(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:野田容子 竹中健裕 佐々木芙美子 久保知都 犬童有希子 寺田葉子
「表象」という言葉は私にとって大変に多義的で、曖昧模糊としており、捉えどころが無い。これが表象である―というはっきりとした定義をここで提示することは私にはできない。したがってここでは、「表象」ということばで表されるものをある一人の画家の作品を通して考えてみたいとおもう。ここで扱われるのは,19世紀転換期ウィーンの画家,グスタフ・クリムトである。この画家によって描かれた絵画は何を「表象」しているのか,という視点を持って「表象」とは何か,という問いに対する答えを探してみたい。
グスタフ・クリムトは「世紀転換期ウィーン」と切り離して考えることのできない画家である。世紀転換期のウィーンでは,文化的にも,政治的にもさまざまな「価値観の転換」が行われた。その「転換」を推し進めたのが,「モデルネ」の精神である。グスタフ・クリムトもまた,世紀転換期ウィーンに生きた芸術家としてこの「モデルネ精神」をもった新しい文化の担い手であった。それに加えて,クリムトの芸術を語るときに欠かせない言葉は「エロティシズム」である。クリムトの作品の多くは女性を主題とするものであり、またその女性たちのおおくは「性的なもの」を前面に押し出して描かれている。
その背景として考えられるのは、19世紀末ウィーンの市民における,「性的なことに関する価値観」とその「二重的な性質」が挙げられる。19世紀ウィーンで社会的、経済的に大きな位置をしめていた裕福な市民階級の人びとのあいだでは、「性的なこと」にかんして多くのタブーが存在していた。人びとは、公然と性に関して話すことを不道徳だとした。婚前の男女の肉体関係はもちろんのこと、女性が性的なことに関する知識をもつこと、果ては性欲をもつことさえもが非道徳的なことだとされていた。男女とも、夫や妻以外の異性と性的交渉を持つことはとんでもない悪だとされていた。裕福な家庭であればあるほど、女性は性的な存在として自己を表現することから遠ざけられるようなはからいがなされた。例えば、その当時の上流な市民階級の女性達が身につけていた衣装は、足元までも覆い隠すものであった。未婚の女性は男性と同じ部屋に二人きりになるのさえ禁じられていた。そういった状況が一方でしかし、他方では男性が娼婦を買うのは完全に黙認されているといった状況も同時に存在していた。多くの娼婦達は貧しい労働者階級の女性であった。結婚しているか否かに関わらず、非常に多くの男性がこうした、街角のいたるところに溢れていた女たちと性的な関わりをもっていたのである。世紀転換期のウィーンはこのように、二つの顕著に矛盾する状態を抱えていた時代であった。それは、人びとの欲望が抑圧されていた時代であった。
クリムトはまさにこういった世紀転換期に生きた画家であった。クリムトの作品の中心をなすのが「エロティシズム」であるというのもひとつにはこうした背景が大きく影響していることは疑いようがない。
1897年ウィーンにおいて「分離派」という「新しい時代の」美術同盟が創立された。分離派が目指したのは,芸術をそれまでのような商業主義から開放し,「芸術の為の芸術」という意識を持って他のヨーロッパ諸国との芸術的なつながりをより活発にする,ということであった。そんな分離派の初代総統に選ばれたのがクリムトだったのである。しかし、クリムトは常にこのように「革新的」であり続けたわけではなかった。そして,常に「エロティシズム」というテーマにとらわれ続けていたわけでもなかったのである。クリムトの画家としての人生は、次のように大まかに3段階に区分付けて考えることができる。
最初は自由主義の高級文化への参与者となり、次には「近代的なもの」を求めてこれに反逆し、最後には純粋に装飾的な仕事に引き籠って、クリムトはその絵画の様式および思想の上で、後期ハプスブルク社会の緊張の最中における芸術のうつろいゆく性質とを記録に留めたのである。
クリムトが「エロティシズム」を前面に出しての自己探究、及び社会への訴えかけ、というメッセージ性の強い作品を描いていたのは、その画家人生における「中間期」においてのみであった。クリムトの、「自由主義の高級文化への参与者」から「反逆者」への変革を決定付けたのが、分離派創立だったのである。そしてこの分離派が創立されてから8年後,クリムトが分離派を脱退してその画家人生の最後の段階に入っていくまでの間,クリムトは「抑圧された本能」であるエロティシズムを開放するために絵を描いたのである。
クリムトの絵画におけるエロティシズムは、装飾という媒介を通して表現されるのであるが,その装飾の最も効果的な手段の一つが、クリムトを始めとする多くの世紀末の芸術家達によって「物神化され、蘇らされて独自の生のフォルムとなった」髪であった。クリムトや、他の分離派メンバーの芸術家たちにとっての髪は、「自然な」装飾であった。彼らの文化圏において髪は,古くからの神話や伝承や詩歌 に裏づけされたことから、アンビヴァレンス(双価性)の概念を観念的な方法で具象化していたのである。髪の美しさはエロテイックな魅力を持っている。髪はさまざまなことを象徴し、その量や色、質などによってそれぞれことなった意味を持つ。髪はその描かれ方によって不吉なものを意味することもあれば、生命や青春、などの幸運の象徴であることもある。分離派の活動に常に共感を寄せていた批評家、ルードヴィッヒ・ヘヴェジはこれらの「極度に様式化された芸術意欲」を次のように描き出している。
...それから最後にクリムトの描く髪。この変幻自在の要素、装飾的原理そのもの。紡ぐことも、たくしあげることも、うねらすことも、結ぶこともでき、無限な仕方で扱うことのできる原素材。ぴかっと光る稲妻やぺろぺろ舌を出す蛇になるかと思うと...これらの単純な画面上に、クリムトのあらゆる芸術的想像物の自然な萌芽が生々しい生の絶対命令に従って速描されている。
クリムトの作品においてもう一つの重要なシンボルとして「蛇」が挙げられる。蛇は、古くから「曖昧なもの」を象徴するシンボルとして考えられてきた。蛇は、水陸両棲の生き物であり、男女両性の連想を抱かせる。そしてその形は、男根のシンボルである。蛇は、「血と海との、男と女との、生と死との、」境界を解消してしまう。蛇は、まさにアンビヴァレントな存在である。蛇の持つこういったイメージのため、一方では蛇が「エロスの解放者の表現」として用いられ、他方では「性的不能に対する男性の恐怖」を表すのに登場する。 蛇はそのアンビヴァレントさゆえに、クリムトの絵画においても自我の解消に関わりのある場面には全て登場している。
1907年の作品、「水蛇U」ではまさにこれら二つの要素が「エロティシズム」を表現するための「装飾」としてふんだんに用いられているように思われる。絵の中に描かれているのは女でありながら、水中で蛇のように泳いでおり、本節の最初で述べた「動物的=海藻的な原生動物、植物と魚類とセイレンとのあいだの中間段階としての」女である。彼女達は、絵を見るものに誘惑的な視線を投げかけてくる。そして本能のままに官能の世界に入りきっている。彼女たちの髪は「純潔・神聖・無垢」を象徴するブロンド色 であるにも関わらず、その顔は恍惚としていて、性的であるとしか言いようがない。髪とそこにちりばめられている無数の花や藻と一体化している彼女たちは、たしかに「動物的」である。男を誘惑し混乱させるエロティシズムそのものとしての女性を象徴している様に思われる。
...クリムトの深海の遊び娘たちは、性的満足の半ば眠たげな境地にあって、粘々としたその棲家と完全に一つになっている。彼女らは紛れもなく水蛇であって、細紐を強くより合わせたような頭髪は、肉体の柔らかさ、手の繊細さと不気味な対照を呈している。
『水蛇U』はクリムトのテーマが特にエロティシズムに重きを置いていた時期のものである。装飾に満ち溢れたこの絵のなかでクリムトは、自由主義社会の道徳主義によって抑圧されていたリビドーを解放し、そして解放したあとから生まれてきた性の恐怖を描いている。「蛇」という動物の与えるある種の「不気味さ」からも想像できるように、クリムトは自己をエロティックなものに解放することに成功をしたものの、いざ解放されてみると、「女」という存在の曖昧模糊でつかみどころのなさに恐怖を感じていたのかもしれない。ここに表現されている「性への恐怖」は、本能の解放という欲求が実現した結果新たに表面化してきた問題であり、「男性」と「女性」の二性間の相違から発生する不安感である。つまり、男性から見れば、惹かれる存在であり、本能に強く訴えてくる女性がもつ「未知の領域」に対する不安感である。女性は、男性自身の中にある抑えられない衝動(=本能)の対象であり、従来男性の欲望の「受動者」であると、されてきていた。ところが「欲望の能動者」であるはずの男性は、時おりその欲望そのものが女性の官能性によって操られているのではないか、という不安感を覚えるようになる。自分でもコントロールできない「未知の衝動」の鍵をにぎっているのは、決して自分自身ではない、と気付いた時に、男性は恐怖を覚えるのだ。そこには、「未知の領域」が広がっており、一歩その領域に足を踏み入れてしまうと、男性はもはや「受動的な支配者」ではなくなってしまう。クリムトの絵に登場する「誘惑する女たち」には、男性が抱くような「未知への恐怖感」は感じられない。自己の欲望に忠実であり、そこに躊躇や戸惑いの感情は一切認められない。例えば、『水蛇T』(1904年)で抱き合う二人の女たちは、まさに自分から進んで欲望の流れに身をまかせているように見える。女たちの髪は、あたかもまるで欲望に対して能動的な女の側面を象徴するかのように、水の中で豊かに波打って互いに絡み合っている。ここでも、女たちは、『水蛇U』においてと同じように、男を「未知の領域」に誘惑する。クリムトは、女が本能的な衝動の世界に足を踏み入れることに躊躇しないばかりか、むしろ自らの官能性を利用してそこに男を惹きこもうとする、「魅惑的」で「不可解」な存在だということに気がついたのである。
クリムトの芸術作品が、時代を経ても今なお多くの人々を魅了し続けるのは、ただ美しいだけではなく、その美しさの背景にあるメッセージ性の力があるからに違いない。エロティシズムが人々の心を捉えるのは、そこには必ず「未知の領域」が存在するからである。そしてその「未知の領域」を誰もが意識しながら過ごしている。クリムトの描く官能的な女性が魅力的なのは、彼女たちによって、私たちが恐ろしくも感じ、また興味も抱かざるを得ない「未知の領域」が表現されているからではないだろうか。
エロティシズムの画家クリムトは、世紀末ウィーンの市民社会において抑圧され、ひた隠しにされて いたリビドーの解放者であった。クリムトのエロティシズムはクリムトの自我と常に深く結びついている。クリムトのエロティシズムは、その自我が向き合っている問題を表現する。クリムトは、その時代において求められていた「装飾」という「道具」を用いて、公の場に性を解放することに成功したのである。そして、その目的が果たされた時にクリムトは、自分が解放してしまったものに対しての「恐怖感」を抱いたのだ。その恐怖感は、クリムトの画家人生における中間期から最終期への過渡期にあたる作品の中に最も顕著に表現されている。クリムトの絵画における「エロティシズム」は,まさにウィーン19世紀から20世紀への「過渡期の不安な心理」を表象している。