2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


第二章 外から見たベルリン

3. 西ベルリンの住宅と建築 ............................................. 重松奈緒

第二次世界大戦後、ベルリンは行政的に東西に分裂した。その後、西は自由主義の都市計画を、東は社会主義の都市計画を立て、どちらが優れた社会を実現できるかを競い合うことになる。1953年の設計コンペに続いて、西ベルリン市内各所で行われた1957年の国際建築展「インターバウ(Internationale Bauausstellung: InterBau)」において、その西ベルリンの都市計画理念が改めて提示された。その中心はTiergartenの北西に位置するハンザ地区(Hansaviertel)であり、ここに外国人を含め48人の建築家の設計した実験的な集合住宅が新築された。その中にはナチス時代アメリカに亡命したグロピウスらの設計した集合住宅も含まれていた。この実験的な住宅地のコンセプトは、開放的な空間にそれぞれの形の異なる中高層集合住宅を散らばらせ、拡散的な都市空間を創造することでだった。幾何学的な建築物のデザインはモダニズム的であるが、もはやそこに1920年代の禁欲的な機能主義を謳うものはなく、色彩豊かで、微妙に湾曲する曲線デザインを含んだ建物も多く設計された。そこには集合住宅のほか、教会堂・商店・文化施設も建設され、Tiergartenの森を背景に自然風景の中に溶け込んだ健康的な住宅地が形作られ、「緑の中の都市を目指す」というベルリン都市計画のメッセージが多分に示される結果となった。この建築展の一環として、フランスの著名な建築家ル・コルビュジエが提案していた立体都市構想「ユニテ・ダビタシオン」がベルリン西方に、またアメリカ人ヒュ−・A・スタビンス設計による会議場「コングレスハレ」がTiergartenの森の中に建築された。しかし、都市のあり方について大胆に提案した前者は、現実の都市生活と相容れないとして議論を呼び、後者はまた当初から構造技術に問題ありとされ、案の定1980年に倒壊する(その後再建)。このように様々な議論を呼びながらも、冷戦時代、陸の孤島となっていた西ベルリンは西側諸国の面子をかけた新建築の実験場として、新たな概念、自由な発想をもとに構築された建物が次々と立ち並んでいく。街路に面して建物を壁のように建て並べる、社会主義リアリズムのスターリン通りに対抗するように、ハンザ・フィアテルでは、より開放的な都市空間デザインの手法があえて取り組まれていたが、そこには強い政治的な意図が感じられるのである。

1961年8月13日、ついに東西ベルリンの境界を封鎖する目的でベルリンの壁が出現する。ベルリンの壁はかつて市壁に沿う形で建てられたが、今回は東西分割の象徴という重大な意味を持っていた。そしてこの壁を沿って、他方を威嚇・挑発するかのように、東側・西側の威信をかけた建築物が次々と建てられた。その先駆けとなったのが当時度肝を抜く斬新なデザインと話題になった「ベルリン・フィル・ハーモニー(Berlin Philharmonie)」(1960―63)である。当初、別の場所に計画されていたこの音楽ホールをわざわざ「壁」に近い旧ポツダム広場の近くに持ってきたのは、いずれ東西ベルリンが統一された時、その一帯がベルリン中心部として機能するであろう、という予測があったからである。しかし西ベルリン市民にとっては、忌々しい「壁」を目にする位置で伸びやかな音楽に浸る気分にはなかなかなれなかったであろう。何はともあれ、この「ベルリン・フィル・ハーモニー」は1920年代に表現主義で名を成していた建築家ハンス・シャロウン(hans Scharoun)が設計を担当した。一見何の建物か、と思わせる外観は、テントを張ったようにも見えることから、このホールはカラヤン・サーカスの別名もあった。客が自然に集まったかのように四方からオーケストラを眺める独特のアリーナ形式は、音響にも優れており、後に東京のサントリーホールの手本ともなった。このベルリン・フィル・ハーモニーに続いて、「新ナショナルギャラリー(Neue Nationalgalerie)」「国立図書館(Staatsbibliothek)」の大規模な建築が続き、文化センター地区(Kulturforum)の建設が進められた。「国立図書館」(1967―78年)もやはりシャロウンの設計で、大きくうねる波のような表現主義建築であった。この図書館は、かつてプロイセン国立図書館の蔵書を第二次世界大戦の戦火から疎開していたものを集めた図書館であり、高いレベルを誇っている。また「新ナショナルギャラリー」(1965―68年)の方は、かつてワイマール共和国時代のベルリンで活躍し、ナチスの弾圧を嫌ってアメリカに移住し、シカゴのイリノイ工科大学で建築を教えていたミース・ファン・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)に設計が委ねられた。ベルリンが育てた世界的建築家に75歳の誕生日を記念して何かを建てさせようとしたのだった。「新ナショナルギャラリー」では、ミースの建てた各地の超高層ビル建築と同様、鉄製の列柱と大屋根の象徴的な骨組みを基盤としており、周りをガラスのカーテンで囲うという明快な幾何学的デザインを見せた。そのスタイルは古代の石の神殿に代わる現代の鉄骨の神殿と呼ばれもした。シャロウンの変化に富む表現主義形態とミースの厳しい幾何学形態は好対照であり、一方がドイツ人特有のロマン主義的自由を表現し、他方が同じくドイツ人特有の古典主義的秩序を表現することとなり、ドイツ的な自由と秩序の二元論を具現していた。このように文化センター地区は図らずもドイツ精神の二面性を表現する、ベルリンらしい景観を持つ場所となったのである。

政府は市民の生活水準のバロメーター、住宅にも力を注いだ。西ベルリン南部のグロピウス・シュタット(Gropiusstadt: 1962-72)と、北部に位置するメルキッシェス・フィアテル(Maerkisches Viertel/MV: 1963-74)は当時の代表的な大住宅地である。グロピウス(Walter Gropius)はミース同様、アメリカに亡命して成功した建築家であり、そのグロピウス率いる設計チーム「TAC(建築協同体)」によってグロピウス・シュタット全体の計画といくつかの集合住宅が手がけられた。1920年代、禁欲的な機能主義の理論を声高に唱えていたグロピウスだったが、アメリカから帰還した彼はもはや多様性を主張するデザイナーに変貌していた。高層や低層の建築が混ざり合ったグロピウス・シュタットには、17,000世帯が居住し、教会や消防署を備えたコミュニティが出現した。ベルリンの建築家たちが共同して設計したメルキッシェス・フィアテルも同じような発想だったが、ここでは特に鉄筋コンクリートの大きなヴォリュームが様々な色でポップ・アート風に塗り分けられた。これは同じく機能主義をより多様化していくという考えから生まれたデザインであったが、一般市民にしてみれば、生産者側の勝手な論理が露出したコンクリート・ジャングルに見えたため、市民の間で議論は絶えることがなかった。この頃、陸の孤島西ベルリンにおける急激な経済膨張によって、狭い市域の中に原子力発電の施設を作らなければならないといった事態に、やがて直面する。当然のごとく市民からは激しい反対運動が起こる訳だが、これを機に都市における居住と環境整備が政治課題となっていくのである。

西ベルリンでは余裕のある市民が上記のような鉄筋コンクリート造の新興郊外住宅地に移り住むと、19世紀後半に大量に建設され「賃貸兵舎」と呼ばれた、「壁」付近の煉瓦作りの都市型集合住宅は、次々と空き家になった。そこにトルコ人を中心とした移民が密集して住みつくようになり、いわゆる「トルコ人地区」を形成した。その代表が西ベルリン市域の東端に位置するKreuzberg区であり、やがてトルコ語の看板を掲げた店が軒を連ねるようになる。また戦後のドイツの柔軟移民政策により、ユグノーやユダヤ人も多く西ベルリンに居住するようになる。新しい移民文化が西ベルリンに芽生えるのである。これに加えて、左派の学生や若者が、大規模再開発のために建築物の取り壊しを行おうとする建築業者や行政の方針に抵抗して、「住居占拠運動」を始め、メッセージを殴り書きした横断幕や旗を窓から吊るして老朽集合住宅に住みついた。東側との経済成長の競争に躍起になっている間に、「居住」という価値観を巡る新しい社会問題が発生していたのである。

同じ頃、1975年は欧州建築遺産年と定められ、各国政府を挙げてのキャンペーンが繰り広げられていた。経済発展の勢いは戦争よりも大規模に歴史的な市街地を破壊しているとの指摘が強まり、これを機に文化財保護の枠が大きく広がった。つまり文化財として一級品と言えない建物も、連続する街並みとして優れた歴史的景観を構成していれば保存すべき対象になったのである。西ベルリンではいまや移民や左派の若者の巣と化した「賃貨兵舎」が町並み保存の対象となった。新しい中流層が好んだ、機能主義から派生したようなポップな住宅団地よりも、彼らが後にした老朽家屋の町並みの方が、質が高いとされたことで、現代建築の価値観が一気に揺らぐこととなった。高尚な美学ではなく、社会心理学や環境心理学の分野も取り込んで、居住環境について多角的研究が試みられた。結果1970年代以降、周辺の市街地の文脈、あるいは歴史的文脈に合わせる「コンテクスチュアリズム(文脈主義)」が重んじられた。これはモダニズムの無装飾の建築スタイルを批判し、伝統的建築スタイルを継承しつつ現代生活に合う建築を造る、という東側の社会的リアリズムに歩み寄る傾向と考察することも出来る。実際1970年代の西ヨーロッパを席捲した「ポスト・モダン」の建築風潮の中で、社会主義リアリズムのスタイルに見られる権威主義的デザイン手法やバロック的都市デザインの手法を再評価し、資本主義社会の経済合理性を真っ向から批判する者も現れたりしたのである。

そういった状況の中で1984年に「ベルリン国際建築展(IBA)」が開催されることとなる。(後に1987年に変更。)西ベルリンの都市環境をどのようにデザインするかを、1957年の「インターバウ」以後の新たな観点から考え直しつつ、大規模に展開された。建築展のテーマは「居住場所としての都心」であり、集合住宅建設を中心に、国内外から100を超える建築家チームが招かれ、建築対象地区は総計172に及んだ。展覧会の企画は2つのグループに分けられ、一方は「批判的再構築」をテーマとする新築部門、他方は「慎重な都市更新」をテーマとする保全部門であった。前者では、従来の既存建物を全て撤去した後にすっかり新しい建物と空間を作り上げる再開発手法を止め、既存の建築状況や環境に配慮しながら市街を総合的に居住可能にしようというものだった。そこでは「賃貸兵舎」の町並み保存のときに採用された手法で、街区を四角く囲い、中庭を公園にするという「ブロック型建設方式」が取り入れられた。それに加え、歴史的な住宅建築を参考にした、サイコロ状の「ヴィラ型」集合住宅を並べる方式も多く用いられた。他方、「慎重な都市更新」をテーマとする保全部門は、居住環境の社会的計画に重点を置き、建築家ではなく住民主体の町づくりが進められた。具体的にはコミュニティ・センターや庭園、屋外彫刻やトルコ人との共住計画などに財源が使われた。この部門は展覧会後も継続できるように会社設立に至り、その後の町づくりの新しいシステムを残した。こうした草の根型の町づくりはかつてB・タウトが関与した1910年代のユートピア的住宅運動にルーツを見出すことが出来る。このような社会主義的理論が、著しい経済成長下の資本主義都市西ベルリンで改めて芽を吹いたのだ。経済的には明らかな勝利を収めつつ、文化的には資本主義が敗北したかの印象を与えるような、かつての社会主義建築理論の再評価の動きは人間社会の実態の複雑さを示す。実際のところは、適度の自由と適度の社会的秩序を調合した総合性が社会制度のみならず、建築理論においても重要な事項であったのだ。そうして考えてみると、まさに1989年のベルリンの壁崩壊はそれを象徴する出来事であった、と思えてくるのである。


<参考文献>


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