2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


第二章 外から見たベルリン

4. ベルリン・東西のホテル事情 ....................... 中本早苗

20世紀初頭から第二次世界大戦末期まで、ベルリンはドイツのみならず、ヨーロッパの中心的大都市であった。しかし大戦後東西に分断され、米英仏の占領地域を西ベルリン、ソビエト連邦共和国占領地域を東ベルリンと呼ぶことになる。西ベルリンは西側陣営の共産圏に対する広告塔の役割を担っていたため、資本主義社会の先鋭都市であり、一方で東ベルリンはドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の首都として共産圏の政治的な先鋭都市であった。

 二つの都市を分け隔てた「ベルリンの壁」は、まず最初にブランデンブルク門の前から作られ、そこから南北に伸びていった。つまり、ベルリンの市街地を真っ二つに分けたと言うことになる。「ヨーロッパの中心的大都市」の、さらに市街地であるから、戦前はドイツ内外から人々が集まり、当然のことながら宿泊施設も多く存在していた。日本においても、1920年代には今日「クラシックホテル」と呼ばれている、帝国ホテルや日光金谷ホテルが、内外からの賓客を集めて栄華を極めていたが、同様に「黄金の20年代」を謳歌していたベルリンには、一流のスターや有名人を宿泊させるだけのホテルがあった。その頃のホテルの多くが第二次世界大戦下、戦場となったベルリンで焼失したと考えられるが、全焼とまではいかず、老舗の看板を守っていけるだけの部分を残したホテルもあった。では、戦後分断されたベルリンで、残ったホテルたちはどのような運命をたどったのであろうか。

 そもそも、壁があった時代、東ベルリンに西側からの観光客を泊めるようなホテルがなかった理由は簡単である。西ベルリンから東ベルリンを訪問する旅行者にはTagesvisum(一日ビザ)しか発行されなかったからだ。1980年代のガイドブックを参照すると、西ベルリンから東ベルリンに入る方法が書いてある。「パスポートを提示して所持金リストにサインし、25DM以上を東ドイツマルクに交換する。交換率は1対1。ここで替えた現金を使い残しても、西ドイツマルクに再交換はできない。西側の新聞、雑誌の持ち込みは厳禁。東ドイツマルクをあらかじめ持って入ることも禁止されている。検問所で発行される一日ビザは同日24時まで有効。」この記述から、短い時間での観光以外の目的をもった訪問者をとにかく排除しようという姿勢がよく分かる。ウンター・デン・リンデンの項目を見ると、「戦前はベルリン随一の目抜き通りとして有名だった。当時ほどの賑わいはないものの、現在も東ベルリンの中心街。ホテル、劇場、フンボルト大学、ドイツ歴史博物館などがある。」とあった。一応「ホテル」という記述はあるが、詳しいホテルの名前や説明などは一切書かれていない。日本人観光客が東ベルリンに一泊以上することはありえないのだから、当然である。そして現在のベルリンに関する資料を紐解いてみると、旧東ベルリンの地域に現存する客室数100以上のホテルのほとんどが、1980年代後半から1990年代に創業している。しかも、ウェスティン、フォーシーズンズ、ヒルトンなどといった比較的新しいインターナショナルブランドの名を持つホテルが目立つ。いわゆる「西側諸国」からの外資系ホテルだ。旧西ベルリン地域にももちろん、グランドハイアットやインターコンチネンタルといった外資系ブランドの名は見られるが、もともと老舗のケンピンスキー・ブリストル・ベルリン、1980年ごろ創業のカントホテル、1968年創業のホテル・パレス・ベルリンなど、壁があった頃も普通に営業していたドイツ独自のホテルのほうが多い。それに対して東側地域では、地図上のホテルの絶対数が少ないので外資系が目立ってしまうのである。東ベルリンにもともとあった老舗ホテルはどこへいってしまったのだろうか。

 旧東ベルリン地域に、今でもトップクラスに君臨している名の知れた老舗ホテルが一つある。ホテル・アドロン・ケンピンスキー(写真@)だ。「ケンピンスキー」ブランドに参加したのは1997年の改装時だが、その前は「ホテル・アドロン」として1907年の創業以来看板を守りつづけてきた。創業当時はヴィルヘルム2世のお気に入り、1920年代はマレーネ・ディートリッヒやチャーリー・チャップリンにも愛されたという超一流ホテルであり、世界で最も美しいホテルと言われた。ホテル・アドロンは第二次世界大戦で一部焼失したが、残った部分を旧東ドイツ政府がホテルとして再オープンし、当時の社会主義ムードにもかかわらず、従業員たちはアドロンオリジナルの制服で仕事をすることができた。1964年には内装・外装のリニューアルまでなされた。ブランデンブルク門のすぐ脇という立地条件上、西に対する東の広告塔とされたことは言うまでもない。しかしこの広告塔も東西が分断されてから20年と持たず、1970年代には一時閉館させられることとなる。20年代の最もゴージャスなホテルは、70年代に見習い職人たちの下宿所となってしまった。そして1984年には、建物そのものが取り壊され、1997年の新ホテルオープンまで姿を消したままでいることとなる。「ホテル・アドロン」は、その知名度があったからこそ国が大金をつぎ込んで70年代まで持たせたのであろうが、それ以外のホテルはおそらく国家財政的に生き延びさせるだけの余裕がなかったのだろう。アドロンが閉館するよりも前に、やむなく看板を下ろした所がほとんどにちがいない。食糧配給制がしかれ、生活物資よりも大砲を作っていた国家で、贅沢な余暇を過ごすなど不必要であり、不可能だったのである。

 1990年に東西ドイツが統一され、ベルリンは再びドイツの首都へと返り咲いた。それ以後ベルリンは、政治、経済、文化の面でドイツのみならず世界中から世界都市として様々な脚光を浴びている。その証拠に、ベルリンを訪れるビジネスマン、観光客はドイツ内外からうなぎ登りに伸びて、90年代はホテルの新築・改築ラッシュとなった。しかもその多くが300室以上の大型ホテルである。特に旧東ベルリン地域の再開発が進むフリードリヒ通り、文化地区には近代的なアメリカン様式のホテルが集まっているが、中でも1996年に開業した代表的なシティホテル「マリティム・プロ・アルテ・ホテル・ベルリン」(写真A)はロビー、レストランの壁に何枚もの現代抽象画が飾られ、シンプルな家具が広い自由空間に置かれていて、まるでモダンアートの美術館のような作りになっている。客室数は400を越え、1500人収容できる大コンファレンスルームを持ち、全室にパソコンが完備されているというビジネス対応型である。古くから栄えていた街で、このような見た目にも近代的なホテルを数多く建設しているのは、ベルリンが新しく生まれ変わっているということを内外にアピールするためだろうか。

 このように、統一後再び人が集まるところとなったベルリンだが、こと日本人観光客に関しては、実はベルリンを訪れる人々が、統一前と比べてさほど多くないのが実情である。東西を分け隔てていた壁や国境での手続きの緊張感や旧共産体制の国に行くという意味がなくなったベルリンは、日本人にとって訪問する目的が軽減してしまったのかもしれないと分析する人も多い。日系のホテルがベルリンではなくフランクフルトやデュッセルドルフに集中する理由はそこにもあるかもしれないが、逆にいえば世界中どこにでも溢れている日本人観光客が少ない中でこれだけ大型のホテルが多数新築されるということは、日本人を相手にしなくても採算が合うということであり、それだけベルリンが今、世界中から注目されているということになる。統一して再スタートを切った1990年が新生ベルリンの始まりだとしたら、まだまだ若い都市である。これから新開発地域がどう膨らんでいき、もともとあった昔の街並みとどう絡んでいくのか、楽しみに見ていたいと思う。


<参考文献>

<参考ウェブサイト>


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