2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


第二章 外から見たベルリン

2. 東ベルリンのハウジング .....................................  佐藤理子

 1945年の終戦当時、ドイツはすでに廃墟となっていた。主要都市は爆撃により跡形もなくなり、公共施設は消えうせ、通貨は無価値となり、国自体がいくつかの被占領地域に分割されていた。住宅事情はひどく、ベルリンでは戦前の住宅の40%が爆撃で破壊された。終戦以降、首都であったベルリンは英・米・仏の西側陣営とソ連の東側陣営による分割統治のもと、東西に分断され、2つの町はそれぞれまったく異なる道を歩むこととなった。

東ドイツの都市は、社会主義の政治・経済体制に基づいて都市建設がなされた。東ドイツでは、1950年代に入って工業化―工業経営体の社会主義原理に基づく国営化あるいは組合化、コンビナートへの組織化が押し進められ、住宅の分野においても国有化、組合化政策が実施された。対照的に、西ドイツ政府は、アメリカの援助に多分に依存し、極めて反共的な政治路線を遂行することを決め、住宅計画及び復興一般に関して全く新しいアプローチをとることとした。土地収用の発動(強制買収)もなく、政府や州の行政による公営住宅の建設も行われなかった。

1950年代以降、東ドイツでは国有ならびに組合の住宅が建設されていった。これらの住宅のほとんどは、プラッテンバウ(Plattenbau)と呼ばれる長屋形式の高層住宅だった。国営、組合の住宅の特徴の一つは、賃貸住宅だったこと、しかも、西ドイツに比較して家賃が格段に安価だったことである。これは、社会主義の政策に基づいて住宅の家賃が低く抑えられていたからであった。それだけ住宅に手厚い保護がなされていたことになる。安価な住宅家賃は都市居住者に大きな恩恵を与えたが、その一方で財政的余裕がなく、住宅の改修や更新が一向に進展しないという住宅政策の根幹を揺るがす問題をもたらすことになった。図1は、東ベルリンの旧スターリン通りにおける戦後の復興住宅の写真である。壁面のタイルの多くは無残にも剥がれ落ちてしまっている。この建物がいかに大急ぎで、しかも技術的に無理をして建てられたかを物語っている。

 住宅団地(Wohnsiedlung)と呼ばれる大規模な集合住宅の立地も、東ドイツの都市を特色付ける要素の1つだった。住宅団地の建設は、1950年代に始まったが、それが盛んになったのは1960年代に入ってからである。規模は、人口1万から5万ほどであるが、1970年代に入ると人口10万人にも達する巨大な住宅団地が建設されるようになった。住宅団地は、やはりプラッテンバウと呼ばれる高層住宅の集合からなっている。住宅に付随して、保育園、学校、医療所、郵便局などの公共施設、公園、運動場、各種の小売・サービス施設が建設された。

 住宅団地は、都市へ流入してくる人々のために建設されたものだった。1950年代から1970年代にかけて、東ドイツの都市は、工業化を背景に急成長をとげた。この時期に、多くの人々が雇用口を求めて農村から都市へ移住した。住宅団地は、こうした人々を吸収するために建設されたのである。しかしながら同時に、住宅団地は、都市の中心部に居住していた人々の受け皿の役割も果たしていた。都市の中心部には居住できないほど痛んだ住宅が数多く存在していた。こうした住宅に居住していた人が、新たに建設された住宅団地に移り住んだのである。こうして、居住者が出ていったあとの住宅は、空き家になる場合が少なくなかった。しかも、改修されずに放置されることが多く、幽霊屋敷さながらの状態を呈していた。

その一方、プランツラウアーベルク区に多い19世紀末からある労働者住宅、いわゆる「賃貸兵舎」はそこから新しい巨大団地に住民が移住したということもあり、荒れるがまま放置された。「賃貸兵舎」とは、世紀末以来の労働者用アパートの連なりである。それは、四角形の街路に面して建てられた5〜6階ほどの集合住宅で、その中庭に入ればそこにふたたび集合住宅が入り組んで建てられ、道路によって仕切られた一画の内部に集合住宅が幾重にも重なっている。こうした建築群は、東ベルリンだけのものではなく、ベルリンは世界最大の「賃貸兵舎」の町と呼ばれるように、ヴェディング区、特にそのモアビート地域、クロイツベルク区にも多く残っている。しかし、東側では、修繕されないままに残っている割合が高く、しかも、そこに住んでいた人々が例えばマルツァーン区のような新興住宅団地に移動して、空き家となって荒れ果ててしまったままになっているために、余計に目に付くことになった。

 マルツァーン区に代表される巨大な長方形の集合住宅群は、社会主義住宅の機能と合理性の模範として建設された。これらは、ウンター・デン・リンデン近辺に残されているプロイセン時代からの伝統的大建築とともに、東ベルリンの景観を形作っている要素の一つであるが、マルツァーン、ヘラースドルフ、ホーエンシェーンハウゼンという巨大団地に限って見られるわけではない。集中しているのはこの3つの区だが、アレクサンダー広場から東側にはそこかしこに点在している。ことにそのような長方形建築と工場の混交は、西側とはまったく景観上異なった印象を与える(図2参照)。

マルツァーンについては、ある特定のイメージが流布している。例えば「コンクリート砂漠(Betonwuste)」や、或いは「眠りの町(Schlafstadt)」、つまり、勤労者たちが仕事をして眠りに帰るためだけの町、それだけに町に活気が見られない町ということである。日本の住居は、兎小屋と言われることがあるが、それに該当する言葉もある。居住面積が小さく同じような個性のない集合住宅を「労働者のコインロッカー(Arbeitersschliesfacher)」と言う。また、ベルリンに関するあるガイドブックには「罰として住む(Zur Strafe wohnen)」という記述がある。つまり、住むこと自体が一種の刑罰となっている、それほど住みにくい町だというのである。

西ベルリンで建設された集合住宅群の一つ、ライニッケンドルフ区のメルキッシェス・フィアテルは、「概して子沢山の家族のための住居は狭すぎ、余暇を過ごすための施設は少なく、緑は、コンクリートによって失われた。ベルリン人にとってことに重要な「街角にある行きつけの飲み屋」は、建築当初皆無だったし、公共施設も少なかった。要するに、コミュニケーションではなく孤立、同化ではなく攻撃が町の雰囲気を形作った。…」と言われている。

マルツァーンには、このような巨大団地の欠陥が拡大された形で、そのまま当てはまると言える。マルツァーン駅に着いて、駅からメルキッシェス大通りをまたぐ歩道橋を渡るとき、左右には南北に何キロにもわたって、10階から20階建てのアパートの林立するさまが見える。それは、ほとんど超現実的というイメージを与えるほどだ。それぞれのアパートは、かなり広い街路に面して建てられており、形はそれぞれ異なってはいるが、無味乾燥な直方体であり、ファサードの凹凸はほとんどなく、したがって装飾はまったく排除されている。それは、ドイツ語で言えばPlattenbau(「板のような建築」)というわけである(図3,4参照)。

 西ベルリンにおいても、50年代から60年代には無味乾燥なコンクリートでできた郊外の大規模団地が建築され、その後、その失敗を補うために数々の建築コンペが催された。しかしながら、著名な建築家たちに設計された集合住宅が散在する街は、新旧建物間における不調和を露呈していた。

979年までは、東ベルリンには八つの区があるだけだったが、その後1986年までには三つの区が新たに加わった。それが、マルツァーン区、ホーエンシェーンハウゼン区、ヘラースドルフ区である。東ドイツ全体から集められた建築労働者が、すでに工場で出来上がっている壁、サニタリー、台所を組み立て、不格好な高層建築を組み立てた。そこに5万7000世帯、17万人が住む。それは、東ドイツの威信を賭けた構想であったし、「社会主義に応じた住宅環境」(sozialismusgemase Wohnbedingungen)を実現するはずだった。

しかし、東ドイツの都市の居住環境は明らかに西ドイツのそれに比べて劣っていた。一戸当たり約80平方メートル弱の住宅は、2LDKか3LDKであり、内部に入れば日本のそこかしこにある、いわゆるマンションを思い起こさせる。西ベルリンの古いアパートと異なり、ここでの天井の高さ、部屋の大きさもまた日本並となる。また、住宅を取り巻く緑地が少なく、高層住宅(プラッテンバウ)における建物の材質は劣悪で、ドアは隙間風のたびにがたがたと音を立て、バルコニーの手すりのコンクリートはぼろぼろ剥がれ落ちている、といった有様であった。これらは、「生産と管理」に重点をおいた東ドイツの都市政策の産物であるといえる。

公共ハウジングは、20世紀の2大大戦の結果生まれたいわば落とし子だった。ハウジングは、住宅の破壊と再建という明らかな関連性とともに、社会保障の基本項目、選挙の確実な票かせぎ、政府の信用の明確なバロメーターなどとしての政治的意味があった。東ドイツでは、住宅問題の解決はホーネッカー時代の最優先政策であり、1990年までにすべての家族に十分な住まいの空間を保障するというスローガンが掲げられていた。しかしながら結果として、その類似性や画一性の塊の建物は図らずも社会主義の住宅政策の非人間性を示すこととなった。

ドイツ統合後、東側の都市は「生産と管理」から「居住環境」を重視した都市へと変化を遂げ、都市の再開発によって、住宅の改修がなされその居住環境は改善されている。だが、所有権の問題から改修の進まない住宅もあり、改修された建物と対照をなしている。また、プランツラウアーベルクの賃貸兵舎の荒れ果てた空間に若者たちが住みつき、実験的な文化状況を生み出しており、「新生ベルリン」は、未だ新都市形成の過渡期の真っ只中にいる。


<参考文献>


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