1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第2回
マクルーハン (1)

(更新日 98/06/17)

medium/mediaのさまざまな意味

前回の最後に、今回は「メディアとは何か」ということから話をはじめると書きました。このインターネット講座全体が「メディアとは何か」を考えることを目指しているといったにもかかわらず今回でほとんど話が終わってしまうわけではもちろんなく、とりあえずこれから「メディア」という言葉の語義を話の発端としたいと思います。

日本語における「メディア」という語は、一般に、テレビ・ラジオ・新聞といった、いわゆる「マスメディア」のみをさすようです。教室でこういった内容の授業のときに、学生に「メディア」という言葉で連想するものを次々に言ってもらっても、ほぼ例外なくこういった圏内の言葉があがってきます。英語で、mediumの複数形としてのmediaは、その意味で使われる場合がおそらく圧倒的に多いと思われますが、一般的にmediumという語はかなり幅広い意味範囲をもっています。手元にある小学館のランダムハウス英和大辞典(第一版)でmediumの項を見ると、1.中間、中ほど、中庸 2.中程度の物、中間的性質の物、中間物 3.媒 介物、媒体、媒質 4.( 生物の)生息場所、生活環境(条件) 5.(周囲の)状況、環境 6.(伝達などの)機関、手段、方法、媒介 7.[生物](標本の保存・展示用の)保存液 8.[細菌]培地、培養基 9.[美術](1)[絵画](水・油など、絵の具を溶く)媒材、展色材 (2)制作するときに使う材料、芸術表現の手段(技法) 10.(試写の霊魂・別人の人格・超自然力が乗り移ると称する)霊媒、みこ … etc. とあります。

ドイツ語も同じ綴りでMedium(ただし複数形はMedien)といいますが、小学館の大独和辞典(第一版)では次のような意味が載っています――1.a)中間物;媒介物、媒体、手段、メディア b)[理・生]媒質、培地、培養基 c)[化]溶媒 2.(ふつう複数で)マスメディア、大衆媒体 b)教育の媒体、教材(教科書・教育機器など) c)宣伝<広告>の媒体 3.( 心霊術などの)霊媒 4.[言]( ギリシャ語などの)中間態

英語もドイツ語も、もともとラテン語のmediumから来ていますが、研究社の羅和辞典によると、medium: 1.中心、中点、中央. 2.媒質. 3.社会、講習、世間. 4.公安、公益となっており、3.と4.の意味では派生の方向が英語とは違うものとなっていますが、いずれにせよ、一番もとになる意味は、「中心」「中間」ということです。

英語・ドイツ語のmedium/Mediumではきわめて多様な領域に意味が派生していますが、いずれにせよ「中間」ということから「仲立ちとなるもの」「媒体」を意味するものとなっており、いずれにおいても「仲立ち」「媒体」という共通の機能をもつものとなっています。例えば、化学における触媒は、それ自体は変化することなく、もとのものから生成されるものの仲立ちとなるものであり、教育教材は、知識を持ちそれを伝えようとする人から知識を受ける人への仲立ちとなります。また、オカルトにおける霊媒は、この世と例の世界との仲立ちとなり、そして、いわゆるマスメディアは、情報を与えようとする人からそれを受け取る人の間の仲立ちとなります。つまり、マスメディアとは、マスコミュニケーションのための「媒体」「仲立ち」として機能するものといえます。

「形式」としてのメディア

このような仲立ちとしての機能をもつ「媒体」とは、言い換えるならば、一方から他方への伝達の「手段」「方法」です。英語・ドイツ語などでも、まさにその意味で用いられています。伝達されるものを「内容」「素材」と言い表すとすれば、それに対して、その伝達の手段としての媒体は、伝達の「形式」にかかわるものといえます。

伝達されるべき「内容」は、どのような「形式」をとったところで、一見同じであるように見えます。例えば、「大阪は明日晴れます」という伝達内容を、「新聞」という媒体で述べても、「テレビ」という媒体で述べても、あるいは直接誰かに語るという手段をとるにしても、その内容自体にはもちろん変わりはありません。それでは、どのような媒体をとったところで、なにも変わらないのでしょうか。

この「内容」と「形式」は、文学あるいはあらゆる芸術を語る上での古典的な対概念ですが、例えば、文学において、作家が取り上げるもの(「素材」「内容」)は、「詩」という形式をとることも、「小説」という形式をとることも、「劇作品」という形式をとることもできます。その際、伝えられるできごと、素材自体は同じものということもよくあります。例えば、『ロメオとジュリエット』という「劇作品」を「小説」のような散文の形に書き直したものもたぶんあるでしょう。これを「映画」という形式にしたものもいくつか作られていますし、「バレエ」およびその「音楽」という形式にも作り変えられています。扱われる内容、ストーリー自体は全く同じものですが、その「内容」を受け取る人ははたしてそれらを同じものとして受け取っているでしょうか。

つまり、「内容」とは、独立して存在するものではなく、「形式」によって決定的に規定されたものといえます。みなさんは小説を読んだり、映画を見たりするとき、そこで取り上げられている「内容」を楽しんでいるように思っているかもしれません。例えば、ある小説や映画を見た人に、「どういう本だった?」とか「どういう映画だった?」と尋ねると、おそらくその本や映画の話の筋を説明する人がほとんどではないでしょうか。一般に、ある作品に触れるとき、その作品の「内容」にまず意識がいくのではないかと思います。しかし、はっきりと意識していなくとも、実は、そこで用いられている「形式」自体をも同時に楽しんでいるのです。先ほどは、「詩」「小説」「劇」や「映画」「バレエ」「音楽」といったジャンルをさして形式といいましたが、そういった大きな枠組みだけでなく、同じ小説や映画でも、それがどのように組み立てられているかという型をそれぞれもっています。そういった意味での形式が、作品の内容を支え、作品全体に命を与えているのです。全く同じ素材・ストーリーをあつかった映画でもつまらないものと非常にすぐれたものとにわかれるのは、その素材をどのように伝えるかという「手段」「形式」そのものがどれほど成功しているかによっているからです。

さて、メディアの本来の意味に立ち戻るため、広い意味でメディアについて述べてきましたが、ここで、この講義で本来扱う、伝達媒体としてのメディアに話を限定したいと思います。ここで伝達媒体といっているものは、最も古いものは身振り言語から口によって語る言葉、そして書き言葉、印刷による書籍をあげることができますが、やはり現代の一般的な意味では、新聞・ラジオ・テレビ、そして現代においてはなんといっても、コンピュータによるネットワークが問題となってくるでしょう。こういった伝達媒体のさまざまな「形式」(語る言葉→書物→新聞・ラジオ・テレビ・電話→コンピュータ・ネットワーク)に応じて、「内容」の受け取り方はどのように変化しているでしょうか? さきの『ロメオとジュリエット』は多少極端な例かもしれません。文学的な内容のものでなくても、対話をするのと、本に書くのと、インターネット上で論議するのとでは別の意味合いもつものとなるでしょうか。

確かに同一の内容を別の形式で伝達しても、その素材・内容自体には変わりはありません。しかし、結論からいうと、どのような形式をとるかによって、受け手はその総合的な意味・位置づけを異なったものとして受け取ることになります。例えば、誰かがしゃべっていることが、新聞に載っていたら、それを聞いたときとはおそらく全く別な受け取り方をすることになるでしょう。また、その同じ内容が一冊の本として出版されることになったら、そこでいわれている内容に対して、受け取り手はまた別の印象をもつはずです。あるいは、同じことをその人がテレビでしゃべっているのを目にした場合、やはりかなり違った印象を受け、違った受け取り方をすることになるでしょう。また、それがインターネット上で掲載されているのを目にし、そこでこの内容を読むとき、また違った受け取り方をするのではないでしょうか。とはいえ、それは単に「印象」の問題ではなく、たぶんあまり意識されないながらも、それぞれ異なった認識や思考の枠組みでとらえ、さらにはそれぞれ異なった価値観の枠組みの中でその内容を受け取っているのです。

もっと身近な例をもう一つ挙げてみましょう。誰かに何か伝えたいと思ったとき、直接その人を前にして語りかけるか、電話で話すか、手紙を書くか、E-mailで知らせるか、といった形式の違いによって、受け取り手は全くの同内容の事柄をそれぞれ異なった社会的な意味づけにおいて理解する、というのはみなさんもよく体験されていることだと思います。

ここまでの話を整理してみましょう。あらゆるmediaは、ある作用を起こすものと作用を受けるもの、伝達しようとするものと伝達を受けるもののあいだの「中心」に存在し、両者の「媒介」として機能するということを共通の性質として持っています。その限りにおいて、mediaは「いかに」伝達するかという「形式」に関わるものであり、「なに」を伝達するかという「内容」には本来関わらないはずのものです。しかしながら、実際には、どのような形式を取って伝達されるかによって、伝達内容の素材自体に変化はないものの、ある別の社会的コンテクストに埋め込まれることによって、その伝達内容がもつ総合的な意味づけ・位置づけに変化が生じうるのです。つまり伝達形式としての「メディア」は、それ自体が伝達する内容を受け取り手にとって異なったものとして与える可能性をもっているということです。

これまであげた例では、そういった伝達内容の総合的な意味づけ・位置づけの変化は、それぞれの伝達形式がもっている社会的位置づけの違いに起因するだけのようにも見えるかもしれません。しかしそれだけでなく、伝達内容の意味づけの変化は、むしろそれぞれの伝達形式(メディア)がもっている物理的・技術的特質そのものに決定的に関わっているのだということをこれから取り上げていきたいと思います。

マクルーハン

メディアは伝達における形式的側面に関わるものでありながら、内容に対して深く規定的に働きかけるということをこれまで述べてきましたが、メディアが変わることによって変化するのは、伝達される内容の総合的意味づけだけではありません。伝達における受け手の感覚自体が、メディアに応じて変化していき、さらには、そういった感覚の変容を遂げた人間によって構成される社会、あるいはそういった人間の思考が制度化されたものとしての社会もそれに応じて変化していく、ということも指摘できます。 こういった考え方は、今回と次回の講義で取り上げるカナダのメディア研究家、マーシャル・マクルーハンの思考の線上にあるものです。マクルーハンの思考自体はさまざまな批判を受けており、彼の持ち出した概念の組み合わせが現在でもそのまま用いられているわけではないのですが、彼の基本的な思考の枠組みは現在のメディア論者に、かなり大きな規定力をもって引き継がれていると見てよいでしょう。そのことは、例えば、前回も言及した岩波の『哲学・思想辞典』の「メディア論」の項目を 見ても、とりあえず確認できます。

1960年代の前半に、テレビがますます多くの家庭に行き渡るようになり、マスメディアの発展がきわめて顕著な社会現象として意識されるようになっていきましたが、ちょうどその時代に、カナダの「コミュニケーション理論家」(本来は英文学者)マーシャル・マクルーハンMarshall McLuhan (1911-1980)が、新しいメディアの形式のもつ可能性、印刷物(さらには教育制度)という旧来のメディアのもつ潜在的な意味を指摘し、批判を向けました。とりわけ、『グーテンベルクの銀河系――活字人間の形成』、『メディア論――人間拡張の諸相』などの著作によってセンセーションを巻き起こし、時勢にのった予言的な語り口もあいまって、一時はいわゆる「マクルーハン・ブーム」さえ起こるほどでした。[註1] マクルーハンの書き方は(とくに『メディア論』)、きわめて具体的しかも日常的なことがらによる事例によって成り立っています。ユーモアや言葉遊びさえ交えたエッセイふうの断片、さらには他の著作にはアフォリズムさえ含まれています。 マクルーハンの思考は、当然ながらある理論的枠組みのうちに語られているものですが、まとまった理論として提示されているわけではなく、また、概念の定義も多くの場合それほど明確にされていません。ある体系化されたメディアの理論を求めてマクルーハンの著作を初めて手にした人は、その意味で少しとまどってしまうかもしれません。しかし、この語り方そのものが、実は彼のメディア論が指し示しているものでもあるのです。(このことについては、また後でふれたいと思います。)いずれにせよ、そのために彼の言葉に対してさまざまな解釈が生まれるという結果も生みだしたようです。

以下においては、現在のメディア論者にも基本的に引き継がれていると考えられる、マクルーハンのテーゼのいくつかの重要な論点を取り上げていきたいと思います。別に資料として、マクルーハンの著作に出てくるさまざまな概念を整理した文章や、特定の論点に関する著作からの引用を用意していますので、この講義の本文を読みながらできればそちらも併せてご覧ください。

「メディアはメッセージ」

The medium is the message. この言葉はマクルーハンの言葉のなかでもおそらくもっとも有名なものでしょう。この言葉で彼は、挑発的で逆説的な定式化を行っています。というのも、先に述べたように、本来メディアというのは伝達の形式にかかわるものであるのに、ここではメッセージ、つまり伝達の内容そのものであるといわれているからです。一般には、伝達内容こそが全てであるという見方が支配的だと思われますが、そういう見方にとっては、伝達手段は二次的な意味しかもたないものです。つまり、通常の考え方からすれば、伝達内容こそがメッセージであるということになるでしょう。マクルーハンのような逆説的な定式化にはもちろん、こういった考え方に対する批判的視点が含まれています。今回の前半に述べたように、伝達の形式が伝達内容の総合的な意味づけに対して規定的に作用する可能性をもっているわけですが、さらにいえば、内容の如何にかかわらず、ある伝達形式(メディア)を用いたというその行為自体が、コミュニケーションにおいて決定的な意味を持つということもありえます。[註 2]

例えば、誰かと話をするときに、もちろん直接向かい合って話をすることもできますが、人によっては、あるいは場合によっては、電話という手段で話をすることが、直接話をする以上に重要な意味を持ってくる場合もあるでしょう。たとえば、携帯電話によるコミュニケーションが生活のなかできわめて重要な位置を占めている人にとって、場合によってはなにを話したかという内容ではなく、むしろ携帯で話をするという行為の形式そのものが重要ということもありえます。 あるいは、インターネットでネットサーフィンをする場合、確かにある特定の情報を求めてネット上をあちこち見て回るということもありますが、場合によってはそれ以上に、ネットサーフィンをするという行為そのものに快感を感じているからネットサーフィンをするという要素も無視できないのではないでしょうか。

 これらの場合、そこで伝達されたものは何か、伝達の際のメッセージは何だったのか、と問うとすれば、内容自体ではなくて、むしろ伝達の形式そのもののもつ意味ということができるでしょう。マクルーハンのこの定式化に対しては、例えば、メッセージとなっているのは「メディア」そのものではなく、メディアがそれにつながっている人間に対して働きかける意味なのであるから、このあまりに簡潔な定式化は不正確で誤解を生みだす原因となるという批判も可能ですし、彼が説明する際に引き合いに出す「メディア」としてさまざまな領域における形式(テレビ・ラジオ・活字etc)とそれを構成する要素(音・光etc)とが同じ次元で扱われていると指摘されるなど、さまざまな視点から批判が投げかけられています。[註3] しかし、少なくとも、単に伝達内容が「メッ セージ」であると考え、伝達形式としてのメディアが副次的意味しか持たないとするような考え方に対して、マクルーハンのこの定式化は、「メッセージ」とは何か、どこからどこまでが「メッセージ」かということを問い直させる力を持っているといえるでしょう。そして、次に述べる、メディアの展開に応じた人間の知覚・認識・思考様式の変容という考え方を支える重要な礎石となっているのです。

ちなみに、このように考える場合、"The medium is the message." というマクルーハンの言葉は、「メディアはメッセージである」という日本語では十分に伝わっていないように思われます。ここでは、メディアとは何かという問いに対して、「メッセージである」という述語が与えられているわけではなく、むしろ反対に、問いは「メッセージとなっているものは何か」なのです。メッセージとなっているものは、通常考えられるように伝達内容ではなく、伝達手段であるメディアそのものである、「メディアこそがメッセージなのだ」というのが、この挑発的なテーゼの言い表していることなのです。

メディアの展開の図式

 「メディアがメッセージである」というテーゼは、メディアのそれぞれの段階に応じて受け手である人間に異なった感覚を要求し、それによって社会のあり方そのものも変化していくという考え方に直接結びついています。その際、スケールとなるメディアの展開として、マクルーハンは基本的に「音声言語」→「文字」→「電子メディア」という3つの段階、あるいは2番目の段階をさらに二つに分けて、「音声言語」→「写本」(筆記)→「活版印刷」→「電子メディア」という4つの段階を提示しています。

メディアの展開
メディア 文化段階
1 音声 音声(口述)文化
2 文字(手書き) 文字文化
3 文字(活字) 文字文化
4 電子メディア 電子文化

口述文化から文字文化へ

メディアの展開の図式の最初にあげられている「音声言語」としてマクルーハンが考えているのは、われわれが現在しゃべるときに使う言葉もそれであるには違いないのですが、むしろ、文字が使われるようになる以前の純粋に音を発するだけの言葉です。彼が「口述文化」oral culture[註4] とか「非文字型文化」non-literate cultureと呼んでいる、この音声言語に対応する文化の特質は、なによりも聴覚・触覚を中心とする感覚を統合的に用いること(しかし、とりわけ聴覚)に基づいているとされていますが、この文化の特質を明確に示すためには、次のメディアの段階と比較した方がわかりやすいので、話を先に進めましょう。

2番目の「文字言語」(筆記・印刷)で考えられているのは、とりわけ西欧のアルファベットです。つまり、漢字のような表意文字に対して、それ自体何の意味も持たない表音文字による言語がとりわけここで問題となっています。マクルーハンによれば、文字というメディアを使う文化段階(「文字文化」)においてわれわれは、それ以前の段階ではあらゆる感覚を統合させて直接的・同時的に経験していた世界を、文字によって分節化し、線状的・論理的に構造化します。そこでは「視覚」に優位がおかれ、他の感覚を抑圧しつつ、こういった分節化が行われることになります。

分節化articulationという作業は、実は別に文字に特有のことではなく、すでにその前の段階でもわれわれが無意識のうちに行っているものです。対象を知覚・認識するためには、まず対象のもつさまざまな要素を区別し(差異化)、切り分ける(分節化)ことが絶対的な前提条件です。さもなければ対象としての世界は、混沌にとどまることになります。友人の眼科医から聞いた話ですが、成人するまで全盲だった人が、手術によって通常の視力を回復した場合、それまで触覚によって例えば丸とか四角とか三角といった形をごく普通に認識することができていても、手術後にそれらの形を見たときまったく区別することができないということです。なぜかというと、まだ視覚による分節化の訓練が全くなされていないからです。さらに、もしある程度分節化できたとしても、それがそれまでに触覚によって体験して得ている形態の情報と統合されないということもあります。

あるいは、みなさんが全く(ほとんど)知らない外国語を聞いた場合、同じようなことを経験するでしょう。聴覚によって得ている音声を分節化することがまったくできず、単なる音の混沌となっているのです。

われわれはすでに赤ちゃんのときから、こういった分節化とそれに伴う意味付与を行いつつ成長しています。つまり、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚によって、ある特定の対象をある他の対象とは「異なる」ものとして切り分け(=分節化)、それぞれの持つ意味と相互の関係を自分自身で学びつつ、それらの要素を統合して対象認識の学習をしているのであり、それによっていま、ほとんど無意識のうちにさまざまな感覚によって世界を知覚し、認識することができるのです。この諸感覚を総合的に用いて、世界を直接的に、一瞬のうちに捉えるという知覚・認識のあり方が、さきほどの「音声言語」による「口述文化」の段階におけるものです。ですから、このメディア段階・文化段階に与えられた名称でいわれているように、単に「音声」のみによって世界を捉えるというわけではありません。「音声」メディアの段階で問題となっているのは、つまり、「文字」というメディアを使うようになる以前の人間の、統合的・直接的な感覚による世界の把握です。

さて、それに対して、文字というメディアを用いて世界を捉えようとしたとき、人間の感覚、認識のしかたはどのようなものとなるのでしょうか。例えば、春の暖かい日差しのなか(ちょっと実際の季節と違うかもしれませんが)、桜が咲き誇り、そばを川が流れている緑豊かな公園に足を向け、そこでまわりの世界を感じ取ったとします。

ここでさまざまな感覚によって得たものを、文字によって表そうとするならば、拙いかもしれませんが、例えば次のようになるでしょう。「暖かくしみ通るような日の光を顔に感じながら、桜の花が咲いている川辺の方に歩いていく。両側に若い緑の葉が光を照り返しながら揺れている。川辺の桜は、光を花びらにすかせてほとんど輝くばかりで、むしろ枝の黒さばかりが目に焼き付く。風がほのかに頬に当たる。川の水が土手の石に当たって波打つ音がときどき聞こえる。桜の花よりも、太陽に照らされた新しい草のにおいを感じる。」

これを読んでいる人は、単に上の写真の具体的説明として、ごく自然にその情景を思い描くことができます。しかし、実際にこの情景を体験するということと、これを文字によって表す(あるいはそれを読む)ということのあいだには、途方もない違いがあります。実際に体験している場合には、いうまでもなくさまざまな感覚によって直接に一度に体験しているわけですが、それを文字化する場合には、世界のさまざまな要素を文字の組み合わせによる語によって切り取って(断片化・分節化)、それを文字の連続として順番に並べて行く(線状化)しか手だてはありません。太陽の光を肌に感じていること、桜の花びらの光を見ていること、風を感じていること、草のにおいをかいでいること、これらのことは、同時に起こり、同時に全体として感じていることであるはずですが、文字によってこれらを表すためには、特定の感覚に関する情報を切り取り、例えば視覚的情報であれば、視覚に関するものの中から特定の情報を特定の視点によってさらに切り取って述べていきます。そして、関連する情報を順番に線状的に叙述していきます。

しかし、まさにそういった構成を取ることによって、これが次にこうなるといった論理性が可能になるのです。実際の世界は本来は文字によって大まかに切り取られ、順番に叙述されることによって構成されうるほど単純なものではないはずのものですが、文字を使うことに慣れている人間にとって、いま文字を使っているということを意識しないほど、文字による世界の把握はいまや自然なものとなっています。

「文字」の特質 − 文字文化への批判

「文字」というメディアによって世界を構成する要素を切り分け、それらの要素を(線状的に)再構成することによって世界を表現し、定着するという行為は、いうまでもなく人間が成し遂げた偉大な文化的業績ということができるでしょう。文字によってまず記録・保存ということが可能になります。このことは、時間的・空間的に離れた受取手に対して、伝えようとする人間が体験した世界を再び現前させる(represent)ことを可能にします。石板の上であれ、紙の上であれ、その表面に物理的に刻み/書き込まれた痕跡によって、ある一定期間ある世界の表象(representation)が保たれるのは、「文字」というメディアがもつ物理的・技術的特質に基づいています。そういった物理的・技術的特質によって、さらに、文字による再現前/表象のあり方は、文字をもたない文化段階における「音声」メディアによるものとはかなり異なったものとなります。
ここでは、「音声」メディアというときに、先に述べたように単に「音声」に限られるのではない、全感覚的な世界との関わりをさすものと考えることにしましょう。口述文化を特徴づけているのは、五感すべてを用いて、いまそこにある(現前する)世界を直接的に、そしてさまざまな感覚にかかわる事象を同時的に体験することといえるでしょう。それに対して、文字文化においては、文字という、それ自体としては世界との直接的なつながりを本来もたない物質的痕跡に対して、世界のなかの特定の要素を切り分けて関係づけ、それらの要素をある特定の順序によって、(文字テクストにおける「行」となって視覚化されているような)ある線的なつながりとして、提示していくことになります。このことによって、対象における諸要素を分析し、それらの論理的関係を順序に従って叙述し、さらには「文字」によって与えられた「名」が次第に抽象性の度合いを増して概念化していくということも起こります。これらのことは、一方では近代の西欧文化の展開を根本的に支えてきた文字の特質として、その意義をいくら強調してもしすぎるということはないのですが、他方では、まさにそのような特質によって、世界の直接的な体験が失われ、「文字」という、本来世界との直接的な結びつきをもたない物質性の背後へと奇妙な形で間接化されてしまっているともいえるのです。

マクルーハンは、こういった文字による世界の分節化・線状化を、有機的な世界の一体性から離反してしまった不自然で不毛なものと見なし、文字文化に対して基本的に批判的立場をとることになります。

「視覚的に構成された世界は、統一され、均質化された空間の世界である。そしてこのような世界は話し言葉がもつ複数の要素が共鳴しあう世界とは無縁のものなのだ。」(『グーテンベルクの銀河系』p.209)

文字文化が不自然であるのは、さらに、文字が「視覚」だけに優位を置き、他の感覚を抑圧してしまっているということにもよります。それによって、マクルーハンによれば、人間はごく限られた知覚・認識のあり方(「潜在的な認識状態」)にとらわれてしまっており、かつその状態に自分自身気づいていないという状態にあります。

「表音アルファベットとその派生文字は知覚の際、一時点には一つという分析的な意識を強調する。この強烈な分析性は、知覚領域におけるあらゆる他のものを意識化に押し込むことによって達成されたものである。私たちは二千五百年余にわたり、ジェームズ・ジョイスのいう”ABCイズム”で生きてきた。知覚領域を断片化し、動きを静止的な点に分割した結果、私たちは人類史上類のない応用性の知識、テクノロジーの力を獲得した。これに払った代価として西欧人は個人的にも社会的にもほとんど全面的に潜在的な認識状態に生きている。」(「メディアの文法」、『マクルーハン理論』p.24)

マクルーハンの視点はただ単に狭い意味での「メディア」としての音声や文字に向けられているだけではなく、社会のあらゆる構成要素、機構までもメディアに含めてとらえているのですが、文字文化的な世界認識のあり方はその文化的枠組みの中にある社会そのものをも規定します。

「ラジオのこうした影響を理解するためには、文字文化は単に印刷技術であるにとどまらず、生産や市場の全過程を合理化するのに適用され、さらには法律、教育、都市計画にすらおよんでいることを認識する必要がある。印刷技術に由来する連続性、画一性、反復性の諸原理は、イギリスやアメリカでは長い間共同生活のあらゆる側面に浸透してきた。こうした社会では子どもは文字文化を交通や街路から、あらゆる自動車、玩具、衣服から学びとる。読み書きの学習は、連続性と画一性をもった英語圏の環境では文字文化の些細な一面にすぎない。識字能力のみを重要視するのは、やがては仕事と空間の視覚的組織化にいきつく企画化の過程をこれから始めようとしている社会のきわだった特徴である。人間の内的性格が文字文化によって変容を受けて、分節化した視覚によってすべてを捉えるような心理的変化が生じない限り、ものやサービスの連続的な変化の流れを確実に生み出す経済的な「離陸」すなわち飛躍は起こりえない。」(『メディア論』「ラジオ」p.311-312)

アルファベットを用いることによって、小さな単位で世界を分節化でき、論理的な思考の構造化、さらにはあらゆる社会の構成物の論理的体系化が可能となったのであって、西欧においてこれほどまでに科学技術・学問が発展したのはまさに表音文字としてのアルファベットに負っているとマクルーハンは見ています。しかし、それによって失われてしまった諸感覚の有機的統合にむしろ視点を向けているわけです。

「文字文化の大変な価値については、明らかに西欧世界の達成した事柄が証言している。けれども、われわれは専門分化的な技術と価値の構造を買うのに高い代価を払いすぎたのではないか。そういう反対意見を出したくなる人もたくさんいる。確かに、表音文字文化によって合理的な生活を線状に構造化することで、われわれは相互に噛み合う論理的一貫性に捉えられてしまった。」(「書かれた言葉」『メディア論』p.86)

活版印刷

 こういった文字文化の特性は、文字そのものの誕生からある程度始まっているのでしょうが、マクルーハンは印刷術によってそれが完全なものとして現れたと強調しています。1962年に発刊された主著の一つ『グーテンベルクの銀河系』という標題は、まさにそのことを表しています。電子文化における基本的特性についてもすでに言及されてはいますが、基本的には口述文化から文字文化への移り変わりに伴う、人間の知覚・思考様式の変化をきわめて多様な著作からの引用によって後づけることをこの著作は目指しています。その際、文字文化的特性は印刷術によって十分に現れたのであり、それ以前の写本文化においてはむしろ口述文化的特性がかなり残ったままであることを主張しています。

「その後到来したグーテンベルクの技術ともに発生する視覚の離陸を理解するために知るべきことがある。それはこのような離陸は写本時代には不可能であったろうという点だ。というのは、写本文化は、全ての感覚経験を、均質的で連続的な絵画空間の中へ翻訳し移し変えてゆく印刷文化の抽象的視覚性とは両立不可能なほど、人間の感覚の中にある聴覚・触覚的様式を留めているからだ。」(『グーテンベルクの銀河系』p.174)

印刷術のもたらした特性として、これまでの引用にも現れていたように「画一性」「均質性」「反復可能性」をもちろん挙げることができますが、マクルーハンはそれによって文字文化自体の質に一つの断絶を見ているのではなく、むしろ、それらの特性によって、彼が「文字文化」と呼んでいるものが初めて完全に達成されることとなったと主張しているととらえるべきでしょう。この点は、次回取り上げる予定の、現代のメディア論者におけるマクルーハン受容の問題と絡んでくるので、少し強調しておきたいと思います。



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