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 学園紛争 〜東京外国語大学における経過と特徴〜

1. 1968-69年 学園紛争の時代




 1968-69年において、五月革命(フランス)やベトナム戦争に対する反戦運動など世界中で学生運動が活発化しました。国内においても、学費の慢性的な値上げやカリキュラム編成への不満、寮・学生会館の管理・運営の自治権問題などを契機として、各大学において学生運動が起りました。1968年度には67大学、1969年度には127大学において、「学園紛争」が発生しました。他方で紛争には、大学への進学者数が増加し、大学が大衆化するなか、旧態依然とした大学の教育・研究体制や管理・運営体制の変革を求める運動としての一面もありました。

 他大学の「学園紛争」と「大学の運営に関する臨時措置法」

 東京大学では、1968年1月医師法一部改正案(登録医制)への反対を求めた医学部の無期限ストライキを契機に紛争が発生し、6月大学側が医学部学生の排除に機動隊を導入したことへの反発から他学部へと運動が波及しました。東京大学では1969年度の入試は中止され、1969年1月18日大学側の要請を受け8500人の機動隊により安田講堂が封鎖解除されたことは、大きな社会的影響を与えました。日本大学では裏口入学斡旋問題、使途不明金問題など相次ぐ不正・不祥事を契機に学生の大学への疑惑がデモ行進へとつながり、1968年9月には35000人の学生が参加する大衆団交が実施されました。

 全国で発生した学園紛争に対処するために、1969年4月中央教育審議会は「当面する大学教育の課題に対応するための方策について(答申)」を文部省に提出します。
 そこでは大学紛争の根底にある要因として戦後の高度経済成長による社会変化や大学生数の増大のなか、「世代による価値観の相違」、「権利意識の高揚と責任感の軽視」、高等教育の「整備立ちおくれ」が指摘され、大学教員のあり方、大学管理者の役割と責任に関する提案が行われました。これを受け、政府は紛争の解決を大学の自主的努力に任せるだけでなく、立法措置のが必要と考え、1969年5月大学が紛争収拾の能力を欠くに至った場合には国が責任上積極的措置を講ずることを定めた「大学の運営に関する臨時措置法」案を国会に提案し、同年8月これが成立します。5年の時限立法として成立した同法ですが、その後各大学の学内秩序が沈静化に向かったこともあり、同法に基づく措置は実施されませんでした。


    
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