(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)
担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗
東西ベルリンは、社会主義と資本主義という全く異なった政治的方針の下に存在していた。そしてその違いは、例えば東西の教育制度の違いを生んだ。西の教育が価値の多元性を尊重するものであったのに対し、東の教育は徹底的な社会主義人間を育てるものであった。そのような教育の違いが人々の価値観の違いを生んだことは言うまでもない。
しかし、社会主義を身に付けたはずの東ベルリンの人々が、危険を冒してまで厳しい検問をくぐりぬけ、次々と西へ逃げていった。西ドイツ内務省は、壁の解放までの間に22万5000人が東ドイツから西ドイツに移住したと発表している。また東の人々は西に比べて、統一に対してより積極的であったと言われている。それはなぜか。その理由として思い付くのは東の人々が西の人々に比べて貧しかったということである。また東の人々が社会主義体制に対して不満を持っていたのではないかということも考えられる。よってここでは、東西ベルリンの人々の消費生活を重点的に扱うとともに、東の人々の政治に対する考え方や生活観についても述べていく。
まず社会保障制度について見てみたいと思う。東ドイツでは後で言及する補助金制度など、社会保障制度が比較的発達していた。特にそれは女性に対する保障によって示される。というのは、東ベルリンでは女性の雇用率が高かった。東での女性の就業率は、1989年には48.9%であり、西の38%に比べて相当高い。また、1988年、労働可能な人口中の勤労者の比率は、男性82.4%に比べて、女性83.2%の方が高い。西では保育所が少ないこともあり、女性が働きながら子育てをするというのは大変なことであったが、それに比べて東ベルリンでの男女平等は徹底されていて、育児も母親だけが関わるというのではなく、両親で子供を育てるというのが当たり前だったのである。
東の政府も女性の労働を奨励していたため、特に女性に対する社会保障制度には力を入れることとなった。その理由は、まず男女の平等を推進するための前提となる女性の経済的独立を保障することにあった。次に、労働力不足のため、女性労働力を確保する必要があったことである。3つ目に、出生率の低下を止めるためにも必要であったことが挙げられる。社会保障の東西のギャップは表1で示したとおりである。しかし、1990年以降、大量失業と生活物資のインフレが予測されるようになると、年金生活者の生活保障や、保育所・幼稚園・学童保育の水準をどう維持するのかということが問題となった。また、社会保障制度に力を入れるとはいっても、理想と現実のギャップは大きく、実際のところ社会主義国ではあってはならない貧富の差も存在しないわけではなかった。
加えて東西ベルリンでは人々の消費生活にも大きな差があった。
表2は、乗用車と家庭電気製品の普及率を東西で比較したものである。シュピーゲル誌の8月世論調査によれば、東ベルリン市民の1990年から91年に購入したいもののトップは、車である。3人に1人がこれを希望している。これに続くのは、カラーテレビ、ビデオ・カセット、冷凍庫、全自動洗濯機である。
東ではトラバントという乗用車があり、これは数少ない東ドイツの国営工場で生産されていた。一般の市民に乗用車の選択権は無く、多くの人々は18歳になったら役所でトラバント購入申請をした。しかし生産は全く間に合っておらず、申請してから実際に車を手にするまで10年も待たなければならないというようなことが頻繁にあった。しかし実際のところ彼らはトラバントではなく西の車を希望しており、壁の解放後、西から東へ中古車を中心として大量に輸出された。当然トラバントを生産していた国営工場も統一とともに次々と潰れていった。その影響で、東の中古車の価格は半分に下落したと言われている。
また表2を見てもわかるとおり、東では特に電話の普及率が低く、連絡には街の公衆電話や手紙が多く利用されていたようである。
ロイター通信社は表3のような物価比較表を発表している。これらの価格差は、主に東ドイツの補助金経済によるものである。食料品、交通運賃、住宅家賃についての消費者の負担分と補助金の割合は、それぞれに違い、表4のような比率である。
補助金のつかない製品については価格は相当高かった。例えば1985年の試算で、中型車を東の市民は25ヶ月働かなければ購入できないが、西の市民はわずか4ヶ月で購入できたと言われている。
つまり東の人々の生活は補助金によって成り立っていたといっても過言ではなく、その影響で東西の家計の使い方にも違いが見られる。東西の平均的市民の家計の使い道は表5のとおりである。これを見ると、東の人々が西の人々に比べて、食料品や住宅によりも被服や嗜好品に多くのお金を使っていることがわかる。
壁の解放直後の週末には、多くの東ベルリン市民が西ベルリンを訪れた。東ドイツの人々が西ドイツを訪れた場合、1人につき100マルクの歓迎金を銀行や郵便局の窓口で受け取ることができた。東の市民はこの歓迎金で買い物をしようと、豊かな商品があふれているデパートやスーパーマーケットに殺到した。「時事速報」(1989年11月15日付け)によれば、西ベルリンのデパートで調べた東の市民の買い物ベストテンは、次のようなものであった。(なお、1マルクは約80円。)
(1) 新聞(西側の活字に飢えていたことと、解放の日の記念のため)
(2) バナナ、パイナップル、キウイ等輸入果物(東では贅沢品)
(3) 高級チョコレートなど贅沢な菓子
(4) ラジカセ(200マルク以上するが、家族の歓迎金を集めて購入)
(5) コーヒー(東では輸入品は不足しているため)
(6) 缶コーラ、缶ビール(容器の珍しさ)
(7) 宝くじ(1枚10マルクで最高1000マルク当たるスピードくじ)
(8) パンティーストッキング(2足組2.5マルクなど、デパートも大幅値引き)
(9) 子供向け絵本(印刷の美しさに大人も納得した様子)
(10) 地球儀、世界地図(これには、デパート側も「なぜだかわからない」)
以上のように、人々の消費生活は東西でかなり違うものであった。こうして東から西への移住者が増加していったのである。
1989年に実施された意識調査により、東ドイツを出国する人たちの動機についてみていこう。この調査は、8月29日〜9月11日に実施されたもので、573の調査数のうち、合法的移住38%、非合法の避難55%である。調査対象者の年齢、職業などは以下のとおりである。
(1) 年齢構成。非合法の移住者は22〜29歳45%、18〜21歳24%。合法的移住者は30〜39歳41%、22〜29歳26%。
(2) 非合法の移住者は半数以上が独身。男性は75%。合法的移住者の72%は既婚。男性は67%。
(3) 職業。熟練労働者以上の資格を持っている者が86%。工業・生産部門で働く者は36%、サービス部門は27%、手工業部門は20%。中央および地方の行政部門、教育部門に勤める者は12%。
表6の結果から見ると、西ドイツと比較してはるかに劣る生活水準のほかに、言論の自由等市民の参加権が保障されていないことや体制の民主化問題、将来展望のなさが、移住の動機となっている。
ライプツィヒの青年調査中央研究所は、1966年以後、青年層を対象にした400余りの調査を実施している。
表7は、東ドイツの政権党であったSED(ドイツ社会主義統一党)に対する態度の変化を示している。対象は東ドイツの青年である。まず、70年代から80年代前半までは、青年の70〜80%に、SEDとの強いないし限定的な一体感があった。調査対象の青年のうち、20〜25%がSEDの党員である。
しかし、青年層のSEDに対する信任は、1987〜88年の時期に急速に失われた。そして、ついに1989年春には、勤労青年の半分、学生の3分の1がSEDを拒否するにいたった。
SEDとの一体感が強いと回答する者は、SED党員で48%、非党員の場合はわずか8%にすぎなくなっている。
表8は、同研究所の18〜19歳の実習生の生活観の変化を示すものである。これを例にとっても、青年層の価値観は、1975年以後変わりはじめ、1985〜89年には激変したことがわかる。とりわけ、生活目標として「個人の人格や立場の承認」と「自己形成の重視」を選択する比率が高まり、他方「冒険指向」、「流行やぜいたくへの指向」、「社交性を求める」が急上昇している。
これらの調査により、1985年から89年にかけて、青年の「社会主義意識」は急速に薄れ、SED体制への不信感を抱くようになったということがわかる。
これまで見てきたように東ベルリンの人々は、生活水準の低さ、発達していたはずの社会保障制度の限界、SED体制への不信感等から将来に不安を感じていた。社会保障制度に限界が生じたことにも、SED体制を信任する人が減っていったことにも、生活水準の低下は大きく関わっていると考えると、東の経済状況の悪化が人々に非常に大きな不安を与えたということになる。このような不安が、数多くの移住者を生んだだけでなく、ベルリンの壁の解放、そしてドイツ統一への原動力となったのである。
<参考文献>