(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:野田容子 竹中健裕 佐々木芙美子 久保知都 犬童有希子 寺田葉子
本稿では、アレクサンダー・クルーゲという作家による表現とその受容をめぐる概念設定をふまえて、国家や歴史に対峙する個人というテーマをもつ作品を考察する。60年代から西ドイツ映画界の復興に尽力し、現在もテレビ番組の制作を行っており、メディアを通じた発言が注目されているこの作家の辿った経歴は、映画という領域に限られず、作品を媒介とした作家と受容者との関係性について考察するうえで興味深い側面をもっている。当論文では、クルーゲの映画作品とそれに関連する小説作品を扱い、彼の映画理論の主な特徴を挙げ、それらが作品に表れる要素を確認しながら作品を読解するという作業をつうじて、その受容者を射程に含めた場としての映画を考察の対象とする。
そこで、まずクルーゲによる映画作品と、テレビという媒体での活動を包括的に紹介し、その表現手段を分析した著作である“Last Modernist”(Lutze)における議論に沿って、作家の輪郭を描く。それをふまえた上で、小説『履歴』と映画『昨日からの別れ』の二作品におけるテーマの表現について、いくつかの指摘を行う。
小説『履歴』は短編集の形をとり、1962年に発表された 。これはクルーゲが小説家として認知された最初の小説である。そしてこの短編集からの一編が1966年に初の長編映画として発表される 。『昨日からの別れ』は、ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を受賞したことにより、新しいドイツ映画を国際的に印象付けたという意義をもつ作品でもある。
モダニストという立場に立脚した創作活動を行い、大衆的な娯楽作品とは距離をとるクルーゲの作品はおしなべて難解であると評される。映画作家とその受容者との間の関係性について、クルーゲは作者の優位性を否定し、視聴者の置かれる中心的役割を強調する。作家によって手が加えられるのは作品の領域に限られるのではなく、映画を鑑賞するという行為のうちに視聴者の経験が入り込むという事実に基き、そうした経験との相互関係において映画が成り立つという認識は、視聴者の経験をその創作の対象として組み入れることにつながり、視聴者に対し、通例とは異なる負担を与える。クルーゲの映画作品における表現という観点からの特徴的な部分は、@)モダニズムとの関連、A)物語の構成、B)作品に用いられる技法 、の三つに分けられる。
@.モダニズムとの関連性
@モダニティ(後期資本主義社会)と、モダン・アートとの強い関係性の認識
クルーゲにとって、文化的加工品はその歴史的コンテクストの生産物であり、芸術家は同時代の社会構造とその見せかけを批判する義務があると考えられている 。
A否定的かつ批判的であるという態度の共有
ここで態度という場合、作品における特定の形式、スタイルへの親縁性を含んでいる。それは、不条理主義劇や反戦というテーマの選択にみられるような、作品の内容に関わる側面とならんで、形式という側面においても、断片化、閉鎖性の欠如、非調和といったかたちで現れる。映画という領域では、例としてモンタージュなどの編集技法においてその特徴が認められる。
B「新しさ」に関わる方法
モダニズムは反伝統主義を掲げるが、「新しい」ものに対しては全面的に肯定の立場を採らず、その価値をつねに相対化する。数世紀前であろうと、数週間前であろうと、時間的に古いものは伝統とみなされ、革新という目的のために退けられる。現代社会全般に言えるように、「新しさ」は、それを享受する側に「完全に異なる何か」への期待と、同時に、同じまま(古いまま)でいることの恐れをもたらす。クルーゲはモダニズムのもつ反伝統主義を利用し、また引用し作り直すという立場をとる。
C大衆文化と高級文化の区別、「同時代」というモダニズムとの間の線引き
大衆文化は、その同時代性においてモダニズムと名付けることもできるが、その多くが中央集権的な生産機構への依存によってその自律を奪われているという点において、芸術の自律を目指すモダニズムと区別される。そのため、モダニズムによって要求される受容者とは、知的階級の高級文化の立場にあり、そして能動的で、洗練された観客であるということになる。「同時代」の大衆文化は、その生産過程を統制されているのであり、それが現実逃避的な内容を伴うとしても、現にある日常という恐怖に対する代用品としての機能を果たす。日常において起こる現実逃避の欲求には配慮をし、クルーゲは、ハリウッド式の映画のあり方に対しては批判的である。
モダニズムがもっていた反伝統という姿勢を踏襲することは、クルーゲにとっては、「新しさ」を追求し続けることに意義を見出すということにはならない。それはあくまで過去と現在を突き合せるという目的のために有効なのである。ここでの伝統とは映画製作の環境や表現方法、物語の形式における「因習」であり、また歴史的な過去への郷愁や幻想をはじめとした伝統的価値観であるともいえるだろう。クルーゲの作品においては、表現者と受容者の間の、映画という媒体を介した知覚や想像力の相互作用が想定されている。常に完結しない場としての作品という概念は、作品に向かい合う受容者に対して示唆に富むメッセージを発しているといえよう。
A.物語の構成
クルーゲの映画作品においては、時間と空間の連続によって統合された明快な線状の物語ではなく、挿話を用いることによる物語の中断というスタイルが採られている。映画のストーリー自体やその登場人物は、そこから引き出される着想や感情、経験ほどには重要ではない。そして物語は情報として伝達されるのではなく、受容者の経験に接近していくことを重視する。
こうした性質は寓話においてみられるが、古典的な寓話に似ず、クルーゲの撮る物語は明白な教訓を含まない。このギャップを視聴者自らが埋めなければならず、それによって自ら結論を出さねばならない。物語の主人公は一般の人々であり日常の出来事であるが、その人物が視聴者に与えるリアリティは、語りの技法によって難解なものになる。物語はしばしば断片的で、省略された簡潔なものであり、その多くは演じられるのではなく、伝えられる。
クルーゲの行う、「語り」という側面に対するアプローチは、多くの商業映画の実践に影響され、また対抗するものとして考えられる。古典的ハリウッド映画において表現される心的リアリズム、首尾一貫した物語世界への拒絶は彼の行う反抗のごく一部である。おそらくより重要なのは、クルーゲによって映画における語りの求心性と結合力が疑問視され、語り自体が前面に出て問題化される方法である。
それはストーリー自体の破棄につながるのではなく、また完全に商業映画の領域から退却するのでもない。商業映画が行う、構築された本質を隠蔽するような幻想的な語りに対しては根本的な不信を抱きながらもあえて物語を語ることは、商業映画の縁に留まることも意味する。
つまり、中断や閉鎖性の欠如そして再帰的であることは、語りにおける幻想を問題化するための主要な戦略となる。クルーゲによって、ストーリーは他の思考(主題、形式に関する)の下位に位置づけられる。
B.物語の外からの注釈
古典的な語りの構造に対する批判と、そこからの逸脱に加え、クルーゲがそうした古典的な語りの「技法」を出発点としているという点においても、モダニストとしての映画の実践がみられる。中間字幕(intertitle)や画面外のナレーションによる作品世界の外からの注釈は、もっとも顕著なかたちで用いられる技法である。それらは映画における主要な技法ではないが、クルーゲの作品においては、解釈や説明のための重要な要素となっている。
クルーゲの初期の作品では、物語中のエピソードに対して、いくつかの種類の外部からの注釈が行われており、それは中間字幕という、聴覚的ではなくむしろ視覚的なかたちをとる。(文学作品における章のタイトルに類似した機能を果たすと考えられる。また、そうした中間字幕の使用は無声映画の影響によるものでもある。)中間字幕という区切りによって、しばしば不明瞭ではあれ、次に続く出来事についての情報が与えられる。もしくはその区切りを機に、ある段階までの抽象化が行われ、続いて起こる事件が解釈される。暗に作者の主観性によって生み出されるそのような字幕は、見たところではそれが全知の存在であるかのように機能するという点において、具体的かつ客観的な性質を帯びる。
ナレーションは通常、登場人物の記憶や視点といった物語世界の内部と関連して使用され、異なる時間や場所を繋ぎ、観客を特定の登場人物に同化させる効果をもつ。ナレーターは、物語に関する情報や、未決の物語を進行するための限定的な知識を与えるという特権的な立場にあると視聴者に認識させることが可能である。
クルーゲの作品におけるナレーションの使用は、注釈という言語的要素を際立たせることによって、視覚的要素の優位性を転倒する。つまり、見せることよりも、伝えることを先行させるのである。声によって伝えられる物語は、最も古い語りの技法であるが、それが映画という媒体で用いられるという点において、伝統への意識というモダニズム的側面が見てとれる。
こうした実践によって、映画が、エッセイや暗示、引用や結合のための弾力的な場となる可能性が模索されているといえる。中間字幕や、ナレーションを用いた素材の挿入といったこれらの方法は、映画の断片化と複雑化を促すことによって、語りのプロセスを前提とし、芸術作品に作家自身を徴付けるというモダニスト的な効果に寄与する。
@.『履歴』
映画『昨日からの別れ』の原作として位置づけられる短編「Anita.G」は、短編集『履歴』に収録された一編である。1962年に『履歴』初版が刊行された時点では「Anita.G」をふくむ全9編が収録されていた。1974年の改訂版では、そこに8編が加えられ、短編の題と内容の変更も行われた。また、この短編集は1985年11月22日にハインリヒ・フォン・クライスト賞を受賞した作品である。
『履歴』初版の序文では、「この著作における物語は、様々な側面から伝統に対する問いをたてるものである。人の経歴はでっちあげであることも、そうでないこともあるが、それらはともに痛ましい(traurig)歴史を明示する
」と述べられている。また、「登場人物はそれぞれが歴史との関係のもとに描かれ、かれらは物語中における現在の状況にとどまらず、前史に対しても関係づけられる
」。
『履歴』においては様々な人物の辿った運命が1930年代から1950年代を主な時代背景にして提示されている。主題として扱われる「第二次世界大戦を経過していく社会」に対する視点と、それを表現する方法において、伝統と呼ばれる要素を保ち続けながらもそれを全面的に肯定しないという、固定しているようで完結しないスタンスに意義があるとすれば、受容者の側に、伝統を前にして同様の身振りを実践することの要求、また登場人物の履歴、物語そして前史も含めた歴史を、一貫した線的な、いかがわしさの無い形で提供するのではなく、逆に断片的な記録の集合体として絡めあわせることを表現において模索しているという点にあるといえよう。
『履歴』のうちの一編「Anita.G」の冒頭では、主人公のAnitaの幼少時の記憶が、簡潔な描写で短く言及される。その時の恐怖から、彼女が東ドイツから西側地域へ逃亡し、窃盗事件を起こして保護観察下に置かれる場面から物語が始まる。逃亡の果てに刑務所で悲劇的な末路をむかえるまでの顛末が、第三者の筆致で描かれる。描写のなかで特徴的なのは、彼女の逃亡の状況のみに焦点が当てられているという点である。小説では、その逃亡の動機として、単に「恐ろしくなった」としか述べられていない。
逃亡の背景や、Anita自身の意図や計画的な物事への対処といった物語の展開はみられない。一時的な停止はあっても常に動き続けるなかで、彼女は様々な人物との出会いを経ていくが、彼女が直面する現実、例えば自分の身元の潔白でないこと(保護観察から逃亡中であること)を隠して一般市民のふりをしても怪しまれ、自力で弁護士を探して接触を図り失敗するという出来事によって彼女は孤立感を深めていく。
物語の冒頭以降、時間の記述が見られないことから、彼女の逃亡が、およそどの位の期間にわたっていたのかすらも読者に分からない。逃亡の間に、一時的な目的地とした土地の名前は明示されるが、そのほかに、読者に対して与えられる情報はごく僅かである。逃亡者がそれらの土地を転々と移動する、という事実のみが重要であるかのようである。Anitaが最終的に落ち着くのは、出産のための安静にできる場所として選んだ刑務所の医療施設である。そこで彼女の旅は終わるかにみえるが、物語の結末は、彼女の出産後に起こる神経衰弱にともなう子供との離別と、大学病院への移送で締めくくられる。
A 『昨日からの別れ』
この作品は『履歴』の一編「Anita.G」をもとにした映画であり、主人公Anitaをはじめとした登場人物や、いくつかの物語のエピソードは小説と重複している。小説と共通するエピソードが、映画では会話という形をとって語られるため、情報として小説に盛り込まれていない登場人物の名前や、Anita自身の出自が明らかにされる場面がある。Anitaが窃盗の容疑で逮捕された後の、法廷での審理という場面は、小説では描かれないが、映画では彼女の犯した犯罪にまつわるエピソードとみなすことができる。映画の冒頭に映し出される字幕では「断絶によってではなく、状況の変化によって、われわれは昨日に別れを告げる」という一文が引用される。作品内でこの文の出典は明らかにされないが、冒頭のこの一文によって映画のテーマが告知されていることを印象づけるという効果をもつ。
『昨日からの別れ』をはじめとする、クルーゲの初期の映画においては、「挿話的で循環的な」物語の構造が特徴として挙げられ、またそれらの物語においては「探求」という要素が主要なテーマとなっている。また、主人公の探求する目標は不明瞭であり、そのうえ分節化できないという性質をもつとされる
。そうした目標は、『昨日からの別れ』において、法廷のシーンでAnitaが行う陳述に表れているように、「よりよい機会を手に入れる」ことや、「過去からの逃避」といった具体性のないものである。
実現のための具体的な方策を実行するのではなく、ただ探求をやめない主人公というAnitaの人物像が形成されるための要素として、上のような探求の目標がもつ性質の曖昧さが挙げられる。また、ストーリーの内容に関わらない要素として、短いシーンの継ぎ合わせと字幕での簡潔な説明(「ある日Anitaは解雇された」「彼女は新しい人生を歩み始めることにした」等)による場面の性急な切り替わりという、作者による時間的な操作が影響しているとも思われる。編集という作業によってクルーゲが意図する効果は、ハリウッド映画において行われる直線的な物語の構築に反して、因果的な連鎖を可能な限り除去することにあるとされる。
短編小説「Anita.G」において、西側社会との接触を試み、それを不合理な形で破局に追い込み、悲壮感の漂う結末へと翻弄されていく主人公は、その存在が社会への適応に失敗した人物像として、曖昧でありながらも完結しているようにイメージされる。そのイメージは恐怖、不安、依存という要素のネガティブな面を強調しており、他方、映画『昨日からの別れ』が提示する主人公の像は、同様の体験を通じて、何の進歩ももたらさない繰り返しに埋没し、それを日常として肯定しているかのような印象を与える。
[1]Kluge,Alexander,Case Histories.New York,Holmes&Meier
Publishers Inc.,1991.
[2]_,Abschied von gestern Protokoll.Frankfurt/Main,Verlag
FilmkritikGmbH,
[3]Lewandowski,Reiner,Alexander Kluge.Munchen,Verlag
C.H.Beck,1980.
[4]_,Die Filme von Alexander Kluge.Hildesheim,Georg
Olms,1980.
[5]Elsaesser,Thomas,Der Neue Deutsche Film.Heyne
Filmbibliothek,1989.
[6]Lutze,Peter C,Alexander Kluge:The Last
Modernist.Detroit,Wayne State University
Press,1998.
[7]Pflaum/Prinzer『ニュー・ジャーマン・シネマ』(岩淵達治訳)東京:未来社、1990年.
[8]瀬川裕司・松山文子・奥村賢編『ドイツ・ニューシネマを読む』東京:フィルムアート社、1992年.