教育組織の改革に関する主要な論点
2000/4/11
高橋(正)
目次
(1) 言語の位置づけ
(2) 「総合文化」をどうするか
(3) どのような人材を養成するのか
(4) 学部教育の力点をどこに置くか(1) 95年改革の前進面は何か
(2) 95年改革の限界と問題点は何か
(3) 現状でどのような問題が存在しているのか
(4) 現制度の枠内で解決可能な問題1.留意すべき問題
2.課程をどう立てるのか
3.入試選抜方法をどうするか。言語の選択制度をどうするか
4.語学教育をどうするか
5.日本語館(日本語研究教育)をどのように推進していくか
6.大学院との連携をどのようにはかっていくか
7.留学生教育をどうするか
8.社会人教育をどうするか
9.他大学との提携をどうするか
10.その他
95年改革においては、本学の教育研究の理念・目標に関して、「『言語を核とする地域文化の総合的理解』を目的とする機関である」との規定がなされていた。また、本学が養成すべき人材として、@ 高度な語学運用能力、A 世界諸地域の文化と社会、人類共通の課題についての理解、B 学問的方法論の三つを統一的に身につけた「国際人」が想定されていた(「東京外国語大学の改編構想について」を参照)。言い換えれば、これらが本学の基本的な教育方針であるとされたわけである。
しかし、95年改革の実施から6年を経過して、上記の教育方針の曖昧性がしだいに明らかになってきたように思われる。実際、学部教官の間には、上のような規定に関して人により異なった理解が存在しているのではなかろうか。それと同時に、95年改革以後に行われてきた(とりわけ1999年から2000年にかけて学部・大学院改革推進委員会においての)議論を通じて、上記の方針に付け加えられるべき新たな要素も提起されてきた。[1] また最近では、学長から「東京外国語大学の理念・目標・課題 ―学長私案―」も提案されている。
そうした理由から、今や、本学の目標が何であり、本学が養成すべき人材は何かについて今一度全学的に確認し、その上に立って教育組織の改革とカリキュラム編成に着手することが必要とされていると言えるだろう。一言で言えば「教育方針の明確化」を図ることが今あらためて求められているのである。
そのための議論を進めていく上でのたたき台として、ここであえていくつかの論点を提示したい思う。
まず第一は「言語」の位置づけである。
最初に確認しておきたいことは、本学の中核が「言語」にある、という点である。言語なしに本学の独自性、優越性はない。それゆえに言語を抜きにして将来構想を語ることはできないし、またそうあってはならない。しかし、その上で、言語が中核であることの意味を再度明確にする必要がある。いったい「言語を核とする地域文化の総合的理解」とは何であろうか。とりわけ「言語を核とする」という表現が意味するものは何なのか。
そこには二つの異なった方向性がはっきりと分離されぬまま共存している、というのが私の考えである。誤解を恐れずに単純化して言えば、この二つの方向性とは言語そのものを「目的」あるいは「対象」とする立場と、言語を「手段」とする立場だと言えよう。両者は明確に切断された形で区分できないとはいえ、それでもなお二つの異なった方向性として区別できる。
言語は人間のあらゆる精神活動の根本であるがゆえにこうした「目的」と「手段」といった表現は不正確である、との批判を受けるかもしれない。しかし、それを承知であえてこうした区分をここで立てるのは、この区分が教育体制ならびにカリキュラム編成と直結するきわめて切実で実践的な問題だからである。現実に、外大に入学してくる学生たちは、この区分線に沿って二つの異なったグループに画然と分けられる。一つのグループは、「ことば」が好きでその学習と研究に主たる関心を向ける学生たちであり、もう一つのグループは、「ことば」そのものよりも、学んだ言語を用いて歴史、文化、社会の学習に向かおうとする学生たちである。[2]
本学の最大の問題点は、この二つの異なるグループの学生それぞれの関心と要求に充分応える形で教育体制とカリキュラムが編成されていないことにある。本来明確に区別されるべき学生グループに対して、「言語を核とする」という曖昧な理念にもとづく曖昧なカリキュラムを一様に提供しているのである。[3] まさしくこの点にこそ「外国語学部」の基本的な問題性があると言えるだろう。そしてこの点はまた95年改革において妥協的な形で決着が図られた点である。[4]
95年改革にもかかわらず本学があいかわらず未解決のまま引きずっている問題がここにあるとするならば、そこから当然でてくる結論は、言語を「対象」ないし「目的」とする課程(一般言語学と個別語研究)と、言語を「手段」とする課程(それ以外の人文科学と社会科学)とに明確に分離する必要があるということである。言い換えれば、現在の「言語・情報」コースと「地域・国際」コース)を、入学当初から二つの異なった課程としてはっきりと区分すべきである。
学部改革をめぐるここ数年の議論を見る限りでは、この点については学部構成員の間でほぼ合意が存在していると言ってよかろう。[5] 昨年度のいわゆる「二学部案」の基本的な発想もここにあった。文部省との折衝を通じて、二学部への分割がきわめて難しいことが明らかになったが、二課程への分割によっても同様な目的と発想は十分に実現可能である。むしろ履修方法の柔軟性の点から見れば、複数学部制ではなく単一学部内の複数課程とした方が利点が大きいとさえ言える。そのことは次項で見る点とも関わってくる。
昨年、学部・大学院改革推進委員会における学部改革の議論の中で野間案、亀山案、高垣案、地域・国際講座WG案の四案が提起されたが、これら複数の改革案における最大の対立点が、現在の「総合文化」コースをどこに配置するかという問題であった(当時、栗田が作成した概念図を参照)。最終的にまとめられた「二学部案」では、文化人類学など一部の科目を除いて現在の「総合文化」コースは「言語・情報」とともに一つの学部を形成することで妥協が図られた。
しかし、現在あらためて考えてみると、こうした決着はやはりきわめて問題が多いものだったと言わざるをえない。他方で、昨年の亀山案のように、現在の「言語・情報」、「総合文化」、「地域・国際」をそのまま三つの課程として立てることにも問題がある。
それというのも、現在の総合文化コースにおかれている授業科目の多くが、他の二つのコースのいずれからとも明確に区分することが難しいからである。[6] また現在の制度の下で学生がコース選択をする際に、「言語・情報」にするか「総合文化」にするか、あるいは「総合文化」にするか「地域・国際」にするかで迷う場合も少なくない。
それゆえに、「総合文化」の科目は「言語・情報」と「地域・国際」のいずれの学生も等しく履修できるような形にしておくことがもっとも望ましい途であると結論できる。「総合文化」を独自の課程として立てること、あるいは「言語・情報」ないし「地域・国際」のいずれかに合流することは履修の柔軟性を著しく損なう結果となるからである。独自の課程として立てた場合には、「言語・情報」と「地域・国際」の両方の学生が、また「総合文化」がどちらかの課程と合流した場合には残された課程の学生が、「総合科目」の演習や卒論演習に参加する上で困難な立場に置かれることになる。
現在の「総合文化」コースを別個の課程として立てるのではなく、その授業科目は「言語・情報課程」(仮称)の学生も「地域・国際課程」(仮称)の学生もともに履修できるようにすることで、一方で「言語・情報」と「地域・国際」の二課程を明確化させつつ、他方で柔軟な科目履修を可能にするという「二兎」を得ることができるのではなかろうか。[7]
昨年の改革をめぐる議論を通じて、本学の学部が養成する人材が、学部卒業後に企業や団体に就職する「国際的な教養人」[8]、学部・大学院一貫コースに進む「高度職業人」、大学院へ進学する「研究者」の3種類であることはほぼ合意されている。
しかしながら、もしも明確に異なる二つの課程に学部を分けるのであれば、それぞれの課程においてどのような人材を養成するかを考えなければいけないはずである。
(a) 「言語・情報課程」(仮称)の場合(★言語・情報講座選出委員の方で訂正、補足をお願いします)
論点1 どのような人材を育てるのか(言語研究者、語学教師、、日本語教師、通訳、翻訳者)
論点2 実用的な語学に堪能な人材養成を重視するのか否か。それともこれは「地域・国際課程」(仮称)に任せるのか。[9]
地域・国際課程(仮称)の場合
まず学部4年の卒業生について、昨年度のいわゆる「二学部案」では以下のように述べられている。今後も基本的にこれと大きく異なることはなかろう
地域・国際学部(仮称)学部の基本的な理念は、「世界」(グローバリゼーション、世界市場、開発、協力、共生、環境、ジェンダー、紛争、民主主義、人権、コミュニケーション)と「地域」(地域、民族、エスニシティ、文化、宗教、言語)の両者を対象に、これらを有機的に結合したカリキュラムを構築し、学生に提供していくことにある。それゆえに、1.入試選抜は可能な限り広い枠で行い、2.カリキュラムの履修にあたっては地域と地域言語を一度はくぐり抜け、3.特に学部後期において「世界」と「地域」、「社会」と「文化」を柔軟に連関させた体系的カリキュラムを提供することで、個別地域を踏まえながらもこれに限定されることなくグローバルな視野を持った「国際教養人」を養成することをめざす。
また、学部・大学院一貫コースで養成をめざす「高度職業人」については、同じ「二学部案」で以下のように述べられている。これについても今後基本的に大きく異なることはなかろう。
卒業後の進路として以下のものが考えられる。国際機関(国連、国連専門機関、地域機関)、NGO、外交官、在外公館専門調査員、国際ビジネス、報道、政府開発援助機関、JICA、シンクタンク、コンサルティングなど。カリキュラムとして、「地域・国際研究コース」との共通科目の他に、開発経済論、国際金融論、国際機構論、国際法、社会開発論など、実践的な性格の強い科目を必修パッケージ(セット・メニュー)として用意する。講師陣としては、本学専任教員の他に、国連諸機関、国際諸機関の現役職員、外交官などを非常勤講師として招く。
95年改革論議において頻用されたのが「ディシプリン」という用語であった。1993年11月の教授会における改革案決定を受けて文部省への説明用資料として作成された「学部改革案の概要(骨子)」(1993年12月21日)においても、「カリキュラム改革の目的」として、たとえば、「c. 地域文化の総合的理解のために必要な、系統的なディシプリン教育を実施する」、「f. 3つの大講座に対応するディシプリンに係るコースを設定し、専門性を明確にした教育を行う」といった表現が見られる。
こうした専門性重視の背景には、当時進行していた、「大学設置基準の大綱化」をきっかけとする教養教育の解体と大学院重点化という全国的な動向があったと言える。しかしその後、昨年11月に出された大学審議会答申「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」が教養教育軽視の傾向に危惧を表明したように、教養教育の重要性に対する認識が再び強まりつつある。[10] 本学の学部改革においても、専門教育と教養教育をどのように位置づけ、配置していくべきかを論議する必要があるだろう。
その際、学部卒業後にどのような道に進むのか(企業に就職するのか、高度職業人コースを選択するのか、研究者としての道を歩むのか)に関わりなくそのいずれの場合でも等しく必要とされる基礎的で不可欠な学力と教養を身につけさせることがまず重視されるべきではなかろうか。より具体的に言えば次のようなものである。
@ あるテーマに関して日本語、外国語で書かれたさまざまな資料を検索、収集し、これを深く読み込み、そこからデータを抽出して分析を加え、これらのデータを広い視野の中で位置づけながら有機的な連関性を持つ全体図へと構成し、最終的に、この全体図を論理的かつ明確な表現で発表する能力
A 物事を長い時間的なスパンで見ることを可能にしてくれる歴史的な眼、人間の心理や感情、人生の意味や価値、美しいものを美しいものと感じることができる感覚、言葉の持つ豊穣さ、味わい、レトリックの面白さが分かる能力、一言で言えば、人間がこれまでの歴史を通じて生み出してきたすべてのものに対する関心、好奇心と深い知識、教養
B 日本の古典、歴史、文化、社会についての広く深い教養
C 現代世界が直面しているさまざまな問題への関心
これに加えて、外大には外大独自の教養教育があるのではないかとの問題提起を行っておきたい。実はこの問いは東京外国語大学諮問委員会議において井内慶次郎氏が提起しているもので、氏は次のように述べている。「東京外語における基本的な教養教育というのは、一体他の専攻分野の学部学生に対する教養教育と異なる点があるのかないのか。あるとすればどうだという点をもう少しご検討いただきたい。」[11]
この問題は今後論議していかなければならない重要な論点であるが、あえて議論の糸口を提供する意味で言えば、人間の精神活動の根本をなす言語の意義(その面白さ、不思議さ、重要性)と異文化理解(「他者」をどう見るのか、どのように理解するのか、どのようにつき合うのか)ではなかろうか。
その他に検討すべき論点を列挙しておく。
第一は、ICU、上智大学、大阪外大と比べたときの本学の独自性とは何なのか。これは、1998年3月の東京外国語大学諮問会議(第1回)で、委員の井内慶次郎氏(日本視聴覚教育協会会長)から出された質問であるが、当時、学長以下、大学側はまともに回答できなかった。[12]
第二は、今年の2月23日に中嶋学長が運営諮問会議に提示した「東京外国語大学の理念・目標・課題 ― 学長私案 ―」をどう受け止めるか、という問題である。同私案では、特に「課題」の項目に、@言語教育、とくに英語教育と日本語教育の重視、Aアジア諸言語の教育と地域研究の重視、B外国人教官数の増加、C留学生の積極的受け入れを掲げている。
(未)
地域・国際講座で昨年初めに行ったアンケートや議論の中では、主要な問題点として以下のような点が指摘された。
(a) 95年改革によって旧語科は7課程3講座に統合再編されたが、課程は半ば形骸化しており、講座も機能していない。実質的に旧語科中心の運営となっている。
(b) カリキュラム編成を貫く原則が不在であり、体系性、有機的連関性、整合性に欠けている。また開講科目が歴史に傾斜しすぎるなどバランスを欠いており、学生の要求に応えきれていない。
(c) 教官自身、自分の担当する授業が講座(コース)全体の中でどのように位置づけられるのかについて明確な認識がない。それゆえにまた学生の科目履修においても十分な指導ができていない。
(d) 学生は、体系的なカリキュラムも有効な履修指導もないまま、何をどう選択したらいいのか分からずに、意識の上で専攻語に縛られながら適当に科目を組み合わせているだけとなっている。
その他これまでに指摘された問題点をランダムに列挙しておく。
・現行の課程は、その編成原理を曖昧にしたまま、かつての言語による区分をただ7つに束ねただけのものである。その結果、明確な統一的原理に基づいたカリキュラム編成が困難になっている。性格がきわめて曖昧な「地域科目」は矛盾のもっとも顕著な表現である。また欧米の三課程の場合には課程の区分が言語を軸としているため、地域原理が犠牲となっている。言語を軸に「欧米第一課程」と「欧米第二課程」に分けられたため、ヨーロッパにおいてはドイツとフランスが、米州においては北米と中南米が別課程に分断されてしまった。[13]
・専修基礎と専修専門の間に連携・連続性が欠如している。
・総合科目の位置づけ、教育目標について十分検討されていない。
・後期において授業科目を選択する際に、学生の意識面では専攻語があいかわらず基準になっている。
・後期課程においてコースを選択したはずなのに、大学の証明書などでは「○○課程××語専攻」と記載され、就職の際にも「専攻語」が付いてまわる。[14]
・モチベーションのない学生がいる。[15]
・少数言語の場合、社会的な受け皿がない。[16]
・専攻語別の入試では、特に後期日程において定員割れする恐れが現実のものとなってきた。たとえば本年度の後期日程試験でポーランドの受験者はわずか5名だった。
・単位認定の方法が複雑かつ厳格すぎて卒業進級できない学生が出ている。
問題点はこれ以外にもあるであろう。今後、ヒアリングやアンケートを実施するなどしてさらにその洗い出しを行うべきである。
95年改革の限界と問題点を摘出する作業を進める中で、そうした限界や問題点が現行の制度の枠内で解決できる問題なのか、それとも組織改革を必要とするものなのかを腑分けする必要がある。そして現制度の下で解決可能な問題についてはただちに解決、改善のための具体的な措置を取る必要があろう。
ここではとりあえず、これまで自己点検作業などを通じて出された問題点をいくつか列挙するにとどめる。
・専攻語の授業で教師間の連携を強めると同時に、1年、2年でそれぞれどこまで到達すべきなのかその目標(必修単語、文法事項など)を可能な限り具体的に示す。
・各コースのカリキュラムを整理し、より体系性と有機的な連関性をもったものにしていく。
・専修専門科目の講義、演習、卒論演習の三点セットは再考すべきではないか。講義を必ずしも開く必要はないのではないか。[17]
改革の方向性と選択肢を具体的に提示するのに先だって、改革にあたって留意すべき点を指摘しておこう。それは学生のモティベーションに関する点である。具体的には、新入生に対してモティベーションを喚起する機会と場を設けるべきである、と提案したい。
そもそも高校生の段階で、自分が何に関心があり大学で何を学びたいのかがはっきり分かっている者がどれほどいるであろうか。[18]
1999年3月に実施された外国語学部学生に対するアンケートによれば、本学を選んだ理由として「本学で学べる内容」を重視したと答えた学生が回答者(460名)の70.2パーセントを占めていた。一見すると、学生たちの多くが明確な問題意識で本学を選択したかのように見える。しかしこのデータから、本学の志望者が自分は何がやりたいのかをはっきりと自覚して本学(とりわけ専攻語)を選択したと結論することはできない。
まず、志望者が「本学で学べる内容」として具体的に何を思い浮かべていたのかがアンケートでは問われておらず、彼らの関心が実際にどこにあったのかをこのアンケートから知ることはできない。だが、入学前に本学のカリキュラムについて「よく理解していた」と答えた学生はわずかに3.7パーセント(17名)であり、「ある程度理解していた」学生167名(36.3パーセント)を加えても回答者全体の4割にすぎないことを考慮すると、志望者が「本学で学べる内容」と考えたものが具体性を欠いた、おそらくは「国際性」といったイメージを大きく出るものではなかったということは十分推測できる。[19]
さらに、なぜ特定の専攻語を選択したのかという点についてはアンケートでは質問がなくデータもないが、学生と接する中で受ける印象によるかぎり、専攻語そのものに対する関心によるよりも「入りやすさ」が最大の選択基準となっていることはほぼ間違いないだろう。[20] そして入学した学生は、少なくとも前期2年間は、このように内発的な動機を欠いて選択した専攻語に縛られ、強いモティベーションのないまま、勉学のエネルギーの大半をこの専攻語に注ぐよう強いられるのである。[21]
それゆえに、改革案を構想するにあたっては、入学してくる者に対して、自分が何に関心があり大学で何を本当に学びたいのかを考えさせる機会と場を与えることを重視すべきではないか。[22] 積極的な意味でのそうした「モラトリウムの期間」を入学後に一定期間設けることができないであろうか。「モラトリウム」と言うと誤解を招きやすいが、要は自分の進路を決定するまでにある程度の時間を学生に与え、その期間中にざまざまな「材料」(堤清二)を与える場を提供することができないか、ということである。
そのためには、まず、現在のように専攻語別の入試を改める必要があるだろう。具体的にどのような入試選抜方法が選択肢としてあり、どれが望ましいのかは今後検討課題としてぜひ重点的に議論すべき論点であろう。
また入学後、学生が進路選択をする上で必要な判断材料を与える場としてどのようなものがありうるのかも真剣に検討すべき点である。[23] たとえばフレッシュマン・ゼミも一つの有望な可能性として検討することができよう。[24]
原則 |
具体策 |
検討課題 |
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1.学部全体で、「専攻語」を基軸とする現行の制度を維持する。 |
1.現行の7課程を維持する |
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2.現行の7課程を再編する |
★どのように再編するのか |
||
2.「専攻語」を基軸とする課程と、言語以外の原理を基軸とする課程に分離する。 |
1.次の3課程を立てる。 (1) 言語・情報 (2) 総合文化 (3) 地域・国際 |
★入試をどうするのか ★定員をどうするのか ★課程間の定員配分をどうするのか |
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2.次の2課程を立てる。 (1) 言語を目的とする課程(A課程) (2) 言語を手段とする課程(B課程) |
(注)95年改革の際の議論においても、当時の学部将来計画委員会の小笠原委員からこれとほぼ同じ「2課程案」が提案されている。それによれば、教員組織は3講座とする一方で、学生組織としては「言語文化課程」と「地域国際課程」の2課程を立てるというものであった。
(1) 「言語・情報課程」と「総合文化課程」(上記選択肢2−1の3課程の場合)、あるいは「言語を目的とする課程(A課程)」(上記選択肢2−2の2課程の場合)においては、従来の議論から判断する限り、これまでと同様「専攻語」別に入試選抜を行うことになるであろう。
(2) 問題は、「地域・国際課程」(3課程の場合)、「言語を手段とする課程(B課程)」(2課程の場合)についてである。というのも、この問題は、主要履修言語の選択方法、語学教育のあり方という厄介だが重要な問題と直結しているからである。
選択肢 |
主要言語の選択時期 |
問題点と検討課題 |
1.地域別に選抜する。 |
出願時に選択する。(従来通り) |
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入学後、選択地域内の言語の中から選択する。 |
★選択時期をいつにするか。半年(第1セメスター終了)後か、1年(第2セメスター終了)後か。 ★各言語であらかじめ定員枠を設けるのか否か。 ★定員枠を設ける場合、定員配分をどうするか。 ★定員枠を設けずにまったくの自由選択とした場合、各言語の選択人数は事前に知ることができないが、クラス数の調整、講師・教室の手配などをいつ、どのように行うのか。 ★現在1学年1クラスの言語は学部全体でクラス数が複数に増える可能性がある。これにどう対処するか。 |
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2.一括選抜とする。 |
入学後に選択する。 |
(注)前述の小笠原提案の2課程案では、各専攻語の定員を定めて「主専攻語」別に入試を行い、受験生には第一志望課程、第二志望課程を申告させて、課程定員を上回った場合には第二志望の課程に振り分けるとしていた。また別の選択肢として、専攻語の定員を二つに分けて別々に選抜する方法もありうるとしていた。
すでに述べたように、入試選抜方式は学生のモティベーションの問題と密接に関連している。出願時に言語を決めず入学後に選択させる方式は、学生たちが入学当初、自分は大学で何をやりたいのかを考えさせる機会を与えることにその主要な狙いがある。[25]
これまでに、現行の制度に代わる代案が複数提案されている。[26] 今後、これらの案を含めて綿密な検討をくわえていく必要がある。また、学部・大学院改革推進委員会でも強調された英語運用能力の強化をどのように図るのかについても議論すべきである。さらにCALLシステムの本格的な導入の可能性も検討する必要がある。[27]
学部・大学院改革推進委員会においても積極的な支持を得た「日本語館」構想を留日センターと協議しながら積極的に推進していく。
この問題について具体的な提案を行うだけの準備がない。ただ高度職業人教育に限って言えば、本学の独自性をもっとも生かす道は、「言語を目的とする課程」では通訳・翻訳者および日本語教員の養成が、「言語を手段とする課程」では国際協力関係の仕事に従事する人材の養成ではなかろうか。
この問題についても具体的な提案を行うだけの準備がない。以下、これまで自己点検報告書などで出された意見を紹介するにとどめる。
・留学生を幅広く受け入れるとともに、日本人学生との交流を充実させる。[28]
・ISEPTUFS、UMAPの積極的な活用。FJ共学の推進。[29]
前項同様、具体案を提起する準備がない。これまで出された意見の紹介にとどめたい。
・リカレント教育、ブラッシュアップ教育で外大でなければ果たせない役割があるのではないか。(井内慶次郎氏)[30]
・「言語、文化、地域研究、国際人養成をめざす器楽には、リカレントスクール制度を設けていただきたいと熱望しています。」(30歳代女性 インドネシア語)
・「社会人が再度勉強できるよう実用語学と地域研究に比重を置いた社会人(夜間、土曜、通信)大学院を検討してみてはいかがであろうか」(20歳代女性 英米語)[31]
◇四大学連合
◇グローバルなキャンパス・ネットワークへ向けて [33]
以下、これまで述べてきたことには含まれないが重要だと考えられる論点を列挙しておく。
・留学支援制度の充実をはかる。[34]
・大学の名称をどうするか。[35]
・全面的なセメスター制に移行するのか否か。
[1] 学部・大学院(前期)一貫コースの設定、英語運用能力強化、留学生の積極的な受け入れとFJ共学、社会人受け入れ、リカレント教育、国際的単位互換制度(UMAP)の活用などがそうである。
[2] 後期課程でのコース選択にあたって、「言語・情報」コースにするか、それとも「総合文化」コースにするか迷う学生は(多くはないかもしれないが)いるだろう。また専攻分野を文学にするか、思想にするか、あるいは社会にするか(言い換えれば「総合文化」にするか、それとも「地域・国際」にするか)迷う学生もいるだろう。しかし、「ことば」を中心にするかしないか、すなわち「言語・情報」か、それとも「地域・国際」かで迷う学生はほとんどいないはずである。
ただ、より確固としたデータによる裏付けを得るために、入学してくる学生たちに対して、なぜ本学を選んだのか、本学に何を期待し求めて入学してきたのか、そうした期待と要求は入学後どれほど満たされたのか、満たされなかったのか、といった点を問うアンケート調査を行うことが必要だろう。
[3] そうした曖昧さの一例として「地域基礎科目」の場合が挙げられる。「教養及び基礎教育にかんする点検評価報告書」(近刊)においては、この科目が「教養教育」と「基礎教育」の二重の性格を持たされることで学習目標が不明確になっているとして次のように述べられている。
「地域基礎科目は,全部で12コマ,24単位に及ぶ専攻語の学習に多くの時間とエネルギーを注がなければならない1〜2年次の教育全体の中で,専攻語地域について言語以外の社会や文化に触れさせて,ひいては専攻語の学習意欲を掻き立てるという役割を担っており,その意味では学生の視野を拡大し関心を喚起する「教養」教育を行なっていると言うことができるだろう。しかし,他方で,特に将来専門教育の中で地域研究を志したいという学生たちに対しては,専修専門科目の「基礎」教育としても機能しなければならないのである。一部の学生を念頭に置いた「基礎」教育としての授業が他の学生にとって「教養」教育として機能してくれれば,言うことはない。しかし,現実には相当数の学生にとってはかえって学習の目標が見えにくくなってしまい,学生の関心を喚起するどころか学習意欲を減退させる結果につながりかねない。」
[4] 「学生アンケートに関する教官アンケート」(1999年11月実施)で、ある教官は次のように述べている。「コースの違いや専門のちがいなどをかなり鮮明にすることを考えないとどれもあいまいなままでおわる。しかもそのあいまいさが制度の複雑さといっしょになって、学生にも教官にも混乱を引き起こす。言語と専門性との共存という言葉だけのお題目では問題は解決しない。」
[5] しかし他方で、明確な性格をもった複数の課程に分けることに批判的な声があるのも事実である。ある教官は「学生アンケートに関する教官アンケート」(1999年11月実施)の中で以下のように主張している。「もともと外語大は、言葉と文化と歴史をトライアングルのように学べて、その上で自分の専門を、あるいは卒論のテーマを考えられるのがいいところだと思っていたのですが、3講座(3コース)選択制になってからは、むしろその融通がきかなくなってきたきらいもあるように思います。もっとコース間の壁を低くして、フレキシビリティを高めた方が、学際的な関心のある学生も多いことですし、いろんな先生方と複数で触れ合えるようになるという気がします。」
[6] たとえば「地域・国際課程」(仮称)にとっても、文学作品の購読の授業はきわめて重要な意味を持つ。この点については地域研究における文学の重要性と絡めて以前論じたことがある。「B案について」(http://mailsv01.ipc.tufs.ac.jp/~mtakahas/index.html)を参照。
[7] 講義については現在でもコースを越えて履修可能であるが、演習、卒論演習については不可能である。これを、演習、卒論演習を含むすべての授業科目について両課程の学生が履修可能であるようにすべきである。
[8] 「国際的な教養人」とはいかにも未熟な表現ではあるが、今のところ他に適当な表現を見つからないためあえて使用する。
[9] 卒業生からの意見として、ビジネスのために話せて、読めて、書けるような、企業において即戦力となる語学力をつけて欲しいとの要望や、会話を中心としたコミュニケーション手段としての語学を重視すべきであるといった意見、あるいは貿易実務のための語学、簿記の外国語などビジネス向けの語学も必要であるといった声が出されている。(『卒業生の見た東京外国語大学 ― 全卒業生アンケート調査報告書』 1998年 97-101ページ)
[10]答申では、「広い視野を持った人材の育成を目指す教育プログラムの提供」と題された項目で次のように述べられている。
「また,平成3年の大学設置基準等の大綱化以来,多くの大学でカリキュラム改革が進んでいるにもかかわらず,教養教育の取扱い方についての学内の議論が十分でなく,教養教育が軽視されているのではないか,あるいは,このような状況と進学率の上昇に伴う学生の能力や適性の多様化などとがあいまって,大学生と大学卒業者の教養の低下が進んでいるのではないかとの危惧(きぐ)の声がある。一方,グローバル化が進展する中では,世界を舞台にして活躍し社会で指導的な役割を果たす,深い教養と高度の専門性に裏付けられた知的リーダーシップを有する人材が求められる。各大学においては,21世紀答申で示した課題探求能力の育成という考え方も参考としつつ,新しい時代の教養とは何かを問い直し,これを重視する方向で学部教育の見直しを検討することが望まれる。このことは,今後の専門大学院や研究者養成型の大学院の展開を視野に入れると,特に期待されるところである。」
[11] 「東京外国語大学諮問委員(University Advisers)会議 第3回」『東京外国語大学点検評価報告書(1999年度)』2000年 16ページ。
[12] 『東京外国語大学点検評価報告書(1998年度)』1999年 21ページ。
[13] 95年改革の論議の際、将来計画検討委員会の小笠原委員は93年末に提出したメモの中で、「課程」は「受験生に対し、本学ではおおよそ何が学べるのかを提示し、何を学びたいかを迫る意味がある」とした上で、7課程案の問題点として、(1) 言語の区分と地域の区分との間に不整合が生まれること、(2) 専攻語をいくつかまとめたものを「課程」とすることで「課程」の意味が不鮮明になると指摘していた。6年間の経験はこの指摘が正しかったことを示している。
[14] 地域・国際講座組織改革委員会が学生に行ったヒアリングで出た意見。
[15] 『東京外国語大学点検評価報告書(1998年度)』 14ページ
[16] 『東京外国語大学点検評価報告書(1998年度)15ページ。
[17] 「学生アンケートに関する教官アンケート」の中で、ある教官は次のように指摘している。「専修専門は3点セットという形で、いわば最も専門的な教育の場が1教員の限られた専門、関心に委ねられてしまうのは決してよいとは思えない。演習、卒論演習のみを1教員が担当し、講義はコース全体で専門的教育に欠かせない講義を組み、学生にも一定数の受講を義務づけるような方法は取れないものか。」
[18] 本学の諮問委員である本間長世氏(正常学園長)はこの点について次のように述べている。
(…)高校生の段階で学生には何かやりたいことがあって、それに応える形で大学は教育していきなさいという考えがある。[しかしながら現実には]高校生では何をやりたいのか、なにに興味があるのかわからない。私は津田塾で非常勤講師をしておりますが、その中で一人卒論を書きたいという学生がおりました。(…)「私は何をしたらいいのでしょう」ということを聞かれた。そういう学生はもはやどこの大学でもいると思います。自分が何をしていいのか分からないと言う学生は本来大学にいる必要はないという考え方もありますが、何がおもしろいかということが自分の中で湧いてくるとすれば、それはフレッシュマンゼミとしては成功であると。(『東京外国語大学点検評価報告書(1999年度)』2000年 14-15ページ。)
[19] 『東京外国語大学点検評価報告書(1998年度)』1999年 93ページ。.
[20] すでに指摘したように、学生がどのような理由で本学を選択し、何を期待して入学してくるのかを知ることはきわめて重要であり、それが分かるような形でのアンケート調査を行う必要がある。
[21] この点で、「学生アンケートに関する教官アンケート」の中である教官が、学生が自らの関心に基づいて選択する副専攻語について次のように述べているのは示唆的である。「過去(一昨年まで)に担当した経験からいうと、副専攻語はモチベーションがはっきりしていてやる気のある学生が多いこと、人数も専攻語より少ないことなどもあって、教える側としても楽しく、相互に対話も成立し、満足度がそれなりに高いのもそうであろうと納得しました。」
[22] この点については、本学の諮問委員会委員の木村孟氏(学位授与機構長)が重要な指摘を行っている。堤清二氏が、「学生たちが(…)受験社会でずっと今まで来て、さあ大学生になって、自分の生き方を考えようとする時に、材料が与えられていないんですね」と発言したのを受けて木村氏は次のように述べている。
「(…)僕もちょっと英国に行って、それから他の国で高校なんかを見て、社会のシステムとして、若い者にモラトリウムの期間があるんですよね。そこがね、日本ではもう受験でぎゅうぎゅう縛られて[大学に]すぐ行くから、そこんとこがですね、徹底的に違います。例えば、英国なんかでもすぐ試験を受けて入れるんだけども、ちょっと半年、どっかフィージーにでも行って英語か何か教えてくるとか、そういう学生一杯いますよね。その社会の中で、それを認めるシステムがないからだと思いますね、私は。そこで、モラトリウムの期間があれば、若者は成長するんじゃないでしょうかね。」(「東京外国語大学諮問委員(University Advisers)会議 第2回」『東京外国語大学点検評価報告書(1998年度)』1999年 46ページ。)
[23] たとえば、世界のニュース番組を見る科目を必修で設けることはできないか。NHKの衛星放送第一では、日曜を除く毎日、世界各国(米、英、独、仏、露、西、中、フィリピン、香港、韓国など)が製作したニュース番組のダイジェストを放送している。これを利用するのである。たとえば、学生は自分の時間割の好都合な時間にこの科目を登録する。そして、毎週その時間にはAVセンターで、センターが録画しておいた一週間分のニュースの中で、欧米とアジアの放送局からそれぞれ2つ(あるいは1つ)を選んで見る。これを入学後の最初のセメスターに必修として課し、学生は学期末に「世界では何が起こっているのか、メディアはそれをどのように報道しているのか」などの課題でレポートを書いて提出する。
戦後の一時期朝日新聞の論説主幹をつとめた笠信太郎はかつて、新聞を毎日隅から隅まで読むことを若者に勧めた。そうした作業を一月続けただけで今自分がどのような世界に生きているかがはっきり見えてくるというのがその理由だった。だが今や、世界各地のニュースが映像と音で直接飛び込んでくる時代である。これを利用しない手はない。おそらく、数週間これらのニュースを見続けただけで学生たちの世界像は大きく揺すぶられるはずである。
まず第一に、今世界で起こっていることが、そこに生きている人々の姿、表情、声とともに音と映像で直接飛び込んでくる。狂牛病と口蹄疫で大騒ぎのヨーロッパ、チェチェンで息子を失ったロシア人の母の嘆き、ロシア兵の横暴を訴えるチェチェン住民、水害で濁流に飲まれそうになるモザンビークの人々の姿とそれを命がけで救出しようとする援助隊員の活動、援助活動に携わる「国境なき医師団」やカトリックの尼さんたちの訴えなどなど。これら同時代を生きる人々の声と姿がわれわれに生々しく伝わってくる。学生たちはあらためて、今世界で何が起きているのか、何が問題になっているのか考えることを迫られるだろう。
第二に、メディアの相対化である。こうしたニュースを見る学生たちは、各国放送局のニュースの取り上げ方が国によって違うことにいやでも気がつくはずである。とりわけ、NHKなど日本の放送局の流す国際ニュースなるものが、いかに日本中心に編集されたものかを痛感するに違いない。複数の国のニュースを比較して見ることで、現代世界を切り取る仕方とそれによって描き出される現代世界の構図が国によって違っていることを身をもって体験できるというわけである。つまりはメディア・リテラシーの教育にもなるというわけだ。
このように、こうした授業科目を必修として課すことで、新入生たちは世界により目を開かれ、世界が抱える問題をより身近に感じ、その中で自分が何に関心があり、何をやりたいと思うかもしだいに見えてくることが期待できるのである。
[24] 木村孟氏は東工大での経験を次のように語っている。
「私のおりました東京工業大学では6年前から、1年のころから、一人の先生が5人の学生の面倒を見るということにして、最近流行になりましたけれども、フレッシュマンゼミということで、正式な教室ではなくて先生の研究室へ学生がいって、東工大の場合は学部もいろいろありますが、皆さんご専門をお持ちですから、優しい形で、いきなり専門の話をしてもらう。これを6年続けて来まして、ち最近聞きましたら、かなり学生のモティベーションづけにはなるみたいですね。」(「東京外国語大学諮問委員(University Advisers)会議 第3回」『東京外国語大学点検評価報告書(1999年度)』2000年 12ページ。)
[25] この点について、1999年に行われた学生アンケートに関する教官アンケートの中である教官は次のように述べている。「入学時に専攻語を選ばせるのではなく、入学後半年程度の予備・準備期間をおき、目的意識を持って、選ばせた方が良いと思う。近い将来に実現するとは思わないが、学生募集、学部定員を一括して行い、専攻語別に細分化するのをやめるべきであろう。」 また別の教官はアンケートに次のように答えている。「この専攻語を選ぶモチヴェーションの問題はこのアンケートでは浮かび上がらないが、実際には最大の問題なので、モチヴェーションを軸とした入試選抜が必要。」
また以下のような卒業生の発言もある。「18歳で、生涯関わっていく特定の国を選択するのは非常に難しい。専攻語選択を入学後(半年/1年後など)にした方が失望感、落胆は経るだろう」(20歳代女性・アラビア語)。「入学試験時に、専攻過程を選択する語学スペシャリスト・コースと、専攻課程を選択せず定員だけを確保し、1年間各語学のガイダンスを行い、2年目以降各自の目的意識に会った専攻語を3年間徹底的に学ばせると同時に、政治、経済、文化を履修させるカリキュラムを検討されてはいかがでしょうか」(30歳代男性・ヒンディー語)(『卒業生の見た東京外国語大学 ― 全卒業生アンケート調査報告書』 1998年 124ページ)。
[26] 95年改革の際、将来計画委員会内に設置された「第三チーム」は、語学教育中心の「カリキュラムA」と専門諸科目中心の「カリキュラムB」を区別した案を提起している。この他、昨年の学部・大学院改革推進委員会の議論の中で、三枝、高橋(正)からもそれぞれ独自の語学教育改革案が提起されている。最近では、教務委員会内部で、授業科目の再検討作業が始められ、語学教育の見直しが論議されようとしている。
[27] かつて全学メーリングリストで小生は、「コンピュータによる語学教育システムの推進」と題して以下のように提案したことがある。この提言には数人の方から賛同のメールをいただいた他は、両副学長を含め反応はまったくなかったが、今でも考えは変わっていない。
去る3月29日、AA研の芝野さんのイニシアチブで、CALLシステムの概算要求のための第一回会合が開かれました。その場でも提案したことですが、概算要求交渉の結果がどうであろうとも、やがてはコンピュータに乗せることに照準を合わせた語学教育教材の開発研究は今から実現すべきだと考えます。
CALL (Computer Assisted Language Learning) にたいして初めから否定的な態度を取るのではなく、まず、現在、技術的にどこまで可能になっており、何ができるのか、どのように利用すべきなのかといった点での情報を、語学教育に携わるすべての教員がまず共有すべきです。
すでに他の多くの大学では CALL 実習室を持って、学生の教育を始めています。言語の研究と教育を売りにする本学で、言語教育に関わっている教員の多くがCALL についてほとんど無知か、きわめて冷淡でしかないという現状は悲劇を通り越して喜劇ですらあります。(なお、小生が、語学の授業をすべてコンピュータに委せることを考えているなどと誤解なさらないでください。小生は授業はきわめて人間くさくやるべきであると考えており、またそうするよう努力しています。CALL は基本的に自学自習のためである、というのが小生の認識です)。それゆえに、
1. CALL システムに関する基本的な情報(何が可能なのか、どこまで可能となっているのか、今後どのような可能性があるのか。すでにどのような試みが他の大学でなされているのか)をすべての教職員が共有する。
2. デジタル化をにらんで、語学教育内容のユニット化と、教材開発を進める。
3. すでにあるアナログ教材は、著作権が許す限りでデジタル化する。
など、コンピュータによる語学教育を実現するための基礎的な作業(他にもあるかもしれません)をプロジェクトとして立ち上げることを提案します。その際にも研究ならびに教育担当の副学長が積極的にイニシアチブを発揮していただくよう希望いたします。
[28] 『卒業生の見た東京外国語大学 ― 全卒業生アンケート調査報告書』 1998年 118ページ。
[29] 「東京外国語大学諮問委員(University Advisers)会議 第3回」『東京外国語大学点検評価報告書(1999年度)』2000年 10-11ページ。
[30] 「東京外国語大学諮問委員(University Advisers)会議 第3回」『東京外国語大学点検評価報告書(1999年度)』2000年 16ページ。
[31] 『卒業生の見た東京外国語大学 ― 全卒業生アンケート調査報告書』 1998年 120-121ページ。
[32] 以前、四大学連合に関する教授会での議論において、「学生のためになる」がゆえに連合すべきであるとの主張がなされたことがある。しかし「学生のため」を錦の御旗に掲げるこうした論法には疑問を感じざるをえない。その論理でいけば、もっとも好ましいのは学生の選択肢が最大となるすべての大学との連合である。確かに学生が大学を選択するのではなく全国すべての大学の授業科目を自由に選択できるシステムは将来考えられる一つの方向性ではあるが(注33を参照)、その際には大学単位で入試を実施する意味はまったくなくなるであろう。現在のように個別に入試選抜を行うのである限り、それぞれの大学は他大学とは異なる自らの独自の教育方針が何であり、そのためにどのようなカリキュラムを提供するのかをまず明確にすべきである。その上で、その教育目的のために有効ではあるが本学では提供できない科目を履修する機会を学生に与えるものとして他大学との連携が考えられるべきである。本学の教育目標についての検討を抜きにした「学生のため」論はその身振りとは反対に学生に対してきわめて無責任な態度と言うほかない。
[33] かつて小生は全学メーリングリストで「スタンドアローン・ユニバーシティからネットワーク・ユニバーシティへ」と題して以下のような提言を行ったことがある。この提言には数人の方から賛同のメールをいただいた他は、両副学長を含め反応はまったくなかったが、今でも考えは変わっていない。
「この10年間でコンピュータがスタンドアローンの時代からネットワークの時代へと急速に移行したのと同様に、大学もスタンドアローン型からネットワーク型へと移行すべき時が来ていると思います。そしてまたそのためのハード面での条件もクリアされつつあります。
問題は、そうした移行への試みがいまだ実験段階とはいえ日本の他の大学でもすでに始まっていることを本学関係者の多くがほとんど知らないことです。たとえば、小生も、京大がカリフォルニア大学との遠隔授業の実験を始めていることを最近知って非常に驚きました。都内の五大学などというチマチマしたレベルではなく、グローバルなキャンパスネットワークへの動きがすでに始動しているわけです。京大の実験は、鮎沢さんに教えていただいたNIMEのニュースレターで知りました。(http://www.nime.ac.jp/)
本学でも、こうした問題についての情報収集と全構成員(一部の「プロ」だけではなく)による情報の共有化、外大におけるシステム構築へのプロジェクト立ち上げを早急に行うべきです。その点で、研究および教育担当の副学長が積極的にイニシアチブを発揮していただければと希望します。」
[34] 同上 115-116ページ。