「ポルトガルがマカオに残した記憶と遺産
―『マカエンセ』という人々―」 (1/6ページ)
内藤理佳(上智大学)
1. マカエンセ (Macaense, 複数形Macaenses) とは
2. マカエンセの歴史と現状
3. マカエンセの未来
4. マカエンセの伝統文化
4.1 祭礼行事
4.2 伝統料理―マカエンセ料理
4.3 ポルトガル語系クレオール語 ―パトゥア語
セナ・デ・フェルナンデス一家(1946年頃)
1. マカエンセ (Macaense, 複数形Macaenses) とは
【名称】
ポルトガル語: Macaenses
Filhos da Terra 「大地の子」
Os portugueses do Oriente「東洋のポルトガル人」
中国語:「土生」「土生葡人」
英語(※):Macanese 日本語(※):マカオ人
※ポルトガル人の子孫だけでなく、広義の「マカオ住民」としても使用される
【マカエンセの一般的定義】
① ポルトガル人と中国人の「混血」であること
② マカオ生まれであること
③ マカエンセとしてのアイデンティティ(※)を持ち、マカオ文化を継承していること
※ポルトガル文化との密接な関わりを持つ(ポルトガル語を話す・キリスト教徒(カトリ ック)である・ポルトガル式教育を受けている、など)
※“Portugalidade”(ポルトガリダーデ)という独特の文化・精神性を持つ(ポルトガルとの深い精神的な絆・つながりがある、自らの精神の中核にポルトガルの存在がある)
【マカエンセの総数】
世界規模で2万人強と見積もられる。うち、マカオ在住者は約8千人。その他はポルトガル・カナダ・アメリカ合衆国・オーストラリア・香港などマカオ以外の国や地域に居住(ディアスポラ)
2. マカエンセの歴史と現状
【マカエンセの誕生とコミュニティの形成】
1513年 ジョルジェ・アルヴァレスが屯門(現在香港新界周辺)に上陸
1517年 ポルトガル政府、中国との国交を開くためトメ・ピレス率いる使節団を派遣するも失敗、密貿易を余儀なくされる
1543年 ポルトガル人を乗せた中国船、種子島に漂着
1557年~ ポルトガル人、マカオ現地役人に居住費を支払うことでマカオ居住権を獲得・定住。日本と中国(明)間の中継貿易(日本の銀と中国の生糸・絹織物)により多大な差益を獲得。貿易と同時に極東におけるキリスト教布教活動を推進(ザビエル、フロイス、ヴァリニャーノ)
・ポルトガルの現地婚政策 →ポルトガル人の子孫(マカエンセ)の誕生
「父親」はポルトガル人
「母親」は初期はゴア・インドシナ・マレー・日本)、ユーラシアン、19 世紀以降は中国人
1641年 日本鎖国によりマカオ日本の交渉は断絶、マカオの衰退
※1757年以降、清朝(1616-1912)の対外貿易を広東(現在の広州市)一港に限定。越冬のため、ヨーロッパ商人はマカオを拠点とし、マカオは再繁栄。しかしアヘン戦(1840-42)の英国勝利により貿易の中心は香港・上海などの条約港に移り、マカオはふたたび衰退。経済を活性化させるため、賭博業が1847年に合法化→現在のマカオ社会を支えるカジノ産業の始まり
1887年 葡清友好通商条約批准初めて「正式」にマカオはポルトガル領として認められる
※第三条「ポルトガルは清国の同意なしに第三国にマカオを譲渡することはできない」
→中国の影響は依然として残る