1. あなたが未来館で得た気づきや発見3つ(各200字程度)
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未来館自体は多分、小学生の頃から訪れていて、高校1年の時に探求学習のはしり(任意の技術について調べ、まとめて発表する)で訪れた際には、探索・探究の技術というテーマに比重を置いた展示が多かったように思われ、また部活動(物理部)の有志で遊びに行った際にはロボットの「できること」が重視されていたが、しばらくのうちに切迫した未来の問題のために「なにをすべきか」や、ロボットと私たちの関係性といったように重きを置くテーマが変っているのを実感した。それこそが時代とともに流動性を持つ科学の本質を表しているとすれば、それに気づける仕掛けが必要かもしれない。
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展示、表現の方法に芸術の方法がもちいられるようになっている印象を受ける。今回は見れなかったが、ドームシアターで上映している、『9次元から来た男』は映画『呪怨』の清水崇監督が関わっており、映像作品としても観客を引き込みつつ、視覚イメージを喚起しにくい量子力学を観客に効果的に印象付けうるのではないか。3階の計算機に関する展示も、現代アートなどで用いられている技術と連関するところもあり、芸術と科学の親和性の例を見ることができた。
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感染症は記憶化しづらい、と言うのはなるほどと思ったが、それは教訓が残りにくいという意味と考えられる。歴史でいえば、前近代の日本では天然痘、近代以降は結核が猛威を振るったことは広く知られており、医療技術の進歩によってそれらの病気がもはや今日において今日ではなくなったが故に過去として処理される。しかし、1900年代初めに猛威を振るった「スペイン風邪」ことインフルエンザについては、毎年流行するものでありつつマスクの着用やこまめな換気、ワクチンの接種といった日常レベルでの対処法が普及している。
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また感染症については、病原を直接対象とした研究が可能である一方で、自然災害についてはその発生源の「場所」と発生後の「被害」を専ら対象とするため、上記のような相違につながるのではないか。
2.あなたにとっての科学コミュニケーションの意味・価値(字数自由)
科学コミュニケーションには、日常のあらゆる疑問を考える手掛かりをもたらすことや、あらゆることに「意味」をあたえるという効果が存在するが、一般的な印象としてそこで扱われる問題は、環境に関するもの、さらに言えばSDGsチックなものに寄りがちである印象は否めない。
コミュニケーションは双方向であるからこそ、科学の意義を揺るがしかねないテーマについても議論・対話していくことが必要であり、例えば近代科学の進歩を後押ししたのは戦争であったという事実(コンピューター、核)や、科学における探究や技術の拡張がいわゆる「神の領域」に達しつつある(ゲノム編集、人型ロボット、AI)ことに伴う宗教など他の人類的価値観との衝突についても、われわれは紛糾を恐れずに語り合わなければならないのではないか。なお科学者らは米ソの核開発競争を受けた1955年のラッセル・アインシュタイン宣言以降のパグウォッシュ会議や、いつの間にか未来館の展示からなくなっていた本田技研のASIMOについても開発段階でバチカン教皇庁に意見を仰いだという例に見られるように科学と人倫のコネクションについては早期から意識した活動を行っているが、問題は大多数の市民にもそうした姿勢が持てるかである。市民にそうした意識を喚起するという意味で言えば、科学コミュニケーションに期待される役割は大きいが、そうした場合のコミュニケーターは幅広い領域の人びとから成るべきであろう。
大西達貴(D1:沖縄写真文化史)
コーディネーターからのコメント
小学生から通っていたからこそ、未来館の展示テーマの変遷にも気づくことができました。その気づきをレポートで共有してくれたことが嬉しいですね。最善の科学コミュニケーションの形は時代と共に変化していますが、未来館はその最先端を常に追い続けているのでしょう。
STEM教育がいつの間にかSTEAM教育に変わったことからも分かるように、科学・工学・数学教育と芸術とは深く結びついています。芸術の方法を応用するからこそできる表現の可能性は、人文科学分野でももっと追求されるべきですね。この本がヒントになるでしょうか(私の積読本の1冊です)。
『サイエンスコミュニケーションとアートを融合する』ひつじ書房
「コミュニケーションは双方向であるからこそ、科学の意義を揺るがしかねないテーマについても議論・対話していくことが必要」であるという問題提起は、当事者である理系研究者の中からはなかなか起こりにくいのかもしれません。かといって、一般市民にその役割を期待するのも無責任に思われます。社会的文脈や歴史的経緯を精査し、その行為や現象の本質を見抜く目を持った人文系研究者の出番なのではないでしょうか。