「 タガログ語、タグリッシュ、英語そしてチャバカノ語
− カオスの中のアイデンティティー −」 (1/4ページ)
荻原 寛(長崎県立大学名誉教授)
1. 多言語併用社会
2. タグリッシュのあらまし
2.1 英語公用語化とバイリンガリズム
2.2 英語とタグリッシュ
2.3 タグリッシュの文法的特性
2.3.1 音韻的特性
2.3.2 語彙的特性
2.3.3 統語的特性
2.3.4 タグリッシュに見る言語接触の痕跡
2.4 タグリッシュの存在意義
3. チャバカノ語のあらまし
3.1 チャバカノ語の名称の由来
3.2 チャバカノ語小史
3.3 チャバカノ語研究の流れ
3.4 チャバカノ語の文法特性
3.4.1 音韻・音声的特性
3.4.2 語彙的特性
3.4.3 人称代名詞
3.4.4 動詞部のシステム
3.4.4.1 連繋辞ゼロと語順
3.4.4.2 一般動詞の相と語順
3.4.4.3 存在詞と疑似動詞
3.5 カビテ語とテルナテ語の現状
3.5.1 Lesho and Sippola(2013)の調査報告
3.5.2 英語のチャバカノ語への影響
3.5.2.1 カビテ市とテルナテにおける現地調査
3.5.2.2 データの分析と結果
3.5.3 チャバカノ語復興運動の顛末
4. 結び
1. 多言語併用社会
フィリピンおよび周辺地域
【出典】Geographic Guide - Travel and Tourism http://www.geographicguide.com/asia/maps/southeast.htm
フィリピンは首都マニラのあるルソン島、観光客に人気の高いセブ島、日本向けバナナの一大生産地のミンダナオ島をはじめ、大小7,107の島々からなる国である。ある日突然、地球の裏側からやって来たスペイン軍が線引きをして作った植民地を母体としており、[1]いくつかの部族が離散集合を繰り返して1つにまとまり、やがて国として成り立ったという歴史を持たない。相互を結ぶ交通網が未発達な熱帯の島々という地理的条件から、新大陸の植民地で見られた宗主国スペインの言語を領内に行きわたらせ、やがては庶民の日常言語となるように仕向け、統治や布教を容易にするという統治方法は不可能だった。そうした現地報告がフィリピン各地に送り込まれた宣教師から次々と寄せられ、新大陸方式は早々に断念せざるを得なくなった。[2]この状況は、スペインが1571年にマニラに総督府を置き、ヌエバ・エスパーニャ副王領を介して間接統治した時代は無論のこと、この副王領が1821年に独立してメキシコとなり、スペインが直接フィリピンを統治するようになってからも変わらなかった。新大陸方式が可能となったのは、19世紀末の米西戦争(1898-99)にスペインが敗れ、植民地の主がスペインからアメリカに代わってからのことである。アメリカは莫大な資金を投入して英語の普及を推進するとともに、教育現場、新聞、書籍、映画、ラジオなど様々な場面からスペイン語を軒並み一掃していったのである。
こうして、フィリピンの人々は、フィリピノ語[3]、すなわち国語としての体裁を整えつつあるタガログ語だけでなく、ある程度の学校教育を受けていれば、習熟度の個人差は著しくともほぼ不自由なく英語を話せるいわゆるバイリンガルであり、後述するように、非タガログ語使用地域では、そこに現地の土着言語が加わるため、トライリンガル以上の多言語使用状況になっている。ヌエバ・エスパーニャ副王領を介した間接統治時代から、およそ3世紀半の長きにわたり宗主国の言語の座にあったスペイン語は、アメリカによる統治が始まってからもなお、少なくとも20世紀末までは、最上流階級のステイタス・シンボルとして、また国立図書館の書庫を埋める膨大な量のスペイン語で書かれた公文書の山として、それなりの存在感を与えていた。しかし、家庭内でもスペイン語を日常言語としていた人々が高齢化により急速に減少した結果、マルコスMarcos、アキノAquino、アロヨArroyoなどの苗字に、スペインによる統治時代の痕跡を留めるのみとなった。また、名前の部分もスペイン語系から英語系への切り替えが進行していて、親しみを表す縮小辞もスペイン語系ではなく英語系が好まれ、例えば、TeresaならTeresitaではなくTereまたはTeriを用いるようになってきている。
多言語状況について述べると、フィリピンにはタガログ語を含めて187の言語の存在が記録されており、[4]中でもセブ語、ビコール語、イロカイノ語、イロンゴ語、タウスグ語などの主要言語では、話者人口が100万人に達している。こうした地域の人々がタガログ語圏に移住したり、本研究テーマのチャバカノ語のようにタガログ語圏内に居住している場合には、タガログ語(フィリピノ語)と英語に加え、出身地の土着言語が加わるトライリンガルとなる。さらに、それ以上の例も報告されている。ユネスコの世界遺産に登録された棚田群で有名な村バナウェはイフガオ語圏にあるが、2016年8月30日付のCNN Philippinesの生活欄の記名記事によると、バナウェの生徒たちは、学校では英語とタガログ語(フィリピノ語)を使って勉強し、クラスの仲間たちとはイロカノ語でおしゃべりをし、家庭ではイフガオ語を話している。村の教会ではこの4言語で讃美歌が歌われ、牧師はこの4言語を淀みなくランゲージ・シフトしながら神の道を説いている。また、同記事は全国の主婦の60%が英語やタガログ語以外の言語で暮らしていると報告している。[5]こうした多言語併用社会では、いつ、どのような条件下でランゲージ・シフトが起きるかは予測不能で、言語の選択は発話者のその時の気分によって決まり、極めて恣意的なものである。会話の前に会話構成員一人一人の言語習熟度と話柄に応じてどの言語で話すかを取り決め、そこから会話に入るというわけではない。ランゲージ・シフトは常時起きうるオンの状態にあり、そのレベルも言語まるごとの切り替えから他言語の語句の挿入に至るまで多種多様で、会話が単一言語の使用に終始するほうが却って珍しい。
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[1] 1543年に香料諸島を求めてメキシコを発ったビジャロボスRuy López de Villalobos一行がルソン島、サマール島、レイテ島に到達。これらの島々を当時はまだ皇太子で、後に天正少年使節団が謁見することになる国王フェリーペFelipe2世に因んで「フェリーペの島々」Las islas filipinasと名付けた。英語の国名がThe Philippinesと複数形なのはここに由来する。
[2]当初はスペイン・ハプスブルク朝初代のカルロス1世が1550年に発布した、「先住民の教育は王室の言語であり国家の言語たるカスティーリャ語(スペイン語)で行うべし」とする法令第18号が適用され、その後も同じ趣旨の法令が出されたが、次々と現場で反故にされ、ついには1582年に聖職者評議会が、1596年には王室も土着言語による布教と教育を認めざるを得なくなった。Quilis(1992: 63) およびPámparo (1993: 316-317)。
[3] 1939年にwikang pambansa(国語)と制定されたタガログ語には音素/f/がないため、filipinoはピリピノ[piliˈpino] と発音される。そこで国は表記を1959年にpilipinoとしたが、首都圏の突出した経済発展を背景としたタガログ族優位状況への他の有力な土着言語話者からの反発が大きく、全国の言語を代表する国語としてのイメージを与えるため1971年にfilipinoに改定した。(Gonzalez 1998: 487-488)、(小張 2004: pp.57-63)。
[4]Ethnologue (2017)によると、187言語のうち4言語が死滅し、残りの183言語のうち175言語は土着言語で、英語をはじめ7言語は外部から入ってきた言語である。https://www.ethnologue.com/country/PH
[5] “Making sense of 187 Philippine languages: An apology for the background noise”, CNN Philippines, Life, Au-
gust 30, 2016. http://cnnphilippines.com/life/culture/2016/08/29/filipino-languages.html
2. タグリッシュ語のあらまし
2.1 英語公用語化とバイリンガリズム
英語をタガログ語(フィリピノ語)と並ぶ公用語の1つとして制定したのは、1935年発布の憲法第13条第2項であった。前述したように、植民地の新たな主となったアメリカは、教育の現場からスペイン語を極力駆逐することを目指し、憲法発布に先立つこと10年前の1925年に、すでに高等学校と大学の授業を以前の宗主国の言語であるスペイン語から現宗主国の言語である英語へと切り替えていた。この憲法の条文とそれに先立つ米政府の動きに対する反動で、1952年に法令第709号(マガローナ法)が施行されて、全大学および私立高校ではスペイン語教育が義務化されたが、1973年発布の新憲法によりフィリピンの公用語はフィリピノ語と英語とされ、スペイン語はついに公用語の地位を追われるに至った。
次いで、1987年発布の憲法第14条第7項に、公用語はフィリピノ語および法改正が行われるまでは暫定的に英語とする旨が改めて明記され、現在に至っている。[6]一時、タガログ語(フィリピノ語)の普及に反比例して「国民の英語力」が低下したという懸念が広まったが、2003年5月17日にアロヨ大統領が大統領令第210号を発令して、教育の媒体としての英語の使用を強化した。そこには、英語運用能力に一層優れた卒業生を世に送り出せば、彼らはICT(情報通信技術)分野で高い技術力を磨いたあと海外労働力となり、フィリピン経済のためにUSドルを稼いでくれるという政策上の思い入れがあった。[7]
教育の場における英語とタガログ語のバイリンガリズムは、公用語をフィリピノ語(タガログ語)と英語する旨を定めた新憲法発布の翌年、1974年に教育文化スポーツ省の施策として施行されることとなった。すなわち、タガログ語は音楽、保健体育、道徳、公民、社会の授業で用い、算数、理科、技術、家政、農業、工業、企業の授業は英語で行うという棲み分け方針が打ち出されたのである。こうしたバイリンガリズムを国が支える背景には、国民が英語に与える付加価値の大きさがあった。Martin (2010:252-258) は英語をめぐる4つの神話を次のように整理している。
i) アメリカ英語だけが正しい英語である。
ii) 英語だけが経済的疾患の特効薬である。
iii) 英語とフィリピノ語は対立する言語である。
iv) 英語だけが知識に導く言語である。
神話i)は統治国の英語だけを正しいと信じる謬見を、神話iii)は教育への英語の導入に反対する人々のナショナリズムを、それぞれ批判するために持ち出された神話である。一方、本論のテーマに関わるのは神話ii)とiv)である。フィリピン人の間に見られる、英語こそが己が未来を切り拓いてくれ、暮らしを豊かにし、国を富ませてくれるという英語への過大な付加価値は、しかしまた、公立学校で等しく英語を使った授業が行われることから、Sibayan (1994:223)やThompson (2003:19)のように、都会でも田舎でも国民に貧困から脱出する機会を与え、知識の世界への扉を開いてくれる大変な等化装置であるとして、一定の評価を下す意見もある。問題は高等教育、ことに研究活動と直接に関わる大学教育である。学問的記述に使えるほどの学術性がフィリピノ語すなわちタガログ語語彙には乏しいため、文学などの限られた分野を除いて、すべて英語に頼らざるを得ない。こうした状況について、つとにGonzalez (1997)が、フィリピンの学界は最新の学識を得るためにはアメリカに依存し続けなくてはならないと指摘している。
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[6] García Louapre (1990)、Gonzalez (1998: 488)および同 (2003: 3)。
[7] Isabel Pefianco Martin (2010:256)
2.2 英語とタグリッシュ
前節で、英語とタガログ語のバイリンガリズムと使用域の棲み分けについて述べたが、このシステムが十全に機能して学習が進んでいくには、英語での意思疎通が教室でほぼ完璧に行われていることが前提となる。しかし、習熟の程度は生徒によって一定ではない。その一方で、なるべく英語を使って教育したい、授業を受けるほうもなるべく英語に習熟したいという欲求がある。そうした中で生まれたのが、タグリッシュTaglishというタガログ語Tagalogと英語Englishが混ざり合った言語形式である。最初は、教育を受けた人々が自然科学用語として造語されたフィリピノ語(タガログ語)は使い勝手が悪い[8]として、フィリピノ語の学術的な文脈に、使い慣れた英語語彙を単純に挿入していたものが、バイリンガル教育方針の決定を契機に、ラジオやテレビを通じて民衆の間に急速に広まった。Sibayan(1978: 44) は、タグリッシュは1960年代から使われており、Marasigan(1983:7) は新聞に初めて記事として取り上げられたのは1967年のことだったと述べている。名称も当初は「まぜこぜ」を意味するhalo-haloだったのが、Engalogを経てTaglishとなった。[9]タグリッシュには英語を主としてタガログ語を混ぜるタイプと、タガログ語を主として英語を混ぜるタイプの2つに大別される。しかしながら、クレオールのように2つの言語の文法体系のうち最も複雑な部分を互いに簡略化し、一方の言語を母体(基層)に、他方の言語は語彙を供給するlexifier(上層)にして融合し、叙述部を中心に新たな文法体系を生み出した、というわけではない。その意味では、系統の異なる二つの言語の文構成素がサラダのように混ざり合った言語に過ぎない。換言すれば、タグリッシュとは、英語とタガログ語の間で行われるコード・スイッチングによる、その場限りの言語形式なのである。
Poplack (1980)によると、このコード・スイッチングには、以下の3つのパターンがみられるという。
i) inter-sentential switching
ii) tag- switching
iii) intra-sentential switching
Zirker (2007)は、i)は言語1に言語2が文レベルで挿入されるパターンであり、ii)は言語2の短い表現が言語1の中に挿入されるパターンであるとし、Jones (2004)は、iii)は言語2が句レベルで言語1の統語上の文構成素となるパターンであると述べている。具体例として、フィリピノ語とタグリッシュのバイリンガルな工場労働者におけるコード・スイッチングを研究したAlic and Gustilo (2013:65-66)が、Mercado (2010)の挙げた用例をもとに、タグリッシュの3つのパターンを分類しているので、以下に紹介する。なお、タガログ語部分への下線付けと語彙レベルの大まかな英語対訳は筆者による。ただし、angは主語焦点を示す格標識なので対訳はない。
i) inter-sentential switching
(1) Okay kindly keep your things? Kunin niyo ang notebook sa akin
get you from me
= You get the notebooks from me.
(2) Tatanungin ko kayo ulit. Is there a big chance that you will get an even number?
will ask I you again
= I will ask you again.
ii) tag- switching
(3) O what do we call energy coming from the houselight?
yes
=Ya,
(4) We see thunder...lightning..sea..di ba?
don't ~
= don't we / right
iii) intra-sentential switching
(5) It is not feeding pa rin ito may feeding dito
yet also here there's here
= It is still not feeding here there is feeding here.
(6) What is the easiest..easiest, ano, lowest term…
what
= well
2.3 タグリッシュの文法的特性
タグリッシュは、テレビのテロップや、e-mail、 SNS、タブロイド判の新聞や漫画などを除き、一回の発話ごとに消えていく言語形式に過ぎないが、それでも各タグリッシュに共通する特性が見られる。この文法的特性に関しては、すでにいくつかの研究報告があり、以下にその要点を簡略にまとめる。[10]ただし、例文に関しては一部を除き、英語との対比を明らかにするために、原文でタガログ語が混ざっていた部分は省いてある。
2.3.1 音韻的特性
母音に関しては、長母音と短母音の対立がしばしばなくなるため、sheep / shipやfool / fullの弁別素性がなくなり、音声的に意味の区別ができない。子音に関しては、/ʃ /と/ʒ/、/s/と /z/の間の対立がなくなる。また、/θ/は/t/、/ð/は /d/になるため、these / thisやthree / treeの間の対立が消滅する場合がある。
2.3.2 語彙的特性
英語から取り込まれた語彙だけでなく、スペインによる統治時代の残像として、スペイン語語源の語彙がわずかながら見受けられる。
i) タガログ語やスペイン語の言い回しで使われる語彙の英語直訳。
(7) green joke = obscene joke < green = sp. verde
(8) open the radio = turn on the radio < open = t. buksan
(9) close the light = turn off the light < close = t. isara
ii) 本来の英語にはない語義の付加。
(10) jingle = urinate
(11) comfort room (CR) = restroom (WC)
(12) American time = being punctual
iii) 本来のスペイン語にはない語義の付加。
(13) asalto = party on the eve of one's birthday < sp. = surprise party
iv) 社名、商品名、英語慣用句などからの造語
(14) pentel pen = colour marker
(15) holdupper = thief
(16) ballpen = ball point pen[11]
2.3.3 統語的特性
統語面においては、動詞を中心に時制、話法、主語との活用の不一致、タガログ語接辞の併用による様態表現の充実など、名詞における複数形と単数形の変則性、前置詞の誤用などさまざまな特性がみられる。
i)過去形を使うべきところに現在完了形。
(17) I have seen him yesterday.
ii) 過去完了形を使うべきところに過去形または現在完了形。
(18) In a recent Senate the former President Estrada has claimed it was…
iii) 習慣的行為にも進行形
(19) He is going to school.
iii) 現在形で主語の人称・数と動詞の活用が一致しない。
(21) He go to school.
iv) 時制が一致しない
(22) He says he had lived in the UK before.
(23) The students couldn’t understand why they will have to come to school on Sunday.
v) 動詞は随時タガログ語の焦点システムに応じた接辞を伴う。
(24) Nagha-huddle rin yong mga puti.
= Hudling also those [agent] PL white
= The whites are huddling, too.
vi) 命令文では疑問文の語順を維持。
(25) Ask what are boys fond of playing.
vii)副詞は文の先頭または末尾に挿入。
(26) Only once na hindi siya naka-double digits
already not he/she able
= It only happened once that he was not able to score double digits.
viii) 前置詞の誤用。
(27) located at ( = on) the 19th street / up for ( = to) you / based from (= on)
ix) 総称と固有名詞に関して定冠詞の用法が英米語と逆。
(28) Ø United States / the Rizal College
x) 名詞の単数形・複数形の誤用。
(29) one of the student Ø / feedbacks
xi) 人称代名詞3人称he, she, itの区別をせずにtheyで統一。
(30) The work is so heavy that they are taking their toll on the health of people.
= it is its
xii) 品詞のシフト。
(31) Sorry I'm late, it was so traffic.
xiii) 疑問文への肯定・否定の返答は、叙述の内容そのものが判断の対象。
(32) Aren't you busy?--- Yes, I'm not busy.
2.3.4 タグリッシュに見る言語接触の痕跡
英語とタガログ語という構造の全く異なる言語を、センテンスすべてを一方から他方へ切り替えるランゲージ・シフトではなく、構成素単位で発話の中に混在させるには、どちらかの、あるいは双方の言語の語形成も含めた文法構造に何らかの手を加える必要がある。例えば、日本語を母体として英語の語彙を混在させた (33)[12]では、tuck in(たくし込む)の前置詞inがすでに「インする」(=たくし込む)という動詞にシフトして定着していることを前提に、「ウエストイン」(=ウエストの高さでたくし込む)という和製英語が新たに造語されている。rider's jacket(オートバイ乗り用の短い革製上着)の省略形「ライダース」は音韻的に/z/が/s/へ無声化している。vividは形容詞であるが、そのまま名詞「赤色」に先行することなく、形容詞の語尾「な」を補っている。naturalも同じく形容詞であるが、動詞の前では「ナチュラルに」と助詞「に」を副詞化の接尾辞-lyに対応させている。動詞harmonizeには、主語knitに合わせて屈折させ、語尾に接尾辞-sを加えるという操作の痕跡は見られない。つまり、英語の原義と文法特性を保ったままの (34)は非文となってしまう。
(33)ウエストインしたニットがライダースのサイズ感とよくマッチして、ビビッドな赤色のアイテムとナチュラルにハーモナイズ。
*(34)タッキンしたニットがライダーズジャケットのサイズ感とよくマッチし
て、ビビッド赤色のアイテムとナチュラリーハーモナイズィズ。
このような二言語の接触で見られる文法的操作に関して、Thompson (2003:146)はMuyskin (2000)が提唱する対応型語彙化congruent lexicalizationの概念をタグリッシュに当てはめて、2つの言語の文法が合致すると、対応型語彙化によって双方の言語は合流して語彙を分かち合うが、英語とタガログ語のように似ていない言語の間で起こる合流には2つ方法があると述べている。1つは英語の談話素性discourse featuresである決まり文句や返答、接続詞を(35)のように節の外部または少なくとも周辺部に置くことで、タガログ語のフォーカス・システムを阻害しないようにする方法である。
(35) Nahuli lang siya doon in that last play.
caught only he there
= Only he was caught in that last play.
もう1つは、(36)のようにsa(方向、場所格)、para sa / para kay(受益者格)、ng / ni(行為者格)ang / si (主語焦点)などの格標識を英語の前置詞として解釈したり、(24)のように英語の動詞にタガログ語の接辞を付加して焦点システムに溶け込ませる方法である。
(36) There is no tomorrow para sa Gordons team.
for [patient]
以上の観点に立つと、前節で列挙した特性の中でも、とりわけ統語的特性がタガログ語の文法構造を根源としていることが分かる。これらは英語から見ればすべて誤用であるが、タガログ語の文法から見れば、どれも問題がないのである。タガログ語の動詞システムは3.4.3.2で詳述するが、ヨーロッパ諸語のような時制と法には依らず、事象の生起を時間概念のない「不定相」、もう終わった行為や状態を表す「完了相」、まだ終わっていない行為や状態を表す「未完了相」、まだ起きていない行為や状態を表す「未然相」の4つの相に基づいて叙述する。この相システムを無理して時制システムに対応させると、「完了相」は過去、「未完了相」は現在、「未然相」は未来になる。したがって、過去形の代わりに現在完了形を使おうが過去完了形を使おうが、すでに終わった行為あるいは状態であるという情報が伝われば十分である(i, ii)。同様に、まだ終わっていない行為または状態であることを伝えるのなら、現在形だろうが現在進行形だろうがまったく問題がない (iii, iv)。複文の動詞に時制の一致が見られないのは、発話の時点で複文の動詞が表す行為または状態がすでに起きたことなのか、同時に進行していたのか、あるいはその時点より先に起こることを予測していたのかにより動詞の相が決められるからである(iv)。また、主語の人称と数によって動詞が活用することもない(x)。タガログ語では文構成素の語順は、必ず文頭から二番目の位置に生起する前節語の存在、叙述文か強調の特定文か、倒置詞を伴うか否か、動詞は一般動詞か否かなどの要因により複雑に変化するが、いわゆる複文になっても語順は変わらない(vi)。名詞が複数形にならないのは、接尾辞の付加や母音の変化によって複数概念を表現するのではなく、複数小辞mga [ˈmaga]を名詞に前置すれば良いからである(x)。タガログ語ではmatami(甘い、砂糖、飴)のように形容詞と名詞が同形で意味的に密接な関係にある場合がある(xii)。人称代名詞he、she、itを弁別しないのではなく、言及の対象は話し手でも聞き手でもないという情報が与えられれば十分なのである。タガログ語の人称代名詞に性別はなく、事柄に対してdeixisはあってもanaphorはないので、itに相当する語彙がタガログ語にはない。ただし、人称代名詞3人称複数形を敬語表現では2人称単数として用いることはあるが、タグリッシュのように3人称複数形を3人称単数形の代用にする例は見られない (x) 。英語の前置詞の多くは方向・場所の格標識saとして認識され、動詞が表す行為に方向・場所の概念が関わることが伝われば充分である (viii) 。
2.4 タグリッシュの存在意義
前節で挙げたさまざまな特性は、タグリッシュをタグリッシュたらしめるものである。英語の母語話者から誤用として指弾されたくなければ、所謂正しい英語にシフトすれば問題がないのにも拘らず、高い教育を受けた者までがタグリッシュを使い、英語との併存状況が続いているのには理由がある。タグリッシュには社会的な存在意義があるからである。
存在意義の1つは、英語習熟度の低い学習者への補助言語としての役割である。1974年に教育文化スポーツ省が、科目による棲み分けるタガログ語と英語のバイリンガリズム路線を打ち出していたが、Dekker & Young (2005: 186)によると、2005年から小学校の理系の科目は英語だけで授業を行うことが徹底されたという。とは言え、クラスの生徒全員が英語運用能力において完璧なまでに優れているわけではないので、その場合には英語とタガログ語の比率を自由に調節できるタグリッシュが補助言語として役立つ。しかしながら、タグリッシュを授業で使うことに対する厳しい見方もある。Metila (2009: 48)によると、私立の女子小学校の4年生と教師の間のコード・スイッチングを観察した結果、コード・スイッチングを認める生徒が44%いる一方で、生徒の50%は教室では英語またはタガログ語の一言語使用に限るべきで、コード・スイッチングをするべきではないと答えたという。また、学問的に程度の高い授業は、英語、タグリッシュ、タガログ語のうちどれを用いるのが適切かという質問には、英語と答えた者が88%だったのに対し、タグリッシュと答えた者は6%から12%だった。因みに、タガログ語と答えた者は皆無だった。
もう1つの存在意義は、タグリッシュの使用が与える親近感である。完全な英語ではないため、逆にフォーマル感が薄れ、その分親しみを感じやすい。Thompson (ibid.:41、55, 56)は、今日では、社会的に高い地位の人も含め、教育を受けたフィリピン人のほぼ全員が、純粋な英語またはタガログ語を使うべき場面を除いてタグリッシュを使っており、タグリッシュはフィリピン人にとって、くだけた英語street Englishとしての役割を担っているという。教室では、英語運用能力はもはや努力の賜物とは見られず、自分が優位に立っていることを相手に見せびらかすような不快な態度と解されてしまう。クラスメートからのプレッシャーに屈せずに教室の内外できちんとした英語を使い続けると、マイナス・イメージを背負い込むことになるとまで断言している。社会に出ても、技術関係の文献の作成、重役会議や理事会での発言、仕事の交渉はすべて英語のみで行われるが、一般職員同士や市民との普通のやり取りはタグリッシュで行うという。また、Thompson (ibid.:206-207)は、テレビのスポーツ番組で、若手のインタヴューアーが年配の大物コーチに向かって、どのようにコード・スイッチングをするか観察した結果、若手は敬意を払うために極力英語か英語寄りのタグリッシュを使うのに対して、大物コーチはタガログ語かタガログ語寄りのタグリッシュで受け答えをし、テレビを見ている英語があまり得意でない地方のファンに向けて連帯感を醸し出したという。
こうした存在意義がタグリッシュを支えていることは、Lesho & Sippola (2013:6)の研究からも窺える。タガログ語と英語とタグリッシュの間でコード・スイッチングが行われた場合、全国どこでもタグリッシュへのコード・スイッチングが割合として最も高く、同時にタグリッシュは、英語を日常的に使用している高学歴の人々からなる上流社会を想起させることから、ステイタス・シンボルとみなされるとも指摘している。
テレビニュースのタグリッシュの例(2016年5月28日投宿先のマニラのホテルにて)
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[8]「重力」のように比較的に古い科学用語は、語源がスペイン語gravidadのgrabidadで対応できるが、例えば、「級数」や「偏光」にあたるタガログ語はなく、英語のseriesやpolarizationをそのまま用いる。
[9]タガログ語の部分が多いのをEngalogとする見方もある。Thompson (2003: 40-41)、小野原(2004: 49)。
[10]芝田征二(1990: 178-188)、Gonzalez (1997:39)、Thompson (2003: 53, 140-153)、Bautista (2004: 230) 、Kirkpatrick (2007: 131-132)、 Dayag (2012: 94-96) 。用例もこれらに準拠した。
[11] Dayag(2012: 95)はballpenのほかにairconもタグリッシュとしている。現代英語の収録語数が最大に近い英辞郎では、air-conを「東南アジア英語の会話表現」としている。しかし、日本へ出稼ぎに来た多くのフィリピン人女性労働者が、離日の際に大量の日本製品を土産にしていた80年代から90年代にかけて、製品を持ち帰った本人とともに和製英語が流入した可能性も一考に値するであろう。
[12]キナリノ「ニットをインして、新しい冬のコーディネートをあなたも取り入れてみませんか?」を基に作成。https://kinarino.jp/ 2018年3月6日閲覧。