東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程

多文化共生イノベーション研究育成フェローシップ

竹内航汰

空想家だった幼少期

 物語というものにずっと惹かれつづけてきました。字が読めるようになると、母が買い与えてくれた「集英社少年少女世界名作の森」と、「岩波少年文庫」を読みふけったせいなのかもしれません。寝る前に目を閉じれば、さっきまで紙面にあった世界が今度は頭のなかで立ち上がってきてしまうような子どもでした。

 そんな空想・妄想癖の強かった子ども時代のわたしを惹きつけたものが、もうひとつあります。犯罪事件を面白おかしくゴシップ的に伝えるバラエティ番組の再現ドラマです。子どもが見るべき番組ではなさそうだし、親の目を盗んで隠れて見るしかないことは直感的に気づいていました。

 もちろん、再現ドラマとの遭遇は時代のせいでもあるでしょう。無人島に潜伏していた殺人犯の男。わが子を殺したあとに捜査協力を求めるビラをみずから配った女。本人は悪いことをしていないのに、横領事件を起こした旦那のせいでカメラに追い回されることになった外国人女性。そんな人たちにたいする執拗で非人道的で過剰な非難のことばで世間は満ちていました。

 でも、それだけではありません。客観的であるはずの報道も含め、犯罪者たちをめぐることばと映像には、主観的な物語が蔓延していたのです。犯罪者たちの人生は勝手にストーリー化されて、犯人が語らなかった部分も作り手の想像で補足されてしまいます。しかも、ドラマが扇情的な展開になるほど大人たちが喜ぶことにも気づきました。

 物語は魅惑的なものであると同時に、あらゆるひとが物語を語りたいという強い欲望をもっていて、勝手に他者の人生の物語を語りはじめることは恐ろしいことかもしれない。そんなことを考えるようになったのです......。

そしてデュラスの世界へ

 大学生になり、マルグリット・デュラスという作家に出会いました。『愛人(ラマン)』という世界中でベストセラーになった小説によって、この作家を記憶している人も多いかもしれません。初めのうちは、『アガタ』や『死の病』のようなメランコリックでエロチック、そして洗練された語彙でつくられた彼女の世界観にハマりました。『ヴィオルヌの犯罪』という小説を読んだときに、この作家が好きだという気持ちは確信に至りました。

 『ヴィオルヌの犯罪』は、当時のフランスで実際にあった殺人事件をもとにした小説・戯曲です。この事件は暴君だった夫に耐えかねた女性が、みずからの夫を殺したというものです。デュラスはいくつかの設定変更を加えつつも、犯人の女性が語らなかったことを想像によって補いはしないという制約を自らに強いています。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。たしかにこの物語では、犯人がみずからの動機を明白にひとに告げることはありません。それどころか自白らしい自白すらしていません。それでも、読者は物語のなかから犯行の動機を見出して、殺人事件の物語を認識できるのです。ことばが線型状に並べられれば、だれだって物語を見出してしまうものですから。

 実際、晩年のデュラスは別の事件を過度に物語化した文章を発表したせいで、世間から大いに糾弾されることになりました。かつて倫理的な語りの方法を手に入れたように見えた作家も、今度は失態を犯したのです。

 こうしてわたしの探求心に火がつきました。物語ることと倫理はいったいどんなふうにして絡みあっているのでしょうか。ひとは、しばしば物語を通じて世界を理解します。だれも物語なしで生きることはできません。他者から声を奪わずに物語をつくるとするならば、どんなふうにすればよいのでしょうか。デュラスを出発点として、そんなことを考えてみたいのです。

 実際、デュラスこそが生涯この問題意識を抱きながら、作品をつくり続けた作家です。デュラスは殺人事件フリークで、『ヴィオルヌ』以外にも、実在事件をモデルにした小説を書いています。

研究以外の趣味

 研究の息抜きとして、映画をよく見に行きます。映画館から映画館へハシゴして、上映スケジュール片手に走り回る日々です。幼稚園生だったときに父に連れられて『E.T.』を見てからというものの、大画面で展開されるスペクタクルに釘付けでした。『スターウォーズ』エピソードIIIを映画館で見たときの興奮も忘れられません。大学生になってからはアテネフランセ文化センターやシネマヴェーラに通い、お気に入りの監督も見つけました。とりわけダグラス・サーク、ジャック・ロジエ、森崎東が大好きです。

 しかし、映画もまた、恐ろしいものなのかもしれません。なぜなら、映画はわたしたちに物語を強制してくる装置になりうるからです。座席に腰を下ろしている限り、スクリーン上に映される物語からわたしたちは逃げることはできません。読書とは違い、本を閉じることのできない映画は、わたしたちの視聴覚にまで物語を押しつけてくるのですから。さらにはキャメラワークによって、視点もきわめて限定してきます。物語をめぐるそんな恐怖と歓喜のふたつの気持ちに引き裂かれながら、スクリーンと向き合う体験は、なんとも不思議なことだと思いませんか?

 こうして書いてみると、映画を見に行くこともまた、なんだか物語の魅惑と危険をめぐる研究とつながっているのかもしれませんね――。

【自分の研究と接するモノたち】

  • 森崎東『女咲かせます』
  • 平岡正明『あらゆる犯罪は革命的である』
  • ミシェル・フーコー『異常者たち コレージュ・ド・フランス講義1974-1975』
  • 手塚治虫『奇子』