(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗
ベルリンの壁が構築されてからそれが壊され再統一を迎えるにあたってドイツ国民の生活状況はどのようなものであり、またどのような変化を遂げてきたのであろうか。そのことをベルリンの壁があった頃東ベルリンに生活していたあるキリスト者女性の証言をもとに考察していきたい。キリスト者女性の証言を考察の材料とするにあたり不可欠なことはまず、当時の教会が人々に対してどのような存在であったか、つまり教会の果たしてきた社会的機能を明確にすることであろう。それが無ければ人々の生活を見ていくにあたって何故教会という観点を定めたのかが分からなくなってしまうからだ。ベルリンの壁は1961年8月13日に構築されたものであり、それを境に人々の生活が急変したのは事実であるが、やはり壁ができる以前の状況を全く考えないで教会の機能を見出すのは困難であるため、壁ができる以前の様子も見て見たい。
第二次世界大戦直後のベルリンの様子はひどいものであった。1945年から1946年にかけての冬は当時の人々にとって大変寒さの厳しいものであって多くのものが飢餓と寒さで命を失った。戦争により男性の姿があまり見られなくなると女性たちはさまざまな領域で先頭にたつことを強いられ生き抜くためにさまざまな想像力を発揮した。教育事情は非常に悪く女性教師の大部分はきちんとした教育力を持ち合わせておらず、教科書も教室も不足していた。
そういった中で各教会は戦争直後から若者たちを教会堂に集め歌ったり工作をしたり聖書の物語を語り聞かせるという活動を行っていた。後に子供の聖歌隊が誕生するといった具合に教会は良い教育と交流の場を提供しその評判も良かったのである。1951年までは学校でも宗教教育がなされてはいたものの、次第にそれが困難となり教会の手に委ねられることとなる。それに対しドイツ民主共和国は教会を通じて西側の世界の影響が強く及ぶのではないかと恐れ、生徒たちはキリスト者としてよりも社会主義的に、共産主義的に教育されるべきであるとの立場をとる。1968年に至るまで全ドイツ全ての福音主義教会は、ドイツ福音主義協会として統合されていたのである。
1951年以降教会に集まるキリスト者若者の群れに対する国家の弾圧が行なわれ、そういった若者の群れが企てたいくつもの集会が禁止されるようになる。国家は若者に対し共産主義的・無神論的理想に生きることを求めた。そういった中ドイツ民主主義共和国とドイツ連邦共和国の経済的・政治的格差はどんどん顕著になり、多くの若者たちは東独の政治的弾圧に絶えかね西側へと移った。この傾向が1950年終わりにはさらにひどくなりドイツ民主共和国政府が対抗措置としてベルリンに壁を構築するに至ったのである。
1961年8月13日以降ベルリン市民の生活は急変した。家族友人たちが切り離され、電話連絡も途切れた。さらに西ベルリンで働いていた多くのものが職を失い、中学生も大学生も西ベルリンに通うことが不可能となった。東ベルリン、もしくはドイツ民主共和国の人々の生活は全ての生活物資が割り当てられて生活することとなる。例えば車を手に入れるには長期間の節約・貯金生活と車入手の願いを届け出ることが求められた。しかしそれらよりも最も苦しみの種となっていたのは西側諸国にも、西ドイツにも西ベルリンにも旅することができないことであった。
ドイツ民主共和国の住宅事情は家賃こそ補助金が支給されやすかったものの決して良いといえるものではなく、まず特権ある人々が安価な住宅を手に入れるという仕組みで、狭い部屋に何人も風呂・トイレなどの設備が不十分なまま押し込まれたものであった。食糧事情に関してはパン・ミルク・ジャガイモ・米・麺類といった基本的な食物は安かったが、コーヒー・紅茶・チョコレートといった贅沢品は非常に高価であった。
このように全ては国家の統制のもとにあり大切なことを論じようとするものは盗聴の心配があるため路上に出たり、電話での会話を暗号化したりしていた。自分の身を危険にさらしたくない為、大人しく選挙に行ったり、若者の犯罪がほとんど無かったりと人々の生気は衰えてしまったかのような社会であった。
こういった社会において教会の果たした役割は次のようである。1951年から1952年頃を境に人々に人気のあった教会は政府の圧迫を受け始め、経済的にも困難な状況下にあった。そうした中で教会は概して国家に対抗する者たちの集まる場であり、国家を大いに不安な思いにさせる場であると位置付けられていた。また前述の通り1968年までドイツの福音主義教会は統合されたものであったがやがてドイツ民主共和国の教会において独自の決定権を持った集合体であるべきだとされ始め、分離し1970年代後半には国家と教会の公式な関係が結ばれ、話し合いができるまでになった。
国家と教会が話し合いの場を持つようになったといっても1970年頃の現実は両者の大きな距離があり、流血事件が何件も起こるといった悲劇を見た。1985年ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に選ばれ、国際的な緊張緩和が進み始める。それに乗じ、諸教会は平和活動への動きを活発にし、デモ行進を始める。反政府グループの者たちにとって活動できる場所を唯一与えることができたのが教会であった。教会は多くの反政府主義者たちの代弁者として機能していたのである。平和活動に加え出国を求める人々もデモに参加しその勢力はますます拡大されていった。国家の側からすると教会は大いにけむたい存在となり、警察隊、国家保安警察や戦闘隊を動員して手短に事態を収拾させようとしていた。多くのものが逮捕、拘置、厳罰に処され流血事件になることもしばしばであった。
1989年11月4日ベルリンで50万人の人々がデモ行進を行った。これは政府が許可した最初のデモ行進であり、ドイツ民主共和国国家の終焉が視野に入ってきたことを示す。またこの後ベルリンの壁が壊される前後からますます市民権運動が強まった。1990年1月15日象徴的な出来事としてかつてのドイツ民主共和国の権力の中枢であった国家保安警察の本部が襲撃された。こうした流れに沿って通貨統合、教会の再統一も実現された。
それでは教会を拠点にし、反政府の立場から戦った市民権運動は何を望んでいたのであろうか、それは次のことといえるであろう。ドイツ民主共和国の民主化、再統一化・自由に旅行できる権利・自由に教育を受ける権利・住む場所の選択権・自由に意見を言い、また誰からも監視されない権利・東も西も同じ市民権を享受する権利。
こうしてベルリンの壁が壊されるに至ったが、この市民革命の評価はどれほどのものであったか。壁が取り壊されてからの状況をもとに見てみたい。
ベルリンの壁が無くなってからも旧東独市民の期待の多くは満たされないままであった。その一因として彼らは西側の世界の良い面しか見えておらず、素晴らしい世界であり状況は必ず良くなるであろうという幻想を抱いていたことである。現実が指し示す姿というものは全く異なっていて、旧東独にあった企業は西側の経営者に駆逐されたり、教育に関しては西側の規律で執り行なわれ、東側の学歴は無効となったりした。この社会的変化によって失業者、ホームレスという問題を抱えることとなった。
旧東独国民は国家によって全てのことを定められ大人しくなってしまう生活、決まりきった行動様式に縛られて生活することに慣れていたために急激な変化に対応できなかったといえる。時間の経過と共に統一するくらいなら旧東独での生活に戻りたいというものは減っていくのだが東側をそのまま西側の州として組み込んだような統一の仕方は西・東両方の人々から疑問視されている。旧東側の人々の大部分は旧東独に生活してきた人々の生活において発言権があるのは西側の人間ではなく、そこで生活してきた自分たちのみであると考えている。
このように表向きは壁が壊されて再統一が実現し、問題が解決したかに見える歴史的事実は人々の生活という観点からは全くそうではなく新たな問題を生み出したものと説明できる。特に旧東側の人々の自分たちの政治的指導者が取って代わられたときの気持ちの変化というのは興味深い。彼らの生活状況を好転させるのはベルリンの壁崩壊という目に見える物理的なイベントではなく、教会を基点として命懸けでデモ行進をしていた頃の彼らの希望が満たされたときではないかと思われる。
<参考文献>