(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:野田容子 竹中健裕 佐々木芙美子 久保知都 犬童有希子 寺田葉子
「鎖されたはずの記憶が暗闇のなかをさまよう」
デレク・ジャーマン『ラスト・オブ・イングランド』から
戦争の世紀といわれるように、20世紀は多くの戦争や悲惨な出来事が繰り広げられた。第二次世界大戦から半世紀以上が過ぎた現在、実際にその戦争を経験した人々は少なくなり、戦争の記憶を刻んだ場所は変容し消えていくという状態に直面している。そのようななか、戦争の記憶をいかに伝えていくかという問題は、いわば人類共通の課題としてますます関心を高めているだろう。記憶を伝えるということは記憶の表象化であり、その課題を担うひとつの領域に芸術がある。本論では芸術が抱えたこの記憶の表象をめぐる困難な問題について考えていきたい。それは、具体的な作品という創造的場のなかで、芸術が悲惨な記憶をいかに表象できるのかということである。そして過去の事実の真か偽かという問題ではなく、記憶の場所としていかに芸術が機能するのかを考えることである。
そこでまず芸術における記憶の表象というとき、それが抱える問題を整理しておきたい。
ひとつには芸術の享受の問題である。戦争の捉え方や考え方は、それぞれの社会や時代における状況によって異なる。モニュメントにみられるように公共の記憶の場は、政治的、社会的な磁場にさらされている。公共の記憶の場所というのは、政治的社会的な要請のもとで、演出され共有されることによって、ひとつの固定した物語や象徴となる危険性がありうる。そこには多くのこぼれ落ちて記憶されぬものが存在することになる。もっとも記憶の場にすべての出来事を保存させるようなことは不可能であり、また無意味だ。記憶はそもそも人が日々生活をするなかで、自然に無意識のうちに蓄積されていくものであり、常に想起と忘却のなかで流動的に生成されていくものであるからだ。人間の営みとして記憶を考えるならば、記憶はコンピューターのメモリのように完全に保存されることはない。公共の記憶の場もまた同様である。つまり単に過去の出来事を保存するためのものではなく、その過去・現在・未来を視野に入れて多様に記憶される可能性を秘めた場として機能するべきである。それは政治や社会からの制約から解放されることを意味するのではなく、それをも含め自覚的に記憶される必要があるということだ。
そしてもうひとつの問題は、芸術創造の問題として、途方もない出来事である悲惨な戦争の記憶がそもそも表象可能かということである。特に第二次世界大戦のアウシュヴィッツや広島・長崎のような出来事は、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」 というアドルノの言葉に象徴されるように、それまでのように記憶を物語やシンボルで語ることはもはや困難になってしまった。なぜなら、物語る証言者自体が抹殺され存在しないという、まさに記憶の不在という事態に直面したからだ。そのような困難な立場のなかで記憶をどう表象できるのか考えることは、芸術することの根本的な懐疑につながりかねない問題を提示する。いかに鎖された記憶を表象するか、いわば言語化しえない封鎖された記憶の亡霊たちをいかに召喚させるか、ということを模索する必要がある。
この2つの記憶の表象をめぐる困難な点を念頭に置き、芸術がいかなる積極的なものを提示できるかを、これから2001年9月に正式に開館したベルリンのユダヤ博物館に焦点を当てつつ考えていく。
ユダヤ博物館は、「ユダヤ博物館部門を含むベルリン博物館の拡張計画」というプロジェクトのもと、1988年に国際コンペが行われた。そこで165案の中から1等に選ばれたのが、「脱構築派」といわれる建築家ダニエル・リベスキンドの案であった。
1992年に基礎工事が始まり1999年に竣工したこのユダヤ博物館は、東ベルリンのクロイツベルク地区にある。昔は裁判所であったバロック様式のベルリン博物館に隣接して建設された。
設計するにあたってリベスキンドは、3つの基本的な考えを明らかにしている。
第一に、ベルリンの歴史を理解するには、ベルリンのユダヤ人移住者による莫大な知的、経済的、文化的貢献への理解が不可欠であること。第二に、ホロコーストの意味をベルリンという都市の意識と記憶に物理的、精神的に結びつける必要があるということ。第三に、ベルリンにおけるユダヤ人の生命の抹消と空白を認め、受け入れることが、ベルリンとヨーロッパの歴史が人間的な未来を持つための唯一の方法であるということ、である。
ユダヤ博物館の基本構造は、リベスキンドが「線の間に」と命名しているように、2本の線の関係に基づいて設計されている。空間は、幾重にもジグザグに屈折していている線とジグザグの線を直進する線の2本の線で、構成されているのだ。つまり、ジグザグした建物のなかに直線の空間が埋め込まれる。このコンセプトは、思想や組織、社会という、関係性の見えない2本の線とみることもできるだろう。ユダヤ博物館の外見は、スリッド状の窓が刻まれた青味がかかった銀色の亜鉛板で覆われた、ジグザグ形の建物である。そして内部に空虚な空間が存在することになる。
このヴォイドは、ユダヤ文化が飾られた展示空間を切断していて、切断された展示空間はブリッジによって接続される。よってこの空虚な空間を、来館者は展示空間の途中横切るブリッジの壁にあけられた小さな窓からみることになる。窓から見える地下から4階までぽっかり空いた空間。この空間は、ほかの展示物と同様に展示物としてみることになる。それは、まさにベルリンにおけるユダヤの記憶の「不在」という展示物である。
リベスキンドは、何よりもこの建物は巨大なジグザグの建築本体を一直線に切り裂いているヴォイド〈空虚〉が重要である、という。無数のガス室へ消えていった犠牲者の記憶は、建物の中にぽっかりと空いた空間に不在として現前化された。失われた記憶そのものの残骸・痕跡の空間ともいえるこのヴォイドは、天井から差し込む光とともにこの建築物の中心をなしている。
建築においてこれまで 空虚(ヴォイド)を意識的に建物の中心に置いたのは、リベスキンドが初めてというわけではない。ピーター・アイゼンマンやジョン・ヘイダックなどによって、すでにヴォイドを取りこんだ建築は作られていた。多くの建築家が、機能から切り離された何もない空間を作っている。その意味でヴォイドをつくること自体は、特に特別なことではないといえる。しかしリベスキンドは、ヴォイドをいわば異化し、不可視なものを可視なものとして特定の歴史的な事物に関連させたということで、注目する必要があるだろう。
来館者はヴォイドにさらされることで、ベルリンにおけるユダヤの記憶の不在と痕跡の不在を体験する。リベスキンドは、不在を逆説的に体験させることで、具体的にはベルリンの、ドイツの歴史とドイツにおけるユダヤ人の歴史を表現しようとした、と捉えられる。記憶が意識されるのは、忘れてしまっていたある出来事を不意に思い出し、その記憶がよそよそしい他者として現れたときである。ユダヤ博物館が訪れた人々に身体的・感覚的に与える不安定なユダヤ博物館のヴォイドは、この永遠に失われた他者としての記憶を提示している。
しかしこのように、単にリベスキンドのユダヤ博物館の特筆すべき点は、ヴォイドによってユダヤの記憶の不在を不気味に現前化させた点であるというとき、どこかで違和感も持たざるを得ない。なぜなら、「不在は不在でしかない」と言い切ることで、その意味が問われなくなってしまう状況があるように思えるからかもしれない。ただペシミスティックな、あるいは開き直りのような姿勢で佇むしかない、と捉えられなくもない。しかしリベスキンドのヴォイドの空間は、そのようなものとは一線を画すものではないだろうか。というのも、リベスキンドは、ヴォイドという不在性を希望と関連させて考えているからだ。
そもそも私たちは、不在性なるものなどというと、否定的なものとして受けとめる傾向がある。リベスキンドは、不在性は純粋に否定的なものではない、と語っている。
リベスキンドは、不在性を何か抹消するだけのものとみなすのではなく、空間の複雑な関係性の中で捉えられるべきものだという。現前化させた不在性は、記憶の不在という記憶へと観察者をうながす。記憶は、常に現在、そして未来に関わるものであるように、不在性も、現在と未来に関わるものであるといえる。リベスキンドが説明しているように、不在性は、物質世界において出会うことが不可能であるように思えながら、確かに物質世界に属している、ある何かである。これは、不在性を記憶といいかえると、わかりやすくなるだろう。つまり、記憶はいつも在るということを示すのは難しいが、確かにあるのだ、という感覚。そしてリベスキンドは、建築空間において形而上的なコンセプトをまさにデザインに結実させたのだ。
具体的にみるとそれは、ヴォイドの空間が単なる闇の空間ではないということだ。ヴォイドには、ホロコースト・タワーでもそうであるように、天井に開けられたスリッドから差し込む光が存在する。ヴォイドの空間は絶対的な不在を示すが、しかし完全に無として鎖された記憶の空間ではない。静かに延びる光線は、不思議な安堵をもたらす。この光によって、記憶の不在の空間は、完全に鎖された空間ではなく、未来に続いていく空間を指し示すのだ。地下に降り立った時に目にする交差した光の線や、展示スペースのあちこちに設けられた窓の切れ目から差し込む光も、ホロコーストの生き残りである女性が語ったような、かすかな希望へと開かれた空間を作り出すのだ。この建築の空間に注ぐ光は、いわば未来への希望をもたらす。リベスキンドは、光について次のように語っている。
「建物の中を歩くということは、光の中を移動することなのである。この光は、不在の空洞スペースへと向かう博物館へ、そして博物館の隣接部分へと降り注ぐ、特異にして特別な光なのです。」
光そのものが希望をもたらすのではなく、ユダヤ博物館というきわめて特別な空間に光が注がれることで、希望が見出される。 そして、リベスキンドの建築が示す「希望」は、不在性を否定的に受けとめるのでもなく、楽観的に受けとめるものでもないように、絶望と対比されるような、確固とした楽観的な意味での希望ではない。プリーモ・レヴィが、「期待することと忘れないことは同義語でもなく、反対語でもなく,十分に一緒にやっていけるものだ」 という言葉をのこしている。この「期待」を「希望」と言いかえることで、ユダヤ博物館の「希望」もまた、そのような微妙な位置にあるものとして捉えられはしないだろうか。
「私は、世界的破局の後の歴史認識を反映するような、新たな時代のために従来とは異なる建築を創造しようと努めてきた。そして、遠のいてゆく距離の抹消の痕跡を乗り越え、生々しいと同時に想像上のものでもあるひとつの風景を超えて、ぼんやりとしていながら、同時に喜びを与えるようにまたたく光を超えて、記憶されうるものを伝える建築をつくろうと努めてきたのである。」
リベスキンドのこの言葉からは、あらゆる従来の建築を乗り越えたところで建築しようとする姿勢が見て取れる。対象化できないものを、様式としてではなく、いかに空間において表現するか。建築はこれまで、空間をコントロールしようとしてきた。信頼するフォルムを与えようとしてきた。しかしリベスキンドは、いま建築は空間をコントロールする期待から解放されて、新しい世界に対する理解に向かっている、という。過去と未来によって理解のされ方が違ってくるユダヤの記憶を、実存しないものに関係するもの、実存と非実存の両方に根ざすものとして表現する。建築を手がけるものにとって、建築はそれぞれの固有の時間をもつと捉えられる。それはユダヤ博物館の場合では、ホロコーストという出来事の時間、博物館が構想された時間、建設された時間、来館者によって経験される時間である。リベスキンドは、それらのあらゆる時間から解放され、建築がそのひとつの裂け目となって、特定されない時間そのものを開くことを目指すという。言い換えれば、ホロコーストの歴史という具体的なテーマから、建築の新たな位相を作り出そうとした。それは本人が言うように、ヴォイドという形而上的なものではなく、まさに体で感じるために開かれたマトリックスなのである。
「建築は想起(アナムネーシス)を行う。すなわち、想起への戦いを遂行する。この戦いはもちろん、建築にだけ特有のものではない。記憶喪失(アムネシア)は各世代に浸透しており、建築の責務は、記憶を開くということであり、それを隠蔽したり消去したりすることではない。どのようなイメージも、どのようなシンボルも、概念化することのできないものを表現することはできない。人類の焼却と抹殺は、素朴な記念物の類では具現化し得ない。むしろ、内部に掘り下げるような実体的現前を備えるような空間によって具現化されるのである。」
リベスキンドは、ユダヤ博物館を訪れた人々の個々それぞれに開かれた、終わりのない記憶の生成の無限プロセスを喚起する「希望」の場所を実現させたのだ。
4.表象の臨界
アウシュヴィッツや戦争の記憶がいかに表象可能か、その問いに簡単に結論を導き出すことはいまなおできない。しかし、いくつかの漠然とはしているが、積極的なものが見出せたという実感はある。表象不可能なものを表象不可能なものとして担いなおすことで、リベスキンドは、抹消されたユダヤの記憶を空虚という不在の空間として現前化させた。何もない空間は、建築した本人も含めて、戦争を体験したことのないという意味で「後」にきたものに、積極的に記憶/想起する場所を実現させた。
戦争の記憶は、人の死が関わっているがゆえに、複雑な状況をつくり出して来た。戦争のなかで目にしたあまりに苛酷で悲惨な記憶は、政治的・意図的に隠されたり、トラウマとなって忘れさられてしまったりする。またアウシュヴィッツの場合のように、そもそも人間性を奪われ抹殺されてしまったために、記憶そのものが完全に失われてしまったかのように考えられる場合もある。さらには皮肉にも、記憶が不在であるとみなされるがゆえに、あらたな記憶が後から書き加えられる、という悪循環さえあろう。しかし、そのような状況を見つめるとき、前提となっている記憶の不在そのものを問いなおす姿勢こそが求められるように感じた。それは、本当に不在でしかないのか。リベスキンドの試みを追ううちに、その問いははっきりとしてきた。確かに記憶の不在の記憶ともいうべきものを媒介にして、なおも見出されるものがあるのだ。このようないい方をすると、同語反復的な罠に陥ると批判されるかもしれない。しかし、リベスキンド、欠如したもののなかでなお探し求めたものは、無/何もないということだと、簡単に結論できるようなものではない。彼の営みは、「豊饒の沈黙」
ともいうべきなかで続けられるのだ。
現代において芸術表象を思考することは、常に表象の不可能性と対峙しつつそれを行われざるをえない。そして表象をその臨界で思考することは、新たな文化・芸術のパラダイムの構築が求められているといえる。
Schneider,Bernhard, Daniel Libeskind:Judisches
Museum Berlin.
Munchen-London-New York, Prestel Verlag,
1999.
Libeskind,Daniel, Jewish Museum Berlin. G+B
Arts International, 2000.
Libeskind,Daniel, The space of encounter.
New York, Universe, 2000
.特集「ダニエル・リベスキンド」鈴木圭介訳、『建築文化』彰国社、1995年12月号
対談「ダニエル・リベスキンド+ヴィットリオ・マニャーゴ・ランプニャーニ」北野恭弘訳、『a+u』1992年2月号
田中純「終わりの時代の建築家 ダニエル・リベスキンドの著名」『批評空間』福武書店、1993年、10
飯島洋一『終末的建築症候群』パルコ出版、1994年
『20世紀建築研究』20世紀建築研究編集委員会編、INAX出版、1998年
浅田彰 渡辺守章「表象とその臨界」渡辺守章他『表象文化研究 文化と芸術表象』放送大学教育振興会、2002年
磯崎新「連載インタビュー 記憶と建築 反モニュメントとしての建築 浅田彰+磯崎新」『批評空間』太田出版、1998年、第U期第19号
岩崎稔「シモニデス・サークル 1-5」『未来』
1998年、02,03,05,06,07月号
高橋哲哉『記憶のエチカ 戦争・哲学・アウシュヴィッツ』岩波書店、1994年
テオドール・w・アドルノ『文化批判と社会』渡辺祐邦他訳、ちくま学芸文庫、1996年