1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第1回
メディア論とは?

(更新日 98/07/16)

はじめに

 大阪市立大学文学部「比較言語文化」講座・「表現文化コース」所属の山口裕之です。この講座の名前も、コースの名前も、なにやら聞き慣れないものと思われるかもしれませんが、無理もありません。実は、この四月にできたばかりの新しい講座・コースなのです。昨年度まで私は「ドイツ語・ドイツ文学教室」(いわゆる独文)のスタッフでしたが、今年度から「表現文化コース」で「文化構造論」という名称の授業を担当することになっています。私の研究・関心の中心となっているのは、19世紀末から20世紀にかけての近代批判をめぐるさまざまな論議、モダニズム芸術、メディアに関する理論、地域文化研究・カルチュラル・スタディーズの方法論的問題などですが、このインターネット講座では、表題にありますように「メディア論」についてお話ししていきます。さらに詳しい私のプロフィール等につきましては、私 のホームページをご覧ください。

「メディア論」をめぐる状況

 「メディア論」という名称をはじめから提示していますが、「メディア論」という言葉が頻繁に使われ、それがどういったものか何となく考えられているほどには、このような専門領域・研究領域が確固としたものとして存在しているわけではありません。広い意味での「メディア」自体はほとんど人類が存在して以来、それに随伴して存在しているものですけれども、「メディア論」という形で問題となるようになったのは、電話・蓄音機・ラジオなどに始まる、いわゆる「電気(電子)メディア」が登場するようになってからのことです。あるいはまた、ある一つの研究領域が比較的明確な研究の対象・目的・方法を持つものとして、学問的にどの程度認知されたものであるかということは、その領域が質的・量的に(よかれ悪しかれ)どの程度またどういった形で制度化されたものとなっているかということを指標にして考えることができるでしょうが、この点についても、現在、世界中のさまざまな大学で、情報・メディア関係の学部・学科・専攻が次々と開設され、そしてそういった内容の授業が開講されている様子、そこでの対象・規模を見るならば、メディア論は現在まさに形成されつつある領 域であるといえるでしょう。(ただし、そこで制度化されたものがすべて、ここで「メディア論」と呼んでいるものと結びついているとはいえないでしょうが。むしろ、この講座では、おもに「本」という議論の場で展開されたものを取り上げていくつもりです。)

 メディア論はこのようにかなり新しい研究領域ということができますが、この「メディア」という対象に対してきわめて多様な視点からアプローチがなされ、さらにかつての研究に批判が加えられつつ新たな視点が展開されていくことによって、誕生後それほど時間のたっていないにもかかわらず、「メディア論とは何か?」ということについて、とても一言ではいえないような状況となっています。

この講座の目標

 こういったことをふまえて、このインターネット講座は次のようなことを目標としたいと思います。

 まず、「メディア論」と呼ばれている言説の場において、どのような立場からの、どういった議論が問題となっているか、ということの一端を提示すること。もちろん、一端といっても、とくに重要な論点はできるだけ押さえていきたいと思います。この第一回目のインターネット講座において、これからとりあえずの概観を示しますが、一年間の講座の締めくくりに、再びこの「メディア論とは何か」「何が問題となっているか」という問いに帰ってきたいと考えています。

 そしてもう一つは、これこそが「メディア論」の本来の意義でしょうが、これから示していくさまざまな立場の一つの視点からでも、「メディアとは何か」「メディアに結びついている人間はどのような状態にあるか」といった問題について、この講座の受講者のみなさん一人一人に(あるいは単にこのページをご覧になっている方も含めて)考えていただきたいということです。

「メディア論」のいくつかの論点

 私がこのインターネット講座において「メディア論」として取り上げたいと考えているもののおおよその方向は、実は、講座の目標として掲げた二つ目のものがすでに暗示しています。「メディア論」がさまざまな視点から形成されつつあるために規定しにくいものとなっているといっても、それが名前の通り「メディア」についての「論」であることは間違いないでしょう。しかし、それは技術そのものについての理論や方法(例えば、ハードウェア設計のための電子工学的知識やプログラミングのための言語習得)とか、「ユーザー」にとっての実用的な知識(典型的には、いわゆる「マニュアル本」)といったものを、少なくとも直接的な対象としては扱いません。では、メディア論とはどういった内容のものか、現在のメディア論において中心的な問題設定となっていると思われるものを、とりあえずいくつかあげてみましょう。

つまり、「メディア」に関する「論」といっても、アクセントがおかれているのはあくまでも人間のあり方であり、そこから翻って、「メディアとは何か」を問い返すことになるのです。

 これまで用いてきたメディアにかかわる語彙はコンピュータなどを強く連想させるものとなっているかもしれませんが、本来的にはあらゆるメディアを指します。しかし、古いメディアの形態に対する視点も、いわゆる「電子メディア」に対する考察から照射されて生み出されてきたものであり、やはり「電子メディア」が問題の中心をなしているということは、自明のこととはいえ、やはりメディア論の一つの大きな特質といえるでしょう。

 上にあげたような問いの立て方は、文学部の私が扱おうとしていることにも現れているように、基本的に人文系の立場に基づくものです。ですから、同じ「文系」であっても、例えば、放送やインターネットにおける純粋に法律的な論議や経済的な効果そのものは、少なくともここで扱おうとしているようなメディア論の直接的な対象とはならないでしょう。ただし、法律やその他の社会的制度に対して現在のメディアの状況がどのような変革の可能性を秘めているか、あるいは現に変革を引き起こしつつあるかということは、メディアの本質にかかわる問題としてメディア論の対象になるのではないかと思われます。

 あるいは、文学研究においてニューメディアをどのように用いることができるか、という単に技術的なレベルの問題は、さまざまなコンピュータ上のアプリケーションの用い方に対する関心と基本的には同質のものです。しかし、ある作品を電子テクスト化し、それを扱うということは、研究者が作品を把握する思考の枠組みに対してどのような作用を及ぼしうるか、あるいは、ある対象を研究する際に、資料を整理し、断片的なアイディアを相互に関連させながら構築していく段階で、コンピュータを用いてそれぞれのアイディア・資料をファイル化し、目的に応じて構築されたディレクトリ構造の中に分類し、さらにそれらをリンクさせていくとすれば、また、外部の研究者とのあいだでそれをやりとりするとすれば、それは研究者の思考回路に対してどのような変容を引き起こしうるか――こういったことは、そこで用いられている技術的なことがらをこえて、メディアの本質にかかわる問題として取り上げられるべきでしょう。

 また、メディアが人間の肉体と密接に結びつくものであるがゆえに、メディア論がしばしば「身体論」的な文脈において語られるため(これに関しては、講座の中で取り上げます)、生物学や病理学的な視点も(メタファー的な取り上げ方が多いのですが)入り込んできます。また、技術そのものは論議の対象にならないとはいえ、もちろん技術についてのある程度の知識なしには、技術によって引き起こされる事態について語ることはできません。技術そのものについての知識は、おそらく多ければ多いほど好ましいと思われます。ただしその際、単に知識の量だけが問題となるのではなく、技術との関係を意識した姿勢が必要になるでしょう。

 以上のような捉え方に基づいて、とりあえず、メディア論とはメディアの本質、また、メディアにつながっている人間に対する作用の本質、そしてメディアの可能性への問いを扱うものである、と位置づけてみたいと思います。(ただし、ここでいう「メディアの可能性」とはもちろん、単にコンピュータやインターネットの技術がもたらすものが、いかにすばらしく有用なものであるかを喧伝するような方向とは全く異質な次元のものです。)

 しかし、こういった暫定的な枠組みも、試みに大きな書店へと出かけ、あるいはインターネット上のカタログを検索し、メディアに関する論議が本という議論の場においてどのように形成されつつあるかを一瞥すると、かなり危ういものとなってきます。というのも、上に掲げた枠組みはそれ自体として誤りではないかもしれませんが、それとは異なるところに重点が置かれていたり、異なる視点をもちながらも、やはり「メディア論」という名称のもとに捉えられるのではないかと思われるものが、いくらでも見つかってくるからです。現在形成されつつあるメディアに関する論議に対して、何がメディア論で何がそうでないかというのは恣意的な規定にすぎないかもしれませんし、規定したところで、境界をなす部分が実際には不明瞭なものにとどまることに変わりはないでしょう。先にも述べたように、ここではとりあえず上の位置づけを提示して、話を進めていきたいと思います。

他の学問領域との関係

 上にあげたような問題設定からも想像されるように、メディア論におけるさまざまな視点は、哲学・社会学・社会哲学・心理学・言語学・文学・芸術・情報工学など、既成のさまざまな学問領域disciplinesと密接に関わっています。というよりも、実質的には、上にあげたような領域に制度的に身を置いた研究者が、自分自身のディシプリンの周辺領域(どの程度「周辺」かと言うことは、それぞれのdisciplineによって異なりますが)にある問題として、あるいはその周辺領域を介して他のディシプリンと交差する問題として、メディア論を扱っているという状況にあるといってよいでしょう。例えば、哲学に関して言えば、自己/他者の問題、身体論などはメディア論の中心的なテーマとなっていますし、社会哲学ではサイバースペースにおける「公共圏」の問題などを挙げることができるでしょう。心理学の関わってくる部分は、おもに身体論的な文脈で文学・芸術の領域が論じられる際にフロイト/ラカンがしばしば取り上げられますが、そういった言説に比較 的限定されているようにも思われます。社会学に関しては、「メディア論」は周辺領域どころか、ディシプリン内部のきわめて重要なテーマであり、メディア論に関わっている研究者のうち、ここを身の置き所としている人はかなり多数を占めていますが、その関心が他の領域と交差するところにあるという点ではやはり例外ではありません。社会学的な立場から扱われることが多い「コミュニケーション論」は、内容的にいって当然ながらメディア論と密接な関係がありますが、それ自体、社会学をはじめ、心理学・哲学・言語学・文化人類学・生物学・情報工学などの諸領域と関わっています。メディア論のおかれている状況は、コミュニケーション論の学際的なあり方と似たところがあるといえるでしょう。

 メディア論にしろ、コミュニケーション論にしろ、新しい研究領域というのは、もともとそのための場が存在していないのですから、少なくとも当初は、既存の学問領域disciplinesの周辺領域という形で展開していくことになります。ある領域の周辺であるということは、他の領域と境界を接しているということであり、必然的に複数の研究領域にまたがるような性格(「学際的」interdisciplinary性格)を持つこととなるのです。

 その際、新しい研究領域(この場合メディア論ですが)に関わっている研究者が、制度的な身の置き所として、既存のどの領域に属しているかということは、やはりその人のメディア論の方向を決定的に規定することになります。例えば、社会学に関わっている人がメディア論を扱えば、基本的に社会学の方法論や思考の枠組みにのっとって対象に接することになりますし、文学・芸術にもともと深く関わっている人であれば、文学・芸術の方に関心が大きく傾くことになります。(ただし、その際、伝統的な文芸学・芸術学のアプローチとはかなりかけ離れたものとなるでしょうが。)私の場合、ドイツ語圏の文化・思想・文学・芸術をこれまで研究の対象としてきましたし、ついこの間まで「ドイツ語・ドイツ文学」(独文)を制度的な身の置き所としていましたから、私が扱おうとしている「メディア論」が、私のこれまでの関心や思考の枠組みによって、偏りを生じることになるのは、避けがたいことになるでしょう。このことは、メディア論として取り上げるものに置かれる重心の偏りだけでなく、さらにはそもそも何をメディア論として取り上げるかという視点についてもいえます。

 こういった事態はつまり、「メディア論」が制度的なものとしては(まだ)成立していないということ、メディア論の対象・目的・方法論などが暫定的なものであり、共通の了解となる土台が確定したものとなっていないということの端的な現れです。しかし、そのことは必ずしもメディア論の限界を意味するわけではないと私は考えています。というのも、メディア論が既成のさまざまなディシプリンの境界領域において形成されつつあるということは、単に当面の状況からやむを得ずそうなっているというよりも、むしろ、制度化されていることによって多くの場合無反省に内在的な思考の枠組みを再生産していく(あるいはそういった危険性をもつ)既成のディシプリンに対する、意識的・無意識的な批判的視点をメディア論はもっているということにも関わっていると考えられるからです。メディア論は単にメディアに関わる事柄を対象とするというだけでなく、関連する既成のディシプリンに対する批判的視点をきわめて重要な特徴として有しているといえるでしょう。(「批判的」という言葉はこれからも使うと思いますが、非難する・断罪するという意味ではなく、ほんとうにそれでよいのか距 離をとって検討するという意味で用いています。)その意味で、メディア論は制度となることを、あるいは本性上自ら拒むという側面をもっているとさえいえるかもしれません。この講座ではメディア論とは何かということを問いかけてはいます。しかし、そこにある程度共通の了解が生み出されていくと同時に、自らを批判的に問い直すことによって、つぎつぎとメディア論とは何かということが新たに書き換えられていくのではないかと思います。

 メディア論の中味に入らないうちに、メディア論の位置づけに関する少し抽象的な話になってしまいましたが、一年間の講義の後、振り返っていただければと思います。



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