注)詳しくは,拙稿「2008年台湾総統選挙分析」(PDF)を参照していただきたい。。
 馬英九の議論は,李登輝時代前半の「憲法増修條文」および「台湾地區與大陸地區人民關係條例」(1992年)の法的枠組みに基づいている。しかし「中華民国台湾化」を経て人々の意識は変化したので ,法的枠組みを重視する馬の議論は後ろ向きの印象を与える。だが,政権後期の李登輝も陳水扁もこの法的枠組みを変えることができなかったことも事実である。「二国論」も「一辺一国論」も当時の総統の発言というだけで法的には根拠がない。馬の発言は,法的枠組みと台湾化した現実の間を行ったり来たりしている。就任一周年の前後にも,「中華民国の主権は国民全体に属する,台湾は中華民国である」(2009年5月19日,就職一週年中文記者会見),「第1期であろうと第2期であろうと任期中に対岸と統一問題を協議することはない」(2009年5月20日,就職一週年英文記者会見),「台湾が国家ではないと考える国家は一つもない」(2009年5月21日,総統接見衛生署署長葉金川)と発言している。就任以来あるいは選挙戦以来の馬の発言を辿っていくと,振幅があり,その場で都合のよい発言を繰り返しているようにも見える。しかし,詳細に見ていけば,馬の発言は,筆者の言う台湾アイデンティティの枠内でその端から端までを押えていることがわかる。これは,支持基盤を広いまま維持しようとする政権戦略の現れであろう。馬の発言からは「仮説B」が伺われる。「仮説A」が正しいなら,そろそろ馬は統一の可能性に言及するであろう。
 馬政権登場後,中台関係が急速に改善したのは玉虫色の「92年コンセンサス」の効用によるところが大きい。この「92年コンセンサス」は,中国に対しては「一つの中国」と表現され,台湾内に向けては,「一つの中国」とは中華民国であると説明される(一中各表)。さらに,馬の台湾化路線によって,中華民国と台湾とが互換可能な形で台湾人民の前に映し出される。 国共両党が一致しているのは台湾独立に反対ということだけで,当面は論争を棚上げにしているにすぎない。お互いを否定しないということで,中国側は台湾を自国の一省と主張しない,台湾側は国家性を主張しないという暗黙の了解で何とか実務協議を進めている。「92年コンセンサス」には,「一中原則」と「一中各表」との互換性,および,中華民国と台湾との互換性が組み込まれている。角度を変えれば姿が変わって見えるガラス細工のようなものである。厳密に解釈すれば,中国の従来の立場からすれば受け入れられないものだ。したがって,馬政権が中国の言うがままになって一つの中国を受け入れたと見ることは適切ではない。「92年コンセンサス」の組み立て方は「仮説B」に近いが,互換性が外されれば「仮説A」が正しいことになる。今後,このガラス細工が維持されるのか,崩れていくのか,注目点の一つである。

「92年コンセンサス」に関する国民党と共産党の立場
「92年コンセンサス」に関する国民党と共産党の立場

 過去1年間,馬英九は,中台の交流拡大と外交休戦によって,台湾の経済的利益の確保と国際的な活動空間の拡大を引き出そうとしてきた。胡錦濤もそれに応じてきた。馬英九側は,「我々を支援せよ,さもなくば独立派が政権に復帰する,そうなってもよいのか?」と弱い立場を利用した強気の戦術を用いている。例えば,直行便について,馬政権は中国と交渉する前から就航スケジュールを一方的に発表した。両岸経済協力枠組み協定(ECFA)についても,交渉する前から,台湾に有利な内容になる(中国の農産物を入れさせない,現在の輸入制限は維持,中国人労働者も入れないなど)と宣伝している。こうしたやり方に,胡錦濤側は内心では不快感を抱いている。独立派を政権から遠ざけるというのは中国にとって重要な目標であるが,中国側はこの先も馬英九のペースで進むことに警戒感も出てきている。
 現時点で推測される双方の指導者の思惑を,短期,中期,長期に分けて整理してみた。胡錦濤側については,筆者のまとめ方に過不足はあるであろうが方向はそれほど間違えていないであろう。馬英九については仮説に基づく推測である。「仮説A」であろうと「仮説B」であろうと,短期的目標では,馬英九と胡錦濤の双方の思惑は一致していた。これから中期に入り,「仮説B」であるなら,一定程度の利害の一致と共に思惑の違いも出てきて両者の交渉の難易度が上がっていくであろう。中台の交流は引き続き拡大し,メディア向けのイベントも数多く用意されるであろうが,水面下で双方の激しい駆け引きが展開されるであろう。中国側のある人物は,ここから先は「地雷原」だと言う。双方は本質的に同床異夢であり,中台の関係改善の速度はこの先減速していくであろう。「仮説A」の場合は,統一への有利な条件を得ようとするため,やはり両者の交渉の難易度は上がっていく。本格的な交渉の中でその真の姿が見えてくるであろう。
 2年目に入った中台交渉の焦点は,両岸経済協力枠組み協定(ECFA)である。馬政権にとってECFAの内容が台湾に有利な内容になることは織り込み済みである。馬政権は,中国とのECFAを踏み台にして,シンガポールとFTA(名称はFTAにこだわらない)を締結することを狙っている。シンガポールと締結あるいは枠組み合意ができれば他の国とも締結できる可能性が出てくる。これが実現すれば,民進党政権がやろうとしてできなかった大きな突破であり,馬英九にとって中華民国台湾の存在を確保したという大きな実績となる。中国としては,これは簡単には認められない。中国は,「一つの中国」の枠組が強化される形でのECFAを主張し,台湾が独自に各国とFTAを締結するという展開は封じ込めたい。馬英九は,中国が譲歩する限り中国に宥和的な言動を続けるであろう。胡錦濤の側には,馬英九の要求を受け入れていれば中台関係改善の好イメージが広がるが,台湾が果実を得るばかりで,統一はいっこうに近づいてこない,かといって,統一促進にかじを切れば台湾内の反発が高まり,中台関係は再び停滞状態に戻るというジレンマがある。

中台関係の展望 ― 双方の指導者の思惑
短期的目標 中期的目標 長期的目標
馬英九側 直行便と中国人観光客訪台を実現する。経済的利益を確保する。外交休戦で国際社会への参加拡大。 一中各表での現状維持の確認。台湾がハブとなる中台経済関係を築く。 仮説A:統一の道筋をつける。
仮説B:中華民国を認めさせる。
胡錦濤側 善意のジェスチャーで台湾の民意を掌握する。台湾側の要求にはある程度応じる。 一中原則での現状維持の確認。独立派を弱体化させ再び台独に向かわないようにする。 中台統一の道筋をつける。


今回は仮説を紹介しただけです。中台関係については改めて論じます。今後,馬政権の権力関係,民進党の動向,県市長選挙の見通しをアップしていきます。(2009.6.5記)

OGASAWARA HOMEPAGE