• アクセス
  • English
  • 東京外国語大学

Research Activities研究活動

  • Home
  • 研究活動
  • 研究成果
  • 石川博樹【研究発表】「16~18世紀のエチオピア北部におけるテフの重要性の変化について」

研究成果

石川博樹【研究発表】「16~18世紀のエチオピア北部におけるテフの重要性の変化について」

2021/04/18

◆発表者:石川博樹

◆発表日:2021年4月18日

◆発表場所:日本ナイル・エチオピア学会第30回学術大会(オンライン)

◆発表タイトル:16~18世紀のエチオピア北部におけるテフの重要性の変化について(On the Change of Importance of Teff in Northern Ethiopia during the 16th and 18th Centuries) ※最優秀発表賞受賞

◆要旨:

アフリカ北東部に位置するエチオピアを代表とする食品とされるのが、インジェラ(Ǝnğära)と呼ばれる酸味のあるパンケーキ状の食品である。インジェラの原料として一般的であるのがイネ科の作物テフ(Eragrostis tef)である。インジェラをつくる際には、テフ粉を水と混ぜ、発酵させてつくった液状の生地を鉄板の上に回し入れ、円形に焼き上げる。テフのインジェラはもともとエチオピア北部に居住するアムハラおよびティグライの食品であったが、現在エチオピアの他の民族集団にも広まっている。それに伴い、テフはエチオピアで最も重要な換金作物となっている。

テフおよびインジェラについては、先行研究において、前一千年紀までにテフが栽培化されたこと、インジェラを焼くために使用されるミタド(Mәt̟ad)あるいはモゴゴ(Mogogo)と呼ばれる陶器と形状が似た陶器が6世紀頃にエチオピア北部に出現したことなどが明らかにされている。しかしこれらの事実は一千年紀中頃にテフのインジェラが調理可能になったことを示すだけである。注目されるのは、貨幣鋳造期(3世紀後半~7世紀前半)のアクスム王国では、栽培されている穀類の中でテフは副次的な存在であったことが先行研究で示唆されていることである。その後エチオピア北部においてテフが主要な穀類となり、テフのインジェラをすべての階層の人々が主食として食するようになった経緯について、先行研究は明らかにしているとは言い難い。本発表では14世紀から18世紀にかけての各種文字記録に見えるテフおよびテフ粉でつくられた食品に関する記述を検討し、テフの主食化の時期とその背景について考察する。

検討の結果得られた主な結論は以下の通りである。

  • ポルトガル人聖職者アルヴァレス(F. Alvarez)がエチオピア王国を訪れた1520年代には多様な穀類・豆類がパンの原料とされていた。テフもその1 つであったが、当時王国内では小麦・大麦・モロコシが主要穀類で、テフは副次的穀類であったと考えられる。
  • その後約1 世紀が経過した17世紀前半までにテフを食べる習慣が民衆の間で広まった。王国内で布教活動を行っていたイエズス会士の報告から、当時の君主ススネヨス(Susnәyos)(在位1607~1632年)がテフについて「貧しい人々が飢えのために食べ始めたもので、その後食べ慣れるようになった」と語っていたこと、また「生育がよく、収量が多い」がゆえに王国内でテフが評価されていたことを確認できる。
  • テフを食べる慣習はゴンダール期(1632~1769年)にさらに広まった。フランシスコ会士プルトキー(R. Prutky)がエチオピア王国を訪れた1750年代前半までにテフは王国内で最も多く栽培される作物となり、またスコットランド人探検家ブルース( J.Bruce)がエチオピア王国に滞在した1770年代初頭までに王を含めたすべての階層の人々がテフ粉でつくられた平焼きパンを好んで食べるようになっていた。
  • 17世紀前半のイエズス会士たちの報告以降、テフ粉でつくられた酸味のある平焼きパンがヨーロッパ人の旅行記で報告されるようになる。ブルースが報告しているテフ粉の平焼きパンはスポンジ状で、牛の生肉を刻んだものを巻いて食べることができるものであり、インジェラであったと考えられる。しかしプルトキーはテフ粉パンの焼き方として「生地を円形に成型した後、鉄板上で両面を焼く」というインジェラとは異なる調理方法を記述している。17世紀前半までにインジェラの調理方法が確立していた可能性もあるが、ゴンダール期にテフが主食化するなか、テフ粉の平焼きパンの調理方法も変化し、インジェラが成立した可能性も検討すべきであるように思われる。
  • 16世紀から18世紀にかけてテフの重要性が高まった要因としては、エチオピア王国内の穀類の生産・消費に関わる構造的な諸問題、16世紀前半から17世紀前半にかけて相次いだ戦乱に伴う王国の混乱、小氷期における乾燥化が引き起こした飢饉の影響などが考えられる。