台湾アイデンティティと「一つの中国」

 

− 李登輝政権の対中政策の展開 −

 

 

東京外国語大学

小笠原 欣幸

 

 

はじめに

 

  2000年3月,台湾の総統(大統領)選挙で野党民主進歩党の陳水扁候補が当選し,台湾政治は新たな段階を迎えた。中国は1996年3月の総統選挙の際に,台湾近海にミサイルを発射したのに続いて,今回は,独立派として知られている陳水扁候補の当選を阻止しようとして選挙に介入したが,かえって台湾人民の反感を買うことになった。中国と台湾との関係は緊張状態が続き,東アジア地域の大きな不安定要因となっている。台湾は,1980年代急速な経済成長を達成し,1990年代にはコンピュータ産業の「王国」とまで呼ばれるようになった。台湾は,政治体制の面ではすでに民主化を達成し,選挙による平和的な政権交代も実現させている。台湾の人々は自信を深め,同時に国際政治上の台湾の自己主張も高まってきている。これは台湾アイデンティティの現れである。

しかし,台湾アイデンティティが高まりつつあることは間違いないが,それがナショナリズムと直接結びつくかどうかは検討を要する。台湾においては,エスニシティ,アイデンティティ,ナショナリズムが複層的にからまりあっていて,どの角度から見るかによって台湾の「位置」も変わってくる。民主化後の台湾政治は,台湾とは何なのか,台湾に住む人々は何人なのか,何民族なのかという困難な問いへの回答を模索するプロセスでもある。台湾は,台湾アイデンティティと中国ナショナリズムという二つの強烈な潮流のうずの中にあり,中国と台湾との関係は,そのような台湾国内の政治変動と中国の政治体制とのぶつかりあいでもある。本稿では,台湾におけるアイデンティティと「一つの中国」に注目し,李登輝政権の対中政策の展開を整理したい。

 

 

1 「一つの中国」

 

1895年,日清戦争の結果,台湾は清朝政府から日本に割譲された。1945年,第二次世界大戦で日本は無条件降伏し,台湾は中華民国に接収された。1949年12月,中華民国政府は中国大陸での支配権を失い台湾に撤退した。この時から台湾海峡をはさんで,中国共産党が中国大陸を支配する国家(中華人民共和国)と中国国民党が台湾地区を支配する国家(中華民国)が対峙する関係が形成された。この敵対関係の根本は,中国共産党と中国国民党とによる中国の支配権をめぐる内部闘争であり,これについては,中国共産党が内戦に勝利し領土と人口の大半を支配したことにより形勢が決していた。だが,中華民国の方も,一種の亡命政権でありながら領土の一部を実効支配し続けるという,近代以降の世界史でもまれな事態が生じた。

  中華人民共和国の立場は,1949年10月1日の中華人民共和国の成立によって中華民国は転覆され,中華民国が所轄していた領土,主権,人民はすべて国際法の慣例に則って中華人民共和国が継承し,この中に台湾も含まれているというものだ。[1]一方の中華民国側は中華人民共和国の成立を認めず,国連での代表権も引き続き維持した。双方とも自己の正統性を主張するために用いた論拠が「一つの中国」である。それは,中国大陸と台湾を含めた中国という一つの国家があり,その中に叛乱勢力が不当に占領している地域があるという認識なのである。

しかしながら,中華人民共和国も中華民国も共に,支配する領土,人民を有し,自己の政府組織と軍隊を維持していた。国際的承認を主権国家の要件とする学説もあるが,多くの国が中華人民共和国を承認していなかった1950年代や60年代,中華人民共和国が国家でなかったとは言えないのと同様,多くの國が承認を取り消した1980年代以降の中華民国が国家ではないとは言えないのである。客観的には台湾海峡の両岸の関係は,両岸に二つの国家が存在するのだから事実上国家と国家の関係だが,双方とも相手を国家として認めないし,諸外国に二つの国家とは認めさせなかったので,主観的には「一つの中国」内部の「正統政権」支配地区と「叛乱勢力」支配地区との関係ということになる。当初,双方は軍事力による解決を目指して「台湾解放」あるいは「大陸反攻」というスローガンをかかげていたが,1960年代になると,軍事力を行使する局面が退き,海峡両岸の関係は敵対したまま没関係状態に転化していった。

中華人民共和国は,中華民国を中国の代表として承認している国にたいして圧力をかけ,台湾との国交断絶に追い込んでいった。1971年には国連ならびにその他の国際機関からも台湾を締め出すことに成功し,国際政治の場において,中華人民共和国の優位は不動のものとなった。あとは国民党政権の生存空間を時間をかけて締めつけていくという戦略でよかった。台湾を自国の一部とみなす中華人民共和国側にとっては,「一つの中国」を唱える国民党が台湾を支配していることはかえって都合がよかった。台湾側が分離独立の動きを見せない限り,現状維持の政策を続けることが可能であったからである。危険を冒して軍事侵攻・併合を急ぐ理由も特になかった。また,国内の社会主義建設,権力闘争,改革・開放政策の推進,といった差し迫った課題が山積し,台湾問題に集中する余裕がなかったのも事実である。

  一方,国民党の側は,敵対する海峡両岸関係を冷戦構造の中に位置づけ,アメリカから援助を引き出し,台湾地区存立の基盤を固めるのに懸命であった。国民党政権は,台湾において中国ナショナリズムをオフィシャル・イデオロギーとして強力に推進した。台湾人多数派の母語であるミンナン語を二等言語としてその使用を制限し北京語を推進,中国の歴史地理に傾斜し中国人としてのアイデンティティを植えつける学校教育,大陸中国の文化を礼賛し台湾土着の文化を軽視する文化政策などを行なった。「一つの中国」は単なる外交政策ではなく,この政治構造の中で理解されるべきである。すなわち「一つの中国」政策は,蒋介石政権が台湾における独裁体制を正統化するための中国ナショナリズムおよび中国人アイデンティティと一体の概念なのである。大陸反攻で共産党勢力を追い出し,中国を三民主義の原則で統一するという中国ナショナリズムを蒋介石政権は強力に推進した。その祖国統一の偉大な使命を担う人民は中国人以外にありえない。だがそれは台湾住民が中国人アイデンティティを持つことによってのみ意味を持ち,外省人が優位に立つ構造を正当化できるのである。

国民党としては,台湾内部においてどれほど道徳的優位を強調しても,中国共産党が失政を犯して政権を維持できなくなる事態を待つ以外に策はなかった。1970年代,台湾をめぐる軍事衝突の危険は遠ざかっていったが,その一方で,主要国が中華人民共和国政府を中国の唯一の合法的政府であると認めるようになったことで,台湾は国際的に孤立することになった。特に,1979年に,それまで台湾の政治経済体制を支えてきたアメリカが中華人民共和国の承認に踏み切ったことは,台湾に大きな衝撃を与えた。国民党政権の「外部正統性」が失われたのである。[2]

1980年代に入って,中国側はケ小平の主導権によって,香港回収工作を展望しつつ「平和統一」「一国二制度」を基本とする対台湾政策の原則を確立した。葉剣英の「台湾の祖国復帰と平和統一実現に関する政策方針」(葉9条)では,両岸の交流を呼びかけ,中国共産党と中国国民党が祖国統一のために第三次国共合作を行なうことを提案している。ケ小平自身も「一国二制度」の下で,台湾は,軍隊を維持することができるし,パスポートを発行したりビザを発行したりする一定の外交事務を扱う特別の権利を有すると述べた。[3]

国民党は三民主義による中国統一を掲げ,中国共産党からの呼びかけには応じず,中華人民共和国とは「接触せず,談判せず,妥協せず」の「三不政策」を取ってきた。しかし,中国と台湾との間でしだいに人と物の動きが闇で拡大し,1987年蒋経國はついに「三不政策」を修正,二七項目の農工業原料の間接輸入を解禁し,中国大陸への肉親訪問を許可した。これらは台湾の経済活動の拡大と国内での戒厳令解除などの民主化政策と対応するものであった。蒋経國は「一つの中国」では何も変更しなかったが,父蒋介石の世代とは異なり台湾を仮の居場所ではなく永住の故郷として建設する必要性を認識していた。

 

 

2 李登輝政権の登場

 

中国にとって蒋介石以来の台湾の政権はどれも敵対政権であるが,李登輝政権が最初から特別の敵視の対象であったわけではない。中国共産党指導部は,李登輝個人にたいして好悪の判断をしていなかったようである。[4]李登輝総統は,蒋経国が開始した両岸交流の流れを引き継いだ。1990年,李登輝は北京で開催されたアジア大会に台湾代表団を参加させ中国側の歓迎を受けた。同じく1990年には大陸への間接投資と技術合作を許可し,香港など第三地点を経由することを条件として直接接触を回避する枠組みで両岸の交流拡大に踏み切った。

1991年には,蒋時代の「漢賊不両立」政策を放棄し,中国共産党を「反乱団体」と規定した「動員戡乱時期臨時条款」を廃止して,両岸関係を敵対から共存へ移行させる方向を示し,中国との対話の窓口として海峡交流基金会を設置した。同じ1991年には「国家統一綱領」を採択し,国家政策の基本を統一に置くことを再確認した。この「国家統一綱領」では,「中国の統一は……中国人共同の願望である」「大陸と台湾は共に中国の領土であり,国家統一の促進は中国人の共同責任である」と宣言している。後の李登輝の言動を見ると,この時李登輝がどれほど真剣に統一を考えていたかは疑わしく,国民党非主流派の動きを警戒して大陸政策の主導権をとるための術策であったという解釈もありうる。しかし,政権として見た場合にはまぎれもなく統一を目標においている。[5]こうした一連の対中政策の展開は台湾側の新思考を示すもので,中国にたいする最大の善意の表明であった。中国側も新華社を通じて「讚賞」の意を表し,[6]台湾との対話の窓口として海峡両岸関係協会を設置した。こうして民間団体を通じてではあるが,双方の対話の窓口ができた。

しかし一切の接触を拒否していた「三不」の時は問題にならなかったことが問題になってきた。両岸の郵便や通信などの実務を話し合う時に,それを国内問題に準じて処理するかどうかという問題がでてきたのである。中国は両会の実務会談に一つの国家内部の実務処理という枠をはめようとした。[7]そこで議論は「一つの中国」にも及ぶことになった。

1992年10月,香港において海峡交流基金会と海峡両岸関係協会との間で事務レベルの折衝が行なわれた。その際,双方は「一つの中国」の内容をめぐって,台湾側は「一つの中国」は中華民国を指すこと,中国側は「一つの中国」は中華人民共和国を指すことを主張しあった。台湾側は,「口頭で一つの中国の内容についてそれぞれ述べあう」ことを提案し,中国側も正面から同意したわけではないが反対もしなかったので,「一つの中国」についてそれぞれの解釈を述べ合うというコンセンサスができたとしている(一個中國,各自表述)。[8]中国側は,「一つの中国」原則を堅持し,同時に事務的話し合いの中では「一つの中国」の意味をめぐる不一致には触れないということを口頭声明方式で確認したのが1992コンセンサスだとしている。[9]両者はそれ以上の議論の応酬を行なわず,1993年4月シンガポールにおいて,海峡交流基金会の辜振甫董事長(台湾側)と海峡両岸関係協会の汪道涵会長(中国側)のトップ会談が実現し,両岸の本格的な接触が始まった。

李登輝政権の課題は,「一つの中国」という枠組みの中で,どのようにして台湾民主化の論拠を作り出すかということであった。民主化はもはや引き伸ばすことはできなかった。しかし民主化の行き着く先は台湾人民による台湾政権の登場を意味する。そして李登輝には台湾国内政治からの要請があった。それは,多数派本省人の願いである「台湾人出頭天」(台湾人が主人公となる)の夢をかなえることである。それは,狭義の「一つの中国」の枠には収まりようがなかった。

李登輝政権は,中国の主権を争う従来の立場を改め「一つの中国,二つの対等な政治実体」という概念を打ち出してきた。[10]李登輝は,中国大陸を支配している中華人民共和国を認め,蒋介石・蒋経國時代の硬直化した外交政策の軌道修正を図り,それを「実務外交」と呼んだ。蒋時代は「漢賊不両立」の方針で,中華人民共和国が中国大陸を実効支配している現実すら認めようとしなかったのである。中華人民共和国の名称自体が台湾では長い間タブーであり「中共」であるとか「共匪」と呼んでいたが,李登輝が初めて正式名称で呼んだ。

1989年3月,李登輝は絶えて久しかった総統の外遊を決断しシンガポールを訪問した。国家元首としての公式訪問でなければ外国訪問すべきではないという保守派の主張を退けて,李登輝が「台湾からきた総統」という呼称を受け入れて実現したものであった。[11]李登輝は国内の権力基盤を固めた1993年以降,同じ「実務外交」という名で,国際政治の場での台湾の生存空間を広げようとする積極的な対外政策を推進しはじめた。それは,蒋時代の硬直した外交政策に代えて台湾のおかれている現実に適応する柔軟な外交政策という意味での「実務外交」を超えて,台湾アイデンティティを明確に意識した「積極外交」であった。その狙いは中華民国(台湾)は主権独立国家であることを国際社会にアピールすることにあった。

李登輝政権はさらに,1993年国連再加盟の運動を開始した。1971年に中華民国が国連を退出して以来,国連再加盟は外交方針に掲げられることはなかった。中華民国として再加盟しようとしても中華人民共和国の代表権を認める国連決議が生きているし,それ以外の方法で国連加盟を模索しようとすれば,それは直ちに「一つの中国」との抵触につながり,統一独立論争を引き起こすからである。再加盟運動の気運が生まれたのは民進党の運動によるところが大きい。それは,もともとは民進党が提唱していた考えであった。ポイントは中国と代表権を争うというのではなく,政治実体として台湾の存在を認めさせようとするものであって,中国の参加権は触れることもなかったし,国連参加の形式や名称にはこだわらない意向であった。[12]

中国の主張を承認している国が圧倒的に多い現実においては,台湾の国連加盟が実現する可能性は低いが,2000万人の人口を抱える台湾という存在が国際社会で無視されていることへの問題提起を狙ったものである。これは「漢賊不両立」の考えを取る郝柏村が行政院長を辞任して動き出した。1993年行政院に「参与聯合国決策小組」が設置され,この年の国連総会で,台湾と外交関係を有する中南米の7カ国が,台湾の議席問題を研究する特別委員会の設置を求めた。[13]1995年の国連総会においては,ニカラグアなど29カ国が台湾の国連加盟を支持する発言を行っている。[14]

総統就任後の李登輝の外国訪問は,1989年のシンガポール訪問後しばらく休止していたが,1994年2月に「休暇外交」という名目でフィリピン,インドネシア,タイを訪問,ついで同年5月には「式典外交」の名でニカラグア,コスタリカ,南アフリカ,スワジランドを立て続けに訪問した。また,実現はしなかったが,1994年の広島アジア大会の際に日本訪問の強い意欲を示した。李登輝は,外交活動とは別に,軍の戦略調整に乗り出し,従来の陸軍中心主義から海空軍重視へと転換し台湾の防衛能力の強化を行なった。特に防衛戦略の柱となる空軍力では,アメリカからF16戦闘機150機,フランスからミラージュ2000戦闘機60機を購入することに成功し,空軍力を大きく向上させた。

 

 

3 アイデンティティの高まり

 

中国の対台湾政策の基本は「一つの中国」の枠組みの中に台湾を押しこんでおくことである。だから中国は,台湾の国際的な活動空間を決して認めようとはしなかった。オリンピックにも“Chinese Taipei” (中華台北)という名称で「地域」としての参加しか認めていない。台湾がアジア大会の誘致を希望しても認めようとしない。1992年に発足したAPECは経済体としての参加を原則としていたので台湾は“Chinese Taipei”という名称で首尾よく参加することができたが,非公式首脳会談への李登輝の参加を中国は拒否している。

しかし台湾は,経済力を背景にさまざまな国際活動への進出を企図するようになってきた。これら一連の動きはすべて,中国にとっては,祖国を分裂させ台湾独立を目指す動きと解釈された。一連の「積極外交」によって,中台関係の緊張の質が変化してきたのである。特に国連再加盟の運動については,中国の解釈では,加盟が実現するためには「二つの中国」を作り出すか,台湾が独立するかしかないわけで,中国側の警戒は一気に高まった[15]

中国は「一つの中国」原則を論ずる際に常に,@「中国は一つである」A「台湾は中国の不可分の一部である」B「中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府」という三段論法を使ってきた。中国が台湾の動向に警戒を深めていた1993年8月,国務院台湾弁公室が発表した「台湾問題と中国の統一」と題する白書でもこれは変わらなかった。しかし,1993年11月,APECシアトル会議に出席した江沢民が「台湾は中華人民共和国の一つの省」と述べ「中国」というクッションを外した。[16]これが李登輝ら台湾側の反発を招いた。台湾を代表してAPECに出席していた江丙坤経済大臣は江沢民発言に反発し「台北と北京は互いに隷属しない二つの主権国家である」と発言した。李登輝は司馬遼太郎との対談で「中国共産党は台湾省は中華人民共和国の一省なりという。変てこな夢ですね」と一蹴している。[17]

台湾を中国の一地方として扱い,台湾の国際空間を圧迫してくる中国への反感は,李登輝政権をして「一つの中国」政策の微妙な調整を行なわさせた。1994年7月行政院大陸委員会は「台海両岸関係説明書」を発表した。その骨子は次の通りである。「中華民国政府は断固として『一つの中国』を主張し,『二つの中国』と『一中一台』に反対する。しかし中華民国政府は同時に次のことを主張する。すなわち,両岸が分裂分治しているという歴史と政治現実の下で,双方はそれぞれが統治権を享有していること,および,国際的には二つの国際法人が存在している事実,さらに,その相互の関係は一つの中国の原則の下で分裂分治している二つの区で『一国内部』あるいは『中国内部』の性質に属しているということを十分体認すべきである。」この文書では「こうした主張は『二つの中国』あるいは『一中一台』とは完全に異なっている」としているが,「『一つの中国』とは,歴史上,地理上,文化上,血縁上の中国を指す」という新たな定義を示した。[18]

この時期李登輝政権が熱心に取り組んだのは,「アジア太平洋オペレーションセンター構想」である。この構想は,「世界の多国籍企業を吸収して台湾を経営または大陸市場を含む東アジア市場への進出の拠点としてもらい、それによってわが国がアジア太平洋地域で演じる経済の『仲介者』としての役割を強化すること」を目的とする。[19]具体的には,製造,金融,航空,海運,通信,メディアのそれぞれの分野で,多国籍企業の活動の拠点を台湾に置くよう働きかけ,これまで香港が果たしてきたいくつかの機能を台湾が取って代わろうとする野心的な計画である。この構想は,中国市場を後背地として擁する台湾が,自由で繁栄する海洋国家としてアジア太平洋地区の中核に位置するという新しいアイデンティティを志向するものである。 この構想自体はすぐに実現するものではないが,台湾の経済力の上昇と台湾アイデンティティの広がりという事態によくマッチした構想であることは間違いない。

  李登輝政権は「積極外交」や国連再加盟運動に取り組んだが,中国に敵対したり挑戦しようという言動はなかった。李登輝政権の論理では,これらは台湾アイデンティティ確立のために必要なステップであって,中国と敵対する意図もなかったし独立建国を目的とするナショナリズムによるものでもなかった。しかし,台湾側からの統一願望に水を差す出来事がいくつかあった。1989年の天安門事件は,中国共産党の独裁体制の本質をむき出しにした。蒋時代の文化教育政策で,抽象概念としての中国と中国共産党の現実の統治の実態とを分けて考えてきたが,天安門事件は中国=共産党独裁の事実をまざまざと見せつけ,中国統一を信じていた人々に冷水を浴びせ掛けた。

1994年4月には,浙江省千島湖で遊覧船に乗っていた台湾人観光客が強盗に襲撃・放火され24名が死亡するという悲惨な事件が発生した。中国は事件発生直後,遊覧船で火災が発生した「事故」として発表し,事実を隠そうとした疑いがもたれ,また身元確認のために現地入りした台湾の遺族の行動を拘束するなどしたため,事件そのものもショッキングであったが,中国当局の対応に台湾住民の強い憤りが募った。この事件を通じて,台湾人は党派を超えて,中国の政治体制と人権意識がどれほど台湾と異なっているか,そして,より感情的なレベルでは「中国は怖いところだ」ということを思い知らされた。

そうした国民感情をふまえて,李登輝総統からは,中国共産党指導部を指して「悪辣な勢力が徒党を組んでいる。これはまるで土匪と同じだ。……これらを政府と呼ぶことができるだろうか。この種の政府は市民からすでに打ち捨てられているはずだ」という激烈な発言が飛び出した。[20]この千島湖事件が台湾の民衆の中国観に非常に大きな影響を与えたことは,統一と独立に関する民意調査に鮮明に現れている。[21]天安門事件と千島湖事件という強い衝撃を受けて,自分たちと大陸の中国人が同じ国民だと想像することもできない人が出てくることは避けられなかった。その後人民解放軍のミサイル発射で,台湾人民の大陸中国への期待はますます失望に取って代わられた。同じ中国人という観念を受け入れていた人々の間で,中国と台湾は別という意識が高まり台湾アイデンティティを後押しすることになった。

 

4 分岐点:1995年

 

中国は,李登輝の「積極外交」の進展,台湾独立を目指す民進党の躍進などで危機感を深めて折にふれて警告を発してきたが,中国の支配権の及ばない台湾での出来事に決め手を持たないのも事実であった。江沢民政権は即座に強硬手段にでることはなく,局面打開の道を探り,1995年1月,八項目の包括的台湾政策を発表した。この江八項目では,中国は中華人民共和国であるとは明示せず,「一つの中国」が原則であることを強調しつつも,その内容についてはあいまい化を図った。 [22]講話の内容で注目されたのは,「両岸の敵対状態を正式に収束させる協議」の早期開始,および,江沢民と李登輝の相互訪問を呼びかけた点である。だが,内容以上に注目されたのは,講話全体のトーンが抑制されたものであったことである。双方が交渉のテーブルにつくことを期待させる要素が含まれていた。外国の介入と台湾独立にたいしては武力行使の可能性を留保しながらも,中国人は中国人を攻撃しないと表明し,武力行使の放棄宣言を協議開始の前提条件としている李登輝政権側に,中国共産党指導部として最大限の歩み寄りを見せた。

これにたいして李登輝は1995年4月六項目の講話を発表し江沢民講話への返答したが,注目を集めた提案については消極的な回答を行った。中国側が熱心に取り組んだ江沢民提案が台湾側から素気無い反応しか引き出せなかったのはなぜであろうか。基本的に江沢民政権の台湾問題認識は国共内戦の延長線上にある。だから,本来不倶戴天の敵である国民党にたいして「中国人は中国人を攻撃しない」とか「敵対状態の終結」を呼びかけたりすること自体が台湾にたいする大きな譲歩で,局面打開の切り札になると考えていた。つまり殲滅されて当然の国民党政権を生き長らえさせてやろうというのだから,大きな譲歩だというわけだ。だが,当の台湾では台湾アイデンティティが徐々に広がっていて,「一つの中国」を支配する政権の正統性を論じることへの関心はすでに薄れていた。本格的な交渉を開始する糸口をつかもうとした江沢民政権の意図は空振りに終わった。振り返ってみれば,李登輝政権と江沢民政権の対話の可能性が高まったのはこの時だけであり,それは李登輝の訪米発表によってあっけなく幕切れとなった。

李登輝の訪米に腹を立てた中国は,台湾対岸での軍事演習という目に見える形で台湾を「懲らしめる」行動に出た。台湾では株式市場が暴落するなどして不安感が高まった。中国の圧力はひしひしと感じられた。1996年の総統選挙に向けて中国の李登輝にたいする敵意は高まり,台湾にたいする威嚇を強めた。選挙の最中には台湾の高雄と基隆沖にミサイルを発射し,人民解放軍が台湾を海上封鎖する能力があることを顕示した。このためアメリカ軍の航空母艦が台湾周辺に出動する事態となった。

中国側がこれほどまでに厳しい姿勢を示したのは,李登輝の「積極外交」の背後に台湾ナショナリズムがあると考えているからに他ならない。単に北京への不満表明やローカリズムであれば,もっと余裕を持った対応も可能であろうが,台湾ナショナリズムは中国ナショナリズムと全面的に衝突し,中国共産党の支配の正統性を掘り崩す潜在的脅威となるだけに硬直的な対応にならざるを得ないのである。しかし李登輝自身は,まずは台湾人のアイデンティティを確立することが先で,台湾ナショナリズムを主張すべきではないと考えていたようだ。これは中国との関係だけを考えてのことではなく,台湾内部のエスニック・グループの問題および国家アイデンティティをめぐる深刻な対立を念頭においてのことだ。だから李登輝の考えでは,台湾の自己主張はしても,中国にたいして独立戦争を戦うつもりはない。しかし中国には,台湾のアイデンティティとナショナリズムを区別する李登輝の考え方は理解できないのである。

 

 

5 「戒急用忍」(急がず忍耐強く)

 

  台湾は,中国との経済交流にあたって,人であれ物であれ必ず第三地点を経由すること,民間の交流に限ること,という限定を課した。また,台湾資本が大陸に出て行くことには制限を低くする一方,中国が台湾に入ることには制限を課すという一方通行の原則を適用し,中国から台湾への輸入には許可制を採用,大陸中国人の台湾訪問は制限,中国資本の台湾投資は全面禁止という変則的な方式を採っていた。しかしこのような「間接,民間,単方向」の交流方式はしだいに圧力にさらされるようになってきた。[23]李登輝の支持母体である本省人系の企業や商人らからも政策転換の期待が強く寄せられるようになっていた。1995年の李登輝訪米後から96年総統選挙にかけての中台関係緊張の時期,中国で事業を展開している台湾人商人らが中国との敵対を望まないという発言を繰り返した。

総統選挙の期間中,李登輝をはじめ政権の幹部らは,選挙後は両岸関係の緊張緩和が図られるという観測を語り台湾人商人の動揺を抑えていたが,いざ選挙が終わってしばらくしてみると,李登輝は中国への投資を「急がず忍耐強くがまんする」という「戒急用忍」政策を提起した。1996年8月,李登輝総統は国民大会の席上,台湾企業による中国大陸への投資はすでに台湾の経済成長,産業のグレードアップに大きな圧力を構成しており,大陸を後背地として「アジア太平洋オペレーション・センター」を建設するという構想には検討を加える必要があると語り,関係部門にたいして大陸投資に制限を設定するよう要求した。[24]この発言によって「アジア太平洋オペレーションセンター構想」は大幅な後退を余儀なくされた。李登輝は96年9月全国経営者大会で「戒急用忍」という用語を用いて,中国大陸への投資が行きすぎていることを指摘し,台湾に根をおろす行動(台湾への投資)を求めた。その後政府は,中国にたいするハイテク産業投資,インフラ建設投資,5000万ドルを超過する投資プロジェクトを原則禁止項目に指定することを表明した。

台湾アイデンティティの高まりは台湾の経済成長なしには考えられないが,その台湾経済は,1990年代中国大陸という新たな活動領域を開拓した。台湾にとって中国大陸は貿易においても投資先としても深い結びつきを持つに至った。その中国は台湾アイデンティティを抑え込もうとして台湾へ政治的圧力をかけているため,台湾にとっては政治と経済の論理が対立し,対応は非常に難しくなっていた。「急がず忍耐強く」は錯綜した中台関係の矛盾を表している。李登輝政権第二期は,台湾アイデンティティを守る立場から台湾企業にたいして中国への投資抑制を求め,国内政治においては台湾省の廃止など憲法修正作業を進めた。台湾アイデンティティを確立しようとする李登輝政権の特色はさらに鮮明になった。

だが李登輝政権は中台関係の領域では慎重な対応を取っていた。「一つの中国」については,双方がその内容を述べ合う「一つの中国,各自表述」,「一つの中国」は「一つの分治した中国」という線で政権の意思統一を図り,李登輝,連戰,蕭萬長も対外的に同じ発言をしていた。[25]中国側も台湾への発言と諸外国向けの発言を使い分け敵対の態勢をいくらか緩めてきた。1997年,汪道涵が「一つの中国は中華人民共和国とも中華民国とも同じではない。……一つの中国とはまだ統一されていない中国,共同で統一に邁進する中国だ」と語ったのもその一例である。[26]中国外務省からは諸外国向けに「中国とは中華人民共和国」という発言がなされ,海峡協会幹部や国務院台湾事務弁公室幹部が台湾向けにはやや柔軟な解釈を示して観測気球を打ち上げるという使い分けが何度か行なわれた。[27]このように双方とも話し合いを呼びかけ,緊張状態は徐々に緩和していくように見えた。

こうして辜振甫の中国訪問が決まり,両岸関係は李登輝訪米以前の状態に戻ったという分析も現れた。しかし台湾を取り巻く国際関係には一つの動きがあった。それは1998年6月,アメリカのクリントン大統領による「三不政策」の表明である。その内容は,@台湾独立不支持,A「二つの中国」や「一つの中国,一つの台湾」の不支持,B(国連など)国家として参加する国際機関への台湾の加盟の不支持,の3点である[28]。この「三不政策」は1995−96年の中台関係緊張を憂慮したアメリカが,現状の安定化を狙い台湾側からの現状変更の動きを認めないことを表明したものである。クリントン政権は,このまま台湾でナショナリズムが高まっていけば中台の衝突は避けられず,その場合アメリカは望まない紛争に巻き込まれる危険性を感じ取っていた。

アメリカの戦略は台湾海峡の現状維持であった。従来通り中国側の武力行使にも断固反対することを言明し,日本にたいし,日米安全保障条約のガイドラインに台湾を含めるよう働きかけた。中国にたいしては,エンゲージメント政策で,積極的にかかわる中で安定を確保しようとした。こうした点から見れば,必ずしも大きな政策変更ではない。しかし,台湾にたいして台湾の側から現状を変更することを認めないという強いメッセージを発し,これまでになく細かな分野で中国の立場を承認したという点でアメリカの対台湾政策の変更であった。アメリカは,中台関係の危ういバランスを崩す要因として台湾の動きを警戒するようになり,「積極外交」を展開してきた李登輝と台湾内部でのナショナリズムの台頭を牽制することを狙ったものであったと言える。[29]

  クリントンの「三不政策」の表明後,李登輝は「両岸関係や我々の実務外交に衝撃を与えた」と認めたものの,アメリカの台湾政策は不変だとして平静を装った。[30]中台関係は実務レベルの準備が整い,辜振甫が1998年10月に訪中し,汪道涵との会談が1993年4月以来五年ぶりに実現した。会談では「一つの中国」をめぐりそれぞれの主張を展開し物別れに終わったが,辜振甫と江沢民(中国共産党総書記の名義で出席)との会見も実現し,両会の対話を継続することが確認され冷え込んでいた両岸関係にいささかの改善がうかがわれた。その後,汪道涵の台湾訪問に向けて両者の事務レベルで準備作業が行なわれ,1999年9月または10月に汪道涵が訪台することで合意ができた。[31]

 

 

  6 「二国論」と新たな緊張

 

  台湾では1999年4月以降,総統選挙に向けた各候補の活動が活発化し,政治の焦点は「ポスト李登輝」へと移りつつあった。残り任期が一年を切った李登輝が大きなアクションを起こせるとは思われていなかった。1999年7月9日,李登輝はそうした予測を覆し,ドイツの放送局ドイッチェ・ヴェレの取材に応じ,両岸関係を「特殊な国と国の関係」とする「二国論」を展開した。その核心部分は「1991年の憲法改正以来,すでに両岸関係は国家と国家として位置づけられ,少なくとも特殊な国と国との関係であり,『一つの合法政府と一つの反乱団体』,『一つの中央政府と一つの地方政府』といった『一つの中国』の内部関係ではありません」[32]というものだ。李登輝は,クリントンの「三不政策」で台湾の空間が抑え込まれたことにたいし反撃の機会を見計らっていたのだ。それが「二国論」であった。李登輝自身はこの時に「二国論」を発表した要因として,10月の中国の国慶節で,台湾は中国の一地方政府と宣言されたら大変だから(先手を打った),と説明しているが必ずしも説得力を持たない。[33]中国のこの種の発言はよくあることだからだ。

国際社会での理解を広めるという観点から見ると,「一つの中国」は中国の論理としてはわかりやすいが,台湾側の論理としては非常にわかりにくくなっている。1997年5月に章孝嚴外交部長が欧州議会の外交安全国防政策委員会で,中国統一政策を堅持すること,実務外交は台湾独立ではないことなどを講演した。しかし出席した欧州議員らからは,「中国統一を支持しているのに一国二制度に反対するのは理解できない」「中華民國の一つの中国,中國統一とはいったい何なのか」「民主国家と共産主義国家がいかにして統一を話し合うというのか」という率直な疑問が表明された。[34]1998年11月に開催された大陸委員会の諮詢委員會議においても,「一つの中国」の枠組みで中国共産党と対話することは台湾に不利であるという意見が表明されている。[35]台湾アイデンティティは「一つの中国」の枠の中には収まらなくなりつつあった。

李登輝時代「一つの中国」は台湾政治においては比重が下がってきて,「中華民国は1912年に建国されて以来,常に主権独立国家である」という苦心の末に生み出された公式に置き換えられ,それもしばしば短縮され「台湾は主権独立国家である」と言い換えられても違和感を持たない人が増えている。李登輝自身,1997年11月8日に『ワシントン・ポスト』紙のインタビューで「台湾は独立した主権国家である」と述べたことがあったが,その直後に外交部長らが,李総統の主旨は「中華民国は主権を持つ独立した国家である」と訂正する一幕があった[36]

台湾でのアイデンティティの高まりを考慮に入れれば,李登輝の「二国論」は決して唐突なものではないし目新しい概念でもない。名称をどのように呼ぶかは別として,台湾が独立国家として存在していることは否定のしようがない。外国人が台湾を訪問しようとしてビザを申請するのは台湾当局にたいしてであって,決して中華人民共和国にたいしてではない。選挙民の直接選挙で大統領を選んでいるのはまさしく独立国家だからである。多くの国は,中国との関係があるのでこのことを無視しているか,触れないようにしているにすぎない。この意味で,「二国論」は単に台湾海峡両岸の事実を述べたにすぎないということになる。しかし,外国の研究者が「二国論」を展開するのと,中華民国総統が「二国論」を展開する意味は同じではない。これまでの中華民国の公式の立場である「一つの中国」を否定することにほかならないからだ。

中国側は当然のことながら厳しい反応を示した。中国にとっては「二国論」は国家を分裂させる言論であり,その内容は台湾独立の主張に等しいと判断される。江沢民自ら,李登輝が「国家を分裂させる道に危険な一歩を踏み出し,一つの中国原則にたいする重大な挑戦だ」と非難し,「世界には中国はただ一つであり,台湾は中国の一部分であり,中国の領土と主権は絶対に分割できない」との原則を再度表明した。[37]汪道涵は「両岸対話の基礎は消滅した」と発言し,予定していた台湾訪問は取り消された。[38]両岸関係は再び緊張状態へと舞い戻った。李登輝訪米の時と同じく台湾の株式市場は急落し,台湾経済に暗雲が漂った。「二国論」の発表からほどなくして,台湾の北部全域が停電するという出来事があった。原因は送電線を支える橋脚が大雨の後地盤が緩んで倒壊した単純な事故だったのだが,とっさに少なからぬ台湾人が中国の攻撃または介入を連想した。

  「二国論」の衝撃が冷めやらない9月21日,台湾は大地震に見舞われた。本来ならば政治的立場の違いを超えて人道的援助が優先されるべきであったが,両岸関係はぎくしゃくしたまま,台湾人の中国にたいする感情が悪化した。大地震発生当日江沢民がお見舞いの言葉を述べた時はラジオで繰り返し報道され,中国もまともな対応をするのだという受け止め方であった。しかし以下のような出来事が報じられた。
@中国の唐外相が国連総会で「わが国の台湾省で強烈な地震が発生し,台湾同胞の生命財産に重大な損害を発生した」「この場を借りて国際社会の同情,慰問,援助に感謝する」と発言。[39]
Aロシアの救援機が中国大陸上空を通過することを拒否されたためシベリア極東経由となり,台湾への到着時間が12時間遅れた,とロシアのマスコミが報道 (ただし,中国側の海峡会秘書長張金成はこれを否定,ロシア機は中国領土を通過したと発表)。[40]
B中国赤十字の孫愛明秘書長が,各国の赤十字が台湾に金銭・物資を送る際には中国赤十字の同意を必要とすると表明。[41]
  こうした中国の対応は人道援助の場に政治を持ち込むものだと受け止められ,統一派に近い『聯合報』でも「厚顔無恥」だとして中国にたいし厳しい批判を打ち出した。また,もともと中国に批判的な『自由時報』の読者の投稿欄には,「台湾人民の感情をこの上なく傷つけた」「台湾人民にたいする侮辱」「中国官員是畜生」といった非常に強い表現が連日のように掲載された。台湾では日本,アメリカ,韓国,メキシコ,ロシアなど救援隊を派遣した国への評価が高まり,中国への失望と反感が広がった。人気タレントがテレビで「多くの国が台湾に援助に来てくれた。台湾が一つの国家であると感じた」と語っていたが,この不幸な大惨事が台湾アイデンティティの高まりに一役買った一方,中国はここでも台湾人民の心をつかむことに失敗した。

  中国の失敗はさらに続いた。台湾の2000年総統選挙にたいして中国がどのような態度を取るのか注目されていた。中国は外省人である宋楚瑜の当選に期待しているという観測が流れたり,「陳水扁氏以外なら誰でもいい」という李肇星・駐米大使の非公式発言が伝わったりしていたが,中国政府は公式コメントは控えていた。2000年1月になり民進党の陳水扁候補の優勢が明らかになるにつれ中国側の動きが慌しくなった。2月21日,中国の国務院台湾弁公室は「一つの中国の原則と台湾問題」と題する白書を発表した。この白書は,中国側の「一つの中国」原則を改めて表明したものだが,台湾にたいする武力行使の条件として,「台湾にいかなる名義においても中国から分割される重大な変化が生ずる時」「外国が台湾を占領する時」という従来からの二条件のほか,「台湾当局が無期限に交渉を通じた両岸統一問題の平和的解決を拒絶する時」という三番目の新たな条件をつけ加えた。こうした条件が出現した時,中国は武力を含めたあらゆる敢然とした措置を採用し中国統一の大事業を完成させると指摘し,台湾問題の無期限の先送りを認めない姿勢を示した。白書発表のタイミングから見て,これは台湾人民を威嚇して総統選挙に影響を及ぼすことを意図したものと受けとめられた[42]

  極めつけは,投票日直前の朱鎔基首相の発言であった。朱鎔基首相は極めて威圧的な口調で,いかなる形にせよ台湾独立を決して容認しないと強調し,独立派の陳水扁の当選は許さないとする姿勢を鮮明にした。この中国の圧力にたいし,陳水扁陣営は動揺することはなく,中国は台湾の選挙について発言する資格はないとして,冷静ではあるが毅然とした態度を取った。宋楚瑜陣営は,陳水扁の当選は中台関係の危機を招くとしながらも「台湾人民はいかなる形の武力脅迫も受け入れない」として,中国の介入にはやはり反対の姿勢を明確にした。連戰陣営は,陳水扁が当選すれば戦争になるとして,中国と一緒になって陳水扁攻撃に集中した。

陳水扁の当選阻止を意図した朱鎔基発言にたいし,台湾人の反応は大きく二つに分かれた。北部では不安感が広まったものの陳水扁の票は崩れず,連戰から宋楚瑜へ票が移動した。南部では,憤りを感じた人々が陳水扁に票を集中させた。中国と一緒になって陳水扁を攻撃をした連戰には票はほとんど行かなかった。1996年の総統選挙で李登輝の当選を阻止しようとして介入しかえって台湾人民の反感を買ったのと同じことが,2000年の総統選挙でも繰り返されたのである。

 

 

7 台湾アイデンティティとナショナリズム

 

  このように李登輝時代の中台関係は緊張緩和から再び緊張状態へと転換した。台湾アイデンティティを志向する李登輝政権が対中政策を微妙に調整すると,それに中国共産党政権が対抗し,またそれが台湾側の反感をあおるという循環が繰り返されてきた。1990年代を振り返ってみると1995年の江沢民八項目提案と李登輝の返答(訪米)が中台関係の大きな山場であった。これ以降中国指導部内で鷹派路線が台頭し,圧力を強めることで台湾を屈服させようとする「北風」が強まった。

国際政治の視点から見ると,今現在,台湾は中華民国という名で「独立」している。自前の政府と軍隊を持ち,住民による大統領選挙を実施している国家なのである。台湾に欠けているのは国際的な承認だけであり,それは台湾側の一方的宣言や行動によって変わるものではない。台湾が李登輝の訪米や「二国論」によって得たものは多くはない。中国の態度が変わらない限り,台湾はこの苦境を逃れることはできないのである。その意味で,李登輝の訪米と「二国論」を再検討してみるならば,それが台湾にとって最善であったかどうかは大いに議論の余地がある。

李登輝の推進した「積極外交」が「実務外交」の枠を逸脱し「冒険外交」に転じたという批判も成り立ちうる。この訪米がその後台湾の総統がアメリカを訪問する前例となったのなら大きな突破と言えるが,李登輝がその後訪問したのは,パナマ,ホンジュラス,エルサルバドル,パラグアイのみで,前例を切り開いたように見えたASEAN諸国の訪問も難しくなってしまった。1995年の訪米はまさに継続性のない突発的なものであり,それでは,台湾の外交的苦境を助けることには必ずしもならない。しかも訪米の実現は,国務省を動かすのではなく,米議会への働きかけによって実現したのでアメリカ国務省との関係はかえって悪化した。[43]「二国論」についても,アメリカのクリントン大統領は「二国論」発表直後に江沢民と電話会談して「一つの中国」への支持を表明し,反響が広がる前に台湾の主張は抑え込まれる形となった。台湾の国際的活動空間を広げるには,華々しい一過性の行動よりも,ロー・プロファイルで実務的関係を拡大していくという本来の意味での「実務外交」に徹していた方が実りがあったかもしれない。

李登輝は「台湾の存在をアピールすることこそが私の仕事だった」と語っている。[44]それならば,1995年に江沢民提案を受けて李登輝が北京を訪問し「一つの中国」というものを議論する選択肢もあったのではなかろうか。世界中の注目を集める中で,江沢民にたいし中国の民主化を迫り多元的な中国という新しい価値観をぶつけることは,訪米によって台湾の民主化を世界に向けてアピールすることと同じかそれ以上のインパクトがあったかもしれない。

李登輝の訪米と「二国論」の後では,対話の敷居は1995年よりも高くなってしまった。陳水扁総統が訪中しようとすれば,その条件は台湾にとってより不利なものになり台湾内での反対はより強いものになるであろう。シンガポールのリー・クアンユーは「もし李登輝総統が『二国論』および独立の方向に走っていなければ,台湾はもっと長く現状維持をできたであろう。李登輝は導火線を短くした」と評している[45]。李登輝の「積極外交」によって主権独立の台湾の存在時間をかえって短くしたというのである。これは「中国人」同士の争いを同じ「中国人」として離れた立場で観察しているリー・クアンユーならではの含蓄のある見解である。

それでは,李登輝の訪米と「二国論」に象徴される「積極外交」は,両岸関係を悪化させただけに終わったという消極的評価を下してよいのであろうか。国連からの脱退,日本,アメリカとの断交,韓国との断交と,国際政治上の孤立を深めていた台湾にとって,李登輝の「積極外交」は,台湾内部の国共内戦以来の旧思考および2000万人の住民の存在に蓋をする「一つの中国」という国際的虚構の構造に突破口を開いたものだと評価することができる。これは中国にたいしてのみならず,国際政治上台湾が存在しないかのように振舞う日本のような国にたいしても重要な問題提起となった。

  さらに「積極外交」が台湾政治構造の台湾化という大きな変動と対応し,台湾社会の主流の価値観形成に寄与していることを見逃してはならない。民主化=台湾化の政治変動を最小限の混乱で乗り切れたのは,台湾アイデンティティに関する李登輝の言動が,多数派本省人の感情に合致していたからに他ならない。李登輝の訪米は国連からの脱退,日米との断交以来の台湾人の鬱屈した気持ちを晴らしたのも事実である。日頃国民党を厳しく批判する民進党の支持者も,李登輝の訪米については「よくぞ行ってくれた」という感慨を抱き,「アメリカで堂々と台湾の存在を発表してくれたのです」と語る[46]。李登輝はコーネル大学の講演で「民の欲するところ,いつも私の心にある」と語ったが,李登輝の強みは多数派本省人のこの「台湾人出頭天」の心を完全に共有し,それを表現できたことにある。

中国への失望が重なる過程で,李登輝の口から中国共産党指導部を指して「土匪」であるとか「頭コンクリート」といった感情的な言葉が発せられた。こうした言葉は中国指導者の反李登輝・反台湾感を煽り,外交的にはマイナスであったが,少なからぬ台湾人の共感と支持を獲得した。これは李登輝が負けん気が強いというだけではない。台湾への思い入れの深い李登輝は台湾統治の責任者として,台湾2000万人の生命,財産,自由を脅かすものをだれであろうと許すことはできなかった。台湾への愛,台湾を守りぬく決意,これが中華民国在台湾の総統としての責任であると李登輝は考えていた。

  その結果が中国との関係の緊張であった。逆に,蒋経國後の国民党政権が台湾化を抑えこむ政策を取っていたならば,中国との緊張は招かなかったかもしれないが,台湾内部の省籍矛盾を深刻化させ,民主化に伴う台湾社会の緊張を極めて大きなものにしていたであろう。李登輝の「積極外交」は,社会の分裂を最小限に抑えながら民主化=台湾化の政治変動を乗り切るために通らなければならなかった道であり,旧来の国民党のあり方にたいする多数派本省人の不満と怨念が一気に爆発することを防ぐ安全装置であった。また,台湾の国際的認知および中華民国台湾の新たなコンセンサスの確立に向かう重要な役割を果たしてきたのである。

  台湾政治構造の台湾化が完了したことによって「台湾人に生まれた悲哀」の一つである台湾内部の省籍に基づく統治構造からくる悲哀は解消しようとしている。だが,過去100年間別の歴史を歩み,中国とは別のアイデンティティを持つに至っているのにそれをストレートに表現することが許されない「悲哀」は今後も存在し続ける。中国が威嚇を強めれば強めるほど台湾人の「悲哀」が深まることを中国共産党は決して理解しようとはしない。台湾の「悲哀」とは,アジア太平洋の中核地域として発展する潜在能力を有しながら,同胞を任ずる中国にその発展を阻害されている「悲哀」でもある。

中国の児童は,北京語を学び,中国の地理・歴史を学び,中国人というアイデンティティを身につけていく。広東省や福建省の児童も同じように北京語を学び,中国の地理・歴史を学び,中国人というアイデンティティを身につけていく。広東省や福建省で方言が引き続き使用され,広東省や福建省の歴史・地理がいくらか教えられ,人々は広東人や福建人というローカルなアイデンティティも有しているが,広東省や福建省は厳然と存在する中国の一地方であり,中国人というナショナルなアイデンティティを補っている。

台湾を統治した国民党政権も,同じように,台湾の児童に北京語を教え,中国の地理・歴史を教え,中国人というアイデンティティを身につけさせる教育政策を採ってきた。台湾はいくつもある中国の地方の一つであって,その歴史・地理はほとんど強調されることはなかった。しかし強調される中国はそこにはなかった。喪失した「故郷」にアイデンティティを求めるやり方は限界にきた。台湾という統治地域においては,中国アイデンティティがしだいに空虚になる一方,自前のアイデンティティも確立されないという状況になってきた。外国に移民したのであれば,自分の中国人としてのアイデンティティとその國の国民としてのアイデンティティとの相克の悩みに折り合いをつける苦しみがある。しかし,それでもそこには二つのアイデンティティは実在するのである。

台湾は不確定な時間の流れの中で,アイデンティティ自体がなくなる危機にあった。祖国との絆の切れた移民社会は,なんらかのまとまりを持とうとすれば,そこにアイデンティティを探そうとするのである。これは,地下資源もなく,毎年台風や集中豪雨に襲われる厳しい自然環境に包まれた小さな島の上で必死に生きようとしている人々の生きる姿である。それを中国は,「『台湾人』は『中国人』という大概念の下の子概念である事実を変えることはできない」[47]と,いとも簡単に台湾人を否定し,台湾人の心を傷つけている。リー・クアンユーも,シンガポールでシンガポーリアンというアイデンティティを作り上げることに苦心した経験を持つのに,エスニック・グループ間の融和が必要な台湾において台湾アイデンティティを作り上げていくことの困難さと意味を十分認識してはいないようだ。

1990年代,中国と台湾は,変則的なやり方ではあるが意見を交換してきた。テーブルについて話し合うということだけではなく,談話であったり,白書の発表であったり,行動による意思表示あったり(訪米やミサイル発射),何らかの方法で「対話」を続けてきた。そこで明らかになったことは,中国と台湾の求めているものが違うということであり,話し合えばわかりあえるのではなく,話し合えば話し合うほど亀裂が大きくなるということだ。中国からみれば,この10年間は台湾が祖国統一から一歩一歩離れていった10年間であり,中国がどこまで思いとどまれるのか不確実になっている。中台関係は,力による解決に動かないよう必死の努力が必要な局面に入った。

新総統陳水扁の対中政策はこの危機感を背景にしたものだ。陳水扁は「二国論」を憲法に盛り込まないことを表明し,事実上「二国論」を凍結した。持論であった統一・独立を決める住民投票も放棄した。本来独立派である陳水扁のこうした言動から浮かび上がるのは,台湾は近い将来においては「一つの中国」から逃れることはできないという事実だ。

台湾は事実上の独立国家であるということと,ユニラテラルな行動をとれない(主権が部分的に中国によって制限されている)という二つの事実を直視して将来を考えなければならない。独立国家であるということは独自の教育・文化政策を展開できるということであり,生存している限り台湾アイデンティティを固めていくことができるのである。しかし,対応を誤れば1968年のチェコスロバキアのように軍事介入される危険性もある。

台湾に必要なことは,時間をかせぎ,その過程で,中国の民主化を迫り,中国と共に主権概念の解釈の幅を広げることである。これをしなければ,仮に中国の共産党政権が崩壊しても超民族主義政権の登場となるかもしれない。台湾が20世紀型の国民国家にこだわり台湾ナショナリズムに転じていけば中国と同じ事であり,二つのナショナリズムがぶつかり合って最後は戦争になるだけだ。台湾アイデンティティと台湾ナショナリズムを切り離した李登輝の立場は,中台の衝突と共存のぎりぎりの空間を切り開こうとするものだ。

一方,中国は「一国二制度」で台湾を統一するというプランを再検討する必要がある。中国と台湾との関係は,共産党と国民党との内戦の延長線上でとらえることはできない段階に入っている。中国の主張する統一が実現すれば,台湾は「一国二制度」と適用され「台湾特別行政区」として高度の自治を認められることになっている。しかし,台湾は香港ではない。長く続いた外来政権の圧政を耐え抜いて今日の自由を手にし,自分たちの手で大統領を選ぶところまできた台湾人に「台湾特別行政区」になれというのは,台湾アイデンティティを放棄しろということに他ならない。

中国が「一つの中国」の解釈の枠を広げなければ,中国を名のっている中華民国まで圧迫することになり台湾はかえって中国から離れようとする。それでも台湾を統一しようとすれば,最後は衝突しか残らず,中国にとっても大きな損失となる。中国は,台湾を反中国に追いやらない上策を模索すべき時である。台湾人の多数派は,台湾アイデンティティの確立と同時に対中関係の改善を望んでいる。台湾ナショナリズムを標榜する建国党への支持はほとんどない。台湾人は十分自制をしているし,台湾アイデンティティの強調は中国への敵対を意味するわけでもない。中国と台湾は共に,変則的な対話を続けながら,旧来の主権国家の概念の幅を少しずつ広げていき,ゆるやかな国家連合などさまざまな可能性を追及していくことになるであろう。

 



[1] 劉文宗「従国際法論主権不可分享及台湾的法的地位」『台湾研究』(中国社会科学院台湾研究所) 1999年第3 p41

[2] 若林正丈『台湾−分裂国家と民主化』東京大学出版会 p.181

[3] Jay Taylor, The Generalissimo's Son, Harvard University Press, 2000, p.383

[4] 張慧英『李登輝和他的務實外交』時報出版 台北 1996 p.249

[5] 微妙な問題として,この「国家統一綱領」には「中国統一の時期と方法は,まず台湾地区人民の権益を尊重し,その安全と福祉を維持すべきである」という項目が盛り込まれた。国民党中央常務委員会で「国家統一綱領」の報告を受けた際,沈昌煥,謝東閔ら一部委員が「台湾地区人民の権益」を「両岸人民の権益」に修正することを要求したが,李登輝主席の裁定でそのままで通過している(王銘義『不確定的海峡』時報出版 台北 1993年 pp.183-186)。

[6] 王銘義『不確定的海峡』時報出版 台北1993 pp.186-187

[7] 許世銓『1992年共識:海協海基両会協商之回顧与評析』中国社会科学院台湾研究所 2000.10

[8] 蔡英文行政院大陸委員会主任委員 記者会見 2000.6.28 http://www.mac.gov.tw/mlpolicy/ts0628.htm

[9] 許世銓 前掲論文 p.14

[10] 国家統一委員会第八次全体委員会議結論「『一個中国』意涵之定位」 1992.8.1

[11] 過去の総統の出国は二回だけであった(劉国奮「李登輝“務実外交”総評」『台湾研究』 2000.3  p.81)。

[12] 張慧英『李登輝 1988-2000 執政12年』天下遠見 台北2000 p.165

[13] 高朗『中華民国外交関係之演変(19721992)』五南図書出版 台北1994 p.230

[14] 『聯合報』1995.10.13

[15] 『人民日報』1994.8.19

[16] 邵宗海「両岸談判中『一個中国原則』之探討」『國立政治大學學報』第7819996 pp.514-515

[17] 司馬遼太郎『台湾紀行』朝日新聞社 1994 p.489

[18] http://www.mac.gov.tw/mlpolicy/mlp2.htm

[19] 蕭万長経済建設委員会主任1994年4月25日総統府での報告 『台湾通信』1994.5.26

[20] 台湾通信』1994.4.14

[21] 『聯合報』1997.7.4

[22] 邵宗海 前掲論文p.520

[23] 郭正亮「両岸三通的政治邏輯」東呉政治學報 第10 1999 p.71

[24] 『工商時報』1996.8.16

[25] 邵宗海 前掲論文 p.525

[26] 台湾の統一派団体新同盟會の許歴農らにたいする発言。

[27] 邵宗海 前掲論文 pp.521-24

[28] 『毎日新聞』1998.7.1

[29] Chas W Freeman Jr, "Preventing war in the Taiwan Strait: Restraining Taiwan and Beijing", Foreign Affairs, Jul/Aug 1998.

[30] 『毎日新聞』1998.7.23

[31] 『経済日報』6月29

[32] 『台湾通信』1999年7月22日

[33]  李登輝・中嶋嶺雄『アジアの知略』光文社 2000年 pp.48-50

[34] 『中国時報』1997.5.23

[35] 『中国時報』1998.11.08

[36] 『聯合報』1997.11.10

[37] 人民日報』1999.7.19

[38] 『聯合報』1999.7.26

[39] 『自由時報』1999.9.24

[40] 『聯合報』1999.9.25

[41] 『聯合報』1999.9.25

[42] 『中国時報』2000.2.22

[43] 張慧英『李登輝 1988-2000 執政12年』天下遠見 台北2000 pp.131-6

[44] 李登輝・中嶋嶺雄『アジアの知略』光文社 2000年 p.54

[45] 中國時報』2000.10.17

[46] 『台湾通信』1995.9.21

[47] 『人民日報』1999.8.21

※台湾の新聞記事については,台北にて週刊『台湾通信』を発行している通達翻訳出版有限公司より資料提供を受けた。記して感謝の意を表したい。

 

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