(1)八杉貞利の誕生と進学
八杉貞利は、1876年(明治9年)9月16日に八杉利雄と春子の次男として東京浅草に生まれました。八杉家は石州津和野藩(現:島根県)の藩医の家柄で、父利雄は陸軍軍医でした。
高等師範学校附属小学校、同中学校、第一高等学校を経て、1897年東京帝国大学文科大学博言学科(後に言語学科と改称)に入学し、1900年7月恩賜の銀時計を受けて卒業します。
大学在学中は言語学に関する訳書・論文の執筆を進め、言語学会の設立や『言語学雑誌』の創刊にも携わる一方、上田萬年に師事しアイヌ語研究に没頭します。『言語学雑誌』には上田に帯同して北海道を調査した記録を踏まえた「アイヌ語断片」などの論考が掲載されています。

(写真)初代校長 神田乃武、第2代校長 上田万年、第3代校長 高楠順次郎。第2代校長の上田は八杉の恩師でした。 |
(2)東京外国語学校への着任
東京帝国大学卒業後、八杉は国語研究をテーマに大学院へと進学します。当時東京外国語学校校長事務取扱を務めていた恩師上田から「国語の研究は多士済々である。君は宜しく隣邦露西亜の言語研究に向かひたまへ。福島中佐ではないが西比里踏破も亦た男児の一快事ではないか」と言われたことをきっかけに、ロシア語研究を志し、同年9月東京外国語学校別科に入学しました。八杉が入学した露語科では二葉亭四迷が教鞭を執っていました。
翌年10月文部省からロシア留学を命じられ、マルセイユ、ベルリン、ワルシャワを経由し、12月ペテルブルクに到着します。後年の八杉の回想によると、「ロシヤ留学中はペテルブルク大学の自由聴講生にして貰って言語学概説を聴講し」ていました。
八杉は留学中の1903年には東京外国語学校教授に任ぜられ、翌年の日露戦争の勃発により急遽帰国し、5月より同校において教鞭を執ります。1937年3月に停年退官しますが、その後も1945年まで非常勤講師となり、40年以上に亘り東京外国語学校でロシア語の指導に当たりました。
1910年入学の山中忠雄の回想によると、「いちばん授業時間を多く持っておられたのは八杉先生で、訳読、文法、作文、新聞等々、殆ど全科の半分ぐらい担当されていた」ようです。
また東京帝国大学や早稲田大学、鉄道院(後に鉄道省)等にも出講し、言語学やロシア語の講義を担当しました。

(写真)八杉日記1925年に貼り付けられたロシア渡航時のハルピン等での写真。1925年(大正14年)7月31日から9月30日にかけロシア渡航に向かいます。20年ぶりに訪れたレニングラードから妻に送られた帰京予定を知らせる葉書のなかには「当地ハ二十年前ノ想出深キ処。ソノ変ワタニ驚キマス」と記載され、1901-04年のロシア留学の際に訪れた同地の変化に思いをはせる様子が記載されています。
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≪目次≫
T 東京帝国大学における博言学の研究と東京外国語学校への着任
U 八杉貞利の研究業績
V 八杉貞利資料群について