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シリーズ「AA研」は何をするところ?:死の人類学再考〜変容する現実の人類学的手法による探究〜

研究室を訪ねてみよう!

東京外国語大学のキャンパス内にはさまざまな施設があります。そのなかで、学生のみなさんにとって立ち入る機会が少ないのがアジア・アフリカ言語文化研究所(略称「AA研」)ではないでしょうか。一部で「謎の施設」とも言われるAA研は、アジア・アフリカの言語と文化に関する国際的な研究拠点です。そこでは国内外の研究者と共同で、アジア・アフリカ地域を対象とする人文学を基盤とする研究活動を幅広く展開しています。このシリーズでは、AA研の多様な共同研究プロジェクトの一部をご紹介していきます。

今回は共同利用・共同研究課題「死の人類学再考:変容する現実の人類学的手法による探究 (jrp000273)」の代表である西井凉子教授に、この共同研究プロジェクトについてご紹介いただきます。

本記事は「死」を扱った内容であるため、一部センシティブな内容・画像を含んでおります。あらかじめご了承ください。

AA研共同利用・共同研究課題「死の人類学再考:変容する現実の人類学的手法による探究 」(jrp000273)

この共同研究プロジェクトは、死をめぐる人類学的なフィールド実践から、生きる現実を新たな視野のもとで捉え直すことを目指す。死は、それが自己の死であれ、他者の死であれ、人が生きる現実にとって根源的な経験である。本研究では、日常的なリアリティが変容するなか、東日本大震災や新型コロナウイルス感染といった突発的な出来事による死や、多死社会、介護の現場や死の医療化、葬儀の変容などの現場から、生と死の境界に焦点化することで、生きる現実に迫る。

人は誰しも死者と共に生きている

死は、生きている人は自らだれも体験したことがない出来事です。一方、人は誰しも死者との関係をもっているといえるでしょう。それが、近しい人であろうと、テレビのニュースや新聞記事でしか接点のない人であろうと、すでに不在となった人との関係をもちつつ私たちの「今ここ」があるのです。本研究では、人類学的フィールドワークという手法により、自らが生きている現在性のうちに、死者がいかにわれわれの生きる世界のなかで「生きて」いるのかを明らかにすることをめざしています。それにより、私たちの生きている現実の新たな捉え方が可能となることをめざします。

本研究の視点-情動論から

私たちが生きるということにおいて、身体の感覚器官をとおして感受されるモノや人との関係だけではなく、人には見えない存在もまた私たちを突き動かすことはよくあるのではないかと思います。それは、その人にしかわからない霊的な存在だったり、過去の記憶だったりするでしょうが、その中でも死者との関係は、その人がすでに現実には触れることのできない存在でありながら、私たちの考え方や行動に大きな影響を与えることがあるのではないでしょうか。

本研究は、理論的には1990年代から英米圏で注目されはじめ、2000年代後半には、「情動論的転回 the affective turn」と称せられる情動(アフェクト)論から人間を捉え直すことを出発点にしています。アフェクト論は、私たちの現実が、身体として生きていることを起点としながら、自分が意図したり、認識したりしていることからのみ成り立っているのではないことを明らかにすることを目指しています。それにより、主体性や合理性に基づく西欧近代的な人間観を脱して、どのように現実を捉えることができるのか、つまり私たちにいかなる新たな世界を開示するのかを探求します。

そもそも身体そのものも、私たちが思うようにはいかないもっとも根源的なものです。私たちの研究は、そうした身体的存在である研究者が、身体経験をよすがとして、その場に共在することで、ある現実を捉えようとする人類学的フィールドワークという営みから、「死」の問題にアプローチするところに特徴があります。それにより、目の前のフィールドの現実を、「こうありえたかもしれない」という別様の生のあり方や、未来への予期、過去の出来事/記憶との相互浸透といった、複数の層の重なり合いまでも含めて記述することができるのではないかと考えます。

本研究会のメンバーおよび活動

「死」に焦点化する研究は、死者という身体としては不在の存在との関係性をいかに捉えるかがポイントとなります。生者の側の死に向かう過程、死の現場から、その後の死者との関わりあいなどについて、メンバーそれぞれは、独自の領域で「死」に関するフィールド調査を行っています。便宜的に次のように①生、②生と死の境界、③死に焦点化する研究にわけて紹介することで、研究会のアプローチの多様さをみてもらいたいと思います。

①生

磯野真穂:死にゆく人との言葉のやり取りの中で思索を深めてきた経験から「オートエスノグラフィ」を用いてアプローチする。オートエスノグラフィとは、自分の過去を振り返り、それをより大きな社会的文脈に位置付けていく研究手法のことを指す。具体的には宮野真生子との共著である『急に具合が悪くなる』(晶文社)の執筆過程を振り返ることにより、言葉にたじろぐ経験、言葉と共に動き出す経験、死者と共に生きる経験を省察する。

加賀谷真梨:「住み慣れた<地域>で最期まで」という高齢者福祉のスローガンがなぜ日本では広く受容されるのか。その理由を沖縄・池間島における高齢者介護の現場から考察する。スローガンを理念に高齢者の生活を支える人々の実践を描写していくのではなく、人は老いることで何をしているのかと問いながら、島に出自を持つ人や島に集う人々のあいだの「生きること/死ぬこと」をめぐる経験の民族誌を描出する。

② 死と生の境界

丹羽朋子:東日本大震災をめぐる記録と表現では、自他の経験をより距離の遠い他者に伝えるという切実な課題に向き合うなかで、多様な手法による「現実」の記録とフィクション(虚構)の混成が試みられてきた。本研究ではその中でも、〈死者〉という目で見て手で触れることのできない他者を〈うつす〉表現に焦点を当て、実践者たちへの聞き取り調査等を通じて、彼らが各媒体の特性を生かしながら、死者のイメージを創造する経験を通じてどのように思考したのか、またその経験を通して作り手や受け手にどのような変容がもたらされたのかを考察する。

金セッピョル:韓国の喪輿(葬列に使う輿)保存運動に参加している人々が、死と関連して、どのようにアフェクトされ・アフェクトしながら運動を進めているかについて考察する。不特定多数の死者が利用してきた痕跡が刻まれている「喪輿」は、「誰かの死」、「自分の死」を含みながらも、それを超えた「死そのもの」に思索を拡張させ、生を再考するきっかけを提供している。

③死

田中大介:このプロジェクトでは日本における葬儀業の活動や、大規模広域災害で遂行される遺体処置などに関する調査を通じて、今日的な葬制をめぐる動向の分析を進めてきた。また研究にあたっては、死の局面に際して行われる諸実践を表面的な歴史・民俗・慣習の堆積という図式に回収するのではなく、生前から死後に至る一連のプロセスがすでに地縁・血縁関係から乖離しつつある現状を踏まえ、葬儀業だけでなく自治体・火葬場・納棺業・遺品処理業などの多角的な対象にも注目しながら現場実践の精緻な捕捉を試みている。

田井みのり(研究協力者):近年日本の葬儀では、定型的・慣習的なあり方を超えて、人びとが日常的に親しんできた音楽が用いられることがある。身近な人物の死に際して、そうした音楽がいかに人びとの感情や身体に働きかけ得るかについて、葬儀専門の演奏者の視点を踏まえて考察を行う。

高木良子(研究協力者):AI死者(AI美空ひばりのようにAIやCGで作られたもの)、遺人形(3Dプリンターで作られた小型のもの)、デスマスク(故人の身体から直接象るもの)を研究対象に、「本物のように克明に再現された死者の姿は、遺族にとってどう見えているのか」を探究している。これまでの研究によって、第三者には故人にそっくりに見える姿も、実は遺族からは必ずしも故人に似ているとは認知されていないことがわかってきた。似せるという方向以外に死者を感じられる表象のあり方を探りながら、死者の表象に関わるテクノロジーはどのようにあるべきなのかを研究を通じて明らかにしていきたい。

西井凉子:1975年、タイの民主化弾圧の前夜、南タイで起こった爆弾テロの現場にいあわせた人の証言から、死者の記憶が現在の語りのなかでいかに立ち上がってくるのか考える。それは、現在の環境における過去の出来事の「不在」を、語り手の身構えを通して感知し、共に現在の環境における「不在の穴」をのぞき込むことになるであろう。

黒田末寿:最近の動物研究、人間とペットの関係研究から、多くの動物が伴侶の喪失に「悲嘆」的情動反応を起こすことがわかってきた。これらの検討はいわば「悼みの自然誌」の形をとる。ここから、人間の「死」を逆照射する。

土佐桂子:ミャンマーでは2021年軍部によるクーデター以降、デモの武力弾圧、コロナ感染症対策の失策などで、多数の犠牲者を出し、死者を出さなかった家はないとまで言われる。ここでは、従来のインフォーマントのSNSやタイ側国境沿いでの調査をもとに、そうした人々がいかに死と向きあったか、またSNSを通していかに死が伝えられるかなどを考察する。

瓜生大輔(研究協力者):コロナ禍を契機に顕在化した、遠隔(バーチャル)葬儀参列について考察する。とりわけ「遺体を撮る」という行為に着目すると、業者など第三者が撮る場合とごく近しい近親者が撮る場合では大きく意味が異なる。葬儀という特殊なコンテキストにおける近未来の遠隔接続技術開発の可能性と今後求められるデザインについて議論する。

本研究会では、2023年5月21日に、一般公開イベント「人類学カフェ」として、AA研基幹研究人類学班との共催で監督の佐藤そのみさんを招き、映画上映会「ある春のための上映会―石巻から震災を描いて」を開催しました。フィクション作品『春をかさねて』は震災遺構として整備される前の大川小学校の中で撮影されています。ドキュメンタリー作品『あなたの瞳に話せたら』は、佐藤さんを含む大川小学校で妹や同級生を亡くした当時小中学生だった方が故人に向けた手紙を読む形式の作品で、両者はフィクションとドキュメンタリー双方の形式を持って相互補完的な関係にあります。

モノとしての死体

人類学において、死者の身体の重要性は前提となっています。常にただのモノ以上のモノである死体。それは、通常、葬儀において中心となり、厳然としてそこに存在する死者の身体であるものの生前と死後ではなめらかにその人の生から死への移行を示すわけではありません。それは、その人との関係性を保つことが危機的な瞬間であることをつきつけます。葬儀は、この生から死への移行期を、共同で乗り切るための人間の工夫、知恵ともいえるものだと思われます。

秋田市の老舗葬儀社が保有する家族葬専用の葬儀会館の内部。現在ではこのように1日1組に限定した家族葬専用の葬儀会館が増えている。
従来のように不特定多数の会葬者が参列するのではなく、限られた近親者のみで葬儀を行うケースが常態化しつつある現在では、
会葬者の減少を反映して葬儀会館もこのような小規模型が徐々に比率を増してきた。
(2023年3月・田中撮影・於秋田県秋田市・半田葬儀社「寺町セレーネ」)
葬儀関連ビジネスの展示会である「エンディング産業展」で展示されていた死装束。遺体に着せる死装束も最近では多彩なデザインと色調を顧客が選択できるようになってきた。
死の局面に際しても「わたしらしさ」を発揮したいという顧客のニーズと、そのニーズをできるだけカスタマイズ化して多様な付加価値を創出しようというサービス供給者側の思惑の双方が窺える
(2023年8月・田中撮影・於東京都江東区・東京ビッグサイト)

死者に関わるモノ

死後における死者に関わるモノとは何でしょうか。それは、遺骨、遺影など、死者の生前を想起させるモノが考えられますが、ここにはある種のギャップが見出せます。それは、性質としての死者、つまり死者を思い起こすときには死者は存在するが、現実に触れたり話したりすることができない身体としての不在というギャップです。そのギャップを跳び越えて死者と交流するよすがが死者に関わるモノであるといえるでしょう。

このギャップの架け橋としてのモノについて、高木良子の遺人形やおもかげ人形の事例が参考になるでしょう。遺人形とは、生前の写真などから3Dプリンターで死者に似せて作る小さな像です。遺人形は実写に近いリアルなものであると考えていた高木の想定した「リアル」と回答者である遺族の言う「リアル」とは、実は認識に大きなずれがあったといいます。彼らの言う「リアル」とは、単に表象の外形について述べられたものではなく、遺族の心象風景のなかにある故人の姿に言及するものだったのです。記憶の中にある「見たい故人イメージ」を、制作者とやりとりしながら再現していく過程のうちにある種の癒しが得られるといいます。それは、例えばAIで再現するような本当にリアルな姿ではなく、死者との生前のやりとりや一緒に散歩した風景など含めて遺族の想像力が入り込む「余地」があるようなモノなのです。

遺人形(いにんぎょう):大阪の制作会社「株式会社ロイスエンタテインメント」で開発された「遺人形」。3Dプリントされた故人を模した人形。
遺族からの聞き取りおよび提供された数枚の写真をもとに、社内のデザイナーが3DGデータを書き起こし、3Dプリンターで印刷される。
サイズは20cm、25cm、30cmの3種類。(2019年7月、高木良子撮影)
デスマスク(商標名:ラストフェイス):千葉県の葬儀社勤務経験のある彫刻家によって現代に復刻された「デスマスク」。
死去から火葬までの数日間に遺体から型取りの作業を行う必要がある。顔型の他に、手型、足型も同時にとることができ、ブロンズ製のほか石膏製もある。
デスマスクはリビングなど遺族の日常の生活空間の中に置かれることが多く、マスクは目をつぶった状態にあるにも関わらず、
中にはマスクから視線を感じると言って、自身が座った際に目線が合う高さに置くなどの工夫をする遺族もいる。
(2023年10月、高木良子撮影)

死者と記憶

死者の記憶は、トラウマと関連して考察することで、その特質がみえてくるでしょう。松嶋健(「トラウマと時間性」-死者とともにある〈いま〉」田中雅一・松嶋健編『トラウマを生きる』2018年, 京都大学人文科学研究所)がまさにこの問題を扱い、次のように述べています。

「トラウマの治療をするときは、第一の聞き手としては当然治療者がいて、第二の聞き手が本人であり、本人が語りながら聞いている。そして実は第三の聞き手がいて、それが死者だといいます。死者の語る言葉に耳をすませること、死者の言葉の聞き手に回ることで、死者を現在と関係づけ直し、過去として更新されるのです。死者と共に生きるとは、死者を記憶することで、忘れることである、つまり忘れるというのはどういうことかというと、過去としてきちんとしまい込むことができるようになることで、形見のような形でしまっておいていつでも想起し対話できる状態に保持しておくということだといいます」(松嶋 2018: 490)。

特に突然の事故や災害によって関係を断ち切られた場合には、死者とどのように付き合っていくのか、どのように心におさめていくのかが遺された者にとって重要だと思われます。先にあげた遺人形は、その一つの方策だといえるでしょう。

石巻在住のアーティストちばふみえさんは、2019年から被災したご自宅や津波の犠牲になったお祖母様の遺品などの手入れをするプロジェクトを始めた。
本研究会メンバーも、津波を被ったモノたちが並ぶ空間で「形見分け」してもらった。他者に開かれた新しい「服喪」の仕方が模索されている。
(2023年5月・丹羽朋子撮影・於宮城県石巻市)

死者の弔いの形は、テクノロジーの発達とともに多様な形態をとってくるでしょう。しかし、生きていく者が生活の中で死者と共にあるということは変わらないと思われます。死者が存在する限り、その死者を記憶する人がいる限り。

普段はごく普通の調度品(鏡・写真立て・ロウソク立て)として、日常生活の中に溶け込むが、
ひとたび決められた動作を行うと供養の儀礼を行う/ 故人を偲ぶ (故人に逢う)ための道具に様変わりする。
仏壇などに代表される伝統的な死者供養のスタイルが変化を見せる今日、
コンピューターサイエンスにおける先端技術が死にまつわる文化・慣習と人々の繊細な感情を支援することができるのか。
問いかけるための第一歩となる試みである。
(瓜生大輔撮影:https://daisuke.uriu.jp/portfolio_page/fenestra/ より転載)

死者との共在

死者は、われわれの生活にも様々な形で影響を与えているといえます。お墓や遺影にむかって弔うという行為のなかだけでなく、われわれが生きていく過程で、語りかけたり、心のよすがとし、さらには現実の出来事のなかにも死者の影響を見出したりすることもあるでしょう。そうした時、われわれは孤独に思えても、これまで関わってきた誰かと常に共にあるのだと気づくのです。

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