2002年度 谷川・山口ゼミ(卒論演習・ヨーロッパ文化論演習I・ヨーロッパ文学I演習合同授業)


(注意:これは学生の発表原稿です。無断転用禁止)


グループワーク:「都市」

担当:粟田正近 金子美環 佐藤 杏 佐藤理子 重松奈緒 中本早苗

ベルリン ― 壁に隔てられた都市 ―


序論 ...................... 粟田正近

現在のドイツの首都がベルリンであることは誰も否定することができず、疑うことも無いだろう。しかしこのベルリンという都市はある意味で簡単に首都という地位を得たとは言えないのである。同じ首都といっても他の国々の首都とは異なった経歴を踏んでいて、またベルリンを首都とするドイツ国民の思いも特殊といえるのである。例えば日本にとっての東京、アメリカにとってのワシントンは国民が首都であると認めているけれども、どうしてもこれらの都市に首都であって欲しい、といった特別な愛着や思い入れを持って現代を生きる人はあまりいないのではないか。一方フランスは少し性格が異なる。フランスではパリ以外は農業都市が多く土俗的であったが、パリは早くから宗教都市として学問・政治・文化などをリードしてきた地方の憧れの都市であり、いまもフランス国民にそういった思い入れはある。ドイツもフランスのように形態は違えどもそういった思い入れがあるのである。

その理由の一つとしてまずドイツが歴史的に長い間地方分権的であったこと、つまり実質的な一つの強いまとまりのある国家ではなく、中小都市が散在していたことである。このため中央集権化が他の都市国家よりも遅れ、諸都市を総括する帝国の首都として人為的にベルリンが持ち出されたのである。この都市からゲルマン文化の誇りを世界に発信するようになった。ドイツ国民はベルリンに対し民族共通の感情・愛着を持てる都市と認めたのである。
さらにもう一つその最も大きなきっかけは第二次世界大戦後のドイツ占領とそれに伴うドイツ、およびベルリンの分割である。ドイツ全体とベルリン市がそれぞれ英米側とソ連側に分割され二重構造をもつという極めて特殊な経験をドイツ国民は味わった。

このように特殊な経験をしたベルリンという都市はドイツ国民にとってどのような存在であったのだろうか?言い方を換えればベルリンが東西に分けられたとき、人々はどのようにこのベルリンという都市と接してきたのだろうか?このことを第二次大戦にドイツが負けてから、ベルリンの壁が壊されドイツが再統一するまでの時期に限定して考えていきたいと思う。

このことを考察するにあたって必ず行わなければならないことは、まずこの時期の歴史的流れ、国際関係を理解することだろう。ベルリンが分割されたという歴史的事実に対し、そもそもどうしてこのようなことが起こったのであろうかという背景を理解しなければ、ベルリンという都市に対するドイツ国民の接し方を理解することはできない。

そこで第一章において当時の歴史的背景や国際関係を踏まえた上で、上で述べた問題を二つの角度から考察していきたいと思う。一つは東西に分けられたことによって両側の都市計画にどのような影響が出たのか、つまりそこを訪れたとき見た目や感じる街の雰囲気に差は生じたのか、という観点。もう一つはベルリンが東西に分けられたことによってそこに住む人々の思想や生活にどういった変化をもたらしたのかという観点である。ベルリンという都市を目に見える部分と目に見えない部分の二方向から考察していくということである。

見た目から来るベルリンの違いということに関して、これは必ず生じるものであると考える。数十年という短い期間でも全く政治的方針の異なった二つの陣営に組み込まれて機能してきたのだから当然何らかの違いは認められるはすである。経済状況も全く異なり占領国側の都市計画はお互いに異なったものであると考えられる。

第二章で扱う見た目から来る違いというのは単純に設計基準の違いという表面的なものにとどまらない。むしろ大事なのは街の見た目から東西ベルリンの雰囲気を読み取ることができるのか、ということである。例えば大阪とミラノは訪れた瞬間にその違いに気づく。国が違うのだから当然と思われるが、国が違うからこそその国の国民性が都市に反映されるのだ。単に国家財政や政治構造、地理的な違いだけで判断してしまうのは良くない。ベルリンという都市に置き換えれば、同民族が異なった国家にすむという形態でそれぞれの占領者によってどういった文化的分かれ方をしていったのであろうかということである。

次に第三章においては見た目には見えない東西ベルリンの違いという観点である。これはベルリンの東西分割、またはドイツの東西分割という歴史的事実に対して国民の立場からそれを見ていこうとするものである。私たちが習う歴史は国家元首の意図や政治的な事柄に大半を占められて、当時生きていた一般の人々の姿は全く浮かび上がってこない。当然そういった面では東西ベルリンという歴史的事実が当時生きていた人々の人数通りだけ存在して、一つとして同じものはないだろう。一人一人当時心に持っていた気持ちは違う。しかしそれらを見ようとすることは決して無意味で途方もないことではないと思う。全部を調べ上げるのは不可能であるが、ある一人の考えや心情の揺れ、また人々の生活実態に目を向けることによって、歴史的事実が大変有機質なものに感じられるのではないか。

ただ注意したいのは漠然と一例を示して、その人にとっての歴史的事実を見るのではなく、それを見ることによって再び大きな意味での歴史的事実としての東西ベルリン分割を見直すということである。東西分割によって、例えば東側は概してどういった性格を持った世界であったのかを考えるということである。

このようにしてベルリンという都市を見てみたいと思う。分割されてから変化したことが見えてくるのではないだろうか。


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