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 東京外国語大学「日本専攻」の歩み

3. 特設日本語学科の時代 コラム

目次
コラム−学園紛争の影響と留学生課程・特設日本語学科
コラム−日本人学生の追加に向けた計画
コラム−附属日本語学校



コラム−学園紛争の影響と留学生課程・特設日本語学科
 東京外国語大学では1960年代後半から70年代前半にかけて、学園紛争が激化します。1968年10月以降、西ヶ原キャンパスの構内は学生により占拠され、一時は入試の実施が危ぶまれる事態にまでなり、 東京外国語大学は、東京大学・東京教育大学と並び国立の「最重症三大学」と言われました。
 こうした学園紛争のなか、日本人学生の運動指導者は当初留学生を運動に巻き込むことは避けていましたが、構内が学生に占拠されると留学生にも影響が出始めます。 進学の都合上休講をすることのできない留学生課程の学生らは学外での授業を余儀なくされ、オリンピック青少年総合センターを借りて授業を行われました。 下記の写真は1969年のオリエンテーション時の写真ですが、その壁面には紛争の影響を思わせる「落書き」が多数見受けられます。
1969年度学園紛争の影響が色濃い学内での
オリエンテーション風景

コラム−日本人学生の追加に向けた計画
 特設日本語学科の教員たちは、学科設置後も日本人学生の受入れに向けた議論を進め、数々の検討資料や計画案が現在残っています。その計画は具体的で、 @大学院、A学部3年、B学部1年、と段階を踏んで日本人学生の定員枠を拡大するもので、Bの学部1年段階での日本人学生の受入れについては、「カリキュラム上の問題がからむので、 3年入学の結果と全学的協力態勢が得られるかどうかをみてから入学させる」ことを計画していました。
 1975年4月本学大学院外国語学研究科に日本語専攻(定員5名)が設置されます。この時入学した5名のうち、2名は日本人学生であり、大学院レベルでの日本人学生受入れが達成されます。 その後、A学部3年段階での日本人学生の受入れを、大学院発足後3・4年目を目途に計画し、1976年に日本語研究室が発行した『日本語学科の3年次に日本人学生の学士入学を受け入れるために』では、 日本語教員養成の需要が拡大し、日本語教授法の講座が流行している状況を踏まえ、日本人学生の受入れの必要性を説くとともに、「カリキュラムについては、卒業必要単位その他学則に合わせた形に改定しており、 日本人学生が3年次に入学しても、変更の必要はむろんない」と、3年次編入に向けたカリキュラム整備が進んでいる状況が紹介されています。 しかし、この活動を直ぐには実を結ばず、学部段階での日本人学生受入れは、1985年の「日本語学科」の設置を待つことになります。

コラム−附属日本語学校
 1970年4月、東京都府中市住吉町に「東京外国語大学外国語学部附属日本語学校」が設置されます。附属日本語学校は、留学生課程1年次の日本語の予備教育を引継ぎ、 文科系・理科系の区別なく国費学部留学生に対して、1年間のカリキュラムで、留学生への日本語教育を目的としています。
 1986年4月には「東京外国語大学留学生教育教材開発センター」が併設され、教育教材の開発・研究も進められています。 1992年には、附属日本語学校と留学生教育教材開発センターを統合して留学生日本語教育センターに改組されます。
附属日本語学校落成式
(1971年6月18日)


    
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