1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第2回講義 註

註1
みすず房の『グーテンベルクの銀河系』邦訳の巻末には、詳細な「マーシャル・マクルーハンの著作・邦訳文献目録」が載せられている。その中に含まれている「わが国で出版されたマクルーハン論」「わが国の新聞、雑誌に掲載されたマクルーハン学説に関する記事、論文」のリストは、日本における反応を知る上で興味深い。確かに、このリストにあがっている記事などの題名を見るだけでも「ブーム」といえるものとなっていたと推測がつく。ただし、ここでの受容のされ方が、その後のアカデミズムに一般的に見られるようになった、「マクルーハン」という名前に対する距離を取った(あるいは明確に否定的な)スタンスを作り出すことになったのではないかと思われる。
註2
「メディアはメッセージである」と題された『メディア論』の最初の文章など、マクルーハンはいくつかの箇所で、このテーゼに対する説明を行っている。しかし、自らそれが誤解を招きやすいものであることを認めているように(例えば、ペーパーバック版の序文)、マクルーハン自身の出している例は少しわかりにくいものであるため、あえて他の例を考えてみた。ここではマクルーハンの例を挙げておく。
「メディアはメッセージである」という文章では、例えば次のように述べられている。

多くの人は、機械ではなくて、人が機械を使ってなすことが、その意味あるいはメッセージだったのだ、と言いたいであろう。しかし、機械がわれわれ相互の、あるいは自分自身に対する関係を変えた、その仕方を考えてみれば、機械がコーンフレークを生産しようがキャデラックを生産しようが、そんなことは全く問題ではなかった。人間の労働と人間の結合の再構造化が細分化の技術によって形づけられたのであり、それが機械技術の本質というものだ。オートメーション技術の本質は正反対である。機械が人間関係のパターンかにおいて細分的、中央集中的、表層的であったのに対して、オートメーションは深層的、統合的、分散的である。(『メディア論』「メディアはメッセージである」p.7-8)

また、同じ文章で次のような例が引かれている。

光が大脳手術に用いられようが、ナイターに用いられようが、そんなことはどうでもいい問題である。このような活動はある意味で伝記の光の「内容」ではないか、という主張もできるかもしれない。伝記の光がなければ存在できないからだ。けれども、この事実は「メディアはメッセージである」という要点を強調しているに他ならない。人間の結合と行動の尺度と形態を形成し、統制するのがメディアに他ならないからである。(...) 電気の光はそれに「内容」がないがゆえに、コミュニケーションのメディアとして注意されることがない。そして、このために、それは人びとがいかにメディアの研究をしにくいかを示す貴重な例となっている。電気の光はそれが何か商品名を描き出すのに用いられるまで、メディアであることが気づかれないからである。その場合、気づかれるのは光そのものでなく、その「内容」(すなわち、実際には別のメディアなるもの)である。電気の光のメッセージは工業における電気の力のメッセージに似て、まったく根源的で、浸透的で、拡散的である。電気の光および力はその用途から分離されてもなお、人間の結合において時間と空間という要因を駆逐するところ、ラジオ、電信、電話、テレビがまさしくやっているとおりで、深層での関与を引き起こすからだ。」(『メディア論』「メディアはメッセージである」p.8-9)

ここで語られている「メディア」とは、「テレビ」とか「新聞」とか「ラジオ」といったコミュニケーションの手段として作り出されたものではなく、その要素を形成する次元のものである。それゆえ、次の註に見られるような批判も向けられることになった。
ペーパーバック版の序文では、次のように言われている。

「メディアはメッセージである」の章は、こう言えばたぶん明快になる。いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を生みだすものである、と。環境は受動的な包装ではなくて、能動的な過程である。(...)
「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生みだされたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に過去し直す。それはテレビが映画を根本的に囲うし直しているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。いま、テレビがわれわれを取り巻きながら近くされていないのは、一切の環境がそうであるのと同じである。われわれはその「内容」すなわち古い環境にしか気づいていない。機械生産が始まったばかりの頃、それは徐々に新しい環境を生みだしたけれども、その「内容」は農耕生活という古い環境であり、技芸であった。」(『メディア論』p.ii-iii)

註3
吉見俊哉は、「メディアはメッセージ」というマクルーハンのテーゼに対して、次のような批判的なコメントを行っている。

工場のオートメーションでコーンフレークが生産されようと、キャデラックが生産されようと、オートメーションという装置は、同じように人々の環境に対する関係を変容させる。同様に、テレビでどんな番組が放送されようと、電話でなにが話されようと、書物に何が書かれていようと、テレビはテレビとして、電話は電話として、書物は書物として、そのメディアとしての本性において社会に作用するのである。こうした主張は説得的である。しかし、それならばマクルーハンは、「メディアはメッセージとは異なる次元で受け手の身体に作用する」と言った方が理解されやすかったのではないだろうか。「メディアはメッセージ」という逆説的な定式化を行うことで、彼はメディアとメッセージの関係を曖昧にし、議論に不要な混乱を導入してしまったようにも思われる。
もちろん、マクルーハンの言う「メディア」とは、テレビや電話や書物といった装置のレベルだけを指すのではない。マクルーハン的メディア概念からするならば、それら装置に含まれる電気音や電気光や活字もまたメディアである。実際、彼は「メディアはメッセージ」という主張を説明する中で、電気光のメディアとしての重要性に言及している。電気光は通常「内容」をもたないために、コミュニケーション・メディアであることに気づかれない。電気掲示板のように何らかの商品名を照らし出して初めて、人々は電気光をメディアとして扱うのだ。だがその場合でも、注目されるのは電気光そのものではなく、照らし出されたメッセージの方である。ところが電気光は、電光掲示板がメディアであるのと同様、それ自体メディアなのである。このように考えるなら、メディアとは、いくつかのレベルを重層的に含んだ概念と言うことになろう。まず、われわれは絵の具や活字、伝記音、電気光と言った記号表現の質量をメディアと呼ぶことがある。また、テレビや電話、ラジオ、書物といった、質量としてのメディアを受容・際せさせる装置としてのメディアが存在する。さらに、そうした諸装置が社会的に編成されたシステムとしてのメディアのレベルを考えることも可能である。しかしながら、このいずれのレベルにおいてもメディアはメッセージそのものでは差しあたりはありえない。メッセージには、メッセージの形式が不可欠である、この形式は、記号の論理、とりわけ言語の論理に基づいている。そして、この記号的な形式性とメディアの物質性は、原基的な言語活動の場において交差することはあっても、さしあたりは異なる次元に属しているのである。 (吉見俊哉『メディア時代の文化社会学』新曜社、1994年、p.42-44)

註4
oral cultureという言葉は、日本語になりにくい言葉で、他にも例えば「口語文化」「口承文化」「口誦文化」などと訳されることもあり、引用ではそれらの訳語が使われている場合もありますが、本文では「口述文化」と統一します。