※本論文は,東京外国語大学海外事情研究所『グローバリゼイションと国民国家の再編』
(文部省特定研究報告No.20 1996年6月 pp.47-60)に収録されたものです。


台湾の民主化と海峡両岸関係


    小笠原 欣幸  

はじめに



1995年,台湾の国民総生産は速報値によると2646億ドルに達し,人口わずか2100万人ながら世界第18位の経済体になった模様である。一人あたりに換算した額は1万2000ドルを超え,こちらは世界第25位である。10年前の1985年には国民総生産は約620億ドルで世界第25位,一人あたりに換算した額は約3000ドルで第31位であった(『経済日報』1995.11.29)。物価上昇や生活の質の問題をまったく度外視して米ドルに換算した数字だけを見れば,台湾はこの10年間にGNPの4倍増を達成したことになる。この10年間の台湾経済の存在感の高まりが改めて確認できる数字である。
今後台湾の経済成長率は鈍化していくことが予想されているが,鈍化してもなお先進諸国の平均成長率を上回ることは確実であるから,台湾が中規模の先進国と経済面で同格になるのもそれ程遠いことではないであろう。注目されていた台湾の民主化も,制度的には1996年3月の総統直接選挙をもってほぼ完了した。台湾の人々は自信を深め,同時に国際政治上の台湾の自己主張も高まってきている。台湾と中国との関係が複雑の度合を増してきた最大の要因はここにある。本稿では,台湾海峡をはさんだ台湾と中国の両岸関係と台湾の政治経済動向との連関を分析し,急速な経済成長を遂げている台湾の政治経済構造の変動の一端を明らかにしたい。


1 両岸関係の基本構図


1949年に中華民国が台湾に撤退したことによって,台湾海峡をはさんで,中国大陸を支配する中華人民共和国と台湾地区を支配する中華民国が対峙する関係が形成された。この敵対関係の根本は,中国国民党と中国共産党による中国内部の支配権をめぐる争いであり,これについては,中国共産党が内戦に勝利し領土と人口の大半を支配したことにより形勢が決していた。だが,中華民国の方も,一種の亡命政権でありながら,領土の一部を実効支配し続けるという,近代以降の世界史でもまれな事態が生じた。
中華人民共和国の立場は,1949年10月1日の中華人民共和国の成立によって,中華民国が所轄していた領土,主権,人民はすべて国際法の慣例に則って中華人民共和国が継承したので,以後中華民国は存在しない,というものだ。中華民国側は中華人民共和国の成立を認めず,自己の正統性を主張し,国連での代表権を引き続き維持した。双方とも相手方の脅威を強調して国内引き締めをはかり,国際政治の場でも支持を取り付けるため厳しく対立した。
だが,この敵対関係は「一つの中国」という吸引力によって覆われていた。中国側の「台湾解放」および台湾側の「大陸反攻」というスローガンが共に実現可能性を失い,軍事力を行使する局面が退いて以来,海峡両岸の関係は実は平穏な関係,言い換えるなら固定された没関係状態に転化していた。ここで平穏という意味は,双方の直接の接触・交渉がないにもかかわらず「一つの中国」という引力が双方の行動を規定し,かつ双方とも軍事力を行使できない状況においては,両岸の敵対関係は食うか食われるかの闘争関係というよりは,固定され限定された枠組みの中の半永続的持久戦であったといえる。実は,この枠組みこそが台湾の経済発展の枠組みなのである。
中国共産党の側では,台湾地区以外の領土のすべてを実効支配していることを背景として国際政治の場において主要国の承認を取り付けていけば,中華人民共和国の優位は不動のものとなり,国民党からの和解の申し入れを時間をかけて待っていればよかった。台湾を自国の一部とみなす中華人民共和国側にとっては,「一つの中国」をとなえる国民党が台湾を支配していることはかえって都合がよかった。台湾側が分離独立の動きを見せない以上,現状維持の政策を続けることが可能であったからである。危険を冒して軍事侵攻・併合を急ぐ理由も特になかった。また,国内の社会主義建設,権力闘争,改革・開放政策の推進,といった差し迫った課題が山積し,台湾問題に集中する余裕が少なかったのも事実である。
一方,国民党の側は,敵対する海峡両岸関係を冷戦構造の中に位置付けアメリカの援助を引き出し,台湾地区存立の基盤を固めるのに懸命であった。国民党としては,中国共産党が失政を犯して政権を維持できなくなる事態,あるいは中華人民共和国の崩壊を待つ以外になかった。軍事的脅威は少しづつ薄れてきたが,中華民国の正統性を主張するにせよ,共産化を恐れたにせよ,国力の圧倒的違いを前にして,呑みこまれないためには,経済的自立が必要であることは明らかであった。
政治のあり方に不満はあったものの,経済力を強化し中華民国を存続させていくことは,外省人のみならず商業指向の強い本省人にとっても共通の目的となった。輸入代替戦略から輸出主導型の成長路線へと展開していく政府の経済運営にたいする目立った批判はほとんどなかった。台湾海峡をはさんだ内戦状態が,固定された枠組みの中での競争関係に変化したことが、台湾の経済的奇跡の実現を可能にした。この海峡両岸の特殊な関係が、台湾の政治経済体制の発展を促進することになるのである。
台湾をめぐる軍事衝突の危険は遠ざかっていったが,その一方で,主要国が中華人民共和国政府を中国の唯一の合法的政府であると認めるようになったことで,台湾は国際的に孤立することになった。特に,1979年に,それまで台湾の政治経済体制を支えてきたアメリカが中華人民共和国の承認に踏み切ったことは,台湾に大きな衝撃を与えた。国際的に孤立した台湾は,経済活動によって自己の存在を確認するしかなかった。このことと海峡両岸の軍事的緊張が薄らいだこととが重なり合って,台湾民主化の歯車が動きだすのである。
このプロセスを経済の方面から見てみたい。労働集約産業の低賃金・低コストを武器にしていた輸出主導型成長の初期の段階では,台湾が国際社会でどのように認知されているかは特に問題ではなかった。国際分業の下位を担っている国にとっては,もともとマーケットイメージは「安かろう悪かろう」であるから,生産国のイメージは大きな影響を及ぼさない。この問題は,国際分業の階段を上がるにつれてしだいに影響が現れてくるのである。
国際市場での激烈な競争を勝ち抜き自国製品のイメージの向上を図るには,先進国市場および国際社会における台湾自体のイメージアップがしだいに必要とされてくる。それだけではなく,国際経済の諸問題が首脳会議,閣僚会議,その他様々なチャンネルで処理されるようになり,公式の外交関係を持てない台湾は不利な扱いを受けるのではないかとの不安が高まった。この方面からも台湾の国際社会における地位向上が必要とされるに至った。そのためには,先進国における台湾認識を高めることが不可欠であり,先進国の価値観,とりわけ台湾の輸出産業が依存するアメリカの価値観に対応すること,すなわち民主化が必要条件となった。「一つの中国」原則に固執して国際社会で孤立し,国内の独裁体制の維持にかかりきりになっていればよかった時代は過ぎ去っていた。
さて,国民党支配の構造においては民主化と同時に台湾化が進行することになった。外省人が握っていた各種権力の中枢部に台湾人が多数入るようになってきた。政治構造の台湾化は国際的認知を求める台湾住民の向上心に一層の刺激を与え,また,台湾の目覚ましい経済成長はその自己主張の源泉となる。そもそも,海峡両岸の軍事的緊張が薄れたことが台湾の民主化を促したのだが,台湾政治の民主化=台湾化が,逆に両岸関係の緊張を作り出すことになった。


2 中国の対台湾政策の展開:江沢民の提案


中国にとって蒋介石以来の台湾の政権はどれも敵対政権であるが,李登輝政権が最初から特別の敵視の対象であったわけではない。共産党指導部は,李登輝個人にたいして好悪の判断をしていなかったようである(張慧英『李登輝和他的務實外交』1996年)。李登輝総統は,蒋経国が開始した両岸交流の流れを引き継いだ。1990年,北京で開催されたアジア大会に台湾代表団を参加させ中国側の歓迎を受けた。1991年には,蒋時代の「漢賊不両立」政策を放棄し,中国共産党を「反乱団体」と規定した「動員戡乱時期臨時条款」を廃止して,両岸関係を敵対から共存へ移行させる方向を示した。同じ1991年には「国家統一綱領」を採択し,国家政策の基本を統一に置くことを再確認した。そして1993年4月,海峡交流基金会(台湾側の民間窓口機関)の辜振甫薫事長と海峡両岸関係協会(中国側の民間窓口機関)の汪道涵会長のトップ会談が実現し,両岸の本格的な接触が始まった。 しかし,李登輝が「実務外交」という名で,国際社会での台湾認識を高めようとする積極的な対外政策を推進しはじめたことにより,台中関係は緊張の質が変化してきた。総統就任後の李登輝の外国訪問は,1989年のシンガポール訪問だけであったが,1994年2月に「休暇外交」という名目でフィリピン,インドネシア,タイを訪問,ついで同年5月には「式典外交」の名で南アフリカ,スワジランド,ニカラグア,コスタリカを立て続けに訪問した。また,実現はしなかったが,1994年の広島アジア大会の際に日本訪問の強い意欲を示した。
さらに,もともとは民進党が提唱していた考えを取り入れ,国連再加盟の運動を開始した。1995年の国連総会においては,ニカラグアなど29カ国が台湾の国連加盟を支持する発言を行っている(『聯合報』1995.10.13)。外交活動とは別に,アメリカからF16戦闘機150機,フランスからミラージュ2000戦闘機60機の売却の約束を取り付けることにも成功している。これら一連の動きはすべて,中国にとっては,祖国を分裂させ台湾独立を目指す動きと解釈された。特に国連再加盟の運動については,加盟が実現するためには「二つの中国」を作り出すか,台湾が独立するかしかないわけで,中国側の警戒は一気に高まった(『人民日報』1994.8.19)。
中国側の変化としては,「台湾解放」は長い間単なるスローガンにすぎなかったが,香港返還問題の先が見えたことから,次は台湾問題を解決して祖国統一の偉業達成という意識が強まってきたことも見逃せない。すなわち,台湾側に分離独立傾向が表面化してくるのと同じ時期に,中国側では祖国統一が政治課題として重要性を増してくるという事態に至ったのである。また,台湾の分離独立傾向を放置すれば,中国国内での他の地域にもその影響が波及し,共産党の支配体制が動揺することにたいする恐れを指導部が抱いていることも当然指摘できる。
中国共産党にとって,祖国統一は一般的な政策目標と異なり特別な意味を持つ。反帝国主義イデオロギーは,列強によって虐げられた100年間の屈辱の歴史を超克しようとするこの党が依りたつ重要な理念である。台湾は日本帝国主義によって祖国から略奪され,戦後はアメリカ帝国主義によって反中国の策動に利用されたのであり,台湾の祖国復帰を達成することで中華民族の尊厳が回復される,という考えが中国共産党の歴史観となっている。
「祖国統一を実現することは中国人民の崇高な使命である」(『人民日報』1995.10.25)と位置付けられている以上,台湾の分離独立の動きを放置すれば,共産党指導部は祖国統一の願いを放棄したという汚名を浴びせられることになる。もし,分離独立の動きに外国の援助があろうものなら,それはただちに中国人民にたいする帝国主義の陰謀となるのである。その一方で中国共産党は,レーニン主義に基づく反帝国主義論が,内側の少数民族・特定地域にたいする帝国主義に転じる可能性については考え及ばない。
李登輝の「実務外交」の進展,独立を目指す民進党の躍進などで危機感を深めて折にふれて警告を発してきた中国側の包括的台湾政策は,1995年1月30日の春節前日,江沢民によって発表された。「祖国統一の大業達成促進のため引き続き奮闘しよう」と題する八項目からなる講話の要旨は次のとおりである。
@一つの中国原則を堅持することが平和統一の基礎であり前提である。「台湾独立」「分裂分治」のような言動および行動には断固反対する。
A台湾が民間ベースで外国との経済文化関係を発展させることに異議はないが,「二つの中国」「一つの中国一つの台湾」の目的で「国際生存空間を拡大」することには反対である。
B海峡両岸の平和統一の協議を進めることが我々の一貫した主張である。一つの中国の前提に立つなら,どんな問題でも議論することができる。当然,台湾当局が関心を持っている各種問題をも含む。平和統一協議に先立って「一つの中国の原則の下で,両岸の敵対状態を正式に収束させる」協議を行うことを提案する。協議の名目,地点,方法等の問題は,対等の立場で話し合いを行い,双方が受け入れられる解決方法を探し出すことができる。
C中国人は中国人を攻撃しない。我々が武力行使を放棄しないのは,台湾同胞にたいしてではなく,外国勢力による中国統一への干渉および「台湾独立」の陰謀にたいしてである。
D21世紀の世界経済の発展を展望して,両岸の経済交流と合作を発展させ,両岸の共同繁栄に利することが必要である。政治の不一致が両岸の経済協力に影響してはならない。これまでの台湾商人大陸投資奨励政策を継続する。どのような状況下でも台湾商人の正当権益を擁護する。両岸の直接「三通」(通郵,通航,通商)は,両岸の経済発展に必要であり,両岸同胞の利益にかなう。
E燦然と輝く5000年の中華文化は中国人の精神の絆であり,平和統一を実現する一つの重要な基礎である。両岸の同胞は共同で中華文化の優れた伝統を継承発揚していく。
F2100万人の台湾同胞は,台湾省籍であろうとその他の省籍であろうと皆中国人であり,血を分けた同胞である。台湾同胞の生活方式および自主的な決定権を持ちたいという願望は充分尊重する。台湾同胞の正当な権益一切を保証する。党と政府の関係部門は,台湾同胞との連絡を強化し,彼らの意見要求に耳を傾ける。台湾島内の社会の安定,経済発展,生活富裕を希望している。
G台湾の指導者が適当な身分で訪問することを歓迎する。我々も台湾を訪問することを望んでいる。中国人のことは我々が自分たちで処理するもので,国際的な場を借りる必要はない。
江沢民はこの講話の最後で,祖国統一を早日完成することが中国人民の共通の願いであるとして,孫文の言葉を引用し統一への決意を明らかにした。講話発表の場となった新春茶話会は,共産党中央台湾工作弁公室,国務院台湾事務弁公室,台湾民主自治同盟,中国和平統一促進会,全国政協祖国統一聯誼委員会,中華全国台湾同胞聯誼会,海峡両岸関係協会など台湾統一工作にかかわる各種団体が開催した形を取り,中国の対台湾工作の責任者を一堂に集めて行われた(『人民日報』1995.1.31)。江沢民講話発表後直ちに,これらの組織が中心となって,江沢民講話の学習討論会を大々的に組織していく。
江沢民講話の骨子は一国二制度で,基本的にケ小平の台湾政策を継承するものである。この講話は,1979年の全国人民代表大会常務委員会による『台湾同胞に告げる書』(三通と四流を提案,四流とは経済,科学,文化,体育の交流を指す),および,1981年の葉剣英講話(通郵,通商,通航,親族訪問,旅行,学術交流,文化交流,体育交流の便宜を図るための協議を提案)以来の「重要講話」という位置付けがされている。
講話の内容で注目されたのは,平和統一協議の前段階として位置付けられる「両岸の敵対状態を正式に収束させる協議」の早期開始,および,江沢民と李登輝の相互訪問を呼びかけた点である。だが,内容以上に注目されたのは,講話全体のトーンが抑制されたものであったことである。双方が交渉のテーブルにつくことを期待させる要素が含まれていた。外国の介入と台湾独立にたいしては武力行使の可能性を留保しながらも,中国人は中国人を攻撃しないと表明し,台湾にたいする武力行使の放棄を宣言することを協議開始の前提条件としている李登輝政権側に,中国指導部として最大限の歩み寄りを見せた。全体として,従来の台湾政策の枠の中で最大限柔軟な姿勢を示したものと言うことができる。
江沢民講話が発表されたタイミングは,台湾で1994年12月に台湾省長,台北市長,高雄市長等の大型地方選挙が混乱もなく無事終了し,民主化の総仕上げとしての総統直接選挙に突き進んでいく時期であった。この江沢民講話のねらいは,統一に向けた具体的な動きを作り出すことではなく,とにかく台湾を交渉の場に引き出すことにあった。交渉の窓口を開き,交渉の機会と議題を徐々に拡大し,双方で統一機運を盛り上げ,台湾の分離独立傾向に歯止めをかけようとする江沢民指導部の戦術が読み取れる。
講話発表の翌日から『人民日報』は,各種組織での江沢民講話学習討論会の様子であるとか,講話を称賛する各界人士の談話であるとかを,連日のように取り上げ大々的なキャンペーンを展開した。学習討論会を開催したり談話を発表したりした組織は,茶話会の主催団体以外に,共産党青年団,中華全国総工会,全国婦聯,福建省の学者専門家,国家教委,中華僑聯,中国社会科学院,中国文聯,北京大学学長,中国オリンピック委員会,中華全国法律家協会,中国公証員協会,中国科協,チベット愛国人士,郵便・電信部幹部,公安部幹部等,様々な組織に及んだ。また,江沢民講話を単行本にし,しかも繁体字版も出版するという熱の入れかたであった。
台湾統一にかかわる組織を総動員して学習討論会を展開していることから見て,台湾の分離独立傾向にたいして苛立ちを感じている中国側の足並みをそろえるねらいもあったと思われる。だが,『人民日報』で学習討論会開催が報道された組織に軍関係の組織は登場していない。黄埔軍校の同窓会の活動が報じられたのが唯一の例外であった(『人民日報』1995.2.7)。
『人民日報』は国内の報道と平行して,台湾の新聞を引用する形で,台湾側が江沢民講話に関心を示している動きを報じている。その中には民進党に関するものもあり,民進党主席施明徳の「民進党は李登輝と中共の指導者の会談に賛成である」というコメントも含まれている。台湾独立運動の中心である民進党にまで言及するのは異例のことであり,中国側の交渉呼びかけの意気込みを示していると言える(『人民日報』1995.2.10)。2月8日には海峡両岸関係協会(中国側)の汪道涵会長が談話を発表し,台湾側が期待をかけている第二次汪道涵−辜振甫会談の早期開催を呼びかけ,議題については,特定の議題を設けて深く論じるもよし,議題を特に設けずに双方の関心のある問題で広く意見交換をするもよし,として柔軟な姿勢を鮮明にした(『人民日報』1995.2.9)。
李登輝側は,江沢民講話発表後も既定方針通り「実務外交」を推し進め,4月初めアラブ首長国連邦とヨルダンを非公式訪問したが,『人民日報』は外務省報道官のごく短い抗議文を掲載しただけであった(『人民日報』1995.4.6)。ただし,高雄市がアジア大会の誘致に動いていることには,「二つの中国」をつくる動きだとしてはっきりと反対を表明している(『人民日報』1995.4.27)。


3 李登輝の返答


江沢民講和にたいする台湾側の最初の公式返答は,2月21日,連戦行政院長が立法院での施政報告の中で,ついで,4月8日,李登輝自身が国家統一委員会の場において講話を発表した。連戦の施政報告では,「両岸は交流を増加させ,相互理解を促進すべきである」として,一般論としては江沢民講話の交渉呼びかけに対応していたが,具体的な問題には踏み込まなかった。
続く李登輝の六項目の講話でもやはり,一般論として「両岸関係は交渉の時代に入った」としながらも,江沢民講話の注目を集めた提案については消極的な回答を行った。李登輝は,「中国人は中国人を攻撃せず」という言明には満足せず,中国側に改めて,武力行使の放棄を宣言することを求め,それをもって,両岸の敵対状態を収束させる交渉を開始する条件とした。両岸指導者の会談については,国際会議の場を借りての面会を主張し,江沢民の相互訪問の会談提案には応じなかった。
台湾側の公式の返答である李登輝の六項目講話は,まったく新味に欠けるものであった。そのこと自体は中国側としても折り込み済みであったであろう。中国側は柔軟姿勢を維持し,海峡両岸関係協会の責任者が匿名で新華社のインタビューに応じ,李登輝が先の講話の中で「両岸関係は交渉の時代に入った」,「中華文化を基礎に両岸関係の強化を」,「両岸の経済・貿易の往来を増やし,互恵・相互利益の関係を発展させる」と述べたことについて「歓迎の意を表すことができる」と発言している。しかも,『人民日報』が記事で李登輝に言及する場合必ず呼び捨てにするのだが,この記事では「李登輝先生」という呼称が用いられた(『人民日報』1995.4.29)。李登輝訪米決定が発表される直前の5月19日,銭副総理兼外相は,北京で開かれた全国台湾同胞代表会議の開幕挨拶で,江沢民講話が「現段階の両岸の政治膠着を打破するもの」だと自賛していた(『人民日報』1995.5.20)。
それゆえ,李登輝の訪米決定は中国側にとって衝撃的な出来事であった。比較的穏当な台湾政策をまとめ講話の大々的な学習討論会を組織した江沢民は,結果として李登輝の訪米により面目がつぶれる事態となった。李登輝政権側が簡単には交渉に応じないであろうことは十分推測がついたはずだが,クリントン政権がこの時期に李登輝の訪米を認めるとは考えていなかったようだ。そして李登輝の側も,その後の中国の対応の厳しさを過小評価していた(李登輝は1996年2月23日の記者会見でこのことを明らかにした)。
李登輝訪米決定が発表されてから強行路線が固まるまで日数を要したことからみても,これが中国にとって予想外であったことがわかる。訪米許可の決定が発表された5月22日の直後,銭副総理兼外相が北京駐在アメリカ大使に強硬な抗議を行ったが,海峡両岸関係協会の唐樹備副会長は予定通り台北を訪問し,海峡交流基金会の焦仁和副薫事長と,両会会長の汪道涵と辜振甫による第二次トップ会談の準備会議を行い合意に達した。対照的に,訪米中の人民解放軍空軍幹部訪問団は抗議の意を示すため予定を繰り上げて直ちに帰国するというすばやい対応を見せた。トップ会談中止の発表は6月16日であった。この間に軍事演習による威嚇を含む強硬な台湾政策が固まったものと思われる。
『人民日報』は最初,香港とマカオの新聞を引用する形で李登輝批判・アメリカ批判を開始し,6月7日以降本格的な批判キャンペーンを繰り広げた。6月7日の『人民日報』では,いったんは「歓迎」を表明した李登輝の4月の返答について,その講話が「表向きは統一で陰では独立」であるとして前言を翻して批判した。また,江沢民講話が武力行使の可能性を排除しなかったのは,台湾を侵攻するためではなく武力で台湾を守るためであり,もし武力の不行使を承諾すれば平和的統一は達成不可能になり,最後は武力で問題を解決しなければならなくなると解説し,台湾を威嚇するために武力行使の可能性を留保するのだということを公然と明らかにした。
李登輝の訪米前後,『人民日報』に連日のように掲載されたアメリカ批判は,アメリカが中国脅威論に基づき台湾カードを用いて中国を牽制しようと画策している,という立場で一貫している。李登輝訪米許可に端を発した中国のアメリカ批判は,10月24日の江沢民−クリントン会談によって,台湾問題について過去の共同コミュニケを遵守することで折り合いがつき,小康状態に入った。
李登輝批判とアメリカ批判を並行的に行っていた『人民日報』は,途中から李登輝個人に攻撃の的を絞ってきた。特に7月下旬には4回シリーズの「李登輝のコーネル大学講演批評」を掲載(『人民日報』1995.7.24,7.25,7.26,7.27),ついで8月上旬には再度4回シリーズの「李登輝の『台独』言動批評」を掲載し(『人民日報』1995.8.3,8.4,8.7,8.9),批判の論調をエスカレートさせた。
中国側の李登輝批判は次のようにまとめることができる。すなわち,李登輝の「実務外交」は「二つの中国」を作りだし台湾の独立を目論んだものであり,国連再加盟の動きも中国分裂を画策する行動であること,台湾の軍の実権を掌握し祖国大陸にたいして再三軍事演習を行っていること,また,台湾独立分子に特赦を与え亡命台独分子の帰国を要請するなど,台湾独立派とのつながりが深く,台湾独立の思想を抱いていることは明らかで,何とごまかそうとも台湾独立の道をひた走っている,というものである。
このように中国側の李登輝批判は,李登輝の台湾独立傾向に集中し「一つの中国」原則に立ち返ることを要求する内容であったが,さらに加えて,李登輝が日本統治時代の教育を受け日本に好意的であるところにまで攻撃をエスカレートさせるに至っている。「李登輝その人」と題する長大な個人攻撃の論評では,李登輝の父親李金龍が日本植民者の刑事であったから「根っからの売国奴」と決めつけた(『人民日報』1995.8.24)。『人民日報』が主として依拠しているのは,「台湾人に生まれた悲哀」と題する李登輝と司馬遼太郎との対談である(『週刊朝日』1994.5.6)。その視点は,対談での李登輝発言にいらだっている国民党非主流派および新党の視点と奇妙なほど一致している。
李登輝が誇る「台湾経験」についても,中国側は全面否定の立場で臨んでいる。まず,台湾経済発展の根本要因は,国民党が台湾に逃げる際の「黄金大搬送」とアメリカのドル援助である。李登輝の言う「憲政改革」とは,国民党内の権力闘争を制し国民党政権を強制的に「本土化」したことにほかならない。台湾の「民主政治」とは,金権腐敗,暴力団の横行がその実体である(『人民日報』1995.8.7)。民主化の総仕上げとなる総統直接選挙については,主権在民の名で「台湾人が台湾総統を選ぶ」ことを企図したもので「二つの中国」を作り出す動きであるとして,かたくなな立場を貫いている。銭副総理兼外相は,「もし選挙を通じて『台湾独立』の路を進もうと企図するなら中国人民は絶対に許さない」と表明している(『人民日報』1995.10.27)。


4 両岸関係と台湾経済


さて,李登輝の訪米を契機として中国が軍事演習による威嚇を繰り返すに及んで,株式市場が低迷し,資金の海外流失が発生し,台湾経済は一定の打撃を受けることになった。台湾では日本と同じく1990年に株式市場の大暴落が発生し,台湾版のバブル崩壊が起こっていた。それにもかかわらず台湾経済が好況を維持することができたのは,中国との貿易の急速な発展があったからである。
1987年に台湾住民の大陸訪問禁止措置が解禁されて以降,台中貿易は急速な発展を遂げ,新たな輸出市場を必要としていた台湾経済にとって成長の追い風となった。香港経由の台中貿易の総額は1987年には15億ドルにすぎなかったが,1994年には98億ドルに達し,7年間で実に6倍を超える伸びを示している。しかもその貿易構造は,1994年の数字で言うと,中国からの輸入13億ドルにたいして,中国向けの輸出が85億ドルと,台湾の圧倒的な出超である。ちなみに中国向け輸出は,台湾の対外総輸出の9%に達している。台湾から中国への投資も同じく急速な増加を見せ,台湾側の統計によると,1991年から1994年末までの累計は45億ドルに達している。中国側の発表では,台湾の対中投資額はこの数字よりはるかに大きい(陳文泉『「中華経済圏」の胎動』1995年)。
台中貿易は台湾の経済構造に既に深く組み込まれ,その比重は今後さらに大きなものになるであろう。連戦行政院長自身,2000年には大陸は台湾にとって最大の貿易パートナー,最も重要な投資地区,貿易黒字の主要な供給源となるだろうと指摘している(『中国時報』1995.5.31)。したがって,台中関係が緊張すると経済交流の先行きにも不安が高まり,台湾企業の業績予測にもそれが反映されるので,株式市場の低迷は一時的な過剰反応ではなく,むしろ台湾経済の現状が適確に表現されていると見るべきである。『人民日報』は,台湾の株価と地価の低迷は,李登輝が訪米で両岸関係に緊張を作り出し,民心を動揺させたからであると断定し,李登輝は総統選挙で当選しても両岸関係を改善する意思はなく,両岸関係の緊張をただ激化させるだけで,台湾の不景気をさらに悪くするであろうと「予告」している(『人民日報』1995.11.16)。
大陸に進出している台湾企業にたいするアンケート調査によると,中国側の軍事演習による両岸関係の緊張で,大陸投資に自信を喪失していると回答した企業の割合が7割にのぼった(『工商時報』1995.12.1)。また,ギャラップ社の世論調査では,両岸関係の緊張が外貨の大量流出を招く可能性があると考える人の割合は68.4%に達し,そうは考えないの12.1%を大きく上回っている。両岸関係の緊張が台湾から外国への移民の増加を招くと考える人は74.1%に達している(『中国時報』1995.11.6)。中国による威嚇は,台湾住民の強い反発を招きながらも,一定の心理的効果をあげていることは見逃せない。
中国にとっても,台湾との貿易および台湾からの資金流入は改革・開放政策の推進に欠かせないとの認識があるが,中国経済が国際的な吸引力を持った今,台湾の資金と製品は全部ではないにせよ他国の資金・製品による代替が可能であり,両岸関係の悪化が経済に及んだ場合のダメージは台湾の方がはるかに大きいと言える。台湾の経済建設委員会は,もし中国が台湾からの商品輸入を停止したら台湾の経済成長率は予想値より約2ポイント低下すると予測している(『経済日報』1996.1.17)。台湾側はそれを回避しようとして台湾企業の中国進出ブームに警鐘をならし,東南アジアへの投資を促す「南進政策」を提起したものの,思うような成果をあげていない。香港が中国に返還される1997年以降,台湾経済における中国市場の重要性はさらに高まることになる。
李登輝政権が力を入れて取り組んでいる「アジア太平洋オペレーションセンター構想」は,製造業,海運,航空,金融,通信,メディアの6つの分野で台湾をアジア太平洋地域の中核的活動拠点と位置付けることを目指し,中国に呑み込まれないための台湾経済の新たなアイデンティティを確立しようとする構想であるが,これにしても,海峡両岸の正常な交流が確保されなければ十分な効果は発揮しえない。「アジア太平洋オペレーションセンター構想」について,台湾と協定を結んでいる12の多国籍企業にたいして行われた調査では,8社が大陸との関係でいろいろな制限が多いことをその欠点としてあげている(『経済日報』1995.7.8)。この地域で最大の潜在成長力を持つ中国との経済関係に他の国にはない制約が課され続けるならば,あえて台湾に拠点を設けようとする多国籍企業は多くはないであろう。台湾経済のアップグレードを目指すこの構想を推進すればするほど,台湾側は台中関係の安定化を図り,両岸直航便の開設を含む対中経済交流の拡大に向かわざるをえなくなるのである。
緊張激化の一方で,両岸の経済関係については中国側の対応は冷静である。8月8日,国務院台湾事務弁公室常務副主任の陳雲林は,福建省福州市の台商投資企業協会の責任者と会合を持ち,両岸経貿合作は両岸人民の共同利益であるから政治面で何が起こっても,台湾商人の大陸投資の権益は保証すると言明した(『人民日報』1995.8.8)。また,10月16日には海峡両岸関係協会の汪道涵会長が四川省の台湾企業を視察し,海峡両岸の現在の情勢が台湾商人の対大陸投資に関する政策に影響を与えることはないとして,「我々は台湾商人の大陸投資を引き続き歓迎し奨励する」と語っている(『人民日報』1995.10.17)。
こうした動きから,中国側としても,改革・開放政策の推進のためには台湾からの投資が欠かせないから両岸関係の決定的悪化を避けようとしていると解釈することも可能であるし,実際そうした解釈は多い。だが,先に触れたように,両岸関係の悪化が経済に及んだ場合のダメージは台湾の方がはるかに大きいことを考慮に入れると,政治面で緊張が高まり経済面では交流を拡大するという今の両岸関係の構図は,しだいに中国側を有利にすると考えることができる。中国側は台湾経済の構造的問題を正確に認識している。台湾経済が先進諸国での保護主義の台頭と発展途上国の急速な追いあげに直面し,その困難から脱却するためには大陸経済との合作により,台湾の資源,労働力,市場,生産規模の不足を補うことが必要であり,それが経済繁栄と社会進歩を願う台湾民衆の期待であると指摘している(『人民日報』1995.6.7)。
中国側の戦略目標が強引な統一ではなく,台湾の分離独立の阻止にあるのであれば,その戦術は,台湾経済をいわば人質に取るかたちで,交渉の呼びかけと威嚇を交互に繰り返していくというものであろう。中国が台湾侵攻あるいは台湾封鎖を試みて国際的な経済制裁を受けるような愚かなことをしない限り,台湾との結びつきを強めれば強めるほど,台湾にたいする威嚇がより効果的になり,分離独立傾向を牽制する手段となるであろう。中国が軍事演習を繰り返しながら経済交流のパイプを維持していることは,中国自身が困るという要因もさることながら,中国側のしたたかな計算が働いていると考えるべきであろう。そもそも,江沢民の八項目講話もこの計算に沿ったものであった。
台湾側の反応としては,このような中国の戦術にたいしては台湾住民の憤りが高まり,統一機運はかえって後退するであろうが,両岸の緊張激化を招くことがはっきりしている台湾独立傾向には歯止めがかかることになった。1995年末の立法院選挙および1996年の総統直接選挙で民進党が伸びなやんだことがその現れの一つと言えるであろう。台湾での多くある見方は,独立の宣言ないしはそれに類似した決定的行動を取らない限り中国は攻撃してこない,というものである。李登輝自身このことを大変わかりやすい言葉で民進党の議員に語っている。「みなさん,あまり騒がないで。あれは悪い隣組だよ。あまり相手の機嫌を損ねないほうがいい」(『台湾通信』1995.9.21)。
台湾経済の発展を担った中小企業の経営者の多くは台湾人である。彼らは一方で,李登輝の推進する台湾化の支持母体であり,他方で,中国との取り引きを拡大してきた。今,彼ら自身の中で,国際的認知を得たいとする台湾人としての願望と,中国との経済関係という現実の利害がぶつかりあっている。福建省から移民として渡ってきた台湾人の行動原理を多方面から分析した徐宗懋は,歴史上常に弱い立場に立たされてきた台湾人は,強大な相手にたいする対処方を身に付けており,台湾ナショナリズムが損得勘定を超えることはないと結論づけている(徐宗懋『台湾人論』1993年)。台湾の内部から両岸関係の好転を求める声が出てくるのは自然なことなのである。
こうしたことを考慮すると,李登輝政権としては,短期的な選択肢は別として,中長期的には中国との関係改善,海峡両岸関係の安定化を指向しなければならないことは確実である。しかも,中国側の譲歩を引き出すことは難しい情勢にある。ポストケ小平の後継体制固めに必死の中国共産党指導者にとって,台湾問題で軟弱であると見なされることは致命的なことになりうるからである(The Times,1996.2.6)。


5「実務外交」と台湾政治


1996年3月の総統直接選挙が近づくと,中国は再び軍事演習という手段によって台湾を威嚇した。李登輝は中国の威嚇には屈しないという姿勢を保ち続け,選挙での高得票に結びつけた。株式市場については,李政権が株式安定基金を設置し相場の維持に努めたため,変動は最小限で抑えられた。しかし,3月の前半だけで50億ドルの資金流出が発生したり(『聯合報』1996.3.22),同じく3月前半の輸出額が前年同期と比べて9.9%減少したり(『工商時報』1996.3.21),あるいは主計処発表の経済成長率予測が下方修正されるなど(『工商時報』1996.3.11),前年来の景気低迷状態が長引く結果となった。
中国大陸に進出している台湾商人らは,春節を利用して台湾に一時帰国した折に,政府および高層領導人(李登輝総統を指す)が,この時期に中共を刺激する言詞を用いないよう懇願している(『中国時報』1996.2.28)。また,台湾経済界の実力者である王永慶(台湾プラスチック董事長)は,現在の両岸関係の緊張は前年の李登輝総統の米国訪問によって引き起こされたという見解をあえて表明した(『経済日報』1996.3.1)。李登輝をはじめ政権の幹部らは,総統選挙後に両岸関係の緊張緩和が図られるという観測を語り,経済界の動揺を静めるのに必死であった。
それでは,李登輝訪米に象徴される「実務外交」は,両岸関係を悪化させただけに終わったと消極的評価を下してよいのであろうか。国連からの脱退,日本,アメリカとの断交,そして最近では韓国との断交と,国際政治上の孤立を深めていた台湾にとって,李登輝の「実務外交」は,台湾内部の国共内戦以来の旧思考および2100万人の住民の存在に蓋をする「一つの中国」という国際的虚構の構造に突破口を開いたものだと評価することができる。
さらに,「実務外交」が台湾政治構造の台湾化とセットになって,台湾社会の安定に寄与していることを見逃してはならない。民主化=台湾化の政治変動を最小限の混乱で乗り切れたのは,台湾のアイデンティティに関する李登輝の言動が,多数派台湾人の感情に合致していたからに他ならない。李登輝の訪米は台湾人の鬱屈した気持ちを晴らしたのも事実である。日頃国民党を厳しく批判する民進党の支持者も,李登輝の訪米については「よくぞ行ってくれた」という感慨を抱き,「アメリカで堂々と台湾の存在を発表してくれたのです」と語る(『台湾通信』1995.9.21)。
その結果が中国との関係の緊張であった。逆に,蒋経國後の国民党政権が台湾化を抑えこむ政策を取っていたならば,中国との緊張は招かなかったかもしれないが,台湾内部の省籍矛盾を深刻化させ,民主化に伴う台湾社会の緊張を極めて大きなものにしていたであろう。李登輝の「実務外交」は,社会の分裂を最小限に抑えながら民主化=台湾化の政治変動を乗り切るために通らなければならなかった道であり,また,台湾の国際的認知および旧来の国民党のあり方にたいする多数派台湾人の不満と怨念が一気に爆発することを防ぐ一種の「ガス抜き」の役割を果たしてきたのである。
台湾化の完了によって「台湾人に生まれた悲哀」の一つである台湾内部の省籍矛盾は解消しようとしている。だが,過去100年間別の歴史を歩み別のアイデンティティを持つに至っているのにそれをストレートに表現することが許されない「悲哀」は今後も存在し続ける。中国が威嚇を強めれば強めるほど台湾人の「悲哀」が深まることを中国共産党は決して理解しようとはしない。李登輝はコーネル大学の講演で「民の欲するところ,いつも私の心にある」と語ったが,李登輝の強みは台湾人のこの「悲哀」を完全に共有し,それを表現できることにある。一見すると相矛盾するように見える「実務外交」と対中関係改善の模索は,共に多数派台湾人の支持を得るであろう。
李登輝政権の第一期は,民主化という大きな課題に取り組み,最小限の混乱でそれを実現させた。この第一期は,内側では台湾化が進行し,外にたいしては経済成長を背景に台湾の自己主張が強まった段階であった。総統直接選挙後の李登輝政権第二期は,中国市場が台湾経済の発展構造に組み込まれたことで,台湾の自己主張に抑制がかかり中国との関係改善を模索する段階になると見ることができるであろう。これまでの経緯から,中国側に変化がない限り,台湾化が完了しても台湾独立には移行しえないことが明らかになっている。李登輝政権は,引き続き,国際社会における地位向上を求める台湾人の願望と,両岸関係の拡大を求める経済的必要性とのバランスの中で微妙な舵取りをしていかなければならない。しかも第二期では,国民党の圧倒的優位が崩れる中での選挙および政党政治というプロセスを通じてそれを行わなければならない。
台湾独立と台湾人の被害者意識を前面に出してきた民進党の党勢は,国政レベルの選挙では頭打ちになっている。これは,李登輝の上からの台湾化および「実務外交」の進展で民進党の初期の存在理由のいくつかが薄れたためでもあるし,中国の威嚇の一定の効果でもあるし,台湾の有権者の嫌気の現れでもある。選挙のたび毎に,自分は台湾人なのか中国人なのか,独立なのか統一なのか,と自分のアイデンティティを問い詰められることが,有権者にとってしだいに苦痛になってきている。鉄鋼公会(同業者組合)の林文貴理事長が,選挙で省籍問題がことさらに取り上げられることで対立をあおり,社会の安定に影響を与え,経済の基礎が危うくなると指摘しているが(『自由時報』1995.12.2),これは,こうした感情を代弁する発言である。『連合報』と『経済日報』の企業トップにたいする合同のアンケート調査では,独立・統一論議は経済発展にとって有利ではないとする回答が31%,非常に不利であるとする回答が58%で,経済界が独立・統一論争に強い危惧の念を抱いていることがわかる(『経済日報』1995.9.28)。
民主化=台湾化の政治変動を経た後,有権者の関心は確実に日常の生活の質の問題に移っている。大論争を回避して現状の枠組みの中で台湾の国際的認知を求めていく「実務外交」は,こうした国内状況に適合している。民進党が対外政策論争で主導権を握り李登輝政権を脅かすような状況は,当分出現しないであろう。台湾内部での異なる族群の融和についても,門南系台湾人が中心で省籍を強調し続ける民進党よりも,台湾に渡ってきたのが先でも後でも全員が台湾人であるとして,初の台湾省長選挙で外省人の宋楚瑜を当選させた国民党に分がある。
もう一つの野党である新党は,李登輝政権にとって扱いにくい存在である。新党は,もともとは国民党内で李登輝の主導する台湾化に反対する外省人系の守旧派が脱党して結成した党だが,徹底した李登輝批判と国民党の金権腐敗攻撃によって,新鮮なイメージを作り出すことに成功し,都市部有権者の不満を吸収する受け皿となっている。新党は「一つの中国」が基本で「実務外交」にも反対の立場である。これまでのところ,新党の「実務外交」批判は大きなインパクトを与えてはいないし,祖国大陸のことを考えなければいけないと発言して台湾人の反感を買ったりしている。総統選挙で新党が推した林洋港候補の得票も伸び悩んだ。しかし,両岸関係の緊張状態が長く継続することになれば,親中国の立場から,緊張を招いたのは李登輝の責任であるとして「実務外交」を全面的に批判して一定の支持を得る可能性がある。
新党と中国共産党との接触は不明であるが,両者の李登輝批判,台湾独立批判の立論はまったく共通している。『人民日報』は何度か,新党と同じ立場の国民党非主流派幹部の発言を転載するかたちで間接的に支持を表明している(例えば『人民日報』1995.7.25,8.15,12.15)。今後,国共内戦を戦った双方の老幹部が退いていくにつれ両者の接触が深まることは十分考えられる。それでも,対外政策の分野だけならば,李登輝政権を決定的に脅かすことにはならないであろう。
李登輝政権の落とし穴は,むしろ内政にある。経済成長に比べて遅れているインフラストラクチャーと生活の質の問題で,民進党と新党の批判はさらに強まっていく。この分野では,李政権は受け身に立たされている。そして,李登輝政権のアキレス腱となるのは国民党の民主化問題であろう。国政レベルの制度上の民主化は完了したが,政権与党の国民党については台湾化が進行したにすぎない。「黒金問題」と呼ばれる国民党の暴力団とのつながりおよび金権腐敗体質はそのままで,国民党の民主化はこれからである。
国民党の固い地盤である台湾中部・南部の党組織は暴力団との関係が深く,金権腐敗の温床とされている。国民党独裁体制の一翼を担った地方派系は今も健在である。1995年の立法院選挙においても,農村部の国民党候補の9割が地方派系と見られている(『聯合晩報』1995.11.26)。李登輝は台湾の民主化を推進したが,党内基盤が弱かったため,非主流派との権力闘争の過程で,国民党独裁時代の権力構造の一部に頼らざるをえなかった。そのため,国民党の金権・利益誘導体質,暴力団とのつながりといった,旧体制の負の遺産を引きずったままで,都市部有権者の強い憤りにさらされている。
ここでは非常に衝撃的な事例を二つあげておく。1994年12月,屏東県の県議会議長が暴力団員を射殺するという事件があった。この県議会議長は,1994年の台湾省長選挙の際,国民党の宋楚瑜候補の屏東県の選挙対策責任者であった。この人物には死刑判決が下された。1995年11月には,かねてより地元暴力団との深いつながりが指摘されていた高雄県の県議会議長が射殺された。この県議会議長は,王金平立法院副院長(国民党)の有力地元後援者であった。どちらの議長も,刑事事件に関係した前歴がある。立法院選挙で過半数ぎりぎりに追い込まれた国民党が,これら地方派系および暴力団との関係を清算して近代的な地方党組織を築いていくことは至難の技であろう。民進党もこの問題を批判しているが,新党の批判の方が効果をあげている。最近では,金権腐敗の国民党を追い込むため民進党と新党が立法院で提携する動きも現れている。
総統直接選挙で圧勝し基盤を固めた李政権は,新たな対中政策を展開する態勢が整ったと言えるが,台湾側の望む方向での局面打開を見るにはかなりの時間を要するであろう。民主化後の台湾の有権者は先進諸国の有権者と同様結果を早く求める傾向にあり,経済成長率の鈍化とあいまって停滞感が漂うこともありうるであろう。国内の「黒金問題」を放置しておけば,新党の政権与党批判はさらに勢いを増し,政権基盤の安定が損なわれ,対外政策の展開に影響が及ぶかもしれない。一見無関係な両岸関係と国民党の金権腐敗問題が連動してくると,内からは新党の攻撃,外からは中国の攻撃を受け李登輝政権が苦境に立つことも考えられる。総統直接選挙後の李登輝政権第二期は,第一期にも増して困難な課題に直面している。


【参考文献】


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路洲・黄達維『台灣何處去?』雙笛国際出版,1996年
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陳文泉『「中華経済圏」の胎動』溪水社,1995年
若林正丈『台湾−分裂国家と民主化』東京大学出版会,1992年

※台湾の新聞記事については,台北にて週刊『台湾通信』を発行している通達翻訳出版有限公司より資料提供を受けた。記して感謝の意を表したい。
 
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