1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第3回
マクルーハン(2)

(更新日 98/06/17)

電子文化――口述文化への回帰

 前回は、マクルーハンが示したメディアの展開のうち、音声言語から文字言語への転換を扱いましたが、今回は、彼自身もっともアクチュアルな問題として提起した電気的メディアについて取り上げます。

 マクルーハンの名を世界的に広めることになった『グーテンベルクの銀河系』や『メディア論』を彼が書いた1960年代前半は、前にも触れたように、テレビが家庭に普及しはじめ、新しいメディアによって社会や文化が変わりつつあることを人々が実感していた時代でしたが、まさに文字文化から電子文化への界面をなす時代であったからこそ、彼の提起したような視点が生まれたといえるでしょう。ただし、マクルーハン自身は、その移り変わりを、もっと以前の時期のうちに見ており、「グーテンベルクの銀河系は理論的には1905年に行われた曲がった空間の発見とともに解体した。だが現実にはそれより二世代前の電信の発明によって切り崩され始めていた」(『グーテンベルクの銀河系』p.383)と、述べています。とはいえ、マクルーハンがこれらの著作を書いた時代は、メディアの転換がきわめて大多数の人々の生活をも圧倒的な勢いで変える時代であったという意味で、顕著な 境目であったといってよいでしょう。

 初期の電信・電話・蓄音機・映画から、テレビ、コンピュータにまでいたる電気メディアによって規定される文化をここではとりあえず電子文化と呼ぶことにしたいと思いますが、こういった電子文化の特性としてマクルーハンが見ているのは、一言でいって、文字文化以前の聴覚的・触覚的特性が、というよりもむしろ、全ての感覚を有機的に統合するような世界の知覚が、再び回復されているような感覚のあり方です。そして、そういった特性を持つ電子文化に対して、かなり手放しの楽天的な見解を表明しているといってよいでしょう。このことは、文字文化への批判としてさきに述べたことと表裏をなしています。つまり、口述文化において人間が持っていた諸感覚の有機的統合が、文字の使用による視覚中心主義によって偏った世界の知覚とそれに基づく論理性に取って代わられたことに対して、マクルーハンは批判を向けていたわけですが、そういった文字文化の歪みが電子文化によって再び諸感覚の有機的統合へと回復される、というのが基本的な思考の図式です。その意味で、マクルーハンはしばしば「逆転」という表現を使っています。つまり、少し奇異な印象を持たれるかもしれませんが 、電子文化への移行はある意味で非文字文化への回帰としてとらえられているのです。

「だが電気が地球的規模でわれわれの極端な相互依存の状態を作り出している今日では逆の流れが生じているのだ。いまやわれわれは同時発生するさまざまな事件をあたかも身の回りで起こったかのように部族的状況で聴き、また全感覚を動員して認知する聴覚世界へと急速に移りつつある。だが同時に文字使用の習慣は、われわれの話し方、感受性、日常生活における空間や時間の配置構成の中に執拗に生き続けている。決定的カタストロフィーによって崩壊でもしないかぎり、電気技術やそれから生じる「統一場の意識unified field awareness」にもかかわらず、文字使用と視覚文化による歪みは将来の長きにわたって持ちこたえてゆくことと思われる。」(『グーテンベルクの銀河系』p.48)

「西欧人にとって、すべての分野を包含するような拡張がすでに表音文字によって起こっていた。そしてこの表音文字なるものは、もっぱら視覚の拡張を引き起こす技術である。これとは対照的に、表音文字以外のあらゆる表記形態は、多様な感覚の交響をまだとどめている芸術様式である。表音文字のみが、諸感覚を分離、断片化し、意味の複合体から脱却する力を備えている。テレビ映像は、この文字文化が特色とする、感覚生活の分析的断片化の過程に逆転を起こすものだ。」(「テレビ」『メディア論』p.349)

このことは、よく知られた「地球村global village」という彼の発想にも見てとれます。口述文化の段階において人間は、共同体的な部族を形成していたのに対し、文字文化によって個人主義や近代の軍隊や産業組織に見られるような中央集権的構造が生じて部族的なものは解体してしまったとされます。しかしそれが再び、神経組織が外部に拡張されたものとしての電子ネットワークによって地球全体がひとつの村となり、新たな意味で部族が生まれるというわけです。

「アルファベット(およびその拡張である活字)が知識という力を拡張させることを可能にし、部族人の絆を壊滅させた。かくして、部族人の社会を外爆発させて、ばらばらの個人の集合としてしまった。電気による書字と速度は、瞬間的かつ持続的に、個人の上に他のすべての人の関心を注ぐ。こうして、個人は再び部族人となる。人間種族全体がもう一度、一つの部族となる。」(「印刷されたことば」『メディア論』p.174-75)

「地球村」つまり「人間種族全体がもう一度、一つの部族となる」という発想は、マクルーハンを語る際にしばしば言及されてはいますが、現在のメディア論においてそれ自体引き継がれている論議とはいえません。しかし、マクルーハンにとってはおそらく個々の電子メディアの特性がどのようなものであるのかという論議以上に、このことは電子文化について語る上でのもっとも基本的な方向を示すものであったのではないかと思われます。

電子メディアの特性

  『グーテンベルクの銀河系』がおもに口述文化から文字文化への移行に伴う知覚・思考様式の変化を扱っているのに対して、その二年後に出版された『メディア論』(Understanding Media. The Extensions of Man)では、電子文化におけるさまざまなメディアが人間の知覚・思考様式、さらには社会のあり方全般に対してどのような変革をもたらしているかにアクセントを置いているといえます。その際「メディア」として扱われているものは、もちろん「電信」「電話」「ラジオ」「映画」「テレビ」といったものもありますが、それだけではなく、「衣服」「住宅」「自動車」「広告」「兵器」「オートメーション」までも含んでいます。

 マクルーハン的なメディアの展開の枠組みが現在のメディア論の流れにおいてどのように引き継がれているかは、次回以降に取り上げるつもりですが、そのためにはマクルーハンが文字文化と電子メディアのそれぞれの特性に対してどのような概念の割り振りを行っているかを、多少煩雑であっても概観しておく必要があるように思います。現在、電子メディアといった場合、初期の電信・蓄音機・電話といったものからデジタル的な信号処理によるもの(とりわけコンピュータ)まで区別しないとすれば、それらは一般に同じ文化段階に属すものとして扱われています。しかし、マクルーハン自身は電気を用いたメディアをも、それぞれの特性にしたがって、文字文化的なものに関わるものと電子文化に関わるものの二つに分けているのです。西欧の文字文化的な発展をマクルーハンは「機械化し細分化する科学技術」を用いたexplosionであると呼んでいますが、それに対して電気文化時代における知覚・思考様式の展開のうちに、「神経的で統合的な生き方」による神経組織の地球的規模の拡張を見て取り、それをinplosionと いう造語で呼んでいます。日本語ではしかたがないのでそれぞれ「外爆発」「内爆発」(場合によっては、inplosionを「爆縮」とか「内破」)と訳しているようですが、いずれもマクルーハンが『メディア論』の原題の副題としている「人間の拡張」でありならがら、それぞれの文化は全く別の方向に拡張を遂げているとされているわけです。

「西欧世界は、三〇〇〇年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発」(explosion)を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発」(implosion)を起こしている。機械の時代に、われわれはその身体を空間に拡張していた。現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。」(『メディア論』p.3)

「機械」という言葉は、あるいは電子メディアを連想させるものかもしれませんが、マクルーハンにとってはあくまでも文字文化の特性に関わるものです。それに対して、電子文化の特性を担っているものとして彼は「オートメーション」をあげています。「メディアはメッセージである」というテーゼを説明するために、マクルーハンは「機械」と「オートメーション」という「メディア」が、人間の思考のあり方にどれほど根本的な違いを生みだし、それによって「メディア」自体が「メッセージ」となっていることを次のように述べています。

「多くの人は、機械ではなくて、人が機械を使ってなすことが、その意味あるいはメッセージだったのだ、と言いたいであろう。しかし、機械がわれわれ相互の、あるいは自分自身に対する関係を変えた、その仕方を考えてみれば、機械がコーンフレークを生産しようがキャデラックを生産しようが、そんなことは全く問題ではなかった。人間の労働と人間の結合の再構造化が細分化の技術によって形づけられたのであり、それが機械技術の本質というものだ。オートメーション技術の本質は正反対である。機械が人間関係のパターンかにおいて細分的、中央集中的、表層的であったのに対して、オートメーションは深層的、統合的、分散的である。」(「メディアはメッセージである」『メディア論』p.7-8)

たいして必要ではないかもしれませんが、ここでも問題となっている「文字文化」から「電子文化」への展開とそれぞれの特性をまとめるならば、次のようになるでしょう。

文字文化 電子文化
「機械」の時代 「オートメーション」の時代
機械化・細分化 電気化・統合化
身体の拡張 感覚と神経の拡張
「外爆発」 「内爆発」
細分的・中央集中的・表層的 深層的・統合的・分散的

電子文化の特性としてあげられている「統合的」と「分散的」というのは互いに矛盾しているようにも見えますが、「統合的」というのは文字文化における記号による細分化に対置される感覚の統合のことで、「分散的」というのは政治的特性として、文字文化では中央集権に向かうのに対して、電子文化では「部族」において権力集中が解消されるという方向にむかうことを意味しています。ともに、電子文化は文字文化以前の口述文化への回帰としての特性を持つということに関わっています。

ホットとクール

 さて、マクルーハンにおいては電気メディアがそれぞれの特性に応じて、むしろ文字文化に関わるものと、電気文化に関わるものとに分けられるということを述べたかったのですが、それをいうための前置きが長くなってしまいました。これから取り上げるメディアの区分けが、上に述べた文字文化の特性と電気文化の特性に関わってくるからです。

 マクルーハンはメディアの特性を二分するにあたってhotとcoolという概念を用いています。例えば、ラジオはhotであり、電話はcool、映画はhotだが、テレビはcoolといった具合です。

「ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。」(『メディア論』p.23)

熱いメディアとは「高精細度」であり、情報が十分に与えられているために、受け手が自ら情報を補完する、すなわち自ら参与することがより少なくなる。それに対して、冷たいメディアは「低精細度」であり、情報が少ないために、自ら補うという形で参与することとなる。この説明自体は、ある程度理屈が通っているようにも見えますが、なにをもって高精細度とか低精細度というかという基準などなく、単に現在存在するメディアに対して恣意的な組み合わせを作り上げてそれらの相対的な情報量の多さを問題にしているにすぎません。また、ここにあげられた二項対立の組み合わせは、そもそも別の次元の問題にそれぞれ関わっているものです。しかし、それでもわざわざ「ホット」と「クール」に関わる説明を持ち出したのは、マクルーハンの当初の理論をとりあえず提示しておくという意図と並んで、これらの区分をすでに述べた文字文化の特性と電子文化の特性に関連づけ、ここにもやはりメディアの特性の回帰を見いだすことができることを確認しておきたかったからです。マクルーハンは上の引用の中で、現代の電子メディアだけでなく、「話される言葉」という口述文化におけるメディアを も問題にしています。この音声メディアはマクルーハンにとって、「クール」なものと位置づけられています。そして、上の引用に続く箇所(p.24)では、表音アルファベットはきわめて「ホット」で「外爆発」を起こすメディアとされています。音声言語が基本的に「クール」で参与性が高いのに対して、文字(表音アルファベット)は「ホット」で参与性が低い、という二分的な枠組みが、その後の文化段階に属する電子メディアの特性をマクルーハンが割り振る際の原型となっているといってよいでしょう。一般的な日本語の語感からは、「ホット」で「高精細度」である方が、「クール」で「低精細度」であるよりもより高い価値づけを与えられているような印象をもたれるかもしれません。しかし、マクルーハンの場合、「ホット」とか「クール」といった場合、そのメディアにおいて参与性が高いか低いかということが最も重要なことがらとなっているようであり、その意味で、マクルーハンはあるメディアが「クール」である(つまり参与性が高い)ことに価値をおいていると言い切ってもかまわないでしょう。

 つまり、マクルーハンにとって、音声言語は「低精細度」で「クール」であるがゆえに、「参与性」が高くなるメディアであり、それに対して「高精細度」で「ホット」な文字言語はそれだけで完結してしまってそこに参与する度合いが少ないものとなってしまうがゆえに、より価値の低いものとみなされている向きがあります。マクルーハンが電子メディアを「ホット」なものと「クール」なものに分けるとき、同じような価値づけが働いており、「クール」なメディアである「電話」・「テレビ」は、同じ電子メディアである「ラジオ」や「映画」(「ホット」なメディア)に対して、より有意義であるかのように位置づけられています。マクルーハンがこのような位置づけを行っているのは、「クール」な電子メディアと彼が呼んでいる「電話」や「テレビ」が、同じく「クール」である音声言語への回帰・逆転となっているからと考えられます。

 ただし、こういった「ホット」と「クール」といった電子メディアの二分法は、それ自体として現在のメディア論において引き継がれているわけではなく、言及されるとしても、別の文脈に置き換えられているといってよいと思います。[註1] 現在のメディア論では、電子メディアはほぼ等質のものとしてみなされるか、あるいは、アナログ的なものとデジタル的なもの(とりわけコンピュータ)に二分されて考察されているといってよいでしょう。このことについては、のちの講義で取り上げたいと思います。

その他の論点

 これまでマクルーハンの論点のうち、メディアの展開という枠組みで話を進めてきました。ここで私がその他の論点と呼んでいるものは二つあるのですが、大まかにいえばこれらもこれまでの話の中に包摂されるものです。しかし、個別の問題としても現在のメディア論にとっても重要なものとなりますので、特に指摘しておきたいと思います。

 一つは、「メディアはマッサージ」というマクルーハンの言葉に要約されるものです。これはもちろん、「メディアはメッセージ」という彼自身の有名な言葉のもじりであり、かつその延長上にあるものですが、「メディアはメッセージ」というもとの言葉を知らなければ、ほとんど冗談のように聞こえるかもしれません。「マッサージ」という言葉でマクルーハンがとりあえず意図しているのは、メディアがマッサージを行うかのように社会の中の諸要素に対して流動化を促し、その結果、社会の変革をもたらす作用です。つまり、社会学でいう「社会過程」に関わってくることがらです。これに対しては例えば、メディアが単純に社会的・文化的変動の決定的要因とされているという批判もなされてはいますが、メディアのみが社会過程の要因であるという見方さえしなければ、マクルーハンの視点の重要性は否定することはできません。

 そしてもう一つの点は、マクルーハンがメディアの展開に際して強調した「感覚」の推移の問題です。マクルーハンは、音声言語の段階では人間の五感のうち「聴覚」がもっとも優勢であるのに対し、文字言語の段階では「視覚」に優位がおかれると指摘しています。そして、電子メディアにおいては、基本的には再び「聴覚」優位の文化へと戻るとしています。すでに述べたように、マクルーハンが音声言語やその回帰としての電子メディアにおいて「聴覚」に優位がおかれるというとき、単に「聴覚」だけではなくすべての感覚を動員したいわば「共感覚」的な状態が考えられているのですが、こういったメディアと感覚の問題は、現在のメディア論において「身体論」と呼ばれる議論へとつながっていくこととなりました。この点についても、独立したテーマとしていずれ取り上げたいと思います。



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