皆さんは「日本英語」(英:Japanese English)というと何を思い浮かべますか?コンセントやハローワークといった日本で作られた和製英語でしょうか。それともカタカナ読みをしたような発音の英語を思い浮かべるでしょうか。またその思い浮かんだ「日本英語」に対してどのような印象を抱いていますか?間違っている、恥ずかしい、といったネガティブな印象でしょうか。またはことばのクリエイティビティや日本っぽさの現れといったどちらといえばポジティブな印象でしょうか。ポジティブでもネガティブでもない中立的な印象、または無関心という人もいるでしょう。

さて、「日本英語」が意味することについて少し考えてもらいましたが、私はまさにその「日本英語」を研究対象としています。申し遅れましたが、MIRAI3期生の小田千敏と申します。答え合わせではありませんし、皆さんの思い浮かべたイメージに間違いがあるとも思いません。ただ研究対象とするには少なからず定義をする必要が出てきます。(定義というと仰々しいですが...)特に「日本英語」のようにそれぞれ連想することが異なる言葉ならなおさらです。前置きが長くなりましたが、私の研究対象は「日本人の使う英語」でそれを日本英語と呼んでいます。(「日本人」とは日本国籍の人なのか、日本語母語話者なのか、はたまた広く日本語話者なのか、などと色々ツッコミどころはありますが、今の所はこのふわっとした定義で失礼します。)要するに、話者である日本人の持つ日本語や日本文化的影響が見られる(かもしれない)英語です。

いわゆる英語圏の国々にそれぞれイギリス英語やアメリカ英語などがあることは恐らく皆さんご存知でしょう。また、英語が第二言語となっている国々でもインド英語やシンガポール英語など、耳にしたことがある人も少なくないと思います。このように地理的な違いによって個別の英語バラエティを研究しているのがWorld Englishes (WE)という研究分野です。Englishに複数形の-sをつけるのには見慣れない人もいるかもしれませんが、まさにひとつの英語という言語にも複数の形や正解があってもいいんじゃないかという見方がまさにその名前に現れています。WEの起こり、そして現在に至るまで研究の中心は英語を第二言語として使っているバラエティです。先にも述べたインド英語やシンガポール英語などに関する研究は、それぞれの体系を記述し、新しい英語バラエティへの偏見を少しづつ取り除いてきたという功績があります。一方で日本を含め英語を外国語として学習する国は英語が使用されるシーンも限定的で、国内でのコミュニケーション(例:日本人同士が英語で会話する)として使われることも極めて少ないです。そのため独自の英語バラエティを形成するには至りにくいと考えられ、WEの枠組みの中よりはむしろ英語教育、外国語習得といった分野で盛んに研究されてきた背景があります。

さて、自己紹介ということですので少し自分語りをしても許されるでしょう。ちょうど私が小学生だった頃、小5から「外国語活動」という名の英語に親しむ授業が全国的に導入されました。そして教科としての英語は中学生から始まりました。(今はそれぞれ小3、小5から始まりますが。)英語はずっと得意教科で、自分で言うのも何ですができる方でした。高校で短期留学する機会にも恵まれ、大学は通訳を志して外大の英語科を選びました。なぜ通訳への道を進まず研究を選んだのかというのはひとまず置いておいて、大学に進学するタイミングで「卒業するまでには英語ペラペラになる」というのを目標の一つに立てたのを覚えています。学部ではアイルランドでの長期留学も経て、英語で卒論も書き、英語で言いたいことは言えるし特に困ることはないところまで来ました。客観的にみたらペラペラになるという目標は達成できたと思います。でもどれだけすらすら言いたいことが言えても、時たまLとRを混同したり、単数と複数を織り交ぜて話したり(*People is...など )"完璧"ではない自分の英語をもどかしく思っていました。もともと大きなつまずきもなく英語を学習し、オウムのように発音を吸収することも得意だったために、「正しい英語はこれだ!それ以外は間違っていて恥ずかしい」という規範的な考えを内面化していたように思います。ゼミでWEについて学び日本英語の可能性について指摘された時も、「いやー、それはないでしょ」と最初は思っていました。

コロナ禍の制限のなかで身近で取り掛かりやすい研究トピックとして選んだ日本英語ですが、卒論、修論、そしてついには博論研究と向き合っていく中で、半信半疑から「それもいいんじゃない」と思えるようにまでなりました。日本で生活しながらも英語を日常的に使うようになると、日本版「それでもいいんじゃない」英語にだんだんと抵抗がなくなってきました。日本でフィリピン人と英語で話すときに、イギリス人みたいな発音をする必要性はあまり感じられません。(私はエマワトソンが好きで昔よく発音を真似していました。)Onigiri や Shinkansen の指すものが分かっている人にわざわざ Rice ball や Bullet train という必要もないように思います。こういった発音や語彙から始まって、やがて文法やコミュニケーションスタイルというところまで許容範囲が広がっていけば日本英語というものの現実味も増してくるのではないでしょうか。そして最終的には借り物の英語から自分の言語としての英語に変わっていくのかもしれません。

「日本人っぽい」英語というのがネガティブな意味を持たなくなったら、もっと自信をもって英語を話せる人が増えるのではないか。「正しい」英語というのをもっと相対的に捉えられたら、自分の英語をもっとクリエイティブに捉えられるのではないか。非ネイティブの英語がネイティブの英語と比べられて優劣をつけられなくなったらもっと平等に発言できるのではないか。つまりは日本英語の研究は自分との葛藤であり、日本人英語学習者への励ましであり、ひいては国際社会への提言なのであります!(とか言ってみる。)そんなことを思ったり思わなかったりしながら日々データ収集に奮闘している日々なのです。

小田千敏