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 学園紛争 〜東京外国語大学における経過と特徴〜

U. 東京外国語大学における学園紛争の経過(1)


 東京外国語大学における学園紛争は寮の建替えを巡る問題を契機にはじまりました。紛争のなか学生により行われた構内バリケード封鎖により、一時は入試実施が危ぶまれました。最終的に機動隊導入により封鎖は解除されますが、紛争の影響は1972年度まで残りました。


目次
 1. 発端としての寮問題 〜老朽化と学生自治〜
 2. 学園紛争のはじまり
 3. バリケード封鎖と42時間に亘る大衆団交


1. 発端としての寮問題 〜老朽化と学生自治〜


 本学における学園紛争は寮問題が発端となります。1924年関東大震災後の学生支援を目的に開寮した日新学寮は、戦後に一部改築が行われましたが1960年代後半には老朽化を迎えていました。また日新学寮では戦後直後から学生自身が寮務委員会を組織し、寮の管理運営を担う学生自治が進められていました。1962年11月寮生大会において寮則・入寮選考規定が制定されると、学長は「社会人たる自治能力の滋養」の観点からこれを追認し、日新学寮は寮務委員会のもとでの学生自治が確立されていました。
 1964年、文部省通達により、寮経費の受益者負担の原則と大学による寮の管理責任が明記され(「二・一八」通達)、「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(「○管規」)が示されます。これらの通達は学生自治の伝統に反するものでしたが、 老朽化に伴う新寮建設に当たっては文部省通達に沿った形での概算要求が必要でした。
 1968年6月、学生部長と寮生代表の間で新寮建設に関する交渉のなか、学生自治の伝統と文部省通達の齟齬が表面化し、学生側は大学側の交渉姿勢に反発します。

 2. 学園紛争のはじまり


 9月20日、学生部長と寮生代表による24時間交渉の結果、文部省通達に反対する立場で新寮建設に臨むことを定めた確認書が交わされます。9月25日には最初の「大衆団交」が行われ、学生側には全学共闘会議が組織されます。10月3日、全学集会が開催され、教授団・学生側がこれに参加し問題を討議します。全学集会では、学生側との共闘姿勢を示した教授の存在もあり「教授会と学生とが協力して今後の本学の進むべき道を模索すべきこと」が確認されました。
 10月3日以降、出張先より帰国した小川学長のもと、教授会では寮問題が討議され、学生との共同が難しいとの見方へ傾きます。一方、学生側は教授会との共同声明を求め、新たに大衆団交を申し入れます。教授会がこれを拒否したことに対し、学生たちは11日ストライキを決議し、正門にバリケードを築きます。教授会は15日に「○○大学学寮管理運営規則」及び文部省通達「負担区分について」への反対声明を発布しますが、その内容が3日の全学集会より後退していたこともあり、学生側は激しく批判し白紙撤回を迫りました。

 3. バリケード封鎖と42時間に亘る大衆団交

 学生は再三にわたり大衆団交を要求しますが、11月2日、教授会が声明の白紙撤回を最終的に拒否すると、学生は教授会の学外追放を宣言して本館木造校舎を占拠、正門のバリケードを強化し、以後外国語学部教官の学内立ち入りを禁止します。当初、学生側は留学生を運動に巻き込むことを避けていましたが、12月4日に共同利用施設であるアジア・アフリカ言語文化研究所および留学生課程の学部兼担教官も学内立ち入りが禁止され、全国的にも珍しい全学的な構内封鎖が行われました。
 状況打開のため、学生側が「七項目要求」と大衆団交を求めた一方で、大学側は教授会代表委員会を設置し、学長・教授会代表委員会名での大学側の立場を表明した『全学生諸君への提案』を出し、寮問題だけではなく「大学の在り方」を含めた改革案を提示します。
 12月18日、この提案を巡る全学討論集会が開催されますが、20日早暁までの延べ42時間にわたる「大衆団交」となり、教授会は学生側の要求を拒否し、両者は完全に決裂します。


    
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