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史資料収集−研究担当班



あるモリスコの自己認識 ―ハジャリー(1641年以降没)の自伝を通して

報告者 佐藤 健太郎
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 従来,モリスコは16世紀のカトリック・スペインにおける異分子であるとして,主としてキリスト教徒側の史料を通じて研究されてきた。しかし,一口にモリスコといってもその実態は多様である。モリスコの主な居住地として,アラゴン,バレンシア,グラナーダが挙げられるが,それぞれキリスト教徒に征服された時期も言語状況もまったく異なる。当然,個人レベルでの信仰のあり方も,千差万別であったろう。また,モリスコの歴史は17世紀初頭のイべリア半島追放で終わるわけではない。追放後の彼らは地中海世界各地に散らばり,悲運にみまわれたムスリムとして同情を買う一方で,異質な他者,異教徒の下にいた信仰の不確かな者として差別と侮蔑の対象となることもあった。このような多様なモリスコ像や地中海世界の中のモリスコたちの姿を明らかにするには,史料的にも新たなアプローチが必要とされよう。その点で,アラビア文字でカスティーリャ語を記したアルハミーアは,モリスコ自身の声を伝えるものとして,またその特異な性格もあって,以前から注目を集めてきた。しかし,ジャンルの偏りやモリスコ自身のオリジナルな作品が少ないこともあって,アルハミーアを歴史研究の史料とするには利用に若干の工夫が必要であろう。一方,アラビア語やカスティーリャ語でモリスコ自身が記した史料は,十分にその価値を評価されてこなかったように思われる。

 以上のような問題関心を受けて,本報告では17世紀前半にカイロおよびチュニスにおいてアラビア語で著された自伝的著作『不信仰の民に対する信仰のたすけ』を通して,一モリスコの自己認識を探る試みを行った。その際,手がかりとしたのが,イスラームという信仰とアラビア語という言語の二点である。

 まず,ハジャリーの生涯について,簡単に記しておこう。彼は1569-70年,セビーリャ近郊と考えられるハジャル・アフマルにおいて,アラビア語を母語とする家庭に生まれた。マドリードに遊学した後,グラナーダでアラビア語の翻訳に従事していたが,1599年,彼自身の言によれば,物心ついたころからの念願だったイベリア半島脱出を敢行し,モロッコへ移住する。モロッコでは,サアド朝スルタンのザイダーン(位1608〜27)に翻訳官として仕えた。1611〜14年にかけては,イベリア半島から追放されたモリスコが船上で奪われた財産をフランス人船主に求める訴訟のため,西欧を旅行している。この間,彼は訴訟手続きだけではなく,パリやライデンで西欧の東洋学者らと交流する一方,イベリア半島から追放されたモリスコたちがマグリブやイスタンブルに移住するのを支援したりもしている。あるいは,報告当日の関哲行氏からの御指摘のように,フランス・オランダといった当時のスペインの敵国ばかりをまわっていることから,この旅行の背景にサアド朝モロッコの外交活動を想定することも可能であろう。モロッコに帰国した後も,ハジャリーは引き続き翻訳官として勤め続けるが,1634年,メッカ巡礼を志しマラケシュを発つ。途中,サレ・ラバトを経るが,ここはモリスコが半独立の海洋勢力を築いていたことで知られており,アラビア語の読めないモリスコのために12世紀セウタの法学者カーディー・イヤードにより著されたムハンマド崇敬の書をカスティーリャ語に翻訳してもいる。メッカ巡礼後の1637年にはカイロに滞在し,ここで本報告の主要史料となる『不信仰の民に対する信仰のたすけ』を記した。同年には,さらにチュニスへ移り『不信仰のたすけ』に加筆する一方,当地のモリスコがカスティーリャ語で記した銃砲の扱いに関する書をアラビア語に翻訳してもいる。彼は,1641年まではチュニスに滞在していたことが分かっているが,その後の消息は不明である。年齢を考えると,ほどなくチュニスで没したものと思われる。

 言うまでもなく,ハジャリーにとってはイスラームこそが真の信仰であり,自伝の序文では,異教徒の土地であるイベリア半島にあってそのような信仰を伝えてくれた両親に対して感謝の念を表している。一方,自分自身がそのような信仰を保ちえたことについては,神の特別の恩寵があったためとしており,自分自身に他のモリスコたちを導く使命があると認識していたようなふしがある。

 また,彼のイスラーム信仰について興味深いのが,一連の「グラナーダの偽文書」をめぐる彼の見解である。「グラナーダの偽文書」とは,16世紀末にグラナーダのカテドラル(旧大モスク)とサクロモンテの丘から相次いで発見された文書群で,紀元1世紀の初期のキリスト教徒の手になるものという体裁をとっている。その「作者」については,アロンソ・デル・カスティーリョというモリスコ出身でフェリーペ2世の翻訳官をつとめた人物にしばしば比定されている。いずれにせよ,その偽文書の内容から判断する限り,スペインのカトリックとモリスコ的な伝統とのシンクレティズムの要素が顕著に見て取れ,滅びつつあるモリスコの文化の一部なりともスペインの中で生き残れるようにするために作成されたものであると考えられている。

 ところが,偶然,教会からこの「偽文書」の翻訳を命じられることになったハジャリーは,まったく違った解釈をするのである。すなわち,イスラームと類似の要素がこの文書に見て取れるということは,最初期のキリスト教徒の信仰がイスラームときわめて近かったことを意味し,現在のカトリック信仰がいかに真の信仰から逸脱しているかを示す証であると考えたのである。いうまでもなく,この見解は,イエスもムハンマドと同様に神の言葉を託された預言者であり,後のキリスト教徒たちが真の信仰を歪めてしまったために最後の預言者ムハンマドが遣わされたのだ,とするイスラームの基本的な歴史認識・キリスト教観とも合致するものである。それを端的に表すのが,ハジャリーが偽文書中のアラビア語版『ヨハネの福音書』を翻訳した際,訳文に不満を示した司祭に対してなされた彼の独白であろう。「これこそがイエスの時代かその直後のものだ。今,私の手には彼らの手にあるものよりも正しいものがあるのだ」。

 イスラームの信仰とならんで,ハジャリーのアイデンティティにおいて重要な地位を占めていたのが,アラビア語である。彼はアラビア語口語を母語としていたが,それ以上に彼にとって重要だったのがコーランの言語である正則アラビア語(フスハー)であったろう。彼は,イベリア半島でアラビア語禁止令におびえながら,自分が正則アラビア語の能力を身につけていたことを記している。また,オランダのライデンで知り合った東洋学者たちから「東インドの島々」からもたらされたアラビア語の書物を見せられ,あらためてイスラームと正則アラビア語の広がりとを再確認している。さらに,イベリア半島から逃れてモロッコに到着したばかりの頃,彼の発した正則アラビア語が群臣が居並ぶ中でスルタン自身から称えられたエピソードを,彼は誇らしげに記すのだが,その際,それを見ていた他のモリスコたちも同様に喜んだことも付け加えている。ここには,移住先のマグリブでしばしば疎外されるモリスコたちも,正則アラビア語を自由に操る能力を通してムスリム社会に受け入れられるのだ,というハジャリーの想いが現れているのではないだろうか。

 その一方で,『信仰のたすけ』には現れない記述であるが,ハジャリーはモリスコたちがカスティーリャ語を通じてイスラームの信仰を学ぶことにも理解を示していた。彼は,カスティーリャ語しか解さないアラゴン出身のモリスコたちのためにアラビア語文献のカスティーリャ語への翻訳も行っているのである。その翻訳の冒頭で彼は,コーラン第14章第4節の「我ら(神)は常にその人々の言語で使徒を遣わす」という一節を引用している。この一節は,他のモリスコがカスティーリャ語で記した文献にも,カスティーリャ語使用を正当化する文言として引用されており,ハジャリーの中には母語をこえたモリスコ全体としての同胞意識があったことがうかがえる。

 本報告では,ハジャリーという一人のモリスコの残した自伝的な著作を通じて,多様なモリスコの一例を紹介してきた。この著作の中では,彼のイスラームと正則アラビア語へのこだわりがしばしば強調されていた。しかし,その記述を評価する際には,この著作が著された環境や背景も考慮に入れなければならないであろう。『信仰のたすけ』とその母体となった『輝きの旅行記』は、カイロの高名なマーリク派法学者ウジュフーリーのすすめを執筆の動機としている。カスティーリャ語への翻訳活動もしているハジャリーをして,正則アラビア語へのこだわりを示させた周囲の環境を,彼の生涯のそれぞれの局面において検討することが必要であろう。