「 ベトナム語におけるフランス語のレガシィ」[1} (1/2ページ)
田原洋樹(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部准教授)
1. はじめに
2. 日常生活の中のフランス語起源語
3. フランス語起源語が与える印象
4. まとめ
要旨:
ベトナム語には、比較言語学上で語族が異なるフランス語を起源とする語彙群がある。その数は、フランス植民地時代に入ってきた語、さらにはフランスからの独立後に取り込んだ科学技術語彙を中心におおむね1000語と考えられている。戦中戦後の社会変化や世界『英語化』の流れの中で、フランス語起源語を取り巻く環境は激変して、消滅した語もある。
本稿では、旧ベトナム共和国時代の言語動態を記憶する人々へのインタビューと、印刷物の分析によってフランス語起源語を抽出してリスト化し、使用環境や用法を考察した。
キーワード:
フランス語起源語 ベトナム共和国 正書法 ハイフン
Keywords:
French Origin words, Republic of Vietnam, Orthography, Hyphen
1. はじめに
ベトナム語の語彙を語るとき、それが教室であれ、研究の一局面であれ、避けて通れないのが漢越語とフランス語起源語である。
前者はtừ Hán Việtと呼ばれる、漢語に起源を持つ語で、政治経済および社会科学に関する語彙のおおよそ6割を占める。冨田(1988)は「その圧倒的多数の借用語を中国語(漢語)に負っている。それらは、いわゆる基礎語彙とよばれる語彙から、高度な文化語彙まで実に広範囲に及んでいる。それらの語彙の、固有ヴェトナム語語彙に対する割合は、日本語における漢語からの借用語の割合をはるかにしのいでいるものと思われる」[2]と述べ、この認識はベトナム国内外の言語学者にほぼ共通している。なお、漢語に起源を持つことが即ち中国語からの直接移入を意味するわけではなく、例えばベトナムの正式国名であるベトナム社会主義共和国を意味するベトナム語Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Namにおいて、cộng hòa(共和)、xã hội chủ nghĩa(社会主義)はともに和製漢語が中国語経由でベトナム語に浸透したものである。
他方で、フランス語に起源を持つ語はtừ gốc Phápと総称され、フランス植民地時代に持ち込まれたフランス語がそのまま、あるいはベトナム語化されて定着した語である。ここ数年、筆者がベトナム語の会話で用いるフランス語起源語が、ベトナム人の若者に「通じない」ことがあった。漢越語やフランス語起源語ではない、純粋ベトナム語への置き換えが進んでいるのだろう。他方で、ベトナム国内、とりわけ南部の壮年や老人(サイゴン陥落以前に出生し、旧ベトナム共和国で成長した者)や、アメリカ合衆国カリフォルニア州の「リトルサイゴン」と呼ばれる地区のベトナム系住民のコミュニケーションでは引き続き多くのフランス語起源語が使用されている。
筆者は1991年に東京でベトナム語学習を始めて、92年から93年までホーチミン市総合大学(現在のホーチミン市国家大学)に留学した。その後は96年から3年間ハノイの日本国大使館に勤務したが、筆者のベトナム語能力の基礎は留学時代に築いたと言える。筆者がベトナム語を学習してきた四半世紀で、ベトナム国内でのフランス語起源語を取り巻く環境に変化があったと推測でき、それを自己の学習史およびベトナム語運用経験に照らし合わせて研究していくことが、既に一部で遺産化しているフランス語起源語の記録になるのではないかと考えた。
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[1]本稿は田原洋樹.2017.「ベトナム語におけるフランス語のレガシィ」,『APU言語教育論叢』第2巻, pp.10-17.を一部修正したものである。
[2]冨田健次「ヴェトナム語」,『言語学大事典』(上), 三省堂. 1998.
2.日常生活の中のフランス語起源語
ベトナムでの日常生活を考えると、出勤前のコーヒー、通勤通学手段として都市部で定着しつつあるバス、宴席には欠かせないビールのすべてがフランス語起源語である。これらはベトナムにもともと存在していたものではなく、フランス植民地支配とともにベトナムに持ち込まれたものであり、フランス語起源語で呼ぶのは蓋し当然だ。
ベトナムを代表する麺料理のひとつであるフォーはまた朝食の定番だが、この語源には複数の考察がある。広東語由来のngưu nhục phấn(牛肉粉)のphấnがベトナム語化したという説、フランス語のpot-au-feu、すなわちポトフの第三音節がフォーになったとの説など、フォーそのものの起源が明らかではないのと同様に、語源も不明である。1896年に刊行されたĐại Nam Quốc-Âm Tự-Vị『大南国音字彙』にはphởの記載はなく、Vương Toànは1907年のEssai sur les Tonkinoisでも触れられていないと指摘している[3]。一方で、現代作家のThạch Lâmは “Hà Nội ba mươi sáu phố phường”で、ハノイでは「人々は朝に、昼に、夜にフォーを食べる」と書いている[4]ので、彼の生前、つまり1942年までにはフォーがハノイの食生活に定着していたことが分かり、合わせてphởというベトナム語の発生と定着も読み取ることができる。
西洋を意味するTây「西」は漢越語であるが、この語は西洋全体を指す意味以外にも「フランス」を意味する。Nguyễn Hữu Phướcは「年長者がTâyという語を耳にしたときはフランス人ないしフランス国のことだと理解する」と述べている[5]。ベトナムの格言Ăn cơm Tàu, ở nhà Tây, lấy, vợ Nhật.(食うなら中華料理、住まうならフレンチビラ、娶るなら日本人)においてもTâyが使われているが、これは西洋一般を意味するのではなく、フランスの意である。
日本語では英語に由来するエイズ(AIDS; Acquired Immune Deficiency Syndrome)やデオキシリボ核酸(DNA; Deoxyribonucleic Acid)などは、それぞれフランス語のsyndrome d'immunodéficience acquiseに由来するSIDAと呼び、後者はacide désoxyribonucléiqueによるADNが一般的である。なお、ベトナム語で使用されるアルファベットの各字母は、例えばA,B,Cが[a]、[be]、[se]である。
フランス語起源語のうち、約70%が科学技術や学術研究に関連する語とされ[6]、上述のように日常生活で出会うフランス語起源語はむしろ少数である。ただ、現実の言語生活を考えると、科学技術用語や学術用語は頻繁には使用しない一方で、衣食住に関わる基本語の中のフランス語起源語は、そのバリエーションは少なくとも、いわば「朝起きてから夜寝るまで」高い頻度で使用されている。よって、どうしても見え方に偏りが出てしまうのだ。
そこで、ベトナムでの日常生活で使用するフランス語起源語をまとめたのがリスト1である。外来語ゆえにベトナム語表記に揺れがあり、国内外で発行されている辞書の見出し語を見ても統一感がない。本リストでは新聞雑誌などで一般的に用いられているものを採用している。
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[3] Vương Toàn, Tiếng Việt trong tiếp xúc ngôn ngữ, NXB Dân Trí, 2010. p28.
[4] Thạch Lam, Hà Nội ba mươi sáu phố phường, NXB Đời nay, 1943.
[5] Nguyễn Hữu Phước, Tiếng Viêt gốc ngoại quốc, 2008. p220.
[6] Hoàng Xuân HãnはDanh từ khoa họcの第2版(1948)に約6000語のフランス語起源の学術用語を収録している。
このリスト[7]を見ると、現在も使用されている語、すなわちベトナム語に置き換えられず、あるいは外来語であることすら意識されずに定着している語が多く観察される。
一方で、このリストから外れている語や辞書の見出し語や書籍から姿を消してしまっている語の『存在』も明らかになってくる。Nguyễn Hữu Phướcは前掲書で「約100年のフランス支配の影響」を受けた語彙について「現在45歳から75歳以上の世代[8]にとって、何度も読んだり聞いたりする機会があった語だ。また、毎日の生活で使っていた語でもある。しかし、かつて日常的に使っていた、このような語の一部は、今では誰にも振り向かれない。また、国内の一部、あるいは外国でのみ使用されている語もある」と指摘している。リスト2は90年代前半には30代から40代の人々が日常生活で使用していて、現在ではほとんど使用されていない語とされたものをまとめている。
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[7]本リストでは、新聞雑誌などで一般的に用いられる表記を採用した。
[8]初版当時の記述。
1975年以前にはĂng-Lêはnướcと結びついて英国となり、người Ăng-Lê(イギリス人)やtiếng Ăng-Lê(英語)のような語句も使われていた。現在は漢越語のAnhに収斂している。băngは同音異義語があるので、区別するためにnhàを前置してnhà băngの形で使われることが多かった。
なお、新語の発生に関して、Trần Thị Tính[12]は、新聞雑誌では形態素レベルでのフランス語や英語からの造語があることを指摘している。
siêu âm <supersonique: 超音波
siêu thị <supermarket: スーパー
ただし、siêu thịは「超市」の漢越語とする考えが多い。スーパーマンを意味するsiêu nhân「超人」も同様で、siêu thịやsiêu nhânが直ちにフランス語や英語からの外来語だとする考えには首肯できない。なお、形態素レベルの造語力そのものは否定すべきではなく、フランス語起源ではないが、
siêu chỉnh <hypercorrection: 過剰修正
のような新語発生のメカニズムは押さえておきたい。
また、「名刺」を意味する語はdanh thiếpまたはcard visitである。後者の語源は一考に値する。今日、一般的に定着している綴りはcard visitであるが、carte de visiteがベトナム語に入り、まずはcạc visítまたはcác visítと発音された。筆者の経験では、90年代前半はほとんどこのどちらかで、2000年代には発音はそのままに、英単語のcardとvisitを組み合わせたcard visitが出現し、現在に至っている。語彙は英語に取って代わられたものの、フランス語の語順が残っている点が興味深い。
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[9] 例えば、Thanh Nghị, Từ Điển Việt Nam, Khai Trí, 1958.や、 Nguyễn Đình Hòa, Vietnamese- English Student’s Dictionary, The Vietnamese American Association, 1969.には見出し語として採用されながら、現在ベトナム国内で流通している国語辞典には採録されていない語。なお、当リストは旧南ベトナムで通用していた正書法に依拠している。
[10] 現在ではkemがクリームとアイスクリームの両方を意味する。
[11] 例えば57/34を現在は57 trên 34と読むが、90年代前半までは57 xuyệt 34と読む人が多かった。
[12] Trần Thị Tính, Việt hóa từ tiếng Pháp, tiếng Anh trên baó chí tiếng Việt hiện nay, Tiếp xúc ngôn ngữ ở Việt Nam, NXB Khoa học xã hội, 2005. p79.