こんにちは、MIRAI2期生の小林真也と申します。

突然ですが、「学習にゲームの要素を取り入れる」────そう聞いたらどういったものを想像するでしょうか。  この文を書いている最中、五・七・五になっていることに気づいてしまいましたが、それはさておき。おそらく、授業中にアイスブレイクやレクリエーションでクイズなどの簡単なゲームをすることが思い浮かびやすいのではないかと思います。  私が研究している「(学習の)ゲーミフィケーション」という教育工学的手法は、まさに「学習にゲームの要素を取り入れる」ことなのですが、上のようなものとは異なります。なぜなら、既存のゲーム"そのもの"を学習の場に持ち込むのではなく、あくまでゲーム(あるいはゲームデザイン)の"要素"を加えるのが「ゲーミフィケーション」だからです。もっと言えば、学習それ自体をゲームにしてしまう手法と言えるかもしれません。(ゲーミフィケーション(gamification)はゲーム化(gamify)の名詞形なので、語義を考えればむしろこちらの方が正しいかもしれませんね)  ともかく、私の研究テーマである「ゲーミフィケーション」は、ゲーム(あるいはゲームデザイン)の要素を加えることで、プレイヤーを惹きつけるゲームの特性を応用し、学習者の学びに対する積極的関与を促す手法なのです。

ところで、ゲームを学習に導入すると言うと、経験上一定の誤解や拒絶反応が見られる場合があります。  それはゲームという「遊び」が学習とはかけ離れたものだという認識によるのではないかと推測しますが、これに対しては二通りの反論があるように思います。  一つは、遊びは学びにつながる、というもの。(詳細は省略しますが、教育分野ではプレイフルラーニングやインフォーマルラーニング、付随的学習などのキーワードと関連します)  そしてもう一つは、ゲームと遊びはイコールでない、というものです。ゲームが遊びを土台にしているのは間違いないと思いますが、遊びと大きく異なる点として、「ルール」の存在があります。スポーツも一種のゲームですが、例えば格闘技が単なる喧嘩やチャンバラと全く異なるのは「ルール」があるからです。  また、ゲームの導入は初修の学習や年少者教育には適切であるものの、より高次の学習や大人に対する教育には適切でないという意見もあります。これは一般的な意見のみならず、一部の先行研究でも言われていることです。要するに、ゲーム要素は子供騙しなのではないかという意見だと解釈しています。  しかし、私はこの意見に懐疑的な立場にあります。なぜなら、世の中には大人も夢中にさせるゲームが多く存在しますし、先述した「ルール」の存在が深い思考を促しうると思われるからです。(「ルール」があるから戦略を練る必要があり、それゆえ戦略的思考や批判的思考など高次の思考が生まれるはずです)  そのため、適切に設計すれば、大人であっても効果的な学習をもたらすと考えています。

そこで、私の研究では、高等教育段階の言語学習において、より高次の思考を伴う学習のゲーミフィケーションの検討・開発・実践・評価を行っています。修士論文では、批判的思考の基盤となる「質問力」を鍛える学習活動をゲーミファイし、デザインした活動を開発・評価しました。また博士論文では、アカデミックライティングの学習活動をゲーミファイできないかと検討し、そのために現在はライティングの学習者心理に関する基礎研究に従事しています。  その他、博論には含みませんが、社会活動の一環として、MIRAIでも人文科学のサイエンスコミュニケーションをゲーミファイした謎解きゲームを制作し、昨年11月に外語祭で公開しました。こちらは非常に大きな反響があり、ゲーミフィケーションの力の強さを実感しているところです。また、地域の方や幅広い年齢層の方々に楽しんでいただくことができ、上述したような、大人に対しても効果的な学習をもたらすゲーミフィケーションの実践になったのではないかと感じています。(よかったらこちらもご参照ください)

もちろんゲーミフィケーションにも得意不得意がありますし、全ての学習をゲーミファイすればいいというわけではありません。しかし、自律的な学習とは複数の学習リソースから取捨選択できることであり、そのために学習リソースは多種多様であればあるだけ良いと考えています。この研究がいつか誰かにとって意義あるものになることを信じて、今後も引き続き、様々な形でゲーミフィケーションの実践と研究に取り組んでいきたいと思います。

小林 真也