1期生の横山綾香です。MIRAIラボの「なんか小さくてさわがしいやつ」と覚えてください。

専門は1960年代後半(ブレジネフ期)以降のロシア演劇です。幼少期から舞台に立つのも、舞台を観るのも大好きです。学部時代はロシア語劇サークルに所属していました。そこを引退して以来は舞台に立てていませんが、また挑戦したいという気持ちは残っています。今でも人前に立つときが一番生き生きとします。逆に一人でいると考え込んでしまうタイプです。研究自体は個人作業が大半なので孤独に負けそうなこともありました。MIRAIに合格したことで交流の幅が広がり、大学院生活そのものが一気に上向きになりました。

好きなことに向き合う苦さ

最初にロシア文化の専門家になりたいと思ったのは15歳のときです。秋にロシア文学と出会って、その年の冬には研究者になることが自分の中で確定事項になっていました。理性や綺麗事では解決できない矛盾に満ちた世界をダイナミックに描いている点がしっくりときました。夢中になるとそれ以外のことを考えられなくなるタイプな上に「何かを極めた人」に対する憧れもあって、自然と研究者を志すようになっていました。ありがたいことに周囲に反対する人はいなかった(はず)。本当は厳しい意見を言われていた可能性は否定できませんが、全く耳に入っていませんでした。

ありがたいことに15歳の自分が想像していたとおりの道を進んでいますが、特に修論提出まではつまずいてばかりで山ほど悩んだり苦しんだりしました。完全に心が折れてしまった時期すらあります。本来、自分にとって活動しやすい環境は演劇のようにプレイヤーとオーディエンスの距離が近い場所で、自分が行ったことに対して誰かの反応が返ってきた瞬間に幸福を感じます。いざ大学院に進学するとそういった機会は自分が想像していた以上に少なかった。それで段々とやりがいを見失いました。ロシア文化への愛着がなくなったわけではありません。苦しい環境で自分自身が最も興味があることに携わるより、穏やかな環境でほどほどに適正があることをするほうが幸せなのではないかという悩みに頭が乗っ取られていました。

修士課程2年目の春にもう頑張れないと研究が嫌になって、堰を切ったように髪を黒に染め直し、自分の趣味には全く合わないベージュのアイシャドウと薄い色のリップを買い、ずっと着ていなかったスーツをクローゼットから引っ張りだして就活に乗り出しました。何もかも一からやり直したいと思っていたので、ロシアとも文化とも全く関わりのない道を探しました。結局、新しい道は見つからず、世の中の流れに上手に乗れない不器用な自分を突きつけられただけでした。学問という名の茨の道が自分の運命だと悟り、博士後期課程に進むことを決意しました。自分が魅力を感じる物事に対して斜に構えるのはもう止めようと。

逆風を切り裂く強靭な精神をたどる

今はユーリー・リュビーモフというロシア人演出家の演劇を研究しています。2014年に亡くなりましたが、首席演出家を務めていたタガンカ劇場の俳優を率いて来日公演も行われました。

リュビーモフが演出家として名を上げたのは1964年のことでした。ブレジネフが最高指導者に就任し、スターリンの死後に訪れた冷戦対立が穏やかでソ連国内でも開放的な雰囲気がただよう時代(いわゆる「雪解け」)が終わったことを誰も実感した年です。文学や美術の世界では当局に隠れての活動が中心となって勢いを失ってしまいます。一方で、ソ連演劇はブレジネフ期に最盛期を迎えたと評価されています。才能ある演出家が数多く現れたなかで、ソ連の芸術規範に対して最も挑戦的な作風を売りとして、熱狂的な人気を集めたのがリュビーモフです。

ソ連の芸術規範において演劇は社会をそのまま(+政府にとって都合の良い観点で)写しとることが原則でした。「雪解け」時代の自由な空気を知る演出家たちは時代が移り変わっても政府には迎合せず、それぞれのアプローチで重苦しく出口の見えない時代に生きる人々が求める演劇を追求しました。政府の構造的な腐敗を直接的に批判をするもの、閉塞的な社会で生きる人々の苦しみを描いたもの、時代や国を問わない人類の根本的な問題に焦点を置いたもの...... 演劇で扱われるテーマが一気に広がったのがこの時代の特徴です。

良質な演劇作品が多数制作されたなかで、リュビーモフの演出作品が最も人気を集めたのでしょうか? 私の考えでは、彼の演劇作品は閉塞感を作り出している社会構造やそういった社会に生きる人々の心情を単に表現しただけではなく、重苦しい空気を圧倒するものだったからです。

リュビーモフ作品では作家や詩人が頻繁に登場します。彼らが受けた社会的な抑圧とそれを乗り越えて作家が執筆した作品も交互に舞台上で表現されるという独特なスタイルがよく見られました。リュビーモフは当時ソ連演劇ではタブーとされていた歌やパントマイム、カラフルな照明や客席に対して発する台詞などを大胆に取り入れることで、作家が作品に込めたパドスをまで体現していたのです。そして作品から解き放たれたパドスが劇場を支配して抑圧の悲壮感は後景に退く。

リュビーモフの劇場で観客は現実と重ねながら強大な権力が民衆を虐げた過去を振り返り、劇場で圧力をバネにして生まれた芸術の気迫が過去の陰鬱に勝利する瞬間を体感する。そうすることによって、70年代以降のソ連に染み渡った息苦しさも絶対的なものではないという希望を感じとっていたのではないか、と想像しています。

ウクライナ紛争開始から半年が過ぎて

先述のとおり散々迷ったすえに博士課程を選んで、後は地道に研究するだけと思っていた矢先にウクライナ紛争が始まりました。当初は青と黄色の旗を見るたびに罵倒されているような感覚でした。さすがに今はもう慣れきって何とも思わなくなりましたが。何よりも辛かったのは、ロシアに関わってきた人間の無力感が伝わらないことでした。吐露したところでリアルでは冷めた反応をされ、ネットでは叩かれる。いまだに社会との間に厚い壁を感じています。

現実的には社会と距離を置いて研究を進めることも可能ですが、私自身は社会との断絶は望んでいません。社会から目を背けたところで完全に逃げられないから。自分の研究活動が社会と良い関係を築いてほしいと願っています。具体的なヴィジョンはまだ作れていません。今まで自分で自分の研究に「社会の役に立たない」というレッテル貼りをしてどこかで考えることから逃げていました。

しかし、MIRAIフェローシップでの活動を通して研究の社会的意義を重く考えすぎていたことに気付きました。なぜならば「研究を社会に繋げたい」という意志はMIRAIメンバー全員で一致しているにもかかわらず、それぞれ具体的なイメージはバラバラだったからです。それぞれの間に優劣は全く感じませんでした。自分の専門分野に対する深い理解と社会に対する関心と前向きな思考力があれば、どんな分野の研究でもより大きなコンテクストに繋げられると今は考えています。

MIRAIメンバーとして残された時間は1年半となりました。博士課程への進学時に決意したように自分の価値観や思いを大切にしながら、研究を社会とどう繋げたいのか具体的なイメージを膨らませる時間にしたいです。

それぞれ何か一枚写真を載せようという話になっていた(義務ではないけれども......)のですが、この記事の内容に関係がある写真が見つからなかったので横浜で撮ってもらった写真を載せておきます。学部時代のロシア留学もモスクワではなく海沿いのペテルブルクを選んだのですが、日本でも海や川が近い場所にいると何だか落ち着きます。

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