(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:野田容子 竹中健裕 佐々木芙美子 久保知都 犬童有希子 寺田葉子
表象という語についての共通する解釈をもち、その上で異なる領域の対象をめぐる「表象」というキーワードとの接点を見出すという試みを行ってきたが、それを通じて最終的に表象という語の定義をさらに厳密に吟味していくことを目指すのではなく(つまり、「表象」の中身を説明し、「表象」そのものを単独で明示するのではなく)、表象の在る(行われる)場における実例の提示という方向性をとることとなった。
対象とする事象の分析において用いられる語としての「表象」によって、「イメージの現前」とも言い換えられる現象を言い表す場合から分析の射程を広げ、また対象と、対象を取り巻く要素における力点の移動が可能となる。『表象のディスクール』において行われる表象分析に対する規定は、表象という語のもつ批判的な側面を重視するという規定をあらかじめ設けたうえで分析を行うというものであり、その性質は読解という行為との結びつきをもっている。
以上のように、文学テクスト、劇映画、世紀転換期における絵画、クィア文化、記憶の場としての建築という分野を通じて、章ごとにアクチュアルな問題とのかかわり、歴史や近代、そして社会状況に対する問題提起を行ってきた。それらを概観すると、「表象」ということばをめぐって、その多義性、関係性の重視という性質を再確認する場として、「表象」というテーマの設定が有効であったということができる。
それは言い換えれば、表象文化論という学問分野の実践をより身近にとらえる機会であったということもできるだろう。表象という言葉が意味するのは、文化事象に接する日常のひとコマと大きく関わるものでもあるが、ある作品なり出来事なりが、受容者に対して、そのひらかれた可能性をどのように活かしていくことができるか、という問いを投げかけ、ある変化へのきっかけをもたらすのではないだろうか。
表象をめぐる、対象とそれを表象する主体という位置関係が固定的なものではないという点については、その二者の間の距離感、言い換えれば表象する主体をも伴うという性質にも注目すべきである。自明のことではあるが、主語として、「わたし(たち)は表象する」という際の、表象する主体という存在がなければならない。
本稿で用いた方法としての「表象」が、その開かれた性質に対する制限や線引きとなるのではなく、あくまで表象という語のもつファジーさに依拠したものであることは否めない。なぜ表象なのか、という観点から引き出される問いとして、「表象という語の替わりとしての役割をもつ内容の言葉を提示すること自体が有効なのか?」という模索もまた必要であろう。