1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第1回 参考1

(更新日 98/07/16)

ヴァルター・ベンヤミン(このドイツの批評家については、いずれこの講座の中でも取り上げることになるでしょう)をメディアの理論家として(しかもメディアの理論家としてのみ)理解するという、ノルベルト・ボルツ(現在、ドイツのメディアをめぐる言説において、フリードリヒ・キットラーと並んでもっとも傑出した学者といえるでしょうが、この二人についてもいずれふれることになると思います)が、石光泰夫氏との対談で述べた以下の挑発的なテーゼは、かなり極端な定式化であるような印象を与えながらも、技術との関わりに対するきわめて説得力のある立場を含んでいる。


「新しいメディアの外部、彼方は存在しないというのは、動かせない前提です。それはどうしようもありませんが、私個人はそれを悲観的には捉えていません。むしろ逆です。私の考えていることは、かつてハイデガーが「技術の内的克服」と呼んだものとほぼ同じだと思っていただいてよいでしょう。この「内的克服」というのはハイデガーの造語で、単なる「克服」との違いを際だたせようという意図のもとに使われています。技術をあっさりと忘却し、抑圧し、無視し去ることなどできない相談である、そうではなくて技術の暴力、その強制的性格から解放されるためには、技術そのものの中をくぐり抜けて行かねばならない、というのがこの言葉でハイデガーの言いたかったことで、それはまた私の考えでもあります。私が人間と機械の交感とか、ガジェットと人間の協力とか、この世界の内部でのトレーニングとか言った言葉でいわんとしているのもそうしたことなのです。しかしそういったからといって、ひたすら何も見えない消費者になれというわけではありません。私のいいたいのは逆で、ただの消費者では、ガジェットの能力とつきあう力がないということなのです。批判という言葉の変わりに私がもってきたい概念があるとすれば、メディアへの対応能力ということになるでしょう。(…) メディアの現実というものを、意識を書いたまま消費していくものに、私がなってしまうというのでもありません。この現実に対する距離を私は、メディアの使用能力と透徹した分析力によって確保することができる、ということがいいたいのです。われわれの時代におけるその古典的な例はコンピュータでしょう。あなたがアップル・マッキントッシュを買うとしますね。そうするといわれるでしょう。コンピュータが何かということを知る必要はありません、ただスイッチを入れさえすればよいのです。そうすれば後はマウスで勝手に動きますよ、と。ですが、そういう状態と、機械言語の何たるかを知り、バイナリーコードがわかり、LispやC言語といったコンピュータの高級言語の機能の仕方、あるいはインターフェースがどうデザインされているかを知っているという状態とは、天と地ほども違うのです。それは世界を分割してしまうほどの差異だと思います。一方は掛け値なしに無力であり、無知であり、私にいわせれば、希望がありません。掛け値なしの無力、それが悪名高いユーザーというものです。他方には、そこでほんとうに起きていることを知っている人たちがいます。彼らにとっては、コンピュータはブラックボックスではありません。彼らはそこで実際に起きていること、データをどうデジタル化するのか、そしてとりわけ、どうプログラムするのかといったことを知っています。彼らは、コンピュータ化された世界を批判する人たちではありませんが、さりとてその犠牲者でもなくて、むしろその世界を形作る人たちです。メディアへの対応能力と、私がいうのはそのことです。」 (ノルベルト・ボルツ/石光泰夫)「ベンヤミンからデジタル美学へ――ディスクール分析を通って」、『批評空間』太田出版 1994 II-2、34-47頁。(引用箇所は、44-45頁。)

また、

も参照。