研究活動報告

「 アジアにおけるポルトガル語とその文化の継承
 − マラッカの言語Kristang語 −」[1]  (1/2ページ)
 富盛伸夫(東京外国語大学名誉教授)


1. マラッカの言語 Kristang語、その形成のキー概念
 1.1. «Kristang»という自己認識と言語
 1.2. ポルトガル語のHeritage: 
2. 研究の経緯と現状
 2.1. 本研究の発端
 2.2. 先行する研究業績
 2.3. Kristang研究の範囲:なぜKristang語をとりあげるのか? 
3. マラッカの言語 Kristang 語形成の背景
 3.1. 交易都市マラッカの繁栄
 3.2. ポルトガル人の進出と入植
4. マラッカの言語Kristang語の言語的特徴の概要
 4.1. Kristang語の音声資料“Kristang or Portuguese?”
 4.2. Kristang語の文法組織:代名詞
 4.3. Kristang語の文法組織: 所有代名詞?
 4.4. Kristang語の語形成:形態素の反復 > 程度の増幅
 4.5. Kristang語の文法組織: 動詞は「時」で形態変化しない
 4.6. Kristang語の文・日常表現
5. Kristang語は危機言語か?ユネスコの評価
6. ポルトガル系言語・地域社会の比較研究へ
 6.1. ポルトガルの Heritage:3つの地域の比較研究
7. 現地研究者との連携協力の期待
8. Kristang語の復活に向けて:「目覚めよ!Kristang語!」運動
9. まとめ:本科研から研究展望へ

要旨:本稿では、アジアに渡来し定着したポルトガル人たちの残したHeritageとLegacyについて、ケーススタディーとしてのマレーシア・マラッカ地域に現在まで伝えられるKristang語とその周辺について概観する。はじめにKristang語研究の契機となった経緯を簡潔に記し、その形成の背景とプロセスと現在の状況についての紹介をする。本科研の中で本格的な調査と分析は始めたばかりではあるが、Kristang語研究の展望についても言及する。
 
キーワード: 言語接触、クレオール化、多民族社会、多言語社会、多様性、多層性、言語の生命力、保存と継承
 

1. マラッカの言語 Kristang語、その形成のキー概念
1.1. «Kristang»という自己認識と言語

 現地の人々と交わす話題のひとつに、自分自身の定義について語る2つの網掛けがある。
ひとつは、「Kristang語を話す人々」であり、言語を使う、使えることが自己証明となる。もうひとつは、「Eurasiansのひとり」であること、である。この場合Eurasianという語彙を現地で用いる場合、日本で言うユーラシアという意味でなく、「ヨーロッパの血縁を受け継いでいる」、というエスニック的くくりであり[2]、また、西洋文化、とくにマラッカではポルトガルとの交渉史に影響された彼らの生活様式の特質を強調する。これら2つを結ぶと、「言語・文化的」まとまりを自分自身の内に確認し、またこれは必ずしも否定的・マイナスイメージではないようである。(図1はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ムラカ州 から引用。)


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[1] 稿は2017(平成29)年127日、東京外国語大学に於いて本科研と日本学術振興会科学研究費助成事業基盤研究(B)(2015年度−2017年度、研究課題/領域番号15H03224)「アジア諸語の社会・文化的多様性を考慮した通言語的言語能力達成度評価法の総合的研究」(研究代表者富盛伸夫)との共同開催で行われた、講演会「アジアの少数言語の継承と言語教育」で行った筆者の講演「アジアにおけるポルトガル語とその言語・文化の継承 ―マラッカの言語Kristang」
をもとに文章化したものである。口頭発表で使用したパワーポイントのコマの動きに沿って進めたので、若干のまとまり性と一貫性に乏しいことをご承知おき頂きたい。
 [2] 現地でエスニシティーを語るとき、その多様性について自然のことと見る態度は、以下のサイトなどでも感じ取れるであろう。https://www.youtube.com/watch?v=BsoI54H_FwY

1.2. ポルトガル語のHeritage: 

 マラッカの人々が自分の使用する言語に対する名称は多様である。最も一般的な語はKristangであるが、古くはポルトガル語 «Cristão» に由来するといわれ、元々はキリスト教徒(と使用する言語)、日本語で言う「クリスチャン」に近い語感であったと思われる。従って、(前提的にはカトリックの)信徒という意味が残ることは自然であろう。
 これに対して、«Portugues di Melaka» (英:Malacca Portuguese)「マラッカのポルトガル語」というフラットな表現も使われる。とはいえ、ポルトガル語、という括りには議論の余地がある。というのも、16世紀以来、マラッカは入植者ポルトガル人から経済的・社会的・文化的・宗教的な上位言語としてのポルトガル語の干渉を受けて成立した言語でありながら、本国からの言語規範は強くは働いてこなかったという。現在も、ポルトガル語の変種である、と言い切るには現地のマレー語や中国語からの影響が顕著である。
 後述のJoan Marbeck女史の好む名称は、«Linggu Mai» (Mother Tongue) 「母なる言葉」である。が、これを言語名とするのは不適切な要素が強い。そこで、Papia (「話す」)を付けて «Papia Kristang» あるいは、マレー語(bahasa Melayu)の「言語」を付けて、«Bahasa Serani[3]» とも呼ばれ、これをMarbeck女史は著書のタイトルにも用いている。
 他には、Bahasa Gerago 「エビコトバ?」という表現が用いられることがあるが、この「エビ語」とは、エビ漁で生計を立ててきたポルトガル系Eurasianの人々の話す言葉、というほどの意味であろう。しかし、「エビ」にまつわるコノーテーション、言外のニュアンスは不明である。なお、話者自身は単に、 Portugis「ポルトガル(系言)語」ということが多い。
 

1. 研究の経緯と現状
1.1. 本研究の発端

 本稿の筆者富盛伸夫がこの分野に深い関心を持ったきっかけは、2012年12月にマラッカを訪問し、Joan Marbeck女史と出会ったことだった。その1ヶ月前にシンガポールで発行されていた新聞(StraitsTimes)のネット版で彼女に関する記事を読んだ。私はKristangという絶滅の危機にある言語と文化の復興に尽力しているMarbeckさんに連絡を取り、マラッカで対面して研究上の関心を話すした。日本人が興味を示してくれたことを喜び、その後の研究連携を約束した。
 翌年、2013年3月7日、8日、東京外国語大学世界言語社会教育センター主催のシンポジウム「外国語教育と異文化間教育」[4]にMarbeckさんを招聘、Kristang語の保存・継承について議論する機会を得ることができたともに、そのシンポジウムにマカオからMario Nunes氏、ブラジルからPaul Guisan氏他が参加、研究連携が深まった。
 筆者は2014年12月にクアラルンプルを訪問、現地のEurasian協会等での会談を研究計画として具体化する可能性を話した。詳細は後述する。
 2015年4月、東京外国語大学の黒澤直俊教授のもとで研究グループが発足、科研費を得て研究活動が推進されることとなった。翌年2016年3月にマカオ市を訪問しマカオ大学Nunes先生らの配慮で本研究についてプレゼンを行うとともに、マカオに合流したMarbeck氏らと研究連携について会談した。偶然、マカオ市内で現地調査中の内藤理佳氏の知己を得て、マカオの言語文化保存運動を活発に推進しているグループに紹介していただくことができた。
 

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[3]「スラニという語はアラビア語のナスラニ(Nasrani)から由来していて、キリスト教徒のことを指す。しかし、現在のマレー人の用法に従えば、ユーラシアン、すなわち父親がヨーロッパ人で母親がアジア人、もしくは母親がヨーロッパ人で父親がアジア人であり、キリスト教を信仰する人々を意味する。」(引用元、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../ciasdp62_43.pdf)
[4] http://www.tufs.ac.jp/common/wolsec/symposium.html


2.2. 先行する研究業績

 Kristang語を言語学的に記述したのはオーストリア国立大学で博士号を取得したポルトガル語系クレオール言語の専門家Alan Norman Baxtor氏で、先行的業績として初の本格的文法書[5]と辞書[6]を編集した。現在はマカオのSaint Joseph大学他でKristang語やマカオの言語Patuá の研究及び保存復興への活動をしている。
上述のように筆者が初めて指導を受けたのはJoan Marbeck氏で、彼女は長年の音楽科の教員生活を経て、2000年頃より自分の言語と継承文化の復興に強い関心をもってKristang語の詩歌作品を発表、並行して、会話文集、語彙集、文法の手ほどきなどの実用書を出版している。
 言語学分野のでアクティブな研究者としては、クアラルンプールにあるマレーシア最高学府マラヤ大学の英語学専攻で教鞭をとるStefanie Pillai氏をあげる。彼女は学生とともに言語学的なフィールドワークを定期的に行い、アーカイブとして音声資料や会話文コーパスを公開している。


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[5]Baxter, Alan, N., A grammar of Kristang: (Malacca Creole Portuguese), Australian National University, 241p., 1988.
[6]Baxter, Alan, N. and Patrick de Silva, A dictionary of Kristang : (Malacca Creole Portuguese) : with an English-Kristang finderlist, Canberra : Pacific Linguistics, 151p., 2004.


2.3. Kristang研究の範囲:なぜKristang語をとりあげるのか?

 筆者は教職にある間は言語学担当として一般言語学およびロマンス言語学分野で仕事をしてきた。特に、フィールドとしてヨーロッパ・アルプス周辺の言語・方言を記述研究する中で、スイス・ロマンシュ語の危機と復興の現状に接するにつれ、言語(langue)としてのまとまり性、自立性を分析することに関心をもった。言語がその生命力を失いかけた時、当事者としての話者意識や言語(教育)政策が関わる多様な要素に注目するようになった。その関心から、スイスをはじめとする多言語社会のせめぎ合いの中で、消滅の危機にある少数者の言語・文化に寄り添うことの研究者のジレンマを感じることは少なくなかった。
 これをきっかけに、ヨーロッパの少数者言語の保存と継承の問題に関心を深め、さらに研究活動を拡げ、世界の他の地域の少数者言語への理解と研究の動機づけを深め、上述の経緯もあり、マレーシアやシンガポールに継承されるEurasiansの言語と文化を対象とすることで、少数者言語・文化と共生する複層的な社会での言語の維持と多様性の保全に関する視点を強めてきたといえる。この方向性はCEFRの導入研究を並行して行う中でも、言語教育における学習行為の多層性を取り込む方法論的な試みに繋がっている。

3. マラッカの言語 Kristang 語形成の背景
3.1. 交易都市マラッカの繁栄

 本稿ではKristang語が使用されている主なマレーシアの都市をマラッカと呼んでいるが、マレーシアではMelaka「ムラカ」が一般的で、マラッカという日本語での呼称は英語Malaccaによる。ムラカ州(マラッカ州)の州都であるマラッカは言うまでもなく、マレーシアの主要な港湾都市でマレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する。この地理的特質は、港市としてのマラッカの繁栄を保証する諸条件が揃っていた。すなわち、石井米雄によれば[7]、関税の規則 性、紛争解決手段の整備など、船舶航行の安全を保障するためのパトロール機能、積荷売り捌きのための市場、帰路の積荷とする魅力的商品集荷の便宜、風待ち期間中の倉庫設備などである。
  15世紀のマラッカ王国の支配領域には約 5000人が居住し、我が国との関係をみると東南アジアの王国と琉球王国間の公式な外交船の行き来は、1424年から 1630年の間で150回、内10回はマラッカ行のものだったという記録が残っている。ヨーロッパ人が到来する前にすでに琉球王国とマラッカ王国との間には交易関係があり海洋交易によって繁栄していた。16世紀初頭には人口10万人を数えていたと いうことである[8]



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[7]石井米雄, 「港市としてのマラッカ」『東南アジア史学会会報』 53号(東南アジア史学会, 1990年), p.9.
[8]図2は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Malaysia_-_Location_Map_%282013%29_-_MYS_-_UNOCHA.svgによる。
  

3.2. ポルトガル人の進出と入植

 1510年、ポルトガルはインドのゴアを拠点化し、1511年、武力でマラッカを占領する。これが東南アジアのポルトガル植民地化の始まりとなるが、現在まで保存されているポルトガル人の築いた砦や砲台、またキリスト教会などをみると当時の繁栄が容易に想像される。それまで支配していたマラッカ王国のスルタン(王)は、現在シンガポールに接するマレー半島先端のジョホールに移る[9]
 支配者ポルトガル人たちの勢力は明統治下の中国に及び、1517年には広州と交易、1527年には広州に近いマカオに居住権を獲得した。1529年に締結された有名なサラゴサ条約により、アジアにおけるポルトガル・スペイン両国の境界線が設定されたが、1543年ポルトガルの商船が種子島に漂着して以来、日本との接触も始まり1550年には平戸に商館を設置するなど、九州の諸大名との交渉が深まった。なお、鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー、池端弥次郎重尚)とザビエル(1506年4月7日ナバラ王国生まれ、1552年中国・広東省で没)が出会い、日本布教のきっかけとなったのもこの頃のことである。
 当時から、支配階級として現地に赴くヨーロッパ人男性は単身での赴任がほとんどで、ポルトガル人と現地女性の民族間結婚が一般的で、その子孫とさらに現地の人との婚姻が進み、言語・文化・生活慣習が混交して、Eurasiansの概念が形成されるようになった。
  オランダのマラッカ占領は1641年、以来、オランダ植民地となる。これに伴い交易の中心地がバタヴィアに移管され、マラッカは国際交易都市としての重要性を失うこととなった。英蘭協約が1824年にあり英国の言語・文化が浸透する。また、一時的に日本による占領が1942-1945年にあった後、マラヤ連邦が1948年に成立した。現在のマラッカの人口は77万人とされている。(左の図3はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ムラカ州 から引用。)


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[9]鶴見良行, 『マラッカ物語』, 時事通信社, pp.108-140, 1981.



4. マラッカの言語Kristang語の言語的特徴の概要

  以下に、Joan Marbeck, Kristang Phrasebook, 2004. を引用して、Kristang語の概要を紹介したい。Kristang語を母語のひとつとし、その啓蒙家として文法を直観的にまとめたMarbeck氏の意図は、ポルトガル語ともマレー語とも違って映る部分をとりあげようとしていると考えられるので、それを留意してご覧いただきたい。

4.1. Kristang語の音声資料“Kristang or Portuguese?”

   
 音声についてのまとまった研究はまだなされていないのが現状であるが、上に紹介したマラヤ大学のStefanie Pillai氏による音声アーカイブが音声資料からの文字起こしがなされていて、貴重である。
 Stefanie Pillai, Transcript of audio recording mpc02@ELAR, SOAS Archive
              https://elar.soas.ac.uk/Record/MPI579411 “Kristang or Portuguese?” 

4.2. Kristang語の文法組織:代名詞

 マレー語には一般的でない人称体系がポルトガル語のカルクによってKristang語では存在すると言って良い。
   

4.3. Kristang語の文法組織: 所有代名詞?

 上層言語のポルトガル語の組織とは異なり、人称代名詞に機械的に -sa を付加することにより、ポルトガル語の所有代名詞、形容詞が生成される。
   


4.4. Kristang語の語形成:形態素の反復 > 程度の増幅

 Kristang語では、マレー系の言語に多く見られる形態素の反復により、意義の拡張や文法プロセスが実現されることが特徴的である。日本語を含め、東アジア、東南アジア諸語にも部分的に共通した造語的形成と言える。
    
    

4.5. Kristang語の文法組織: 動詞は「時」で形態変化しない

 この言語は話者主観における「時」を表現する文法プロセス、いわゆる「時制」体系はないと言ってよい。発話時の必要性に応じて、「時」を指示する小辞を添加する。ここでは「時制」「法」「アスペクト」に相当する小辞をMarbeck氏はあげている。
   

 動詞の前に「小辞」を先行させて「時・アスペクト」を示す。下は「過去の時」の例。
  動詞「する」 fazer, ‘to do’
  I do it – Yo fazeh eli
  You do it – Bos fazeh eli
  We do it – Nus fazeh eli
  I did it - Yo ja fazeh eli
  You did it – Bos ja fazeh eli
  We did it – Nus ja fazeh eli 

4.6. Kristang語の文・日常表現

 Kristang語の日常的な表現は強くポルトガル語由来の文構成・語彙が保たれている。上位言語としてのポルトガル語のプレゼンスを感じ取れるのではないだろうか。
   


 

              
              
              
              
              

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