ピノチェトは裁かれるか

 

去る一月一一日、英国のストロー内相は、ピノチェト元チリ大統領のスペインへの身柄引き渡しは人道上の理由から行わないとの決断を下した。これまでのところいまだ最終的な確定段階には至っていないものの、ピノチェトが近日中に釈放されて帰国することになるのはほぼ間違いなかろう。一五ヶ月におよぶ「ロンドン事件」はこうしてまもなく幕を下ろすことになる。  

事件の発端は、一九八八年一〇月一七日、手術のため入院していたロンドン市内の病院においてピノチェトがロンドン警視庁によって逮捕されたことである。この逮捕は、軍政時代(一九七三年−一九九〇年)の人権侵害事件を調査していたスペインの司法当局の要請に基づくものだった。

誰もが予想だにしなかったこのピノチェト逮捕という出来事は国際的に大きな反響を呼んだ。一つには、あの七三年の血なまぐさいクーデターの衝撃が、すでに四半世紀が過ぎたとはいえ、爆撃で炎上する大統領官邸モネダ宮の映像とともに今なお多くの人々の記憶の中に残っていたからである。だが、それ以上にまた、この事件がまさしく現代的な意味を強く持っていたからであった。すでに旧ユーゴスラビアやルアンダにおける人権侵害に関しては国際的な特別法廷が設置されていたし、事件の数ヶ月前には国際刑事裁判所(ICC)設立条約がローマで調印されて、人道上許されない犯罪は国際社会が裁くとの原則がうち立てられつつあった。ピノチェト逮捕は、これまでは国家主権のほぼ絶対的な管轄下にあった司法の分野にも、グローバル化の波がいよいよ及びつつあることをきわめて先鋭な形であらためて示すことになったのである。

ただ、人類に対する犯罪は国際社会が裁くとのこうした原則が、人類の正義の美名の下での大国による中小国に対する新たな干渉であるとする受け止め方が存在したことも事実である。告発の対象となるのは中小国の指導者ばかりで、たとえば天安門事件やチェチェン問題で中国やロシアの指導者を逮捕して裁判にかけようとする動きはまったく見られないではないかというわけである。ラテンアメリカ諸国がおしなべて、主権侵害を主張するチリ政府の立場に同情的であったのも、一つにはそうした受け止め方があったからだった。

ピノチェト釈放の決定は、チリのみならず世界中の人権活動家に深い失望を与えた。ピノチェトを裁く絶好の機会がこれで永久に失われてしまったと受け止められたからである。だが、ピノチェトがロンドンで拘留されていたこの一年以上のあいだに、チリ国内の状況は大きな変化を見せていた。いまや、帰国後ピノチェトがチリ国内で裁判にかけられる可能性が生まれてきているのである。

ピノチェトがロンドンで逮捕された一九九八年一〇月の時点で、チリ国内では、軍政時代の人権侵害のかどで一一件の告訴がピノチェトに対してなされていた。現在、その数は五五件に達しており、二人の判事が精力的に審理をすすめている。とりわけ、クーデター直後七二名の犠牲者を出し、ピノチェトも直接関与した疑いがきわめて強いとされている「死のキャラバン」事件では、事件に関係した容疑ですでに六人の将軍が逮捕されて取り調べられている。また訴訟に関わっている弁護士は、終身上院議員の身分にあるピノチェトの不逮捕特権停止の申し立てを近日中に高裁におこす予定であることを言明している。

確かに、保守的色彩の強い裁判所がピノチェトを果たして本当に裁けるのか懐疑的な声も少なくない。数年前、裁判所の内実を告発した『チリ司法黒書』が出版されると、裁判所はただちに出版を禁止して同書を押収し、編集者と出版社社長を逮捕した。著者の女性ジャーナリストは米国に亡命を余儀なくされた(同書は事件の経緯についての説明ととともに以下のサイトで読むことができる。http://www.freespeech.org/apd/index.html)。

だが、チリ社会の雰囲気はこの一年間で大きく変わった。有罪との審判を世界的に宣告され、ピノチェトの威信と影響力はチリ国内でも大きく低下した。右派政治家や企業家、崇拝者によるロンドン詣では時を経るごとに減少していった。今回のストロー内相の釈放決定の後、陸軍は声明を出し、間接的な表現ながら、ピノチェトに対する裁判を開始しないよう呼びかけを行ったが、ほとんど黙殺された。

こうした変化を如実に示したのが、昨年末から今年始めにかけて行われた大統領選挙で右派の統一候補ラビンが見せた姿勢である。ピノチェトが逮捕された直後にはただちにロンドンに飛んで支持を表明したラビンであったが、選挙戦ではピノチェト離れを鮮明に打ち出し、「ピノチェトはもはや過去の人物である」とすら言い切った。今回、ラビンは右派の大統領候補として過去半世紀のなかで最高の得票率を上げたが、この票数をピノチェト支持者の数と見なすのは謝りである。

大統領選挙では、与党の「政党連合」(コンセルタシオン)が推すラゴスが五一パーセントを獲得して当選した。ラゴスは社会党員であり、軍政末期、テレビの政治討論番組でピノチェトを名指して批判して一躍有名となった人物だが、経済政策の面においては軍政の新自由主義経済政策を継承している。現在のチリ国民にとって最大の問題は、もはやピノチェト個人ではなく、彼の軍政支配が残した非民主的な政治体制と新自由主義経済体制である。

(『世界』2000年3月号)