2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「表象」

担当:野田容子 竹中健裕 佐々木芙美子 久保知都 犬童有希子 寺田葉子

表象をめぐって 〜なぜ「表象」か?〜


W 「クィア文化」にみる「表象」                      犬童 有希子

1.「表象」とは何であるのか――

 序章で、表象文化研究の先駆けであり中心的動きの一つである『表象のディスクール』による「表象」の説明を紹介したが、ここで私自身の理解のためにも、「表象」とは何であるのか、そして「表象文化研究」とはどのような研究であるのか、もう一度考えてみたい。

 『表象文化研究 ’02』によると、ミシェル・フーコーの『性の歴史』の第1巻『知への意志』刊行の際の彼の言葉を例に、表象文化研究の基本的な態度とは「『視線をほんの少しずらすこと』で、それまで目に入っていながら見てはいなかった様々な事柄を、はっきり目に見えるようにすること」 「自然をわずかながらずらすことで、それまでとは違うように見えてくる『表象操作』」 であるとしている。また、『表象のディスクール』第1巻によると、「表象文化論」という学問分野の目指すところを簡単に要約した場合の一要点として、文化研究を「イメージ」の分析を中心に捉えようというものが挙げられるという。ここでいう「イメージ」とは、「絵画から映画・テレビ・CGまで包摂するもっとも拡張された意味合いにおける映像現象のこと」 であり、そこから「必然的に、『表象文化論』にとってのもっとも豊饒な主題フィールドとして、サブ・カルチャーないしポップ・カルチャーの咲き競う現代的なメディア空間が前景にせり出してくることになる。」

 では、「表象」とは何のことであるのか。『表象文化研究 ’02』によると、「表象」とは「『そこにはない或るもの』を『別の或るもの』で表す、つまり代行すること」 である。また、「表象」とは「あるものを前にして、わたしがそれを見、そこで覚えたある刺激を工夫を凝らして表に出すこと」という一連の過程でもあると考えられる。つまり、この「表象」という過程には、「わたし」の歴史的・文化的・心理的背景がいやおうなしに反映されているのである。

 上記のことを踏まえた上で、今回私は、多義的であり関係的であるとされる「表象」について、「クィア文化」「クィア」に好意的であり賛同する私の立場・視点を明示し、且つ「SはOを表象している」におけるS(主体)をできるだけ客観的に述べてゆくことにする。

2.「クィア文化」を構成するクィアたちの言動は、
          彼らが背負う歴史の「表象」である――

 ここからは、本稿の題名にあるように「クィア文化」に焦点をあて、上記の命題を導いた流れを説明してゆく。
 まず、【「クィア文化」を構成するクィアたちの言動】について詳しく見ていく。そのために最初にいくつかの言葉の定義を紹介しておく。

クィア: 

 90年代、レズビアン・ゲイの運動家や理論家を中心に、「レズビアン」・「ゲイ」という言葉と併用して「クィア」という言葉を採用するようになった。この言葉はもともと「おかま」・「変態」といった意味であり侮蔑的差別用語だが、「ストレート」と呼ばれる異性愛者からの差別の言葉を敢えて受けとめながら、自分達だけ分離したユートピアを作ろうとせずに対話や議論を進めるために用いられるようになったのだ。ここには、実際レズビアン・ゲイの運動が、分離主義的となり自らのアイデンティティを固定しかねない欠点や、同性愛嫌悪に反対する異性愛者との連帯などを困難にしたことへの反省も含まれている。「クィア」という概念は今や、同性愛者に限らずより広範囲に性的少数者を表現する言葉としても用いられ、当たり前とされてきた事象・定義への自発的・意識的疑問を持ちアイデンティティを固定しない姿勢や、もしくはこれまで否定されてきたアイデンティティやライフスタイルを積極的に引き受けて意識的に「ストレート」でない生き方を選択していく人やそのさまをも指すと考えられている。

性自認: 

 自分の身体を「女性」と認識するか「男性」と認識するかという各個人固有の性別認識。これは生物学的な性別に一致するとは限らず、この自己認識もほとんど生得的なものであり幼児期から自分の身体との違和感が生じると言われている。

性的指向: 

 性的な意識(恋愛やセックスをしたいと思う感情)がどんな人に向かうかというもの。これについて考える時、より可変性の高い趣味・嗜好に近い要素はもちろんのこと、同性に惹かれるか異性に惹かれるかという最も根底にある意識の部分に関しても極めて多様なあり方が存在する。例を挙げると、ある人は同性に惹かれる比率と異性に惹かれる比率が99%対1%だが、別のあるヒトは30%対70%である。惹かれる対象の性別もグラデーションであり、その人それぞれのその割合を自分の意志で変更したり選択したりすることは極めて困難であるという。この割合は簡略化して表しているものであり、また、他人が測量できるものでもない。従って、こうした内面の意識は「自己申告制」に基づくものである。

キャムプ: 

 多くのゲイに共通する精神。「言葉をそれが持つ意味から切り離し、入れ替えて、組み直して、飾ったり歪めたりして楽しむこと。」「まわりくどいやり方でその言葉の本質にたどりつく。」「フィリップ・コアに言わせれば、キャムプとは『真実を語る嘘』なのである。悲劇を喜劇で、同情を皮肉で、自己憐憫は高慢な自尊心で置き換えるキャムプの感覚は、貶められてきた同性愛者が自己の尊厳を保つために産み出した優れた武器であり、同性愛者が持つ特有の美意識。」

おかま:  

 「男らしく」ない男性を指すが、社会の中で軽蔑的に用いられる場面が多く、この語を不快に思う人も多い 。しかし、この語の持つイメージを知った上で敢えて積極的に用いる当事者もいる。

オネエ: 

 「女っぽさを過激に、そしてディフォルメして、自分の言葉遣いや仕草に取り入れているゲイのこと。、、、またオネエがよく使う、一種独特なイントネーションで話されるディフォルメされた女言葉を『オネエ言葉』と言う。」 このオネエについては、ゲイの間でも賛否両論に分かれ、好んで自身をそう名乗る者もいれば、そのオネエの特徴を嫌う者もいる。

ドラァグクィーン: 

 “drag”は「ずるずるひきずる」の意。日本におけるこの語の意味を明確に定めるのは難しい。ほとんどに共通することとしては、60年代、「ストレート」の男性が創りあげた、性的興奮を伴なう女らしいとされるフォルム(きらびやかな長いドレス・ストッキング・ガーター・フリル)とオプション行為(赤い口紅・青いシャドー・マニキュア・ブロンドの巻き毛)を基本とし具像化しようとする女装愛好者のこと。女性らしく装う単なる女装愛好者と異なるとすれば、俗にゲイテイストと言われるユーモアとウィットに富んだキャムプな自己表現のあり方だろう。


 クィアたちの言動を見ていくに際し、具体例をいくつか取り上げていく。

クィアな芸能人たち 

 まず一つ目の例として、芸能人のおすぎとピーコを見ていこう。おすぎは映画評論家、ピーコは服飾評論家であるが、彼らは2人ともテレビやラジオといったメディアで様々に活躍する有名な芸能人である。今回、彼らの特徴の中で注目したい点は、彼らがクィアであるということである。

 「クィアである」ということは、彼らの場合の男性同性愛者という性的少数者であるということだけでなく、広義での彼らの姿勢をも意味している。つまり、彼らは「型にはまらない独自の生き方に胸を張る姿勢」を保持しているということである。その姿勢は、主に二つの点からうかがうことができる。
 まず一点目に、彼らは「男らし」くない男性と言われるような言葉使いやしぐさを彼らの個性として、堂々と公のメディアにおいて行っているところだ。彼らは一般に「おかま言葉」「オネエ言葉」と言われる「男らし」くない女性のような言葉使いをし、しぐさも「女のような」しなやかな動きである。そしてさらに、彼らは自らの性自認や性的指向を隠すことなく自然に表現もしている。
 二点目には、辛口トークからも伝わってくる彼らのまさにキャムプな精神である。大多数がそうだと言っても、彼らは独りだろうと「そうかしら」と一歩ひいたところから物事を疑問視したり、皮肉を交えながら事実をすぱっと口にするところは、彼らが自らの在り方に信頼と自信を持っているさまを表している好い具体例であろう。
 彼らの他にも、我々のよく知るメディアのクィアな登場人に、美輪明宏やピーター、山吹トオル、藤井隆、美川憲一などがいる。彼らの性自認や性的指向がどうであれ、ここで重要なことであり上記の者全員に共通することは、上記で述べた「型にはまらない独自の生き方に胸を張る姿勢」である。彼らは皆、これまで「当然である」とみなされてきたジェンダーに縛られることなく、生物学的性が男性だからといって「男らし」く振舞おうとはしていないのだ。

ドラァグクィーンの存在

 上記の定義で説明した内容そのものが、ドラァグクィーンである者たちがクィアであることを示唆している。しかし、ここではさらに、以下の文章を紹介することでそのことを強調したい。
 「オネェ言葉が女の言葉ではないように、ドラァグは女の真似をすることではない。それは、ゲイにとって、ジェンダー・イメージを押し付けてくる社会に対して腐ったタマゴを投げつける行為であり、男と寝るという“最も男らしくない男”が、『男でないもの=女』の構図を借りて、日頃の重圧感を笑い飛ばすための表現でもある。」

 以上二つの例に共通して言えることは、性的少数者であるクィアは、今や「クィアである」と表現されるような「型にはまらない独自の生き方に胸を張る姿勢」を持っているということである。


 次に、【クィアの歴史】を見ていきたい。私の卒論においてはクィアの歴史に関して詳しく述べているが、ここでは簡単に触れるに留めておく。
 近代に焦点を絞って見た場合、1960年代後半から、性的少数者、特にレズビアンやゲイといった同性愛者たちの社会に対する運動が顕在化してゆく。1990年には「クィア理論」も誕生し、同性愛に限らず多様な性の在り方に関するセクシュアリティ研究も行われるようになった。しかしながら、我々が知るように、今もって性的少数者の社会的立場は異性愛者であるマジョリティの社会的立場に比べ低く、法的権利もないまま差別偏見の目にさらされている。

 そもそもこのような運動や学問研究の確立が行われてきた背景として、性的少数者の平等な社会認識・法的権利の獲得を目指す姿勢が無ければこのような運動も起こらなかっただろう。既成の性の在り様に当事者である性的少数者自身が囚われ、対象に自身を含めてのホモフォビアに苦しんだりしながらも、彼らは自らの在り方を「不自然」とせずありのままを受容し、社会にもそうあるよう望み活動を続けてきた。言うなれば、1960年代からの彼らの歴史は、社会における格差を改めて見つめ直し、彼らの押しやられている低位置を「抑圧」とみなして、その抑圧を取り除き「多様な性の在り方」を社会に認めさせるための「抑圧との闘い」である。

 以上、先に挙げた命題の前半部と後半部をそれぞれ分けて見てきたが、最終的に述べたいのは、前半部におけるクィアたちの「型にはまらない独自の生き方に胸を張る姿勢」が、これまで抑圧されてきた彼らによって社会に対して張り上げられる力強い声の歴史の中で培われ育ったものであるということなのである。
さらに付け加えて言えば、発想を逆にして考えてみると、ここでは、「型にはまらない独自の生き方に胸を張る姿勢」こそが「性の多様性」を叫ぶ声そのものを形成してきたものである、とも表現できるのだ。
 故に、ここで敢えて「表象」という言葉を用いるならば、〈「クィア文化」を構成するクィアたちの言動は、彼らが背負う歴史の「表象」である〉のであり、また逆に、〈「クィア文化」を構成するクィアたちが背負う歴史は、彼らの言動の「表象」である〉のである。

3.終わりに――

 「表象」という語は多義的であり、関係的である。その「多義的」という言葉に都合好くのっかって、今回は私なりのとりあえずの「表象」を考えてみた。そして、その「関係性」においては、私自身の視点であり価値観念がこの命題にいやおうなしに関わっていることからも示されるのだろう。


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