2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


第二章 外から見たベルリン

1. 東西ベルリンの都市計画 ........................... 金子美環

ドイツが無条件降伏した翌月、ベルリンは米英仏の連合国3カ国とソ連による分割統治下におかれた。ナチズムのような脅威を二度とドイツに抱かせないという占領国の考えは都市計画にも実現されていく一方で、ベルリンという都市は冷戦の激化により二分され、世界の東西ブロック対立の最前線となる。ますます高まっていく両陣営の対立は、遂に1961年8月13日、東西ベルリンを分断する壁の構築によって決定づけられた。西側が目指したのは民主主義国家、東側が目指したのは社会主義国家、東西の決定的な差異はここから生まれていくことになる。都市計画においても西の自由主義と東の共産主義という政治的イデオロギーが決定的な意味を持った。ベルリンは、都市自体が東と西のどちらが優れた社会を実現できるのかという競争の場になったのである。ここでは、ベルリンという都市の特徴を確認したうえで東西の都市計画を比較していきたい。

ベルリンの特徴のひとつは、都市構造がドイツの典型的なそれと違う点だ。ドイツの街の多くはほぼ決まって広場を中心に成り立つ。図4を見ると、人々が集うマルクトプラッツ、その周辺に市庁舎、教会、郵便局、泉という構造が基本になっているのがわかる。そしてそこは人々の生活の場、文化や情報交換の場という街の中心になっている。中世の面影を残すローテンブルクやディケンスビュールといった小都市はもちろんのこと、人口170万のハンブルク、120万のミュンヘンでもこの構造が基本である。しかしベルリンにはその構造がない。ベルリンは独自の歴史経緯の中で絶え間ない変化を遂げ、そして現在も変化を続けている新しい街なのである。ロンドン、パリ、ローマ、ウィーンなど、ヨーロッパを代表する首都と比べてもその歴史は浅い。ベルリンは古くは「ベルリン・ケルン」という双子都市として誕生するのだが、その「ケルン」という市場集落が登場するのが1237年、日本でいえば鎌倉時代半ばに相当する。「ベルリン」という名前が登場するのはさらに下って1244年のことである。ベルリンは都市の成立という点でも統一ドイツの首都という点でも新しい都市だといえる。

もうひとつの特徴は都市の分断という稀に見る過去が生み出したものである。市庁舎が2つ、大学が2つ、オペラ劇場が3つ。ベルリンでは一都市の中に同じ機能が二重、三重に備わっているのである。この現象は、分裂でどちらかの地区に入った施設がもう片方の地区に新たに作られていったために起きた。都市の分断による影響は空港にもみられる。ベルリンは、東西合わせてわずか883平方キロの土地に4つもの空港を持っている。英、米、仏、ソがそれぞれの占領地に軍用飛行場を持っていたからだ。西ベルリンにあったのが、フランス軍管轄のテーゲル空港、アメリカ軍管轄のテンペルホフ空港、そしてイギリス軍管轄のガトフ空港、東ベルリンにあったのがソ連軍管轄のシェーネフェルト空港である。物資を空輸に頼っていた陸の孤島西ベルリンにとって、空港はとりわけ重要な役目を果たしていた。以上のような2つの特徴はベルリンという都市特有のおもしろさを生んでいるといえよう。

第二次世界大戦後、ベルリンの都市計画はどのように進められたのだろうか。戦後のドイツはナチズム、軍国主義、帝国主義という負の遺産を背負っていかねばならなかった。ベルリンでもこうした過去の克服が課題となる。それは都市計画においていうならば、ナチス的なものを都市から完全に排除し、反戦・平和な意志を積極的に示す新生ベルリンをつくることを意味した。戦後のベルリンを設計したハンス・シャロウンは、新しい都市理念に「自由」を掲げ、ベルリンが歴史的構造から開放されること目指そうとする。しかし実際には、東西冷戦の激化に伴い、その前哨地であるベルリンは分裂への一途をたどっていった。ベルリン全体での統一的な都市計画は実現せずに終わる。東西分裂の結果、ソ連占領下の東ベルリンでは社会主義、英・米・仏占領下の西ベルリンでは自由主義の思想を反映した都市づくりに傾倒していったのである。

東ベルリンはソ連の強い影響下で社会主義都市と化していった。社会主義都市の主な特色にはデモンストレーション広場、マギストラーレと呼ばれる大通り、それに沿って建てられる政治や行政をつかさどる箱型の建物を挙げることができる 。例えば、マルクス・エンゲルス広場は大勢が一堂に集まるためのオープンスペースとして設計されたデモンストレーション広場で、モスクワの「赤の広場」がモデルとされている。社会主義都市では大集会を行うための場所として広々とした空間が必要とされ、更地化された土地も多かった。さらに一極集中型の都市も社会主義都市の特徴となっている。社会主義では、住民を管理・統括する「指令型の都市」が目指された。特に民主共和国の首都として意識された東ベルリンには、人口(1989年には127.9万人)、情報、交通網をはじめとして国のあらゆる機能が集中していた。また自動車の低い普及率もコンパクトな中心地システムを成立させた1つの要因と考えられる。このような一極集中型の都市は西側で発想された分散型の都市構想と対極に位置するものではないか。また、東ベルリンは社会主義国家の経済力や技術力を西側に見せつける場所でもあった。現在でも観光スポットとなっている高さ365メートルのテレビ塔は1965−69年アレクサンダー広場につくられたもので、東の権力を示そうとした代表例である(図6)。

国有化された土地を計画当局が社会主義の理論にのっとって計画することが目指された東ベルリンに対し、西ベルリンは自由で小売・サービスが充実した消費の場となっていった。それを象徴するのが繁華街である。ベルリンを代表する大通りだったウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)は東西分裂の結果東ベルリン地区に組み込まれた。西ベルリンにもこれに対抗する代表的な大通りがある。クアフュルステンダム(Kurfurstendamm)または略してクーダム(Ku-Damm)である。クーダムは西の豊かさそのものを現わしていた。そこでは実用的な小物や新技術から流行歌、芸術から文学に至るまで、あらゆるものが東に対抗するイメージとして並べたてられた。物資が欠乏していた東ベルリンとは逆に、クーダムの店ではいつでも物が溢れていた。あらゆる商品を取り揃えた百貨店も出現している。現在もある有名デパート「KaDeWe」、すなわち「KaUFHAUS DeS WeSTENS」はもともと1906-07年に建てられたが、第二次大戦によって建物が全焼したため1950年に再建された。そのオープン初日には180,000人もの客が訪れたという。このような商品豊富な西ベルリンの様子は「西のショウウインドウ」と呼ばれている。ベルリンの復興計画を競っていた占領国にとってみれば、クーダムの通りも西側の政治体制が東に勝ることを宣伝する手段そのものだった。東側の通りと比較すると西側の通りの特徴は一層顕著になる。図7は左が西ベルリン、右が東ベルリンの通りを示している。人々の消費活動が低く押さえられていた東ベルリンでは小売・サービス業の発展が極めて貧弱なものだった。経営体は国営化され、商業施設のほとんどがハーオー(HO)と呼ばれる国営の商業施設か、コンズーム(Konsum)と呼ばれる組合の商業施設だった。レストランやサービス業施設、個人経営の商店がひしめき合い、大規模なショッピングセンターまでもがある西ベルリンとは対照的な風景をなしている。

東と西の違いがさらに具体的な形をとって現われたのは道路名であった。

東ベルリンでは、政治を色濃く反映した道路名が社会主義国家の首都ベルリンを作り上げていた。東西分裂をいずれ統一されるまでの過程と捉えていた西に対して、東ではまず「民主共和国の首都ベルリン」があった。本来の都市の半分でしかない東ベルリンにもかかわらず、完結した首都として定められていたのである。道路名に現われるのは熱狂的な個人崇拝だった。例えば、東ドイツ首相ヴァルター・ウルブリヒト氏はその名も「スターリン通り(Stalinallee)」を作らせた。アレクサンダー広場から東へ約4キロにわたって伸びるスターリン通りは、バロック時代のデザイン、左右対称の建物や街灯、密に並び通りを挟むような壁、建物のモニュメンタル性といった東の思想を示している。だがその名称も束の間、1953年にスターリンがこの世を去ると、スターリン批判のあおりによって61年には通りの西半分がカール・マルクス通り、東半分がフランクフルト通りに改名された。それに伴い通りに立っていたスターリン像も撤去されている。同じように、人名がつけられた通りには「レーニン大通り(Leninallee)」がある。ここには19メートルものレーニン像があった。こうした道路名やモニュメントはソ連の統治下に置かれた東ベルリン市民たちの反ソ感情を矯正し、ソ連を擁護するよう仕向けたものだといえる。

一方、西ベルリンでは東ほどの政治色はなかった。道路名に関して行われたのは基本的に重複する道路名の是正程度で、改称にあたっては1933年以前の旧称の復活や当たり障りのない命名が多くを占めている。その中で西のイデオロギーをあえて挙げるとすれば、反共主義の高まりと西側の指導者を冠した道路や広場だろう。西ベルリンでは共産主義に囲まれた地理的位置から東への敵愾心が非常に強かった。その結果、左翼や共産主義者の名称を意識的に回避している。反共主義の高まりを示す例の1つには「六月十七日通り(Strase des 17. Juni)」がある。1953年6月17日に東ベルリンで起こった労働者蜂起になぞらえてブランデンブルク門から西へ伸びるシャルロッテンブルク街道が改名されたものだ。また、西としての意識を呼び起こすために西側同盟国、西ドイツ国家、西ベルリンの指導者を踏まえた名称にする場合もあった。例えば、米ケネディ大統領が西ベルリン市民からの喝采を浴びた "Ich bin ein Berliner."の演説を行った広場は、「ジョン・F・ケネディ広場」と呼ばれるようになったし、ナチ時代のアドルフ・ヒトラー広場は連邦共和国初代大統領の名前をとって「テオドア・ホイス広場」と命名された。

 このように、東西ベルリンは社会主義国家対民主主義国家の縮図となっていた。一見外面的かと思われる都市計画をとってみても、いかにその時代の思想が影響を及ぼしていたかは明らかだといえる。なかでも端的にそれを示していた道路名は、日本人にとって馴染みのないものであっても、ドイツ人にとっては極めて日常的で身近なものだろう。そこにまで浸透していた東西それぞれのイデオロギーは、おそらく人々の内部にまで及んでいたはずだ。あらゆる制限を強いられた指令型都市を目指した東ベルリン。そこでは西への憧憬がことごとく断ち切られた。くっきりと線が引かれ抹殺された地図のとおり、東ベルリンは西ベルリンと完全に隔てられたのである。その一方で盛んに自由が謳われた西ベルリン。しかし西ベルリンも、西ドイツにとっての経済的負担と政治的苦難の重荷、アメリカにとっての共産主義の支配下に置くまいとする威信と自尊心の象徴に過ぎなかった。「肉体に刺さったとげ」ともいわれる、東の勢力圏にぽつんと浮かぶ反ソ的な島の居心地がいいわけはない。こうしてベルリンという都市は良くも悪くも常に歴史に翻弄されてきた。都市計画にはその長い歴史が克明に刻まれている。


<参考文献>

<参考ウェブサイト>


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