2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


第一章 ドイツ1945―歴史概略 ............................ 中本早苗/重松奈緒

 「西ドイツ」「東ドイツ」という言葉を耳にしなくなってから、12年という時間がたった。そう長い時間ではない。東西ドイツ統一とは、まだ若い私たちの記憶に映像として残っているくらい最近の出来事である。私たちがもう一世代、二世代早く生まれていたら、自らの経験をもって分断されていた時代のベルリンを研究することができたであろうが、今私たちは、その当時世界で、ドイツでいったい何が起きていたのかを把握してから研究に取りかからなければならない。

戦後ドイツを概観する上で、今日までの年月を4つに分類するという見方がある。

第一期 占領期
第二期 二つのドイツ国家の誕生・並存(1949〜)
第三期 緊張緩和期(1961年ベルリンの壁構築後)
第四期 「壁」崩壊以降 

分断されていた時代の東西ベルリン間でどのような違いがあったのかを今後考察していくために、この第一章では第一期から第三期、加えて第四期の初めの部分におけるドイツの歴史的概略を挙げていきたいと思う。


@占領期

1945年4月30日午後3時半ごろ、アドルフ・ヒトラー自殺。そして、同年5月9日午前0時1分、ドイツ降伏が発効されてヨーロッパにおける第二次世界大戦は終焉を迎えた。
 第二次世界大戦によるドイツでの被害を大まかに述べると、死者5千万人、故郷を追われた人、被爆した人、疎開した人、強制労働者として拉致された人、戦争捕虜になった人などを合わせて2500万人。その中に含まれなかった人々も、当然のことながら住居不足、疾病、飢餓にさらされており、つまりはドイツ第三帝国が、廃墟と化したわけである。
 5月の降伏に続いて戦勝国(米英仏ソ連合国)が出した最初の政治的な結論は、翌6月の「ベルリン声明(ベルリン宣言)」であった。声明文の内容は、「ドイツの敗戦を考慮して、これをもってドイツ政府、国防軍総司令部、方・市町村の政府・官公庁のすべての権限を含めてドイツの行政権の最高責任は戦勝国に委ねられる」であったが、ドイツは戦勝国によって分割、併合されるとまでは行かず、とりあえず存続することは許された。翌7月のポツダム会談にはフランスは出席せず、米英ソの三大国でドイツ問題の処理についての基本方針を固めた。非軍国主義化、非ナチ化、非独占、民主化の四つである。具体的にこれからどのようにドイツを占領していくかなどといった案は各国様々であったが、とりあえず一致していたことは、とにかくドイツが再びヨーロッパの平和を脅かすような強大国になることを防ぐことであった。
 しかし、ここから先、米英仏対ソ連という問題になってくる。結局政治体制の違う両陣営では統一ドイツを共同で支配することはできなかった。ポツダム会談の中で、三大国はそれぞれの影響を及ぼしうる地域を限定し、フランスもイギリスとアメリカから一部の地域を得た。そして、1945年8月のポツダム協定によってドイツは4占領地域に分けられたのである。このとき、4カ国の最高司令官が、ベルリンに本部を置く共同機関、連合国管理理事会を構成した。その理事会の活動が円滑に進められるように、米英仏西側諸国もベルリン占領に参加することとなった。ベルリンは4つの地区に分けられ、各国軍隊がそれぞれの地域内に進駐した。しかし、あくまでベルリンはソ連の占領地域内にあり、ソビエト軍政部が全ベルリンに対し管轄権を持っていた。実際、ベルリンの国鉄、水道網の施設もソビエトの管轄下にあった。
 独自の占領領域を持ったソビエトは、ドイツ人を「反ファシズム」にすることを口実に、新しい支配者に反するものは「反ファシズム」ではないとこじつけて、非共産主義者をことごとく公職から追放した。そして、農地改革、戦争犯罪人の財産没収、ソ連占領地区の全産業の接収などが行われた。こうしてソ連占領地区はどんどん西側占領地区から遠ざけられていくわけだが、ついに1946年4月、政治の面でも大きな事件がおきた。自由投票では87%の反対があったにもかかわらず、東側の社会民主党とドイツ共産党が合同して「ドイツ社会主義統一党」が設立されたのである。
 1948年には、アメリカ占領地域とイギリス占領地域にフランス占領地域が統合されて三国統合地域が成立することとなった。こうして、米英仏対ソビエトという構図が浮き彫りになったこの年、ついに西側三地域で通貨改革が行われた。ドイツマルクの誕生である。この通貨改革は、西側地域に経済的は繁栄をもたらすこととなったが、同時に政治的には悲劇をもたらすという皮肉なものとなった。ドイツマルクは西側三地域では使えたが、ソビエト占領地域では禁じられていたからである。このことで、ドイツの経済的統合は不可能となったのである。
 これを受けて、スターリンが即座に取った行動が、ベルリン封鎖だった。ベルリンの中の西側占領地域の電気を切り、更には、ベルリンに通じる陸路と河川を遮断したのである。これに対して、西側諸国は屈服することなく、電気が切られてから二日も経たないうちに空輸での「生活物資補給作戦」をはじめた。このベルリン封鎖は実にこのあと1年間も続くのである。そしてこの一年の末に、東西ドイツはそれぞれの国家を建国することとなる。


A二つのドイツ国家の誕生・並存

1949年、ドイツの西側にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、東側にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生した。
前者はアメリカ、イギリス、フランスに見合っており、後者はソ連のスターリン主義を模範として作られた。3か月後、連邦共和国では初の連邦議会選挙が行われ、初代大統領にテオドール・ホイスが、初代首相にコンラート・アデアウアーが就任した。アデナウアーがドイツとポーランドの国境をオーデル・ナイセ線とすることに反対していたにもかかわらず、ドイツ民主共和国は翌1950年、ワルシャワ宣言でオーデル・ナイセ線を国境とすることに合意してしまった。両国の対立は、深まるばかりである。そんな最中に起きたのが、朝鮮戦争であった。北朝鮮のバックにソ連がいるということは周知の事実であり、東西ドイツ内に戦争の恐れが高まった。そこで、同年アデナウアーは、米英仏連合国諸政府から、「連邦共和国もしくはベルリンが受けた、いかなる陣営からのどんな攻撃も、自らに対する攻撃と見なす」という安全保障を手に入れた。こうして東西ドイツは、完全に対立した形で落ち着くこととなる。
 50年代に入ると、西ドイツは再軍備に力を入れるようになった。スターリン陣営の脅威に対する防衛のためである。この状況を察したソ連は、1952年、「スターリン・ノート」という覚書を西ドイツに提出した。その覚書においてソ連は、西ドイツの再軍備を非難し、ドイツにいかなる国とも同盟を結ぶ権利を持たせないことを要求した。つまり、東西ドイツを中立国家として統一させようという内容である。この覚書は、東西ドイツの統一を願う西ドイツにとっても一見魅力的であったが、ソ連が「中立化」という言葉を用いて実はドイツと米・英・仏列強とのつながりを切り、冷戦の展開においてドイツ、またヨーロッパ全土を自らの勢力圏内に組み込もうとしているのではないかという懸念から、西ドイツは「スターリン・ノート」を拒否した。そして、同52年に、「ドイツ連邦共和国と三カ国(米・英・仏)との関係に関する条約」いわゆる「ドイツ条約」が結ばれた。西ドイツは、ソ連からの申し出を拒否し、西側諸国の申し出を受けた、ということになる。「ドイツ条約」の中で、西側三カ国は、占領法規を撤廃した。西ドイツでは着々と独自の新しい国家が形成されつつあった。
 1950年にはすでに食糧配給制が廃止されていた西ドイツでは、3年後の1953年、「飽食の波」が覆い、ささやかではあるが贅沢が許されていた。それに対し東ドイツでは、依然として食糧配給制が行われていた。たしかにドイツ民主共和国でも経済の組織化が進んでいたが、それはすべてソ連の諸需要に沿ったものであり、バターの代わりに大砲、つまり重工業に集中した組織化であった。国内のスローガンは「社会主義の計画的建設」であり、ソ連を栄光に満ちた手本とし、スターリンに関する個人崇拝がグロテスクに強調されていた。この状況に耐えかねて、1953年の前半には、22万人の住民が東ドイツから逃亡した。それでもソ連は、占領地域に住む労働者たちに、「まずより多くの労働、そしてよりよい生活」と言い張り、労働のノルマをどんどん引き上げた。そして1953年6月17日、巨大な群衆がベルリン中心部でノルマ引き上げ反対のデモを行う。ベルリンの大工場ほとんどが、ストライキに入る。全東ベルリンが群衆で埋め尽くされた時、もはや人々の論点はノルマ引き上げではなく、「ウルプリヒト(社会主義統一党党首)の打倒」と「自由選挙」だった。この暴動は結局ソ連軍によって武力で鎮圧されたが、東独市民の社会主義政府に対する不満が露見する事となったのは言うまでもない。
 1954年1月のベルリン外相会議では、米英仏三カ国対ソ連の協議が行われた。西側三カ国は全ドイツでの自由選挙や、戦勝国との平和条約を要求し、ソ連は、ドイツがいかなる同盟・連合にも所属しないという52年のスターリン・ノートを繰り返した。結局正反対の主張をし続けた両者は、この外相会議を失敗に終わらせることとなってしまう。今まではドイツの再統一が東西ドイツにとっての「最高にして最も重要な」目標であったことに対し、この会議を境にドイツの分裂は恒久的なものになり始めるのであった。追って同年9月には、東ドイツがソ連の後押しにより主権国家となる。以後東ドイツでは、新しい目標となるアイデンティティーの確立のため、ドイツ史の記述にも変化が見られ、「社会主義的愛国心」の教育が推し進められていくこととなる。
 東側が着々とソ連色に染まっていけば、西側は西側でスターリン・ノートに反した行動をとっていく。翌55年、ドイツの無条件降伏から10年後のほとんど同じ日、パリ条約が発効して西ドイツがついにNATOに加盟。西独軍はすべてNATO指揮下に置かれ、西ドイツ独自の軍事行動は許されない範囲ではあったが、一応の再軍備が許された。
 一方両ドイツの経済格差は、年々広がっていくのみであった。その中で西ベルリンは、地理的に東ドイツの中にぽっかり浮かぶ陸の孤島であり、特に東ベルリンの人々にとっては「西側のショーウィンドー」であった。50年代の終わりごろには、東側で働く西ベルリン市民1万2千人に対し、西側で働く東ベルリン市民5万3千人というデータが残っている。この状態を終わらせるために、ソ連は1958年、西ベルリンを西ドイツから切り離し、ベルリンを「非武装自由都市化」することを要求した最後通牒を西側連合国に手渡した。西ベルリンと西ドイツの関係が切れると同時に、西ベルリンと西側連合国の関係も切れるからである。1961年6月の米ソ首脳会談で、ケネディ米大統領はこの要求を拒否した。この会談は冷たく終わり、ケネディは西ベルリンの安全こそ保障したが、東ベルリンには何もできなかった。そんな中、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者はどんどん増加していた。この流れを食い止めるため、ソ連および東ドイツ幹部は、ベルリンにおける東西ドイツの国境沿いに壁を構築する計画を打ち出す。そして、1961年8月、公には「ベルリン(西)およびドイツ連邦共和国との間のドイツ民主共和国国境に関する保全措置」という名のもと、壁構築に取り掛かった。「公」とはいっても、ベルリン市民にはまったく知らされていなかった。8月12日夜、突然「夜間演習」の名目で国家人民軍と人民警察がサイレンを鳴らし、深夜警戒命令を出して占領地区境界から人を排除した。電車で東西を移動している最中だった人は、途中で電車を降りねばならなかった。世界中の人々どころか、ベルリンに住む人々も何が起きたのか知る由もなく、全世界が知ることとなったのはよく8月13日に壁が出来上がったときであった。ベルリンは一夜にして、物理的に真っ二つに引き裂かれたのである。


B 緊張緩和期(1961年ベルリンの壁構築後)

ベルリンの壁構築以後も、西ドイツは戦後のマーシャル・プランを続行し、やがて世界でも最も豊かで生産力の高い国の一つとなっていった。再建された工場では、工業製品や消費財がつくられ、世界中に輸出された。生活水準が向上するとともに、多くの難民やガストアルバイター(外国人出稼ぎ労働者)が南ヨーロッパやトルコからやってきて、工場の人手不足を補った。
東ドイツでは1971年、エーリヒ・ホーネッカーがウルプリヒトの後をうけて、共産党の書記となり、ソ連と密接な関係を保つと同時に、非共産主義圏との結びつきも強めた。また68年の新憲法では、東ドイツを『ドイツ国民の社会主義国家』と自己規定していたが、74年の憲法改正で『ドイツ国民・民族』に関する記述を全て削除している。その意図は、東ドイツがイデオロギーに抽象化された国家であることを強調することであり、同じ歴史を共有する民族性・地域性の視点からの東西ドイツ統一の可能性を完全に否定しているのである。
経済面において、大規模な設備投資を実施したエレクトロニクス分野の著しい発展を筆頭に、ホーネッカーは工業生産力の向上に努め、東ドイツはワルシャワ条約機構の中で、随一の生産国となったが、それでも西ドイツに比べると、差は歴然としたものであった。また時を同じくして、安値の褐炭の大量燃焼によって生じる、大気汚染の公害問題も東ドイツにおいて深刻化している事実も挙げておきたい。
SPDのヴィリー・ブラントは1969年に西ドイツの首相になると、「東方外交」に基づいて、東欧との貿易を促進し、関係改善を推進した。71年のベルリンの地位に関する4か条協定、72年の東西ドイツ基本条約によって、両ドイツが独立国家として相互に承認し、両者の関係は一気に改善される。同年、東西ドイツはそれぞれが国連に同時加盟を許され、国際社会への仲間入りを果たした両者は75年、ヘルシンキ最終文書に調印する。
ブラントの後を継いで首相になったヘルムート・シュミットの下、西ドイツはインフレや失業率の上昇に悩まされ、多くの西ドイツ人がNATOに疑問を抱くようになっていった。都市では、冷たい戦争(Cold War)に反対する大規模な抗議が行われ、テロリスト・グループが、実業家や政府高官を誘拐する事件が多発した。
1982年、西ドイツではシュミットの不信任投票が成立し、後任のCDU党のヘルムート・コールが首相に選任された。コールは東側とつながりを保ち、1987年5月にはホーネッカーが西ドイツの首都ボンを訪問する。この会談がきっかけとなり、東ドイツが一部の旅行制限を解除し、東西ドイツが文化および貿易協定を締結する運びとなり、両国の結びつきは強まり、多くのドイツ人が、ドイツ統一への期待を一気に高めた。
その間、東欧の共産主義諸国は、経済問題や社会不安に悩まされていた。労働者は食料、住宅、生活用品の不足に不満を抱き、学生、著述家などは開かれた政治を求めた。1980年代後半、ソ連のゴルバチョフ改革が本格化すると、ソ連のワルシャワ条約機構内での影響力は激減した。これらの出来事は、東欧の共産党指導者たちの権力をぐらつかせ、ホーネッカーもその例外ではなかった。東ドイツ国家の存立を支えていた『資本主義(西)に相容れない社会主義(東)』のイデオロギーが消滅する中、社会不安が市民の間で広がった。1989年10月ライプツィヒでの「月曜デモ」のような大規模な改革要求デモが、各地で起こるようになり、ホーネッカーは1989年10月、ついに辞任に追い込まれる。ハンガリーが非共産主義国オーストリアへの越境を許可すると、東ドイツ人はこのルートを通って西ドイツに逃亡し始めた。西ドイツ政府は冷戦中も、東ドイツ国民は潜在的には同時に西ドイツ国民である、との見解を示し、東ドイツ国民は申請さえすれば、西側国籍所得が自由に認められていた。東側ドイツ人の3分の2は、西側に親戚または知人を持っており、東ドイツ市民にとって国を捨てることに対するこだわりは、ほかの社会主義の市民と比べるとはるかに少なかった。技術者や労働力となる若者層の国民は次々と脱走ルートをかいくぐって、西側へと逃れていき、もはやこの流出を食い止めることができなくなった東ドイツ政府は、ついに11月、国境を開放、ベルリンの壁が崩壊すると、ついに東ドイツ人が自由に西ベルリンに渡れる時代が到来したのである。1961年の壁構築以降、壁を越えて西への越境を試みて命を落とした人の数は、のべ190余人といわれている。


C 「壁」崩壊以降

1990年3月には、東ドイツで選挙が行われ、非共産主義政党が権力を握った。大部分の東ドイツ人が西ドイツ人の経済、および政治機構の採択を望むとともに、西ドイツ人も統一を支持し、東西間の折衝の末、ドイツは1990年10月3日、ついに再統一された。
統一はドイツに喜びを、しかし同時に緊急な経済問題をもたらした。非能率的な旧東ドイツの企業は、政府の援助がなくなって経営に行きづまり、世界的な景気後退によりドイツ企業の外国市場は縮小した。失業率は上昇し、住宅事情は悪化、その上共産主義の崩壊によって内乱が起こったヨーロッパ南東からの難民が、仕事や住居を求めて大量に流入してきた。「永遠の首相」と呼ばれていたコール政権もこうした状況の中で1998年、最大の野党であるSPD(社会民主党)のゲルハルト・シュレーダーに選挙で破れ、16年ぶりにSPD政権(緑の党と連立)が復活した。
シュレーダーは、ドイツ経済を再び活気付け、さらに環境政策導入の約束をした。しかし相変わらず高まる失業率は、移民と一部のドイツ人の間に緊張を生み、ヒトラーのナチ党の考えを受け継ぎ、実践する、暴力的なスキンヘッドたち(ネオ・ナチ)が、難民や外国人出稼ぎ労働者を攻撃し始めた。政府が経済的援助と社会福祉を旧東ドイツの人々に拡大していることにも見られるように、国民は東西の統一に大きな犠牲を払っている。ドイツは依然、経済大国の一つとして君臨し、EUの主要国としての責任を果たしつつも、内政的には困難な社会問題(“見えない『壁』”)に直面しているのである。 


<参考文献>


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