陳水扁再選後の中台関係(その2)
―― 2006年 ――
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東京外国語大学
小笠原 欣幸

フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪ ---   1.政権の軸足
  2.台湾の対中政策
  3.中国の台湾政策
    2006年のまとめ
  
  陳水扁再選後の中台関係
(その1)2005年   (その3)2007年
--- --- フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪

 1.政権の軸足

 2005年中国の「変化球」攻勢に翻弄された陳水扁総統は,2006年に入り反撃を始めた。陳総統は,2006年の「元旦談話」において,強い調子で台湾アイデンティティの堅持を訴え,「台湾新憲法」への意欲を示した。対中経済政策については,2001年に定めた「積極開放・有効管理」を改め「積極管理・有効開放」へと転換することを表明した。2月には「国家統一委員会」および「国家統一綱領」の廃止(以下「廃統」と略記)を発表した。これは,2000年および2004年の総統就任演説での公約(四不一沒有)を転換するものである。これらの転換の背後には,陳水扁の三つの計算があった。一つ目の計算は政権基盤の立て直し,二つ目は対中政策の調整,三つ目は総統退任後の自身の定位である。この連立方程式の答が,政権の軸足を独立派寄りに移すことであった。
 陳政権の第一期は,正義連線派(陳水扁派)と新潮流派を支柱として党内支持基盤を形成した。第二期も同じ形でスタートしたが,新潮流派は概して陳水扁の政権運営に批判的になり,また,ポスト陳水扁をにらんで党内派閥の再編成が始まっていた。そのような状況の中で,2005年末の県市長選挙で民進党が大敗したことで,陳水扁は任期を2年半も残しながら求心力の低下に直面し,政権の支持基盤を再構築する必要に迫られたのである。まずは,政府首脳人事で人心を一新する必要があった。陳水扁は,行政院長を,折り合いの悪い謝長廷から蘇貞昌へ交代させることを考えていたが,実力者である謝の更迭を正当化するため,政策枠組の転換を打ち出しておく必要もあった。
 一方,対中政策では,2005年は中国に揺さぶられたので,陳水扁としては体勢がぶれないよう政権の軸足を定めたうえで反撃に出る必要があった。国共連携に対抗し,政権としての主体性を発揮するには,あいまいな中間路線よりも,独立派が主張する対中強硬路線の方が効果的であった。また,国民党の主席に就任した馬英九に対抗するためにも明確な対中政策が必要であった。独立派は様々な個人・グループがあり,組織としてまとまっているわけではない。しかし,2004年2月28日の手護台湾(南北に手をつないで台湾擁護を訴える活動)に100万人規模の人々が参加したことに見られるように,独立派の言説が緑色の支持者に与える影響力は大きい。陳水扁は,独立派の大物を総統府資政,国策顧問という形で処遇してきたが,政権運営で依存する関係ではなかった。2005年2月に陳水扁が宋楚瑜との10項目合意を発表した際には,独立派から袋叩きにあい,陳水扁と独立派との関係はむしろ冷却化していた。
 しかしながら,陳水扁には自身の将来を考えておく必要もあった。2008年の総統退任時で,陳水扁はまだ57歳である。在任中さしたる実績もなく側近や家族がスキャンダルにまみれた総統という不名誉な評価の定着はどうしても避けたい。対中関係の膠着状態を打開しようにも,その可能性はほとんどない。2000年総統選挙で「台湾の子」を売りにした陳水扁が,退任後,高齢の李登輝に代わって独立派の盟主となり存在感を示すというシナリオを考えたとしても不思議はない。実現の可能性がなくとも「台湾新憲法」の目標を掲げることは,台湾アイデンティティの強化と共に自身の求心力の強化にもつながる。陳水扁は,独立派寄りに移動することで政権維持と共に退任後の活路を見出そうとしたのである。
 加えて,独立派の人々には民族保守の感情があり,政権運営の清濁よりも台湾への立場で是非を判断する傾向がある。不祥事に苦しんでいた陳水扁にとって,台湾を守るならどこまでも陳を支持する勢力というのは非常にありがたい存在である。しかし,独立派と新潮流派とは対立関係にあったので,陳水扁は慎重に軸足を移動した。2006年の陳水扁の政権戦略は,従来の派閥が流動化していく中で,陳水扁直系の「保皇派」(どのような状況でも陳を擁護するのでこのように呼ばれる)を核とし,新潮流派の一部との連携関係も残しながら,独立派の政策と言説を取り込み,支持基盤を安定させるというものであった。その基盤に立って政策として出してきたのが,「積極管理」と「廃統」であった。

 2.台湾の対中政策

 積極管理
 「元旦談話」で発表した「積極管理」は,「台湾経済の命脈を中国に握られないように」対中投資の拡大および中国市場への依存度の増加に政府として一定の歯止めをかけるという決意表明であった。2005年の台湾の対外投資のうち,対中投資は実に71%を占めている両岸經濟統計月報第157期。同じく2005年の台湾の輸出総額のうち,中国・香港向けは39.1%を占めている。2位のアメリカ向けが14.7%,3位の日本向けが7.6%であるから,中国の比重は突出して大きい。なお,2005年の台湾の輸出入を合計した貿易総額では,中国・香港が26.2%,2位の日本が16.1%,3位のアメリカが13.2%である国際貿易局統計。多くの台湾人が中国でビジネスを展開していることはもはやニュースではないが,台湾の国家安全保障の元締めである国安局長の弟でさえも上海の某企業で総経理をしていることが発覚した(『中国時報』「太離譜 国安局長胞弟大陸經商」2006.1.26)
 独立派は,台湾企業がこのまま中国傾斜を続けていけば,経済を使った中国の揺さぶりはますます効果的になる,と危機感を表明していた。対中投資が増えることは,台湾の投資資金と産業の流出を意味し台湾国内の構造的な失業問題につながるし,台湾企業の中国生産シフトは中国経済の競争力を強め中国産商品が国際市場で台湾産商品を脅かす事態を招いている,というのが独立派の認識である。
 だが,「積極管理」方針を受けて政府内各部門で取りまとめた具体策は目新しいものではなかった。主な措置は,両岸の貿易・金融・人員の往来の管理目標の設定,中国以外の輸出市場の開拓(台湾経済のグローバルな展開),農業技術・品種の流出の監視の強化,各種のリスク管理などである。一定額以上の対中投資および敏感な科学技術関連の対中投資には,従来の専案審査の前に政策審査を行なうとして厳格化を図った(大陸委員会「両岸經貿積極管理有效開放配套機制」。これは,台湾企業の大陸投資を東南アジアなどに分散させることを狙った李登輝の「戒急用忍」政策の焼き直しである。
 台湾の対中経済政策は揺れ動いている。台湾は李登輝時代に「両岸人民關係條例」(1992年)を制定し正式に中国との経済貿易関係をスタートさせたが,中国熱が過熱したので「戒急用忍」(1996年)に切り換えた。しかし陳水扁時代に入り,経済界からの要望で「積極開放」(2001年)に軌道修正したものの,台湾経済の中国依存度が高まり,また「積極管理」(2006年)へと転換した。このようなストップ・アンド・ゴーの状態は,政府の無定見として批判することも可能であろうが,グローバル化が中国化と等しくなっている台湾の特殊な経済状況と,中国との緊張関係から逃れられない政治状況との間で揺さぶられた結果ととらえるべきであろう。
 それでは「積極管理」政策の効果はどうだろうか。短期的データで評価するのは不正確ではあるが,2006年の数字を見ておきたい。2006年の台湾の対外投資のうち,対中投資は64%で前年より7ポイント減少した。2006年の台湾の輸出総額のうち,中国・香港向けは前年より0.7ポイント増加し39.8%となった。2位のアメリカ向けは0.3ポイント下がって14.4%,3位の日本向けも0.3ポイント下がって7.3%であった。貿易総額では,中国・香港が1ポイント増えて27.2%,2位の日本が1.4ポイント減少し14.7%,3位のアメリカが0.3ポイント下がって12.9%であった国際貿易局統計。確かに対中投資は減少したが,これがトレンドとなるのかどうかは,まだ観察が必要である。民間の対中投資や貿易を抑制するために台湾政府が取れる手段は多くはない。中国の経済成長が続く限り「積極管理」の実効性はあまり期待できないのが実情であろう。

 行政院長の交代
 「元旦談話」は,独立派寄りの支持者から好感をもって迎えられた。独立派の長老の辜ェ敏,彭明敏,黄昭堂らも支持を表明したし,独立派に近い『自由時報』の投書欄には賛同のコメントが多数掲載された。投書欄の中に興味深いコメントがある。独立派寄りの知識人の団体である台湾北社の陳昭姿(副代表)は,「総統が今日(元旦談話で)示した目標は,理念が一致した内閣チーム,特に行政院長,を求めてこそ実現可能になるのではないか,ということを指摘しておきたい」と書き,「元旦談話」に呼応して行政院長の交代を求めている(『自由時報』「自由廣場」2006.1.2)。謝更迭の環境作りという陳水扁の狙いの一つは当たったと解釈してよいであろう。
 陳水扁はこの流れに沿って,謝長廷を更迭し蘇貞昌を行政院長に起用した。謝は「和解共生」を唱え,対中関係で,中国人觀光客受入や貨物チャーター便の問題で中国側との交渉に積極的であったので,「元旦談話」の方針と合わなかったことは事実である。実際,謝は,更迭が決まってから,「自分の両岸政策は陳水扁とは異なっていた」と不満を漏らした(『聯合晩報』「両岸直航 謝揆:我與當權者不同調」2006. 1.20)。しかし,陳水扁の計算はそれほど単純ではない。
 興味深いのは,陳水扁が,政策面では新潮流派の反対する「積極管理」を取り入れながら,人事では新潮流派に近い蘇を起用したことである。謝長廷と新潮流派とは,過去の派閥対立の怨念から関係が悪かったが,対中政策では実は考え方が近かった。新潮流派は「積極定位・自信開放」を主張し,長老格の洪奇昌は「積極管理」を批判した。陳水扁は,政策では独立派寄りに切り換えたが,人事で蘇を起用することで新潮流派の不満をなだめたのである。行政院長の交代は,政権基盤の観点から言うならば,軸足を独立派寄りに移しながらも,新潮流派との関係も切らない,しかも,陳水扁の後継候補の四天王(特に謝と蘇)の均衡を保つという,よく計算した一手であった。

 国家統一委員会および国家統一綱領の廃止
 「国家統一委員会」および「国家統一綱領」は,李登輝政権初期の1991年に作られた。その後,李登輝が「中華民国在台湾」という概念を打ち出し,統一に言及しなくなったため,実質的な意味はなくなっていた。しかし,陳水扁が総統就任演説でわざわざこれを廃止しないと宣言したことに見られるように,「国家統一委員会」と「国家統一綱領」があることによって,台湾は統一という目標を放棄していないということを示し,中国に介入の口実を与えないという効用はあったのである。民進党内にもこの効用を認める見解はあった。新潮流派の立法委員である李文忠と林濁水は,「国家統一委員会」と「国家統一綱領」は台湾人民多数の意向を代表していないので早くに廃除されてしかるべきものであったが,今わざわざ持ち出すのは聡明なやり方ではないし,「四不一沒有」に反し信用を失うことになると批判した(『聯合晩報』「李文忠:廢統論不智、失信」2006.2.8)
 独立派は,かねてから「国家統一綱領」のような統一を目標とする基本文書があることにより,中国の主張に正当性を与え台湾の国際的生存空間が圧迫されると考えてきた。独立派は,考試院長の姚嘉文を通じて「廃統」を申し入れ,それを陳水扁が採用したようだ(『中国時報』「黄昭堂透露扁決策過程」2006.1.31)。陳水扁が「廃統」に転換したのは,すでに述べたように,@独立派の支持を得ること,A中国への反転攻勢に使うことが目的であった。また,B統一を否定しない国民党の馬英九主席との違いを打ち出すのにも好都合であった。
 「廃統」は総統の権限で実施できるので野党の反対は重要ではなかったが,陳政権は,中国とアメリカの反発をどの程度折り込んでいたのであろうか。中国については,「廃統」自体は実質的にはあまり意味がないので中国が軍事行動に出るとは考えられないし,「廃統」によって中国の「硬軟両手策略」の「軟」がどの程度のものかを試すことができるという読みがあったであろう。さらに,2008年総統選挙に向けて中国が態度を硬化させれば民進党にとってかえって都合がよいという計算もあったであろう。
 しかし,アメリカの反応は,陳政権にとってやっかいなものになった。ブッシュ政権は,2003年の住民投票問題以降,陳水扁の動きを警戒するようになっていた。台湾海峡の現状を変更させないというアメリカの警告はだんだん強まってきた。陳総統が「廃統」の意向を示したことに対し,アメリカは予想より強い反発を示した。公式声明では「現状を変更しないことを望む」という型どおりのものであったが,水面下では,国務省関係者が「四不一沒有」を再度表明するよう要求してきた。米政府担当者の反応は「憤怒」と形容するしかない,という報道もあった(『自由時報』「美官員:盼確保両岸現状;不變」2006.2.3)。米台間で相当のやり取りがあった末,陳水扁は「廃止」(abolish)を「終止」(cease to)と言い換えることでアメリカの圧力をかわした。最後には了解を得たとはいえ,国務省関係者が陳政権に不信感を募らせたことは間違いなかった。※「国家統一委員会」については“cease to function”,「国家統一綱領」については“cease to apply”と表記した。

 パンダ受け入れ拒否
 「元旦談話」で陳政権が独立派寄りに軸足を移動してからは,パンダの受け入れ拒否は規定路線であったと言える。中国側は,台湾に贈られるパンダを2頭選び,中国中央テレビ局の視聴者の投票により「団団」と「圓圓」という名前をつけ準備を進めていた。台湾内でパンダの受け入れを正式に申請した台北市立動物園と民間の六福村動物園について,行政院農業委員会(農林省に相当)は,専門家による審査委員会を設置し検討を行なった。3月31日,審査委員会は,両動物園とも飼育のための設備と人材が十分ではないし,野生動物は現地飼育が望ましいという技術的理由で申請の拒否を決めた(『中国時報』「12名審委一致通過 舉保育大旗 熊猫不准來」2006.4.1)。ただし,陳水扁は「ワシントン条約に照らして,無料,無条件でパンダを受け入れることは,台湾が中国の一部であることを認めることに他ならない」と述べ,政治的理由で拒否したことを公言した(「阿扁総統電子報」2006.4.6)。国民党はこの決定に抗議し,パンダを待ち望んでいた人たちからは失望の声があがったが,大きな抗議行動にはならなかった。

 3.中国の台湾政策

 廃統問題
 2006年の胡錦濤政権の対台湾政策は,2005年に引き続き「機動的アプローチ」を使って陳政権を孤立させることを基本としていた。その主たる手段は,国民党との連携および台湾の民意へのアピールで陳政権を牽制することである。加えて2006年は,アメリカが陳政権を牽制するという動きが目立った。
 「廃統」の動きは中国にとって本来座視できない問題であるが,胡錦濤指導部は陳水扁の挑発に乗らないように抑制的に対応した。共産党中央の台湾工作弁公室と国務院の台湾事務弁公室は「台湾地区に厳重な危機を引き起こし,アジア太平洋地区の和平と穏定を破壊する」と「廃統」を非難したが,型どおりの批判声明に止め,脅しと受け取られる言動は避けた。中国は怒りを露にはするが,かなり忍耐強くなっている。
 中国が「廃統」問題を決して軽視しているわけではない。2月28日,胡錦濤国家主席は,訪中したスイスの国防大臣との会談で「廃統」は「台独の道を進む危険な一歩」だと批判した。3月2日,温家宝首相は,ドイツのメルケル首相との電話会談で「廃統」に言及し陳水扁を批判した。同じく3月2日,曾慶紅国家副主席も,ロシアの内務大臣との会談で「廃統」を非難した。全国政治協商会議は,「廃統」を受けて3月13日に反台独決議を行なっている。その後もしばらくの間,国共両党の会談の機会などをとらえて,胡錦濤ら党幹部による「廃統」非難は続いた。だが,中国側に台湾の「廃統」を阻止する手段がないことも事実である。
 『人民日報』は,@陳水扁が台湾の主流民意から離反していること,Aアメリカを始めとする国際社会が「廃統」を批判していること,を報道の軸とした。『人民日報』と「人民網」サイトは,台湾の民意調査で「廃統」への反対意見が賛成を大きく上回っていることを紹介し,「アメリカおよび国際社会は“廃統”“台独”に反対している」と繰り返し強調することで,台湾の内外で陳水扁と「台独勢力」が孤立していることを印象付けようとしている。ここには,中国共産党内部の不満と動揺を鎮める目的も垣間見える。中国側は,アメリカが当初陳水扁を批判しながらその後圧力を緩めたことに不満を抱きながらも,アメリカを通じて陳政権を牽制する路線を継続した。
 そのアメリカは,陳水扁のトランジット待遇を格下げすることで中国の期待に応えた。陳水扁は毎年のように中南米の台湾と国交を有する諸国を訪問し,その航路の途中トランジットという名目でアメリカに入国している。ブッシュ政権との蜜月が続いていた2001年5月のトランジットでは,往路でニューヨークに2泊滞在,帰路ではヒューストンに立ち寄り,共和党の議員との面会も実現した。2003年11月においても,往路のニューヨーク滞在中に演説をしたりメディアの取材が許可されたりするなど,米政府から好意的待遇を受けた。2004年以降,待遇ははっきりと悪くなったが,それでも米本土の立ち寄りは認められた。
 「廃統」をめぐって米台の摩擦が生じた後の2006年5月,陳水扁はパラグアイとコスタリカを訪問した。台湾側は往路にサンフランシスコ,帰路にニューヨークへの立ち寄りを希望したが,アメリカ側は米本土の立ち寄り拒否し,代わりに往路ホノルル,帰路アンカレジを提示し,給油のみを認め宿泊は認めないと通知してきた。台湾各紙は,これは陳総統の「廃統」に対しアメリカが不快感を示したもので,ブッシュ大統領自身の裁定であったと報じている。この待遇格下げに,今度は陳水扁が不快感を示し,アメリカでの給油予定をキャンセルし,遠回りをして,往路は台湾からアブダビ経由でパラグアイに到着した。帰路もアメリカを経由せず,リビアで給油し台湾に帰国した。中国は,これでだいぶ溜飲を下げたようだ(『人民日報海外版』「“迷航外交”閙劇如何收場?」2006.5.8,「陳水扁“迷航之旅”的政治盤算」2006.5.9,「陳水扁搬起石頭[石匝]自己脚」2006.5.15,「“過境外交”走入死胡同」2006.5.16)。「廃統」問題以外でも,陳水扁が,新憲法制定,台湾の名義での国連加盟など中国を刺激するような発言をするたびに,アメリカ国務省は,陳総統の「過去の承諾の履行」を求める声明を出している。米中台の三角関係は,現状維持を方針とするアメリカが,中国よりも台湾を牽制するという構図が定着しつつある。

 国共連携の継続
 2006年も国共両党の連携を示す各種の会談が行なわれた。2006年,国民党と共産党との公式会談は,以下に触れる連戰−胡錦濤会談や両岸経済貿易フォーラムなど,少なくとも5回行なわれた。2006年2月22日,国民党の曾永權(政策会執行長),張榮恭(大陸事務部主任)らが訪中し,両岸チャーター便および大陸住民の台湾観光問題について中国側と話し合った。中国側は台湾政策の責任者の陳雲林主任を始め,国台弁の経済局長,交流局長,および,航空運輸,旅行業務の実務者らが応対した。
 次いで4月14日,北京で両岸経済貿易フォーラム(両岸経貿論壇)が開催され,連戰が,国民党の副主席4名,党役員,立法委員多数を率いて訪中した。このフォーラムには,国共両党の関係者,両岸の企業家ら400名が参加した。フォーラムに引き続き,第二回連戰−胡錦濤会談が行なわれた。このトップ会談自体は儀礼的なものであったが,フォーラムに台湾の代表的企業・企業集団(鴻海、潤泰、長榮、鴻海、中信、華新麗華、台泥、中国航運、日月光、力晶半導體、遠雄、裕隆、富邦など)の経営者が多数参加したことは注目される。
 中国政府は,このフォーラムに合わせて,台湾の果物,野菜,水産物の輸入拡大につながる優遇措置を発表した。主たる措置は次のようなものである。輸入を許可する台湾産果物は,台湾オレンジ(柳橙),レモン,ドラゴンフルーツ,メロンが追加され,18種類から22種類に拡大された。チンゲンサイ,ニガウリ,ヘチマなど11種類の野菜の輸入も初めて許可され,かつ,ゼロ関税とされた(2006年5月1日から実施)。台湾からの農産物輸入の便宜を図るため,厦門市に「台湾水果銷售集散センター」が設置されることになった。
 陳政権は,「国共両党の両岸経済貿易フォーラムは民間交流に属する」と位置づけ,批判を加えつつも「冷静に処理する」ことを決めた(『自由時報』「国共論壇閉幕 陸委会提警訊」2006.4.16)。前年と異なり陳政権が落ち着いた対応を示した背景には,国共両党がいくら合意しても両岸直行便などの重要政策は台湾政府の関与なしには実現しえないという法的建前論に加えて,@中国の「変化球」にはだいぶ慣れたこと,A台湾の民意が中台の経済関係拡大を圧倒的に支持しているわけではないこと,があった。とはいえ,中国側がユニラテラルに実施できる措置をわざわざ国民党と協議した上で発表することは,陳政権にとっては嫌な行為である。9月には国民党の江丙坤副主席が,前年に続きまた訪中し,台商の合法権益の保護に関する国共工作会議を行なった。これは2005年11月の第一回会議に次ぐもので,両党は,台商の大陸投資の保護,税金の優遇,中国在住の台湾人の医療,両岸にまたがる密輸・麻薬・詐欺などの取り締まり強化などを話し合い,合意事項を発表した。

《表》中国国民党と中国共産党との公式会談(2006年)
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内容(場所)
国民党の主要参加者
共産党の主要参加者
2月22日
両岸チャーター便および大陸住民の台湾観光促進に関する工作会議(北京) 曾永權(政策会執行長),張榮恭(大陸事務部主任) 陳雲林(台湾工作弁公室主任),李炳才(同副主任)
4月14日〜15日
第一回両岸経済貿易フォーラム(北京) 連戰(栄誉主席),呉伯雄(副主席),江丙坤(同),関中(同),林益世(同),郁慕明(新党主席) 賈慶林(政治局常務委員),曾培炎(政治局委員,国務院副総理),陳雲林
4月16日
第二回連戰胡錦濤会談(北京) 連戰(栄誉主席) 胡錦濤(総書記)
呉儀(政治局委員,国務院副総理)
9月18日
台商の合法権益の保護に関する第二回国共工作会議(北京) 江丙坤(副主席) 鄭立中(台湾工作弁公室副主任)
10月17日
第一回両岸農業合作フォーラム(海南省博鰲) 連戰,呉伯雄,江丙坤,関中,林益世,章仁香(副主席),郁慕明,鐘榮吉(親民党副主席) 賈慶林,呉儀,陳雲林
※『人民日報海外版』を参照し筆者作成。

 2006年10月17日,国共両党は,農業に的を絞った両岸農業合作フォーラム(両岸農業合作論壇)を海南省の博鰲で開催した。当初,国共両党は台湾での開催を予定していたが,陳政権が陳雲林の訪台を認めないことが確実になったため,場所を中国に変えた。台湾側は,国民党の連戰,親民党の鐘栄吉,新党の郁慕明らが参加した。中国側は,共産党の賈慶林,呉儀,陳雲林らが出席した。このフォーラムでも,中国側は台湾への優遇措置を提示し主導権を発揮したが,互恵互利,共同発展,ウィン・ウィン(双贏)という用語の比重も高まり,中国農業と台湾農業との競合関係も見えてきた。発表された合意項目は,台湾産農産物の中国での商標登録,台湾産を偽装する農産物の取り締まり,台湾産農産物が中国内の市場に迅速に到達できるようにルートを確保するなどの具体的措置も含まれてはいたが,抽象的な事項が多かった。
 中国側は,「台湾農民創業園」という区域を各地に設置し,台湾の農業関連団体や企業との協力関係を強化する意向だが,中国農業の競争力強化を図りたいという経済上の本音が窺える。台湾からの農業投資,農業技術,農業品種を導入し中国の低コスト生産と組み合わせる。これが中国側の考えるウィン・ウィンだが(『人民日報』「両岸農業合作走向双贏」2006.10.17),台湾の農業品種を台湾人の資本とノウハウを使って中国で生産することは,台湾産農産物の輸入解禁前であればよかったが,今後は中国市場で台湾産と競合したり,あげくの果てには工業製品のように台湾に逆輸出されたりする状況も考えられる。台湾で生産し台湾から中国に販路を拡大したいという台湾農民の希望とは必ずしも一致しないのである。中国側は,政治的理由があるとはいえ,際限なく台湾農業を優遇するわけにはいかないであろうし,台湾側は,市場原理に則った中国市場開拓努力の方がむしろ展望が開けてくるであろう。農業に関する国共両党の政治協議は,効果もあるが限界も表面化してきたと言える。
 農業に関しては,国民党だけではなく,台湾省農会や台湾區青果輸出業公会など台湾の農業関連団体が,2005年後半から中国とのパイプを作り,台湾産農産物の対中国売り込み活動を始めている。台湾省農会の張永成総幹事ら農会幹部は,訪中して直接中国当局と接触し,台湾農産物の産地証明,検疫,関税,運送などの技術的問題を話し合った。台湾省農会は,民進党政府に頼らず,中国における台湾産果物の認知度アップや市場開拓の努力を行なうと共に,豊作貧乏になった台湾バナナや台湾オレンジの買い入れ契約を中国側から取り付けるなど,積極的な活動を行なっている。『人民日報』で報じられた2006年の台湾省農会の主な動きを追ってみる。
 4月20日〜22日,国際蔬菜科技博覧会が山東省寿光市で開催された。台湾省農会傘下の各県市農会など80団体が参加し台湾農産物の展示を行なった。5月18日〜22日,福建省福州市で開催された海峡両岸経貿交易会にも台湾の農業関係の70団体が参加した。7月10日,また福州市で両岸農業合作生産販売組織研修会が開催された。10月16日〜19日,廈門市において,海峡両岸農業合作成果推介会が開催された。台湾産農産物の展示販売ブースは100個以上も並んだ。台湾省農会は,2007年に,さらに規模を大きくした台湾産農産物キャンペーンを上海,南京などの大都市で開催することを計画しているようだ。
 ところで,『人民日報』で動向が報じられた台湾の農業関係者には,雲林県の地方派閥である張榮味派の人物が含まれている。最も頻繁に登場する台湾省農会総幹事の張永成は,張榮味の妹張善麗(雲林県選出立法委員)の夫である。『人民日報』が紙面を割いて張永成のインタビューを掲載していることから,中国側も重視していることがわかる。台湾オレンジの大陸売り込みに関与している張碩文(雲林県選出立法委員)は,張榮味派の大幹部の息子である。県産農産物の販路開拓に努める雲林県農会総幹事の林啓滄は,県政府で張榮味県長の機要秘書を務めていた。中国が厦門市に設立した「台湾水果銷售集散センター」には260戸の台湾果物農家が登記し販売準備を進めているが,その多くは南投県と雲林県の農家であるとのことだ。雲林県は,2000年と2004年の総統選挙で陳水扁当選のカギになった地区である。中国側はその緑の票田に楔を打ち込もうとしているようでもあり,非常に興味深い動きである。
 中国は,かねてより大小の会議,シンポジウム,見本市などの両岸交流事業を多数開催してきたが,国共連携が起爆剤となり,交流事業はより活発になり様々な分野に及んでいる。2006年7月,中国は台湾の学生1300人を招待してサマーキャンプを実施した。2006年9月,台湾の媽祖信徒4300名からなる大参拝団が発祥地の福建省湄洲を訪問した。台湾人の媽祖信徒のお参りは以前からあるが,これは史上最大規模とのことである。2006年11月には,両岸法学フォーラムが北京で開催され,両岸の法律専門家,学者ら150名が中台貿易の法的問題を討論した。こうしたことからも,中国共産党が,陳政権を相手にせず「台湾人民に希望を寄せる政策」に積極的に取り組んでいることが窺える。
 これらは「硬軟両手」の「軟」であるが,「硬」も健在である。中国は,2006年もWHO(世界保健機関)の年次総会で台湾のオブザーバー参加提案を拒否した。11月のAPEC首脳会談でも台湾に対する譲歩は一切なかった。台湾の国際的生存空間は決して認めないという中国の強い姿勢はいささかも揺らいでいない。中国は台湾の外交関係切り崩しを目指し,台湾と国交を有する諸国に圧力をかけている。2006年8月,中国はチャドの切り崩しに成功した。これは,2005年10月のセネガルに続くアフリカにおける中国外交の成功例となった。2006年4月,温家宝が,台湾と国交を有する国が多い南太平洋を訪問した。この時は切り崩しには成功しなかったが,将来の国交樹立に向けて布石を打ったと見られている。

 2006年のまとめ

 2006年前半,陳水扁は政権の軸足を独立派寄りに移し対中強硬姿勢を見せた。「廃統」問題では,野党が,米中を怒らせ台湾を苦境に追い込むと厳しく警告したが,ぎりぎりで想定内に収まった。陳水扁は,対中政策で従来のレッドゾーンに一歩踏み込み,ここまでは大丈夫という領域を広げたのだが,これが台湾にどのようなプラスをもたらすのかは長期的に観察する必要がある。なお,陳水扁は2007年もこのやり方を踏襲する。
 2006年後半は,総統周辺の金銭スキャンダルが相次ぎ対中政策の新たな展開はなかった。「積極管理」は,2006年の終わりにはほとんど言及されなくなった。政府の側から民間の対中投資にブレーキをかけることがいかに難しいかということを物語っている。倒扁運動の嵐が過ぎた後の政権構造は,年初の構図が先鋭化し,陳水扁批判を一層強める新潮流派と,一層の擁護を唱える独立派およびその他の反新潮流派との対立が深まった。最終的に新潮流派がほぼ全面的に敗北し,陳水扁は政治力を維持した。
 一方,陳政権の軍備購入予算は2006年も成立しなかった。ブッシュ政権が,台湾向けにパトリオット・ミサイル,対潜哨戒機,ディーゼル潜水艦などの提供を約束したのは2001年であった。陳政権は,中国の軍備増強が台湾の安全保障の脅威になっていると世論喚起のキャンペーンを行なっているが,国民党が反対の姿勢を変えないため軍備購入予算は立法院で審議入りもできない状態が続いている。国民党を通じて陳政権を牽制するという中国の台湾政策は,台湾の軍備強化を大幅に遅らせるという効果をあげている。
 2006年12月に発表された中国の国防白書(2006年中国的国防)では,台湾に触れたのはわずか1パラグラフのみで,しかも型どおりの“台独”批判をしただけである。これは,台湾住民の感情を刺激しないように対処するという胡錦濤政権の「機動的アプローチ」の一環である。2000年に台湾への武力行使の可能性をことさら強調する白書を発表した江沢民時代の「原則主義的アプローチ」とは大違いである。
 中国の清華大学戦略研究所の楚樹龍所長は,「ケ小平,江沢民と比べて胡錦濤ら現在の共産党指導部は,両岸統一を目標に掲げているものの統一を論じることはますます少なくなっている」と指摘している(『聯合報』「陳雲林:台灣 恐隨時修憲改現状」2006.9.21)。これは,「胡錦濤政権は対台湾政策では目標を高く設定していない」という松田康博氏の分析と符合する(国分良成編『中国の統治能力』2006年の松田康博執筆《台湾問題》を参照)。楚所長は,共産党指導部で「台湾問題解決の時間表を論じる人はいない」とも語っている。胡錦濤政権が対台湾政策の目標を現実的なレベルに引き下げたことで,かえって陳政権を効果的に牽制できていると言えるであろう。
 それでは,胡政権の「機動的アプローチ」がこのまま効果をあげていくと見てよいのであろうか? 確かに,中国の活発な両岸交流事業は,じわじわと台湾への影響力を高めていくことであろう。しかし,陳政権の頭越しに優遇策を見せていくやり方は,当初のインパクトが弱まってきた。両岸直行便や中国人観光客の来台問題などは中台の政府間で交渉しないと解決できない。国民党と連携し経済問題で具体的な提言を重ねていくことは,台湾の選挙民の間で政権交代への期待を喚起するという高度な戦略であるが,台湾の経済的利益がそのまま雪崩を打って中国に傾いていくわけでもない。
 本稿で触れた雲林県を例に取ると,雲林県の果物農家は中国市場への期待感を抱いているであろう。だが,同じ雲林県のタオル生産業者は低価格の中国産タオルに圧倒され悲鳴をあげている。台湾のタオル市場はいまや中国産タオルが7割を占めている。2006年3月2日,雲林県のタオル業者とその従業員1000人が台北でデモ行進をし,政府に救済を訴えた。雲林県政府によると,過去5年間で県内の19工場が廃業したが,そのうち10工場はタオル製造工場である(『聯合報』「毛巾廠歇業多 雲林縣長關切」2006.3.3)
 台湾の輸出産業を担ってきた中小企業は,まさに農民のパートで成り立ってきた。雲林県の農村で,バナナやオレンジを中国に輸出できる農民もいれば,パート先のタオル工場が閉鎖され収入を失う農民もいる。両岸交流から程遠いと思われる雲林県の農村も,中台の経済関係の矛盾の最前線にある。陳政権が中国の「変化球」攻勢で浮き足立ったのも,落ち着きを取り戻したのも,雲林県の事例からある程度の説明ができる。中国経済の成長は新たなビジネスチャンスであると同時に脅威である。両者は同時に進行し,小規模な台湾経済を翻弄する。中国との距離を保つのか,縮めるのか? 台湾は,当分の間この問いに答を出すことができないであろう。 (2007.05.30記)

陳水扁再選後の中台関係
(その1)2005年は こちら  (その3)2007年は こちら
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