陳水扁再選後の中台関係(その1)
―― 2005年:中国の攻勢に揺れた台湾 ――


東京外国語大学
小笠原 欣幸

--- ---   はじめに
1.国民党代表団の訪中
2.陳水扁の迷走
3.台湾産果物優遇措置
4.中国の選別的善意
  2005年のまとめ
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 はじめに

 2005年は,中台関係に関して中国側の積極的なアプローチが顕著になった年であった。これには,2つの要因を指摘できる。1つは,2004年3月の台湾総統選挙で陳水扁が再選されたことは中国にとって大きな痛手であったが,同年12月の立法委員選挙で陳水扁陣営が過半数を確保できなかったため,陳水扁政権の側から中台関係を動かすことが難しくなったこと,つまり,手は中国側に回ってきたのである。もう1つは,中国共産党内部で胡錦濤体制が確立し,台湾問題についても江沢民グループから胡錦濤グループに主導権が移ったことである。この2つの要因を背景として,中国は2005年に入って積極的な対台湾政策を展開した。
 胡錦濤政権の対台湾政策については,台湾の学者らが「硬的更硬,軟的更軟」という特徴を指摘している。すなわち,強硬に出るところは一層強硬に,柔軟な姿勢を見せるところは一層柔軟に,というメリハリをつけたのである。江沢民時代も確かに「軟硬両手」と言われていたが,本質は既定方針に沿った「原則主義的アプローチ」であった。中台関係の膠着状態を打開しようとした江沢民の8項目提案も,台湾の民意を引き寄せることはできなかった。それにたいし胡錦濤のアプローチは,台湾の政治情勢を注視しそのつど台湾の弱点を突いていく「機動的アプローチ」と言うことができるであろう。胡錦濤がまだ権力を掌握しきれず対台湾政策が揺れていると見るのは間違いである。むしろ政権基盤が固まったからこそ,国民党との和解,抗日戦における国民党の再評価,台湾産果物の優遇,台湾留学生の支援など,広範囲で局面を動かし台湾に攻勢をかけていると言える。
 李登輝と陳水扁は,江沢民の「原則主義的アプローチ」にたいし,中国を悪者にし台湾のプライドに訴えることで首尾よく対処してきた。野球に例えるならば,李登輝,陳水扁と続く台湾アイデンティティを基盤とする政権にとって,中国の「原則主義的アプローチ」は打ち返しやすい「直球」と言える。しかし,胡錦濤政権は2005年に入り,それまでの「直球」主体から「変化球」を織り交ぜるピッチングに転換した。「変化球」とは,台湾への優遇策を示しつつ台湾の野党と連携し陳水扁政権を追い詰めていく戦術である。胡錦濤の「変化球」にたいして,陳水扁は効果的な対抗策を見出せず「空振り」を繰り返した。
 かつては反共を国是としていた台湾であるが,中国共産党への警戒心は人によってかなり差異が生じてきている。胡錦濤政権の「機動的アプローチ」について,陳水扁は中国共産党の統一工作だとして台湾国民に警戒を呼びかけているが,必ずしも十分な支持を得られていない。台湾の内部で足並みの乱れが露呈し,陳水扁自身が迷走を繰り返したのが2005年の台湾側の状況であった。

 1.国民党代表団の訪中

 中国の全国人民代表大会は,2005年3月14日に「反国家分裂法」を制定した。これは「硬」を「更硬」にするものである。民進党は「反国家分裂法」について,「両岸の現状を変更し台湾海峡の平和を破壊する戦争法」と非難する宣言を発表し,3月26日には100万人参加の抗議行動を行なった。陳水扁にとって「直球」は打ちやすいのである。しかし,陳水扁と緑色陣営が「台湾は反国家分裂法に反対」していることを世界に向けてアピールした直後の3月28日,江丙坤(国民党副主席)が率いる国民党代表団が中国に向け出国した。国民党は,代表団の出発直前まで訪中の情報を伏せていた。国民党の政治家らが中国を訪問することは過去にもあったが,今回は党の公式代表団という位置づけであり,また,このタイミングでの訪中自体が台湾の対中姿勢が一枚岩でないことを如実に示すものであったため,海外メディアの注目を集めた。
※「反国家分裂法」については,松田康博(国分良成編『中国の統治能力』外交分析第4章「台湾問題」,2006年),および,岡田充(「台湾海峡の『現状維持』とは何か−反国家分裂法にみる中国の姿勢変化」『立命館大学政策科学』第13巻1号,2005年10月)の優れた論考がある。

 国民党代表団は,孫文ゆかりの地を訪れた後北京入りし,陳雲林(中国共産党中央台湾工作弁公室主任)と会談した。これは中国国民党が台湾に逃れて以来,初めての国共両党の正式会談であった。会談後,両者の10項目合意が発表された。中国共産党と中国国民党は,「党対党」の関係を強調することで,陳水扁政権の頭越しに中台関係改善の主導権を取り始めた。中国共産党は,国民党訪中団を歓待し「軟」を「更軟」にする友好的ジェスチャーを繰り出した。江丙坤は,中国共産党中央政治局常務委員の賈慶林(全国政治協商会議主席)とも会談し,台湾独立活動を抑制することを話し合った。これは,両党が連携して陳水扁政権に対抗することで合意したという意味を持っていた。
※10項目合意の内容は次の通りである。@両岸の旅客チャーター便を定期化し,発着地の増加,搭乗対象の拡大を推進する。 A台湾農産品の大陸への販売問題を速やかに解決すべきである。大陸側は,通関,検疫,物流などで優遇措置を定める。 B両岸の農業合作を強化する。大陸側は台湾農民が大陸で創業することを歓迎する。 C大陸側は,互恵互利の原則で台湾商人の投資権益を保護する民間レベルの協議を行なうことに賛成する。 D大陸側は,大陸の民衆が台湾に観光旅行に行けるよう積極的に準備を進める。また,台湾側が,大陸人士の台湾旅行を可能にする状況を作り出すことを希望する。 E金融,保健,運輸,医療などのサービス業での両岸の合作を推進する。大陸側は,市場開放を拡大する。両岸の情報産業の規範制定を強化する。 F民間レベルの意思疎通を通じて,両岸のメディア特派員の常駐化を促進し,両岸の新聞交流を強化する。 G大陸側は,台湾への漁業労働者の派遣を再開したいと考えている。両岸は,民間組織を通じて,漁業労働者の保険,賃金,苦情処理制度,休憩場所などについて迅速に意思疎通を図り,問題を処理することができる。 H両岸の県市,郷鎮レベルの交流を促進し,長期的な交流の枠組みを建立する。 I大陸側は,早期に台湾人学生の学費を大陸学生の学費と同じ額に引き下げる用意がある。また,台湾人学生への奨学金提供の用意がある。

 賈慶林は中国共産党を代表して,「連戰主席が適当な時期に大陸を訪問することを歓迎し招待する」と表明した。訪中時期について公式発言はこれ以外にはなかったが,早期の訪中を招請したものと考えられる。連戰は,4月4日,この招待を受け「適当な時期に訪中する」と表明した。連戰側では,確かに2005年中の訪中を期待していたようであるが,新聞報道では,2005年前半での訪中については観測記事すら出ていなかった。連戰の訪中は,国民党も考えていなかった時期に急遽実現したのである。連戰と宋楚瑜はそれぞれ訪中の意欲を示し,どちらが先に訪中するかで争っていたが,中国共産党は,当時陳水扁と連携していた宋楚瑜ではなく,連戰を先に招待することで陳水扁を出し抜いた。
 陳総統は,国民党訪中団帰国後の4月5日,総統府,行政院,民進党の幹部を緊急招集し,江丙坤訪中団に法的措置も含む厳しい対応を採ることを決めた。当初陳水扁と民進党は静観する構えであったが,国民党訪中団が台湾の内外で予想以上の注目を集めたため,急遽対応が必要と判断したのである。翌日,行政院スポークスマンの卓榮泰は,国民党訪中団と中国共産党との10項目合意が,私的立場で外国政府と約束を結ぶことを禁じる刑法113条「私與外国訂約罪」および「台湾地区與大陸地区人民関係条例」第5条の1,第33条の1※※に抵触する可能性を示唆した。大陸委員会主任の呉サ燮(台湾の対中政策担当大臣)も,政府の許可がない状況では法に触れる可能性があると発言した(2005.04.07『中国時報』呉サ燮:江行程打亂兩岸政策歩調)。これらは,連戰が胡錦濤と協定を結ぶことを牽制するための警告であった。だが,国民党が,「過去10数年来多くの学術団体,社会団体,民間企業が大陸と協定を結んでいるが,政府はこれらすべてを取り締るつもりか」と反論すると,政府側は腰砕けになった。
※この会議に出席したのは,副総統呂秀蓮,総統府秘書長游錫堃,同副秘書長馬永成,総統弁公室主任林コ訓,国家安全会議秘書長邱義仁,国家安全会議諮詢委員陳忠信、同林錦昌,行政院長謝長廷,同副院長呉榮義,同秘書長李應元,同発言人卓榮泰,外交部長陳唐山,大陸委員会主委呉サ燮,民進党主席蘇貞昌,同党秘書長李逸洋,同党政策会執行長柯建銘,民進党立法委員団長趙永清,同幹事長ョ清コである(『自由時報』「兩岸經貿 將強化有效管理」2005.4.6)。
※※「台湾地区與大陸地区人民関係条例」第5条の1および第33条の1は,「台湾地区の人民・団体は,台湾の公権力あるいは政治議題に及ぶ事柄で大陸と合意を取り交わすことはできない」「台湾地区の人民・団体は,政治性を帯びた事柄について大陸と協同することはできない」と規定している。

 江丙坤訪中団の帰国後,連戰の訪中計画が一気に具体化した。連戰訪中の準備は中国国民党と中国共産党との間で直接行なわれ,陳総統と台湾政府は完全に蚊帳の外に置かれた。連戰訪中に続いて宋楚瑜の訪中も発表された。面目を失うことを恐れた陳水扁は,連戰が形だけでも政府の許可を得て胡錦濤と会談するという筋書きを要求したが,連戰側は相手にしなかった。緑色陣営は,連戰の訪中は台湾を売る行為であると非難した。4月17日には民進党主席の蘇貞昌が,4月21日には台連の李登輝が,それぞれ批判の談話を発表した。しかし,陳水扁は連戰の訪中をどうすることもできず,4月23日,「政府は一切を掌握している」と強調し,「我們可以給予祝福」と妥協的な姿勢を見せた。結局,連戰が出発前に陳水扁との電話会談に応じることで手打ちとなった。4月26日の連戰の出発にあたり,訪中賛成派と反対派が中正国際空港に集結し,出発ロビーで衝突事件が発生した。事件防止の不手際が指摘され,これも陳政権のマイナス評価につながった。
 国民党が強気に出た背景には,中台関係の打開を期待する台湾の民意の動向があった。これまで,台湾政治においては「紅帽子」(親中派のレッテル)は強いマイナスイメージを持っていたが,国民党代表団の訪中後,「紅帽子」の殺傷力は減少した。民意調査を見ると,中国が「反国家分裂法」を制定した直後にもかかわらず,中国との交流は拡大すべきという意見が多かった。『中国時報』の民意調査では,両岸交流を加速すべきであると考える者が43%,減速すべきであると考える者が29%,中断すべきであると考える者が3%,判断が難しいと回答した者が25%であった(『中国時報』「本報最新民調 連宋訪中 逾四成民衆贊成」2005.04.23)。あせりを感じた陳水扁は,主導権を取ろうとするあまり発言が二転三転して迷走を深めていった。

 2.陳水扁の迷走

 4月29日,連戰は北京で胡錦濤との会談を行ない,「92年共識」の堅持,台湾独立反対,両岸和平の追求,両岸交渉の再開,両岸交流の促進,国共両党の定期協議などを盛り込んだ「両岸和平発展共同願景」という文書を発表した。この連戰−胡錦濤会談について,民進党は,「中国共産党に媚び,台湾の民主を踏みにじり,国共が連合して台湾に反対するものだ」という厳しい批判声明を出した(『自由時報』「民進黨:連戰踐踏台灣民主」2005.4.30)。ところが陳水扁は,「連戰は政府の公権力を侵さないという約束を守った」と連戰を評価する発言をした(『自由時報』「連胡會新聞公報未觸法? 扁為連背書」2005.5.2)。民進党は,陳水扁によって冷水を浴びせかけられた(『自由時報』「扁變來變去 黨七上八下」2005.5.3)。民進党議員団書記長の陳景峻は,怒りのあまり,自分らは「豚の頭(いけにえ)になった」「今後記者会見は開きたくない」と発言した(『自由時報』「民進黨立委轟扁 黨團變豬頭」2005.5.3)。
 党内の驚愕は続いた。南太平洋歴訪中の陳水扁は,態度を一変させ,「連戰が中国で台湾人民の心の声を表明しなかったのは非常に遺憾である」「共産党と連合して台湾独立を抑制するという声明を出したのは大きな誤りである」と連戰批判に転じた(『自由時報』「扁痛批連説聯共制台獨」2005.5.4)。5月6日,陳水扁は南太平洋から帰国直後,党内からの要求で,党の役員,県市長,立法委員らを集めて座談会を開き,意見交換を行なった。党役員らの訴えにもかかわらず,陳水扁は,「党内の雑音が絶えないこと」が問題であるとし,「操縦者はもっと注意せよ」と責任転嫁の発言をした。この発言にたいし,党内の反発は一層広がった(『自由時報』「扁訓操盤者 支持者不苟同」2005.5.8)。
 四面楚歌の陳水扁は,@宋楚瑜を非難すること,A国民大会代表選挙に傾注すること,で自身と民進党の声望を回復しようとした。5月8日,陳水扁はテレビのインタビュー番組で爆弾発言をし,宋楚瑜との連携関係を破棄する行動に出た。この年の1月アメリカに滞在していた宋楚瑜が,訪米した陳雲林(中国の台湾政策担当者)に会い,住民投票を憲法に盛り込むことに反対することを交換条件に訪中することを密約したと「暴露」したのである(『自由時報』「中國指令宋 反公投入憲」2005.5.9)。陳水扁は,4月20日に極秘の第2次陳水扁−宋楚瑜会談があったことも「暴露」した。同時に陳水扁は,5月14日の国民大会代表選挙の意義を訴え,支持者の目を1週間後に迫った国民大会代表選挙に向けることに力を注いだ(『自由時報』「扁:公投入憲 就是實質制憲」2005.5.9)。陳水扁は翌日も別のテレビインタビューに応じ,今度は,台連に票が流れるのを防ぐため李登輝批判を繰り広げた。陳水扁は,2000年5月の就任演説で「4不1没有」を約束したこと,2005年2月に宋楚瑜と会談したことは,いずれも李登輝の助言に従ったものであると発言した(『自由時報』「扁重砲批李要摧毀領導」2005.5.10)。
 宋楚瑜に関する「暴露」の内容は不自然であり,陳水扁の発言の信憑性に疑問が投げかけられている。宋楚瑜と陳雲林の公表されている日程では,宋楚瑜の滞米が2004年12月28日から2005年1月29日までで,陳雲林の訪米は1月4日〜5日である。陳雲林はワシントンに滞在しただけであり,陳雲林が去ったあとに宋楚瑜がワシントン入りしている。陳水扁は情報源を明らかにしなかった。総統に各種の情報を提供している国家安全局は,自分たちは今回の情報源ではないと早々と発表している。陳水扁は2月24日に宋楚瑜と会談したのであり,5月8日になってこれを持ち出すのは奇妙である。これは一種の「禁じ手」と言わざるを得ない。怒った宋楚瑜は陳水扁にたいし謝罪を要求し,それが受け入れられなければ民進党と一切協議を行なわないと表明した。陳水扁は大きな決断をして宋楚瑜との連携関係を作ったのに,たった3カ月でそれを反故にしてしまった。立法院における多数派工作は失敗におわり,謝長廷内閣は,提出法案を次々に葬り去られることになった。
※宋楚瑜は,陳水扁にたいし名誉毀損による損害賠償を求める民事訴訟を起こした。現在,台北地方裁判所で審理が行なわれている。
【記述追加】2007年2月15日,台北地方裁判所は宋楚瑜の訴えを認め,陳水扁に300万元の賠償金の支払いと主要3紙に謝罪広告の掲載を命じる判決を下した(『聨合報』「宋陳密會 扁無所本 判賠300萬元」2007.2.16)。

 攻撃が最大の防御と思ったのであろうか,陳水扁はテレビインタビューの出演を数日間続けた。火消しを図る陳水扁の思惑とは反対に,火はさらに広がっていった。陳水扁の発言の反覆も続いた。胡錦濤との会談の可能性について「當然,任何都事都可能發生」と述べた(『自由時報』「扁胡會? 扁:任何事都可能發生」2005.5.10)。ところが,3日後にはニュアンスを変え,中国が譲歩しない状況では会談してもしかたがないと発言し,その可能性を否定した(『自由時報』「扁:中國不讓歩 去了又怎樣」2005.5.13)。緑色陣営寄りの『自由時報』の「総統番記者」である鄒景雯も,国家元首が「口で国を治める」状況になっているのは形容しがたい悲哀であると書いて陳水扁を批判した(『自由時報』「元首嘴巴治國 人民的悲哀」2005.5.10)。5月12日,宋楚瑜−胡錦濤会談が行なわれ6項目合意が発表されたが,連胡会談直後ということもあり,たいした成果とはならなかった。陳水扁は宋楚瑜の訪中も批判した(『自由時報』「扁:兩岸一中 等於一國兩制」2005.5.14)。
 5月14日,国民大会代表選挙の投票が行なわれ,民進党が第1党になった。民進党は得票率42.52%で,127議席を獲得した。国民党は得票率38.92%,117議席であった。次いで台連が得票率7.05%,21議席を得た。親民党は得票率6.11%,18議席で,第4党に転落した。民進党が第1党になったことは,陳水扁の戦術の勝利と言えるかもしれないが,代償は大きかった。選挙に勝ったことで,陳水扁の迷走を検討しようという圧力は弱まった。陳水扁は,連戰訪中に伴う「中国熱」が冷めたと分析した。だが,投票率がわずか23.36%の国民大会代表選挙で勝ったところで,根本的課題に対処したことにはならないのである。陳水扁の戦術はあまりにも近視眼的であった。このあと台湾政治の焦点は,国民大会の進行と国民党主席選挙へと移っていき,陳政権に平穏が戻るかに見えた。しかし,中国の「変化球」は連戰訪中だけではなかった。

 3.台湾産果物優遇措置

 江丙坤訪中団との10項目合意を受けて,中国政府は,国務院に呉儀(副総理)を組長とする「台湾農産品輸入工作小組」を発足させ,台湾の農産物の取扱および両岸の農業合作について具体的措置を取り始めた。5月23日,中国政府は,台湾から中国に輸入を許可する果物の種類を,従来の12種から18種に拡大した。6月1日には,15種類の台湾産果物について,8月1日から輸入関税をゼロにすると発表した。合わせて,通関の便宜を図ること,検疫手続きの時間短縮を図ることも発表した。こうした方策は,中国側が国民党と連絡をとったうえで発表に至っている。連戰訪中後,台湾政府を蚊帳の外に置く国共ホットラインが作られたのである(『自由時報』「國民黨登陸賣農産? 一場羅生門」2005.7.30)。
※15種の台湾果物は次の通りである。パイナップル、シュガーアップル、パパイア、スターフルーツ、マンゴー、グアバ、レンブ、ビンロウ、ユズ(日本の柚子ではなく文旦に似た果物)、ナツメ、ココナツ、ビワ、ウメ、モモ、カキ。

 この他に中国側は,台湾の農会や業者が中国国内で行なう台湾産果物の販売促進活動に協力・援助を行ない始めた。中国側は,北京の西単地区にある君太デパートに,台湾農産品専用の販売スペースを作った。また,台湾各県市の農会や関連団体職員を積極的に中国に招待した。国民党や台湾省農会の関係者は,新たなビジネスチャンスの到来と見て,中国とのパイプ作りに血眼になった。『人民日報』でこうした活動を大々的に報じていることから見て,中国側が台湾の農業分野での工作に力を入れていることが読み取れる。
 現実には,こうした優遇措置がただちに台湾農業の救世主になるわけではない。中国と台湾とでは価格差が非常に大きく,台湾産果物が中国産と競争するには限界がある。また,台湾の輸出果物の上位3品目はバナナ,マンゴー,ライチであるが,中国がゼロ関税を決定した15種の果物の中に,バナナとライチは含まれていない。これは,同種作物を生産している海南島に配慮したものであろう。ビワ,ウメ,モモ,カキのように輸出実績がほとんどない品目も含まれている。これは,中国側の善意を大きく見せる工夫であろう。むしろ,中国産果物が将来台湾産と競合する可能性を心配すべきであろう
※台湾の農業委員会(農業省に相当)は,中国が台湾産果物の品種を取り入れ,生産を拡大し,台湾と競合する可能性を指摘している(『自由時報』「中國荔枝 搶攻台灣外銷市場」2005.8.12)。

 台湾側は,農産物の中国向け輸出を特には規制していなかった。台湾側の統計では, 2004年の台湾産果物の大陸での販売量は630トン,価格にして34万米ドルであった。これは台湾産果物の輸出総額の1%にすぎない(大陸委員会ホームページ)。台湾の農産物全体の輸出動向で言うと,輸出先は,日本,香港,アメリカが三大輸出市場である。この3地域にたいする輸出は全輸出の68%を占めている(2002年の統計)。だが,中国沿海部の購買力の上昇は台湾の農業関係者も注目しており,農業省が2003年10月に発表した包括的農業政策文書においても中国市場での販売拡大を意識し,目標とする果物として具体的にパパイア,ライチ,マンゴー,ナツメ,スターフルーツ,バナナを挙げている(農業委員会「加強農産品國際行銷方案」2003年10月)。
 だが,陳政権は,中国市場に依存する状況になることは避ける決意であった。そのため陳政権は当初,中国主導の話(農産物対中輸出拡大)には乗らない姿勢を見せた。農業大臣らは,これらは中国の一方的な措置であるから,中国政府の判断でいつでも取り消されるあやうい優遇策であると説明した。しかし,野党,マスコミからの批判と,農業団体からの圧力が高まり,追認することになった。冷静に考えれば,中国への輸出が販売ルートとして確立するかどうかが重要であり,次年度以降の中国側の措置を注視する必要があるのだが,農民の気持ちは,中国であろうとどこであろうと売れるなら売って利益を得たいという単純なものであった。その利益がどれほどの額になるのか,また,本当に収益を増やすことができるのかが不透明であっても,利益の話があること自体がアピールする。陳水扁が,「これは中国の統一工作の一環である」「中国市場に依拠することはリスクが大きい」と警告したが,国民党との主導権争いで農民の利益を妨げようとしていると映ってしまう。台湾農業の抜本的な振興策を示せていないだけに,陳政権にとって非常にやっかいな事態となった。「変化球」は打ちにくいのである。
 これまで,中南部の農村は,産業西進(工業の中国シフト)によって痛手を受けてきた。農家は農業所得だけでは収入が足らず,農民は工場で働いたり,パートに出たり,下請けをしたりして生計を支えてきた。こうした農民にとって,産業西進とは,もともと時間工をしていた工場が大陸に移り閉鎖されることであった。このため,農村では産業西進にたいし被害意識のような感情が存在していた。陳水扁が台湾アイデンティティを強調し,中国経済に呑み込まれる危険性を唱えたことは,農民の心にアピールした。しかし,今回はこれまで「被害者」の立場であった農民に対中輸出のチャンスがめぐってきた。陳政権が警告をすればするほど,農民は白けた心境になる。
 7月下旬に実施された年代テレビの民意調査は,質問のしかたに難点があるが,民意の動向をよく示していると言える。この調査では,台湾の農産品を中国に売り込むことを肯定的にとらえている人が56.7%,否定的に捕らえている人が19.0%であった(表)。年末に県市長選挙を控え,農民の間で政府の姿勢に対する不満が高まる中で,陳水扁は,果物の対中輸出を禁止しているわけではないと釈明せざるを得なかった(『中国時報』「扁消毒:未禁水果銷大陸2005.08.05」)。
《表》 年代テレビの民意調査
質問:陳水扁総統および与党民進党は,台湾の農産品を
大陸に売り込むことを支持すべきであると考えますか,
支持すべきでないと考えますか?
大いに支持
すべきだ
支持す
べきだ
支持すべ
きでない
まったく支持
すべきでない
わからない
・未回答
25.8%30.9%10.3%8.7%24.4%
出典:年代テレビ局民調
調査日:2005年7月27-28日
 中国の部分的な優遇策が台湾の民意を分断する手段として機能する理由は,陳政権のグローバル化への対応および対中政策にたいする不満が様々なセクターで渦巻いているからである。台湾にとってグローバル化とは実質的に中国シフトが大きな部分を占めている。台湾の競争力のある企業は中国シフトをさらに進めたいと考えている。しかし,競争力のない部門は,工場が中国に移転し,あるいは,中国からの輸入品に押され,敗退の危機に直面している。グローバル化と中国シフトをめぐり深刻な利害対立が存在している。ただそれは,より大きな問題である台湾アイデンティティをめぐる対立によって覆われているのである。
 陳水扁が2001年8月に鳴物入りで開催した「経済発展諮詢会議」では,上場企業の大陸投資限度額の緩和,両岸投資保障協定および租税協定の推進,大陸資金が台湾の事業や不動産に投資することの解禁,大陸人士の台湾観光旅行の解禁,両岸通航の便宜を図るなど,中国シフトの合意を形成したが,4年たっても実現していない(『中国時報』「一次經發會結論 兩岸議題原地踏歩」2005.11.02)。それは,上述の台湾経済内部の対立と台湾アイデンティティをめぐる対立が絡み合い,手がつけられないからだ。中国側は,台湾の矛盾を非常に鋭く突いていると言える。
 陳政権の混乱をよそに,国民党の立法院議員団が7月に訪中し,国務院台湾弁公室副主任らと会談した。この会談で中国側は,台湾産果物を運ぶ貨物輸送の直行便を早く実現したいと発言し,陳政権に揺さぶりをかけた(『自由時報』「中國藉水果登陸搞直航」2005.7.30)。『人民日報』は,輸入関税がゼロになったことで台湾産果物の取引価格が約1割下がり,各地で売れ行きが好調であると大きく報道し,台湾産果物熱を盛り上げた(『人民日報』「零関税水菓銷情火爆」2005.8.12)。『人民日報』は,その後も継続的に中国各地での台湾産果物の販売状況を報道している。

 4.中国の選別的善意

 中国側は,農産物だけではなく,パンダ贈呈,台湾留学生優遇措置,台商の陳情受付機関設置,国共両党の交流拡大など,台湾住民に善意をアピールする施策をいくつか用意していた。

(1)パンダ贈呈
 中国側は,連戰訪中直後の5月3日,パンダを台湾に贈ると発表した。四川省のパンダ研究センターで,台湾へ渡るパンダの選定チームを作り,台湾での飼育に関する研究会を発足させるなどパンダ関連のニュース発表を積極的に行ない,パンダによって中国側の善意を台湾住民にアピールするパンダ外交を展開した。台湾ではパンダ好きの人々が期待を高め,台北市動物園と台中市動物園が受け入れに名乗りをあげた。2006年1月,中国側の準備は整い,台湾に贈られる2頭のパンダが選定され,「団団」と「圓圓」という名前がつけられた。あとは台湾政府の受け入れ許可を待つだけとなった。
 これも,陳水扁にとって打ち返しにくい「変化球」である。日本でもパンダブームがあったように,純粋にパンダを近くで見たいという人は台湾にも多くいる。パンダは,ワシントン条約で絶滅のおそれがある野生動物に指定され国際取引を禁止されている。中国側は,台湾への贈呈は「国内移動」という見解をとっているので,台湾側が受け入れると「一つの中国」を認める政治的意味を持つことになる。陳水扁は,パンダは希少動物であるから,四川省の本来の環境で生育するのが適切であるという見解を出している。近く政府の正式決定が出るが,受け入れ拒否を決めた場合,台湾の民意の一部(野党,子供,パンダ好きの人々)から強い反発が出る可能性がある。

(2)台湾人留学生の優遇措置
 8月24日,国務院台湾事務弁公室は,台湾の青年が祖国大陸の大学で学ぶことを熱烈歓迎するとして,以下の措置を発表した。@中国の大学・大学院で学ぶ台湾人学生に大陸学生と同額の学費を適用するA台湾人留学生を支援する「台湾学生奨学金」を設立する。B台湾からの留学生を増やすため,台湾人留学生を受け入れた大学・大学院に補助金を支給する。これら3項目はいずれも2005年秋の新学期から実施された。うち奨学金は,毎年総額700万人民元を用意し,大陸の大学・大学院で学ぶ台湾人留学生の約20%をカバーする予定だという。台湾人学生の話によると,大陸の大学に学ぶ台湾人学生の学費は年間約12000人民元であったが,この措置より,3000人民元で済むことになる。
 ただし,中国に留学する台湾人学生はまだ非常に少ない。台湾の大陸委員会の統計では,2004年度の時点で中国の大学に学ぶ台湾人学生は合計5240名である。うち,学部学生が2180名,修士課程の院生1402名,博士課程の院生1066名,聴講生592名となっている。学生数は2000年以降確実に増加しているが,台湾の若者の間で中国留学熱はまだ起きていない。留学の主流は,依然としてアメリカの大学,次いで日本の大学である。台湾の教育省は,中国の大学の学歴を認めていない。つまり,中国の大学を卒業しても台湾では大卒とは扱われないので,中国で就職するとか中国でビジネスをすると決めている学生でなければ,中国に留学しにくい状況にある。
 中国側の狙いは,台湾人留学生を優遇し,留学生数を増やし,台湾政府に中国の大学での学歴を認めさせることにあると思われる。この動きにたいし陳水扁は,9月4日,「自分の在任中は中国の学歴は認めない」と宣言した。この問題は,陳政権にとって大問題とはなっていない。しかし,中国の学歴を認めるかどうかは李登輝時代にも政治問題化したことがあり,敏感な問題であることは確かである。台湾では近年大学の数が増え,定員割れの大学が続出している。中国へ留学する学生が増えていくことで,将来台湾の大学に影響が出てくるであろう。しかも,中国は「台胞サマーキャンプ」「海峡両岸学生交流団」「台湾傑出青年訪問団」などの名目で,夏休み期間に3000人を超える台湾の学生・教員を大陸に招待している。中国は長期的視点で取り組んでいると言える。

(3)台湾商人の陳情受付機関
 国務院台湾事務弁公室は,7月26日,投訴協調局を設置した。これは,「台湾商人の大陸における合法的権益を守り,台湾同胞の陳情を協調処理する機関」である。これも,国民党との会談の合意を実行したもので,すでに台湾商人との懇談会を何度も開き意見聴取を積極的に行なう姿勢を示している。責任者である呉儀副総理も台湾商人との座談会に出席し,「祖国大陸が台湾同胞の権益保障に誠心誠意取り組んでいる」ことを強調した(『人民日報』「呉儀:凡是対台胞作出的承諾都会認真落実」2005.9.7)。

(4)国民党と共産党との交流
 江丙坤訪中団の10項目合意および連戰−胡錦濤会談の合意に従い,国民党と共産党との県市レベルでの交流が始まった。初年度は5組の国民党県市党部と共産党県市委員会との交流が決まり(台中市と厦門市,台南市と深圳市,彰化県と青島市,新竹市と蘇州市,基隆市と寧波市),8月から9月にかけて国民党側が訪中した。台中市と厦門市の例を見ると,国民党台中市党部訪問団の一行30人は,8月23日から5日間にわたり厦門市を訪問している。国民党台中市党部主任の沐桂新と共産党厦門市委員会書記の何立峰とが会談し,双方の交流と合作の拡大,党職員の相互訪問,厦門市と台中市の通航の推進,両市の貿易の推進,文化,教育,科学技術,観光などの領域での合作,台湾商人の権益を守る事務的連絡機構の建立などで合意している。他4市の国民党市党部訪中団も同じような行程を辿った(『人民日報』「国共両党基層交流熱絡展開」2005.8.31)。なお,10月には江丙坤が国民党代表団を率いて再度訪中している。第2次江丙坤訪中団は北京で陳雲林らと会談し,両岸の経済関係の強化について話し合った。宋楚瑜も,9月に上海でのシンポジウム出席のため再度の訪中を果たし,賈慶林と会っている。
 9月28日,中国国務院の台湾弁公室スポークスマンは,わが方ができることは実施したと胸を張った。「中国共産党と中国国民党および親民党の両党と今年4月5月に達成したコンセンサスのうち,大陸が単独でできることは逐一実施してきた。……我々は台湾同胞にたいする約束をまさに履行している」(『人民日報』「李維一談中共与国親両党達成的共識」2005.9.29)。

 2005年のまとめ

 2005年の中台関係は,中国共産党が台湾の野党である中国国民党と連携し陳政権を追い詰めた年とまとめることができる。2005年に最も注目を集めたのは,連戰の訪中であった。連戰−胡錦濤会談は,確かに中国現代史における重要な出来事である。他方,台湾の国内政治の観点からは,主席引退(2005年8月)が決まっていた連戰が,@国民党内で影響力を保持するため,A陳水扁に一泡吹かせるため,の絶好のパフォーマンスであった。会談が友好的雰囲気で行なわれ内外で高い注目を集めたという点では「成功」と言えるが,江丙坤の訪中にせよ連戰の訪中にせよ,原則上の問題で中国側は何らの譲歩もしていない。会談をより必要としていたのは連戰側であったので,この結果は驚くにはあたらない。
 2005年の中国側の目標は,第1に,「反国家分裂法」制定後の国際世論の反発をかわすことであり,第2に,台湾内部を分断して陳水扁政権を弱体化させることであった。第1については,中国への国際的批判が高まりかけた矢先に国民党訪中のニュースが世界を駆け巡ったことで批判が相殺され,中国の狙い通りの展開となった。第2についても,中国にとってあまりコストのかからない施策で台湾を揺さぶることができたので,中国側から見てある程度の「成果」があったと言える。この台湾内部分断の手段は,@台湾の野党との連携,A台湾住民への選別的善意の2つであった。
 @台湾の野党との連携は,与野党の対立で膠着状態が続く台湾政治の弱点を突いたものである。国民党が陳政権との対立を深め中国共産党との接近も厭わないという台湾内部の変化を胡錦濤指導部が適格に判断した結果であると言える。陳水扁は,胡錦濤との会談を期待していたふしがある。陳水扁は2005年の2月から3月にかけて,宋楚瑜を使者にして,中台の関係改善,および,胡錦濤との会談の可能性を探ろうとしたのではないかと思われる。もし,連戰の訪中がない状態で宋楚瑜が訪中していれば,たいした成果はなくとも両岸関係打開の主導権は陳水扁が握っているような印象ができていたであろう。しかし,中国はそうはさせず,連戰を先に招待し陳水扁を出し抜いたのである。
 A台湾住民への選別的善意は,台湾産農産物優遇,パンダ贈呈,台湾留学生優遇措置,台商の陳情受付機関設置,国共両党の交流拡大など,台湾住民にとって身近な議題で善意を示し,中国脅威論を唱える陳政権の支持基盤を切り崩そうというものである。これらは中国政府の一方的発表で,台湾政府の頭越しに実施された。4月6日,呉サ燮(大陸委員会主任)は,「台湾政府の了承を得ていない野党が中国と勝手に協議をし,それが実施されていくなら政府はここで何をするのか」と立法院で発言したが,その通りの展開となった。
 連戰訪中後,中国は,台湾住民に向けては友好的ジェスチャーを繰り出しているが,台湾の国際的地位に関しては従来通りの硬い態度を変えていない。陳政権が要求している世界保健機構(WHO)への加盟は中国によって拒否されている。2005年5月,鳥インフルエンザへの国際的連携が議題の一つであった世界保健大会(WHA)にも台湾は参加できなかった。陳水扁は,10月にAPEC首脳会議の代理出席問題で仕掛けたが,不発に終った。馬英九からは,「総統は最近気分があまり安定していない。休息を多く取り,テレビに出るのは控えた方がよい」と皮肉られる始末であった(『中時晩報』「馬籲扁:少上電視多休息」2005.10.18)。
 中国側が2005年に用意していた「球」は出尽くした。中国の攻勢が一段落したことで,陳水扁にようやく攻めのチャンスが訪れた。2006年に入り,陳水扁は,国家統一委員会および国家統一綱領を事実上廃止した。これは就任演説の「4不1没有」の約束に違反するが,陳水扁はあえて波風を立てたのである。これまでのところ,中国側は定型の警告をしただけで陳水扁を相手にしていない。今後中国は,2008年総統選挙で当選が予想される国民党の馬英九主席に照準を合わせていくであろう。だがそのためには,馬英九が堅持する「一つの中国=中華民国」論にどのような妥協案を用意するかが問題となる。これは,胡錦濤指導部としても簡単には投げられない「球」であり,2005年のように台湾政策が順調にいくとは限らない。(2006.03.30記)

  陳水扁再選後の中台関係   (その2)2006年は こちら
 (その3)2007年は こちら
 

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