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2019年8月 アーカイブ

2019年8月 3日

しいたけのつゆ

今、アンタナナリブは朝4:20。

夢の中で、突然亡母のしいたけのつゆのことを思い出した。
そうめんのつゆ。

昭和の夏になると母は、そうめんのつゆにすると言って、
干ししいたけを水に浸けてもどし、つゆを作った。

僕がおガキ様のころ、その味が大っ嫌いだった。
市販のめんつゆの方が好きだった。

子供の味覚ってそんなもんだよね。
安っぽい。

まあ、ちょっとだけディフェンドしておくと、
子供の感覚器っていうのは大人の数十倍も鋭くて、
許容範囲をすぐに超えてしまう。

野菜嫌いもその辺りと、苦味その他を生命に危険なものとして
避けようとする本能に由来するものなのだろうけど。

それから、唐辛子で辛すぎるものがダメなのもそれ。

でも、その感覚器が鈍感になった初老の今、
ムショーに、母のしいたけのつゆでそうめんが
食べたくなった。

杉民生大先生の「生産性」じゃないけど、
伝えられないと絶えてしまうのは、
なにもDNAだけじゃなくて、
(DNAのジーンプールってのは、
 たとい近親で伝えなくても
 地球上のどこかにはあるだろうけど。)

(それから、ホモサピエンスの次の
 ホモナントカが出てきて、
 ホモサピエンスに打ち勝ってしまったら、
 ホモサピエンスのジーンプールは
 ほとんどが洋梨になってしまうだろうけれども。)

(まあ、「生産性」はDNAだけじゃないって、
機内で視たボヘミアン・ラプソディで、
子供を作らなくたって、
フレディー・マーキュリーだって、
マイケル・ジャクソンだって、
あんなにたくさん遺したものあるじゃん!
とは思ったけどね。)

「文化」も伝えられなければ絶えてしまう。

母の味もそう。

今だと父の味や、ノンバイナリーペアレントの味もあるだろう。

あと、今まで付き合ったパートナーの味とか。
あ、パートナーが作った食べ物の味という意味で。

おい、タクマ!
ママの味、今は当たり前だと思って食べているだろうけど、

自分でも作れるようにしておくか、

(家父長制的で、ジェンダー役割的で嫌だけど、)
誰かに覚えてもらうか、

密かにレシピをどんどん書きまくっておいてもらうか、

クックパッドに、日本語圏の群衆に対して
大公開してもらうかしておかないと、

その内に食べれなくなるぞ。

(お姉ちゃんに伝わっているものはあるかも知れないけれど、
 毎食をお姉ちゃんに作ってもらうという関係は、
 今の世間様的には、ちょっとアレかも。
 あ、家族の1つのカタチとしては僕はアリだと思うけどね。)

んなことを思いながら、
帰国するころには、もうそうめんの盛りを過ぎているかなとも
思いながら、

干し椎茸と、醤油と、みりんと、砂糖とあと何だろう。

ちょっと違う他所様のご家庭の味だろうけど、
僕の大嫌いなウィキペディアによう似た
クックパッドにいくつか挙がっているだろうか。

もし挙がっていたら、作ってみようかなと思ったりする
朝4:41です。

もうちょっと寝ておこう。

2019年8月10日

記号内容のズレと多岐化

とあるGの若い男性が、

「梅田の空に虹が出てた〜」

と、写真付きでツイートしていた。

それに関して、僕は、
「LGBT+ のシンボルである虹を見て高揚したんだな」
と思った。

それを、家人に言ったところ、
「そんな意味、無かったんじゃないの?
 ただ虹がキレイだっただけじゃないの?」

的に反応してきた。

まあ、そのツイート主に聞かないと
わからないことだけどね。

まあ、虹を記号と見たときに、
記号表現(シニフィアン、能記)としての虹は
それを見る人によって、様々な意味
(記号内容、シニフィエ、所記)に取れますよね。

レインボーフラッグだって、
1978年のサンフランシスコの
LGBT+パレードで初めて作られた
当初8色、後に6色になったものは、
LGBT+当事者の多くにとっては、
LGBT+ムーブメントのシンボルであるけれど、

レインボーフラッグっていう時点で、
6色に水色を加えて7色にし、
「PACE(平和)」という文字を書いた
平和のレインボーフラッグというのもあるし。
(それを、LGBT+のパレードで使う人もいるし)、

それら2つの意味がまず「発信」されている。

その他の虹を使ったデザインや、
気象現象としての虹に、
「何の意味を読み取るのか」というのは、
まあ、その2つにはとどまらないでしょうね。

とはいえ、ニュージーランドで同性婚が法制化
されたときの、議員さんの有名なスピーチでは、
締めに「ゲイ・レインボー」っていう言葉が
使われています。
https://www.youtube.com/watch?v=S1gca7hAwIM

--

私がまだボディーピアスをしていたとき、
私はそれを記号として、なにか意味を
発信しようとしていたわけではなく、
単に北米的なファションとして
やっていただけなのですが、

それを記号として受け取る人はいて、
その1つの解釈は、
「この人は、SMのMで痛いことが好きなのだ」
というものでした。

その頃我が意に反してよく「痛く」されました。(笑)

--

最近だと、タトゥー。

外国にだってスティグマはあるだろうけど、
でも、多くの人々が、日本では考えられないくらいに
タトゥーを纏っている。

日本での意味は、あの意味で捉える人が多いでしょう。

やっと、雪解けが始まりかけてはいて、
温泉、銭湯などが、特に2020年に向けて、
タトゥーをしていても、お客として排除しないように
しようとしはじめていますが、
その動きは、ものすごく遅いです。

これも、人によって読み取る意味が、
多岐化しているものですよね。

ビミョー

この前、当地の日本人が
短期滞在している私のために
集まって会食をしてくれたのですが、

そのとき、当地の会社員の方が
「気を利かせて」
「先生の周りは、協力隊員の女子で
 固めますから」

と。

「はぁ〜」

みたいな。

まあ、ほとんどがストレートである
協力隊員の男子で「固め」られても、
それはそれで困りますけどね。

見てる分には楽しい気分になるだろうけど、
ご当人らにしてみれば、視姦されているのを
知ったら、やっぱり気分のいいものでは
無いだろうし。

あ、それを異性愛者間で、対女子だから
いいっていうのも、「どうか?」と
思うところはあります。

若い女子、男子を、ホステス、ホスト
代わりに使うなよ!
っていう。

それに、よっぱらえば、セクハラをしちゃう
おっさんや、おばさんだっているだろうし。

だから、ビミョー。

--

あ、念の為に言っておきますが、
日本の職場では、
クライアントさんたちに
ハラスメントをしてしまわないように、
それこそ「異性愛者の同僚」以上に
気を使っています。

2019年8月11日

女と男の間

「女と男の間」

先日、件の会食のとき、

手話についてよく出す例で、

「母」を、日本手話と、アメリカ手話と、
マダガスカル手話でやって見せて、
「違うでしょう?」ってのやるんだけど、

その流れで、「アメリカ手話では、
 顔の上半分が男で、下半分が女なんですよ」

って話をしたら、とある商社の方が、
「今みたいに、男と女の境界が曖昧になってきたら、
 どう表現するんでしょうかねえ?」

と。

酒の席の冗談のつもりだったんだろうけど、
まあ、ど直球で来たな、と。

まあ、真面目なことを言うと、
音声・書記英語で、she, heの代わりに
theyを使うことが出てきているように、

それは、アメリカ手話の母語話者が
工夫していくことだと思うんです。

それを、外野の我々が作るわけにはいかないし、
ネイティブサイナーのコミュニティーで、
どう作っていくのかを見守るしかないでしょう。

その酒の席で、アメリカ手話の「将来」のことは
わからないので、答えなかっったと思うんだけど、

ちょっと、この国にいるサリンバービ(おかま)
のことを話題にしたら、隊員さんも
ほとんどご存じなかった。

サリンバービっていうのは、
異性装・女装をする人で、

中には、街角に立って
主に白人の旅行者などを相手に
体を売ることを生業としている人もいる。

ってか、田舎は別にして、
都会だと、サリンバービ以外の
性的少数者って、
可視化されていないんですよ。

--

「この国の性的少数者はどこにいるか」

その昔、世界G旅行ガイドブック的なもので、
まだ冷戦時代の、旧東欧だと、
Gバーなど無く、

掲載されているのは首都の鉄道の
主要駅前の「8点音入れ」だけだったりした。

あるいは、どこどこの浴場、
サウナが8点場になっている
っていう情報があったぐらいでした。

翻って、今のマ国では、
そんなのも無いです。

以前はどうだったのかわからないけど、
今は、割とネット上の出会い系で、
異性の出会いのついでに、
同性の出会いもできるようになっていて、
それで、旅人と出会う人が多い
感じですね。

ローカル同士はあまり出会わない。

あ、でも、とある仏人の手芸家の
お店では、とびっきり可愛い
マ人の男の子が店番してるんだよね。

この国では、まだ当分は同性婚は
できないだろうけど、

まあ、「そういう関係なんだろうな」とは
思いました。

ネットの出会い系については、
僕も出版物に書いているんですけど、
もうそんなもの、あまり読まれなく
なっているんでしょうかね。

出てから数年は、
結構、どう扱ったらいいか
わからない感じの振る舞いの人が
多かったです。<笑>

ある隊員のお父上は、
プロテスタントの教会員で、

「同性愛者もいていいと思います!」

っていうメールをくださいました。

まあ、精一杯だったんでしょうね。<笑>

ご自分の中のホモフォビア、
教会で醸成されたホモフォビアと
目の前のGを比べて、

それが妥協点だったんでしょう。

ってか、多数派に「認めてもらわなくても」
存在しているんです。

存在が先であって、権利とか人権とかは
それに付随してくるもの。

認める、認めないって話じゃあ、
元々ないんです。

2019年8月20日

使役

ちょっと前に書いたマダガスカル手話の論文で、

http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/92836/1/acs097009.pdf

「笑わせる」みたいな動詞そのものを使役化するものの他に、
節が入れ子構造になっている使役複文も探していたんだけど、
その論文では、

・割と無色な使役文
(例えば英語で、Chris made Pat to clean the room)
みたいなのと、

・許諾の使役文
(例えば英語で、Chris let Pat to go to the party)
みたいなのは採れたんだけど、

・強制の使役文
(例えば英語で、Chris forced Pat to do the translation)

みたいなのが中々採れなかったんです。

でも今日、強制の使役文の否定命令が採れました。
(例えば英語で、Do not force children to eat spinach)

みたいなのが採れました。

調査協力者先生の感覚で、「強制」っていうのが
馴染まなくて、中々出てこなかったんでしょうね。
でも、その否定命令なら、問題無いという。

もっと、政治問題なんかで、

「中国政府は、香港の市民に◯◯することを強制した」

的なものをアイディアとして伝えれば、
否定命令じゃないものも採れるかも知れません。

--

ところで、割と無色な使役文
(例えば英語で、Chris made Pat to clean the room)

のmadeのところが、MAMPORISIKAっていう動詞の
例文は一昨年、去年と認識していたんだけど、
今年になって、そこの部分に、ATAOVYという、
MANAO(する)の命令形が出てくる例に気が付きました。

もしかしたら、そこには、ロールシフトが絡んでいるかも。

ビデオをよく見直さないと。

ATAOVYは、「無色の使役」の場合と、
あと、動詞の原型の前(あるいは後ろ)に付けて、
命令文を造るのにも使われるように見受けてます。

ずうっと前には、ATAOVYっていうのはMANAO(する)の
命令形としか認識していなかったので、
ずうっと前から、使役や、「他の動詞」の命令の助動詞として
使われている例があったかも知れません。

2019年8月22日

アチャパチャノチャ再考

随分前に、アチャパチャノチャ考という記事を
書いたのですが。

アチャパチャノチャ考
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/tanana/2012/05/post_326.html

アチャパチャノチャ
https://www.youtube.com/watch?v=PSvhCRURGrY

そこでは、日本で、よく歌本に
「ラップランド民謡」として紹介されている
アチャパチャノチャ(アチャパチャノーチャ)は、
別にサーミ民謡ではないんでは
ないか?とこの歌だけの「証拠から論じたものですが、

その後、サーミ関係者のSさんに聞いて、
スウェーデンの歌、Gubben Noakと、
Björnen Soverと旋律が同じだと
いうことが分かりました。

Gubben Noak
https://www.youtube.com/watch?v=bGzDRNgi20o

Björnen Sover
https://www.youtube.com/watch?v=oehZtupL8I0

これらの歌の旋律だけ借りてきて、
日本語の音素配列論に従った
無意味語を並べただけのものであると
今は考えています。

つまり、旋律は借りてきたけど、
詞は、特に意味は無く、デタラメだと
いうことです。

で、今マダガスカルにいるのですが、
現地の楽器、Valiha(バリーハ)の土産物を
路上で売っている人がこの旋律を奏でているのを
聞いたりとか、

まだ言葉もあまり出てこない子供が
鼻歌で旋律を歌っているのを聞いたりして、

あ、ここでもローカライズされているんだなと
理解しました。

でも、Björnen SoverあるいはGubben Noak
のフランス語版、あるいはマダガスカル語版を
検索しても出てこないのです。

そこで、Rさんに聞いたところ、
ご本人は分からなかったのですが、
周りの人に聞いてくださって、
辿り着きました!

Tia Zaza
https://www.youtube.com/watch?v=RiZmDpnI-MQ

「われらがイエス様は子供たちを愛している」

っていう、こどもさんびかになっていますね。

旋律だけが借りられて、ここでも全く歌詞は関係ない
ものになっています。

--

ところで、別件ですが、マダガスカル語の「音論」の説明で、
zは摩擦音の[z]、jは破擦音の[dz]って書かれているのが
ほとんどだと思うのですが、どうも、前者が後者に
合流しかけているようなのです。

jは常に[dz]なのですが、zは[dz]だったり、[z]だったり、
母方言の影響だったり、年齢層なんかでも違うと
思います。

いろんな流行歌のビデオクリップを見ていても
完全に合流している人と、そうでない人といますね。

で、このTia ZazaのZazaは、この音源では、
[dzadza]になっちゃってますね。

[z]と[dz]は、マダガスカル語の学習者は、
ポーランド語や、マケドニア語のときのようには、
注意深く区別しなくて、構わなそうです。

2019年8月30日

「ただの同性愛の映画」

戸田恵子、宮沢氷魚&藤原季節と3ショット「ただの同性愛の映画じゃありません!」 - Ameba News [アメーバニュース] https://news.ameba.jp/entry/20190828-634/ #アメーバニュース

という記事に関して、
ロバート・キャンベル氏は問う。

https://twitter.com/rcampbelltokyo/status/1167072017914351616

戸田さんに聞きます。「ただの同性愛の映画」って何ですか?「同性愛」を差し引いて始めて貴女が向き合っている観客が見るべき映画、ってこと?「ただの同性愛者」からの、切実な問いです。

戸田恵子、宮沢氷魚&藤原季節と3ショット「ただの同性愛の映画じゃありません!」

この映画を「ただの同性愛映画」といいたいのか、
それとも「ただの同性愛映画ではない」といいたいのかが
ちょっと混線している感はあるのですが、

欧米は別にして、今の日本の映画、ドラマ、演劇などにおいて、
同性愛者の登場人物が出てきたときには、

どっちに転んでも、登場人物の同性愛性に焦点が当たって、
その上で、その映画は
「ただの同性愛映画である」か、
「ただの同性愛映画以上のものである」か
しか選択肢が無いってことでしょう。

同性愛者が主役であったり、
あるいは、同性愛者が端役で出てきて、
しかも「同性愛映画ではない」ということは、
現代の日本では許されない。

これは、言語学では、チェコのHavránekが提唱し、
文学理論では、それに十数年先んじてロシアのShklovskyが提唱した
「異化 露ostranenie、チェコaktualizace」と
「自動化 露avtomatizm、チェコautomatizace」の問題と絡んでいて、

簡単に言うと、何らかのヒト、モノ、コトがあったときに、
それがその置かれた「場」の中で目立っている間は
異化が働いていて、
それが時間が経つことで、目立たなくなったときには、
自動化が成立してくる。

現在の日本では、映画やドラマに同性愛者が出てきたときには、
その登場人物の他の属性よりも、同性愛者であるということに
焦点が当たり、つまり異化が働いていて、
観客の関心が「そこ」から外れることを許さない。

その辺りが自動化してくると、同性愛者は登場しているけれど、
別にそこは、話の本筋ではない、という映画、ドラマに
なっていくのでしょう。

とはいえ、現状では、あまりにも映画、ドラマに同性愛者が
出てくることが少ないですから、異化しようがどうしようが
同性愛者がどんどん出てくることに意味があるんですけどね。

--

ところで、話の次いでですが、異化、自動化という
ことに関して言語学の話をすると、

流行り言葉というのは、当初異化が働いて、
そこいら中で使われても、段々自動化が働いて
使われなくなっていく。

「マジ卍」とか
「つらたにえん」

なんかも、過去の

「チョベリバ」

なんかと同様にことばの命としては短いものでしょう。

翻って、「イケメン」ということばの
命のなんと長いことか。

学術研究もあるかも知れないが、
ちょっと把握できていないです。

学生さん方には、ウィキペディア「だけ」を
ソースにしてはイケないと常々言っているところですが、<笑>

ウィキペディアを見ると、

イケメン - Wikipedia http://bit.ly/2ZA78WD

『G-men』などのゲイ雑誌で「イケるメンズ」「イケてるメンズ」が
1990年代に登場し、その後に、『egg』で、「イケメン」が使われたのだそう。

これが、なかなか自動化して、(陳腐化して)使われなくなっていかないんですよね。

もしかして、女性にはずっとある「美人」ぐらいの位置に
男性に関して評することばが欠けていて、そこの間隙に
スポッと収まっちゃったんでしょうかね。

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