民政に移管したけれど

 

「チリ便り」(ラテンアメリカ交流グループ 『ニュースレター』 1995年)

「好調な経済の下、商品化される自然と文化」(『クロスロード』1997年11月号)

 

 

「チリ便り」(ラテンアメリカ交流グループ 『ニュースレター』 1995年)

こちらに来てまず驚いたのは、4年前に来たときにはなかった見慣れぬ建物がそれこそ「ぼこぼこ」という感じでできていたことだ。今でもあちこちでビルが建設中だ。チリ経済はすこぶる好調だと聞いていたけれど、そのことをまざまざと見せつけられた気がした。

こうした建設ラッシュは都心や高級住宅地に限られたことではない。たとえば僕が以前調査に通ったサンティアゴ東南部のポブラシオン「ロ・エルミーダ」(日本でも公開されて評判になった記録映画「100人の子供たちが列車を待っている」の舞台になった所だ)に通じる道路脇にもえらく馬鹿でかいスーパーが出来ていて、そこら一帯にこぎれいな商店が立ち並んでいる、といった具合だ。「あれえ」、という感じ。

ポブラシオンの知り合いを訪ねたときも、新調の家具が増えていたり、家周りがきれいになっていたり、と生活水準が以前よりも上がっていることがうかがえた。ポブラシオンの人たちにとって軍政時代の一番の問題は仕事がない、ということだったけれど、この建設ブームで仕事にも就くことができ、所得もそれなりに増えていると言えるだろう。

もう一つの大きな変化は、軍政時代にあれほど活発だったポブラシオンでのさまざまな活動がほとんど消滅してしまっていたことだ。

軍政時代にポブラシオンに広がった児童食堂、共同ナベ、作業所、共同購入といった組織は、夫や父親が失業し家計収入が途絶えた状況に直面して女たちがカトリック教会やNGOの支援を得ながら創り出したものだったから、経済が上向きとなり男たちがふたたび働きだした今のような状況では必要性がなくなり消えていくのもある意味で当然だろう。でも、週末に青年たちが中心になって開いていた音楽会とか、ポブラシオンの壁や塀を美しく飾っていた壁画までがなくなってしまったのはどうしてだろうか。

今、ポブラシオンが話題になるのは、麻薬の密売人が摘発、逮捕されたという類のニュースばかりだ。実際、麻薬の広がりはかなりのものらしい。著名な言語学者による『チリにおける麻薬隠語集』(1995年刊)などという本が出版されたくらいだ。4年前に来たときにポブラシオンの若者たちがやっていたのは「ネオプレン」という商標の接着剤をビニール袋で吸う、というやつだったけれど、今流行っているのは「パスタ・バセ」と呼ばれる未精製の低品質なコカインだ。有毒な化学物資を含んでおり、きわめて有害な代物である。だが何しろ安いのでポブラシオンの若者でも手が届く。

サンティアゴ南部のポブラシオン「ビジャ・オヒギンス」は僕が以前調査によく通った所だが、そこでかつては共同ナベの連絡組織の責任者をつとめていた女性が、今ではポブラシオンの麻薬密売組織間の縄張り調整役をやっているという話を聞いた。「ビジャ・オヒギンス」の活動家の女性にも確認してみたけれど本当だとのことだった。

静かなのはポブラシオンだけではない。僕は週に2回ほど、チリ大学の歴史学科の授業にもぐりで通っているけれど、大学も同じようなものだ。運動がない、という意味だけでなく、日常的な学生同士のつき合いもきわめて希薄だし、目立ったサークル活動もない。学生ばかりではなくて、大学全体の空気が何となく沈滞している。

チリ大学といえば、かつてはチリにおける研究活動の中心として高い知的権威を誇っていたけれど、今は老いさらばえて昔日の栄光見る影も無し、という印象だ。政府の予算が大幅に切り詰められているとのことで、教師の給料も驚くほど安い。昨年のチリ大学の創立記念日に、大学当局は半旗を掲げた。大学が政府から冷遇されていることへの抗議表明である。

軍政時代に大学の設立が大幅に自由化されて大学の数だけは飛躍的に増えたけど、そのほとんどはいわば日本の専門学校にあたるもので、経営とかコンピュータとかの実業教育が中心であり研究活動の場ではない。研究活動の中心だったチリ大学が上に見たような状況では、チリにおける学術研究の将来はきわめてお寒いものだ。

大学だけでなく、僕が毎日通っている国立図書館も予算不足で苦しんでいる。図書館の中には研究者専用の広い部屋があって、僕もそこを自由に使わせてもらっているのだけど、電気代がないとのことで昨年初めに一時閉鎖されたとのことだった。やはり予算がなくて書誌検索用の端末も未設置のままだ。「ほら、この通り、配線は済んでいるんだけど」と部屋の担当者は部屋の隅を指で示しながら、「日本で援助してもらえないだろうか」と相談をもちかけてきた。

学問の世界だけではない。ホセ・ドノソといえば現代チリを代表する作家だが(もっとも僕の場合には、彼の代表作と言われる『夜のみだらな鳥』を読み出したものの皆目理解できず、最後までひたすら義務感だけで活字を目で追う、という寂しい経験しかありませんが)、彼が現在のチリの現況に対して新聞紙上で実に厳しい批判をしていた。  手元には、昨年4月のブエノスアイレスでのインタビュー記事の切り抜きがあるけれど、タイトルには「チリはその魂を忘れてしまった」とある。この記事から彼の言葉をそのままいくつか引いてみよう。

「チリにおける人文研究はほとんど存在しない」

「(現在の)政治指導者の抱える危機は、(軍政期からの遺産を引きずっていることよりも)彼らがシンガポールのようになりたいと思っているところから来ている」

「紙の文化というもの、図書館というものに対する尊敬の念というものがほとんどない。過去との対話が欠如しており、文化に対する意識がない」

「国の自然の富に対する、国土に対する尊敬の念がない」

同様なことはアリエル・ドルフマンも言っていた。ドルフマンもドノソと同じく世界的に有名なチリ出身の作家だけど(最近では彼の戯曲『死と乙女』がポランスキーによって映画化された)、軍政時代に亡命して今でも米国生活を続けている。そのドルフマンが昨年末のクリスマス休暇で帰国した際に行ったインタビューが新聞に大きく見開きで掲載されていたが、その記事のタイトルは「夢見ることをやめた国」というもの。もちろん、チリのことである。

「ドイツでは、僕の『死と乙女』を70の劇団が上演した。ここチリでは1回だ……」、とドルフマンは無念さを隠さずに言う。

戯曲『死と乙女』がサンティアゴで上演されたのは1991年、民政移管後2年目のことだ。軍政時代の人権侵害問題に関する調査委員会が大統領令で設置され、委員会が調査活動を精力的に進めていた時期である。ドルフマンによれば、彼が戯曲の執筆を思い立ったのも、この問題をめぐる国民的な議論に寄与したいと願ってのことだった。しかし、彼の期待とは裏腹に、サンティアゴでの公演はほとんど黙殺されてしまったらしい。

「今のチリは過去を忘れ、一切を帳消しにしてゼロから出発しようとしている。これはとても危険なことだ」とドルフマンは言う。「もし僕たちが僕たちより前の人々のことを忘れてしまうんだっら、それは自殺行為だ。そうすることで、僕たちのことも忘れてくれと未来に向かって言ってるわけなんだから」。

ともかく今のチリは経済的には絶好調で、他の国からも「南米のタイガー」とか「南米のドラゴン」とか言われて得意になっているけれど、なにやらひと昔前の日本みたいで……。

 

「好調な経済の下、商品化される自然と文化」(『クロスロード』1997年11月号)

現在のチリ経済の成長ぶりはめざましい。

1995年3月、4年ぶりにチリを訪れたとき、首都サンティアゴの町並みの変貌ぶりに驚いた。空港のターミナルビルは一新されていたし、市街に入ると、街のあちこちに高層のオフィスビルやマンション、巨大スーパーやモールが出現していた。その後2年間の滞在期間中も建設ラッシュは続き、毎日のように新しい建物が姿を現わしていた。

この好調なチリ経済を支えているのは、チリの持つ豊かな天然資源の開発と輸出である。

国土が南北に細長く延びたチリは多様な自然と豊かな天然資源に恵まれている。北部の砂漠は銅、鉄など鉱物資源の宝庫であり、中部の農業地方はぶどうなど果物を、南部の森林地帯は木材を、そして長い海岸線はさまざまな魚介類豊富に産する。

この豊かな天然資源を、外資を積極的に導入して大規模に開発し、輸出する。これが現在チリが押し進めている経済開発戦略である。

1973年から1990年までの17年間にわたる軍事政権の下で、チリ社会は大転換を遂げた。一言で言えば、社会と経済のすべての部面で自由競争の原理を全面的に導入したのである。産業政策の分野では、国家による自国工業の保護政策を放棄し、外資による天然資源の開発と輸出に踏み切った。こうした政策転換が功を奏し、80年代半ば以降現在に至るまで、チリ経済はかつてなく高い経済成長を遂げてきている。1990年の民政移管後もその経済政策は基本的に踏襲されている。

だが、そうした好調な経済とは裏腹に、チリの文化は今、きわめて深刻な状況に置かれていると言ってよい。効率と経済性がなによりも重視される中、「カネ」に結びつかない活動は極端に冷遇されているからである。かつてチリは歴史家と詩人の国であった。だが、今、「カネ」にならない歴史学や詩作など誰も振り向きはしない。

 チリの国民的詩人パブロ・ネルーダは祖国チリを「海とぶどう酒と雪の細長い花びら」と歌った。今、この豊かな自然は単なる「商品」になってしまっている。