1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第1回講義 参考3

とはいえ、「メディア論」が絶えず自己規定を求められ、それを志向すること自体は当然のことです。レジス・ドゥブレが社会や文化の多様な領域を解明するための「道徳的にはニュートラルな一つの分析の方法」として提唱している「メディオロジー」は、ここで私が扱おうとしているようなメディア論とはかなり異質なものですが、そういった自己規定のきわめて興味深い例として少し言及しておきたいと思います。そこでは対象を扱う際の共通の基盤としての「分析の方法」が提起されており、とりわけ「ひとはメディオロジーをある固有のディシプリナリーなプロジェクト、前世紀において社会学がそうであったようなものに似たプロジェクトと考えてみることができます」といわれるとき、そこに制度化への志向を確かに見て取ることができるでしょう。しかしその際、次の点を強調したいと思います。狭い意味でのメディアに関わる事象のみを対象とするのではないメディオロジーが、既存のディシプリンの固定化した枠組みを越えた基盤を提唱し、さらにメディアという視点によって対象の全く新たな把握を試みようとする(例えば、「メディオロジーという方法によって、人はコミュニケーショ ン・ネットワークとは関係のない遠い歴史的現実を解明することもできます」)とき、そこには当然ながら既存のディシプリンの制度的枠組みに対する明確な批判的姿勢があるということをまず確認できます。マニフェスト的な提起を行う際、既存のものに対する破壊的な姿勢は当然のことであるとはいえ、ここでは文化・社会に関わるあらゆる領域のパラダイム転換が目指されているということは、強調しておいてよいでしょう。

レジス・ドゥブレ/石田英敬訳「メディオロジー宣言」

 以下に、レジス・ドゥブレ/石田英敬訳「メディオロジー宣言」、『現代思想』青土社 1996 vol.24-4「特集=インターネット――メディア・コミュニティ」66-75頁 から抜粋して引用します。

メディオロジー宣言

メディオロジーは、正しいとされる価値の体系や行動あるいは実存を方向付けることを主張するようなドクトリンではありません。メディオロジーとは社会の歴史に関係する多様な領域を解明することをゆるす道徳的にはニュートラルなひとつの分析の方法であって、いかなる党派性や価値判断も含むものではないのです。国家や教育やスペクタルや、宗教、あるいは文学ジャンルについてメディオロジー的な視点から考えるというとき、あるタイプの国家を別のタイプに対して擁護するとか、キリスト教を仏教に対して擁護するとか、テレビに対して演劇を擁護する、シャンソンを小説に対して擁護する、といったことが問題なのではないのです。

ひとはメディオロジーをある固有のディジプリテリーなプロジェクト、前世紀において社会学がそうであったようなものに似たプロジェクトと考えてみることができます。そのように考える場合には、芸術やイデオロギーや政治、宗教などといった上位の社会的機能を、それらが伝達の技術的構造ととりもつ関係において分析するようなディシプリンであると定義することになるでしょう。その研究分野は、〈文化〉と〈技術〉とが交わるあらゆる領域にまたがるものになるでしょうし、さらに広く言うなら、私たちの生活、信仰および思考の諸様式と、記憶化、伝達および転送の諸手続きとの間に成立するインターラクションを研究することだということもできます。

より端的にいえば、そしてそれは最初の点と矛盾しないのですが、それは、発想の仕方、問題の扱い方、(芸術の社会学、自殺の社会学、料理や労働の社会学という場合の社会学と同じような意味において)相異なる様々な対象に適用可能な知的パースペクティヴのことだといってもよいかもしれません。次の三つのことを同時に連続させて論じているときひとはメディオローグなのだということができるのです。すなわち、(1) 象徴社会的コーパス(集団的心性、教義的伝統、政治的転換など)、(2) 実践的な組織化の形態、そして(3)痕跡の把握、アルシーヴ化、流通の一定の様式(あるいは文化のテクノロジーといってもよいもの)の三つの次元です。

現代のテレコミュニケーションとメディアの領域はもちろんメディオロジーの特権的な研究領域です。ダニエル・ブーニューとベルナール・シュティグレールはそうした領域での優れたスペシャリストでもあります。しかしそれだけがメディオロジーの唯一の対象領域というわけではないのです。メディオロジーという方法によって、ひとはコミュニケーション・ネットワークとは関係のない遠い歴史的現実を解明することもできます。(…)

私たちは私たちの哲学的過去からイデオロギーという概念を継承しましたが、それは観念(イデー)と出来事との相関関係を説明することに役立ちません。イデオロギーは本来的に光学的な概念です。鏡の中への現実の反映、脳のスクリーン上への感性的世界の惰性的で逆立した像、幻影的なダブルといった考え方です。そのマルクス主義的な起源にもかかわらず、象徴世界についてのこの思弁的(鏡的)な考え方とこそ訣別する必要がある。観念(イデー)の歴史から、中継と媒体、すなわちメッセージを運ぶ諸組織や、伝達の集団的な担い手たちの歴史へといたるために、さらにまた、ひとびとが、メディアという韜晦的で単純すぎる用語で呼んでいる、痕跡の記録と流通の道具、あるいは象徴化の装置、支えにして手段、の歴史へといたるためには、それが必要なのです。

メッセージの伝達という場合、媒体(メディウム)は、相互に矛盾はしないものの混同されてはならない四つの意味に理解されることができます。すなわち、(1)象徴化の全般的方法=過程(プロセデ)(話し言葉、書記、アナログ・イメージ、ディジタルな形式など)、(2) コミュニケーションの社会的コード(ラテン語、英語、チェコ語といった言語的メッセージが発話される自然言語)、(3) 記録と集蔵の物質杓な支え(粘土、パピルス、羊皮紙、紙、磁気テープ、画面など), (4) 伝播の一定のネットワークとセットになったコミュニケーションの装置(写本、印刷、写真、テレビジョン、情報機器など)、の四つです。〈装置〉-〈支え〉-〈方法=過程〉の連関(システム)を強い意味における「メディウム」と呼ぶことにしましょう。メディオロジックな革命が有機的に揺るがすのは、そのような意味でのメディウムの連関なのです。例えば、「書く」という方法=過程は、「印刷」という装置から「テレビジョン」、さらには「World Wide Web (世界規模ネット)という装置へと移行することによって意味とインパクトを変えます。コンピューター画面上のアルファベット記号は紙という支えの上での同じ記号とは違ったメディウムを構成します。記号は「グラフォスフェール(文字圏)」の外へ出たことになります。支えとネットワークとを描象してしまう書承/口承というおおざっぱな区別が不十分なのはそのせいなのです。(…)

〈メディウム〉を作る〈支え - 装置〉の小システムには、社会−技術の複合としての〈メディウム - 環境〉からなる大システムが対応します。メディオロジー革命の国有な対象となるのはまさにこの複合なのです。この場合、〈環境〉というのは、たんに舞台でなく、流通の外的な空間以上のものを指します。それは、同時に意味論的、政治的、かつ技術的なものです。伝達の環境、あるいはメディア圏(メディアスフェール)は、具体的に、轄介者(メディエーター)たちの一定の階層序列において、またそれを通して、具体化するものなのです。(…)

まとめてみましょう。「メディオロジー」においては、「メディオ」はメディアを指すのでもメディウムを指すのでもなく、「メディエーション(媒介作用)」すなわち、記号の生産と出来事の生産とのあいだに介在する作用過程と中間的な諸体(物体、身体、団体)の力動的な総体をいうのです。これらの<間(あいだ)の諸作用〉はブリュノ・ラトウールがいう「ハイブリッド」に近く、同時に技術的、文化的、そして社会的であるような媒介作用をいうのです。私たちはそれらの交錯性や混成性を扱うのに極めて不十分な概念をしか持ち合わせていないのです。

どのような機械が作用しているのかという技術論的な問いと、どのようなディスクールが理解されねばならないかという意味論的な問い、そして、いかなる権力がどのように、誰に対して働いているかという政治論的な間いを、ひとびとは無意識のうちに分離してまったようなのです。裏側になにがあるかを探すのではなく、間でなにが起こっているのかを探求するメディオローグは、諸々の主体の宇宙を客体の諸システムと連続させて理解することを強いられる、かれは同時に技術史家でも記号学者でも社会学者でもあることをもとめられるのです。(…)


『現代思想』の同じ号に続けて掲載されている次の文章も参考までにあげておきます。