William Roseberry, Lowell Gudmundson, Mario Samper Kutschbach eds., Coffee,Society and Power in Latin America, Johns Hopkins University Press, 1995

池之谷美紀

 本書は10章から成っており、9人の筆者が各章を担当している。(Jimenezは2章と10章どちらも書いている)この書評論文では本書全体をよくまとめているWilliam Roseberryの章を中心に、彼が本書について考察する上で設定した観点が適切なものだったかを検討する。  

ラテンアメリカはその歴史のなかで植民地化や19世紀の独立戦争、輸出経済の発展など、いろいろな変化を経験してきた。たとえば"latifundia-minifundia complex"(大土地所有制度が優位を占める農業構造)、従属論、リベラリズムなどはラテンアメリカ各国が共通して影響を受けた要素である。しかし、それら共通の要素に対してラテンアメリカの国々は一様に同じ反応を示したわけではなく、各々違った動きをした。Roseberryはこういったラテンアメリカの多様性に着目し、コーヒーという農作物を通じて分析しようと試みる。  

コーヒーの木が新大陸に持ち込まれたのは18世紀で、1830年〜1930年の間にコーヒーの取引量は急激に伸びた。  

コーヒーがラテンアメリカ諸国にいっせいに広まると、各国で農業構造に変化が起こった。Roseberryは特に土地所有制度や、労働力不足への対策が地域によって異なることに注目し、なぜこのような相違があるのかを分析する。  

商品作物の栽培と聞くと容易に思い浮かべられるのは大農園だろう。ブラジルやグアテマラではコーヒーは大農園で栽培されるのが普通であった。  

ブラジルではcolonatoという移民政策により主にイタリアから移民がやってきて重要な 労働力となった。グアテマラでは移民ではなく、インディオが主な労働力となった。このように2国では労働力の供給のしかたに違いが見られた。  

大農園ではなく小規模の農園でコーヒーを生産していた国もある。コーヒーを小農園で生産している国として有名なのがコスタリカである。コスタリカでは平均25エーカー以下の小規模農家が主となっていた。  

ラテンアメリカのコーヒー経済がたどった変化の過程を各国ごとに、あるいは国内の地域ごとに比較・分析することが本書の目的であったが、Roseberryはこの分析作業を制限する要素を2つあげている。それは題材がコーヒーに限られていることと、各章の筆者たちが問題提起をマルクス主義の枠組みにあてはめてしまっていることである。  

Roseberryについてはこのくらいにして、この書評のまとめに移る。本書において私はJimenezの議論に注目したい。  

本書のほとんどの記述がコーヒー生産地・生産者について書いているのに対し、彼は唯一消費国・消費者について書いている。砂糖については同じような視点からシドニー・ミンツが著書『甘さと権力』のなかで論じている。Jimenezはアメリカ合衆国に絞って書いていたが、ヨーロッパでもコーヒーは消費されていたのだから、アメリカとヨーロッパにおけるコーヒーの飲まれかたの違いについて調べてもよいだろうし、紅茶が普及していたヨーロッパでコーヒーがどのように広まったか、などというテーマもおもしろいだろう。そしてミンツのように消費国と生産国を関連付けた研究がなされればコーヒーについてもより複雑で多角的な議論ができるだろう。