雪原のキリン
ピエリア・エッセイ
伊東 剛史
旭山動物園をはじめて訪れたのは、10年余り前のことである。動物本来の姿を引き出すという行動展示の導入によって、旭山動物園は今世紀初頭に奇跡的な復活をとげた。その熱気が収まってきた頃の訪問だった。3月末なのに、まだ雪が降り積もり、「ペンギンの散歩」には多くの見物客が集まっていた。ゴマフアザラシやシロクマといった亜寒帯・北極圏の動物も人気があり、ヒグマ、エゾシカ、シマフクロウなど道内の動物も見応えがあった。そのなかで一際目立っていたのは、銀世界に凜とたたずむキリンだった。角やたてがみにうっすら雪化粧をまとい、幻想的な光景を生み出していた。
どうしてアフリカのサバンナにいるはずのキリンが、この日本最北端の動物園にいたのだろうか。そういえば、さらに10年前、ウィーンのシェーンブルン動物園でも不思議な体験をした。それはもっと寒い日のことだった。園内に入っても、モート(堀)や柵で囲われた空間だけが眼前に広がり、そこにいるはずの動物が見当たらない。生命活動の気配が感じられない。理由はすぐに判明した。動物たちはほとんど舎内で展示されていたのである。動物園では、人は自然らしさの中に置かれた動物を見ることに慣らされている。そのせいか、人工的な展示施設を渡り歩き、その中でばかり動物を見続けると、〈在る場所〉と〈在るべき場所〉とがどんどん乖離していくような違和感が募っていった。それが屋内外の激しい寒暖差に助長され、身体感覚として記憶された。雪原のキリンを見て、その記憶が蘇ったのである。
振り返れば、極寒のシェーンブルン動物園こそ、動物園の歴史的な本性を示していたように思える。「啓蒙の世紀」に起源をもつ動物園は、亜熱帯・熱帯から多くの動物を収集し展示していた。当時のヨーロッパの気候は現在よりも寒冷であり、ロンドン動物園のあるリージェンツ・パークの人工池では、冬にアイススケートを楽しむことができた。暖房設備は限られている。したがって、本来は寒冷地での生存が困難な動物を、新たな気候環境に順応させることが動物園の使命となり、その国の科学技術力の指標にもなった。
欧米の「文明国」を回覧した岩倉使節団の記録の中にも、動物園が登場する。それは動物園が議会や銀行、工場などと並び、西洋文明の礎のひとつに数えられたからだろう。ロンドン動物園を訪れた一行は、展示動物の多くが「南アメリカ、アフリカ、インド、南洋諸島」から運ばれたものであることを知り、(少なくとも表面的には)寒冷気候を克服したイギリスの動物飼育技術の高さに驚いたようである。
列強のあとを追った日本は、イギリスがインドに、フランスがアルジェリアに動物園を建設したように、台湾、朝鮮の両植民地に動物園を建設した。帝国主義の時代の動物園は、植民地とその自然環境の支配、統治、管理を可視化し、体験するための巨大な箱庭となった。そして、すでに日中戦争の始まっていた1938年、満洲の新京で新たな動物園建設が始まった。敷地面積が国内最大の東山動物園の2倍もある、最先端の動物園となるはずだった。当時、日本最北端の動物園は、北緯38度にある仙台動物園だった。新京はさらに5度高い位置にあった。ここに動物園を建設する意味は、帝国日本の新たなシンボルを築くことだけでなく、動物の北方馴致が可能であることを示し、満洲への植民事業を精神面から支援することにあった。この北方馴致という夢の残滓は、戦後開園した円山動物園など、北海道の動物園に受け継がれたという(犬塚康博「新京動植物園考」『千葉大学人文社会科学研究』18号)。
雪原のキリンに出会えたのは、一度きりである。しばらくして、旭山動物園では新しいキリン舎が完成した。数年後の真冬に再訪すると、シェーンブルン動物園と同じようにキリンは屋内で展示されていた。あの美しいキリンにもう一度会いたいと願ってはいけないだろうか。人が地球にもたらした取り返しのつかない幾つもの変化も、元を辿ればひとつひとつは、そんな淡雪のような願いだったのかもしれない。
伊東 剛史(いとう・たかし)総合国際学研究院准教授 アニマル・ヒストリー
文献案内
小川楽喜『標本作家』早川書房、2023年
ピエリア pieria 2024年春号
特集「気候変動と人の営み」第Ⅱ部 誡めをひもとく 掲載